東ベルリン(旧・東独[ドイツ]) | 神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

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古来、日本では、「愛」と云う字を使わないで、「産巣日(むすび)」と言いました。「むすび」と云う言葉は、「愛」と云う言葉よりも非常に深遠な意味を含んでいるのです。ときに、神産巣日神は「造化の三神」の内の一柱の神であり、獨神(ひとりがみ)で御座います。唯々感謝。

 一昨日、すなわち、10月30日(木) のブログ で、「機会がありまして、宜敷(よろし)ければ、東ベルリンのことを記させて頂きます。」とぉ伝え申し上げましたので、今回、その続きを記させて頂きます。(^O^)


 この日は、昭和62年(1987年)8月9日【日】です。

 4日前、すなわち、10月28日(火) の「スイス(因[ちな]みに、御承知のように、スイスの公用語は、ロマンス語[ロマンシュ語]、ドイツ語、仏[フランス]語、そして、伊[イタリア]語等です。永世中立国ですが、徴兵制があり、建物の地下には有事の際に避難するシェルター[英語: shelter]の設置が義務付けられています。)」のブログ で、西ベルリンから東ベルリンに入るために、フリードリッヒ・シュトラーセ(Friedrich str.)駅(東ベルリン内にあります)から入る方法がある、とぉ伝え致しました。

 この方法で入りました。西ベルリンの中央駅(Zoo Bf)から、フリードリッヒ・シュトラーセ駅(東ベルリン内)迄は、途中止まりませんで、通過致しました。そして、チェック・イン(chech in)。トランジット(transit )(通過)は、かなり並んでいました。約30分は待ちました。5ドイツマルクのみで通過出来ました。そこで、少し途方に暮れました。兎も角(ともかく)、0.20ドイツマルクで切符を買って、チェコ・スロバキア(御承知のように、現在はチェコとスロバキアに分かれています。)方面への始発駅に行きました。途中までバスで、そして、鉄道(Sバーン)。共に良好でした。それから、駅に荷物を預けて、次の目的地であるプラハ(当時はチェコ・スロバキア。現在はチェコ。)への切符を買いました。20ドイツマルクちょっとで、これは安いと思いました。そして、その場で、東ベルリン内の行先を検討しました。まず、ベルリンテレビ塔(当時の高さは365 m。1990年代に新しいアンテナが設置されたため、現在の高さは368 m)に行ってみました。現在、日本には、高さ634mの東京スカイ・ツリーがありますので、高さはこの約6割ですが、当時は、東ドイツが力(ちから)を入れるだけのことはある、凄(すご)いと思いました。ガイドブックには、東ドイツを誇示するかのようと書かれてあり、東京タワーの高さである333mより高い電波塔でありました。東ベルリンのランドマークでありました。展望台は高さ204mの位置にあり、登(のぼ)ることが出来、周囲の位置を見渡しました。この展望台からの写真を下に掲載致します。


 

東ベルリン
ベルリンテレビ塔の展望台からの景色

 

 

東ベルリン
ベルリンテレビ塔の展望台からの景色



 

 東ベルリンでは、ソ連兵が常駐していて、銃を携帯していて、街を歩いていても、ピリピリとした緊張感がありました。

 塔から降りてきて、朝市に行きました。なかなか賑(にぎ)やかでした。ねじれパンを木の棒に巻きつけて焼いていたり、ぐるぐるのチョコレートパンを売っていました。

 

 
東ベルリン
喫茶店の前で演奏していました
 

 

東ベルリン
演奏していました



 

 トイレに入ると、旅行者と思ったのか、おじさんが近づいて来ました。ブラック・マーケット(Black Market:直訳は、闇取引)であり、東ドイツマルクを西ドイツマルクにexchange(両替)して欲しいとのことでした。

 東欧を旅していて聞いたことは、西側の電化製品は性能が良く、購入するためには、西側の通貨が必要になるとのことでした。

 煙草は喫(す)いませんが、「マールボロ (Marlboro) 」という銘柄の煙草は、西側の製品と東側のそれとで、銘柄は同じでも品質が全然違うとのことでした。東欧では、西側の「マールボロ(Marlboro) 」が賄賂(わいろ)になる、とのことでした。

 

 4日前、すなわち、10月28日(火) の「スイス」のブログ でぉ伝え致しましたように、東・西ドイツのDM(ドイツ・マルク)のレートは1:1でした。しかし乍(なが)ら、実際の価値は、西ドイツ国内では、西ドイツマルクの5に対して、東ドイツマルクが1であり、西ドイツマルクの方(ほう)が5倍の価値がありました。よって、西ドイツの銀行では、1西独(ドイツ)マルクに対して、5東ドイツマルクを換金してくれるとのことでした。

 このおじさんは、西ドイツマルクの4に対して、東ドイツマルクが1の価値、すなわち、1西ドイツマルクに対して、4東ドイツマルクで両替して欲しいとのことでした。ガイドブックには、ブラック・マーケットに気を付けるように書かれてありました。特に、この後入国しますブルガリアでは、現場を見つかると、旅行者でも罰せられると、旅行中に聞きました。

 

 4日前にぉ伝え申し上げましたように、社会主義圏での経済犯は罰則が重く、日本円で100万円程度の西ドイツマルクを西ドイツの銀行で5倍のレートで換金して、東ドイツに持ち込もうとした東ドイツ人が発見されて、極刑だったとのことをその後の旅行中に聞きました。

 本来、名称からして資本主義の方(ほう)が経済犯の罰則が重そうですが、実際には社会主義圏の方(ほう)が重いのですね。

 

 東ベルリンでは、西ベルリンで適(かな)わなかった美術館巡りをしようと思いました。

 そこで、ムゼウムスインゼル(ドイツ語: Museumsinsel)(東ベルリン美術館[Staatliche Museen zu Berlin]を構成する5つの博物館・美術館が集まっていることより「博物館島」と呼ばれます。)に行きました。

 国立美術館(旧・国立美術館と言われています。西ベルリン内には、新・国立美術館[Neue Nationalgalarie]と言われる美術館がありました。)では、5枚の壁画が凄かったです。海外では、フラッシュを焚(た)かなければ、写真を撮影(と)っていいとのことでした。絵画の写真を掲載致します。

 

 
東ベルリン
国立美術館所蔵
 
 

 

 そして、近くの重厚な建物のペルガモン博物館 (Pergamonmuseum)では、度肝を抜かれました。3部屋にそれぞれギリシャ建造物がありました。館名の由来にもなっている「ペルガモンの大祭壇」(「ゼウスの大祭壇」[紀元前180年-160年頃])です。赤軍が戦利品としてレーニングラード(当時の名称・現在のサンクトペテルブルク)に運び去った、この大祭壇が東ドイツに返還され、1959年に漸(ようや)く博物館が再開されたとのことです。大英博物館で、パルテノン神殿のコレクション(エルギン・マーブル[Elgin Marbles][古代ギリシア・アテナイのパルテノン神殿を飾った諸彫刻]の展示もあります。) を見ましたが、こちらは、同じギリシャ建造物でも規模が違います。比較して頂くように、両者の人物を入れた写真を掲載致します。このペルガモン博物館の方(ほう)のギリシャ建造物は、側面からでないと写真に収まりませんので、側面から撮影(と)らせて頂きましたが、正面から見ると、規模が凄(すご)いです。


 

東ベルリン
ペルガモン博物館・正面
 

東ベルリン
ペルガモンの大祭壇(ゼウスの大祭壇)


 

東ベルリン
3部屋にそれぞれギリシャ建造物(その2)
 
 
東ベルリン
3部屋にそれぞれギリシャ建造物(その3)


 

大英博物館
パルテノン神殿のコレクション(大英博物館)
 
 
 

 大英博物館のパルテノン神殿のコレクションは、切断されて、船で運ばれた(エルギン・マーブル[Elgin Marbles]は、19世紀にイギリスの外交官がパルテノン神殿から削り取って、英国[イギリス]に持ち帰って、現在は大英博物館に展示されているとのことであります。1970年代になると、ギリシア政府は、英国[イギリス]に対してエルギン・マーブルの返還要求を強めました。しかしながら、両国の見解はすれ違ったままとのことであります。)とのことで御座いました。ペルガモン博物館はギリシャと地続きなので、こんな大きな建造物を運ぶことが可能であったのか、と想像力が湧(わ)いてきました。


 高校の数学の教師が話していたことですが、当時は出来るだけ頑丈(がんじょう)に造ろうとしたので、現代でも、そのギリシャ建造物が残っているとのことでありました。現代では、建築基準ギリギリのところで建造されるので、将来は、このギリシャ建造物のようには、現代の建造物は残らないだろう、とのことで御座いました。

 

 東ドイツという国が無くなったので、当たり前のことながら、日本国内の東ドイツ大使館(赤坂7丁目で、現在、ドイツ文化会館になっています。)や領事館も無くなりました。

 

 そして、フリードリッヒ・シュトラーセ駅に戻りますが、周囲に何もありません。日曜日でしたので、店は休みとのことでした。人だかりは、ミュージカルの「CATS(キャッツ)」の観客でした。それから、メイン(main)通りを歩き、途中、日本の言語学の講師に会いました。そして、歴史博物館(Historisches Museum)に入りました。4日前、そして、一昨日、西ベルリンで入ったとぉ伝えした壁博物館(Haus am Checkpoint Charlie)の展示とは、かなり違っていました。


 博物館を出て、パンを購入しようと致しましたら、一個の菓子パンを買うにも15分位並びました。値段は日本円で15円位です。安いのですが、購入するのに時間が掛かるのです。

 入国にあたって、25DM(ドイツマルク)(当時1DM[ドイツマルク]は80円位)の強制換金があると前述致しました。ところが、購入するのに時間が掛かるということと、購入すべき物が見あたらないので、一日で25DM(ドイツマルク)はとても使いきれないと思いました。そこで、建物の二階のレストランに入ったのですが、それでも使いきれませんでした。メニューを見ますと、ビール一杯(日本円に換算して)約15円とのことでしたが、西側のビールとは味が違うとのことでした。ドイツでは、ミネラル・ウォーターを買うよりも、ビールの方(ほう)が安いので注文しました。但し、去る10月24日(金) の「健(すこ)やかに生活をして頂くために」のブログ でぉ伝え申し上げましたように、医者(研修医)になってから、ポケベル(今はほとんど用いられていませんね。)を持ち、夜中でも呼び出されましたので、お酒を止(や)めました。

 カリフラワーを柔らかく煮た物、これは味付けが良かったです。きゅうり一切れ、トマト一切れ、レタス少々、そして、ポテトの揚げ物でした。音楽もあって、最高の気持ちでした。

 このレストランでも軍人が大勢いました。ここでは、周囲(まわ)りは、ドイツ人のみ利用していました。レストラン内の写真を掲載致します。

 

 
東ベルリン
レストラン内



 

 午後8時過ぎにレストランを出て、駅に向かいます。少し雨が降って来ましたので、走って駅に行きます。黄色いポストを見付けましたので、母国への葉書を投函しました。静まり返っていました。そして、駅に午後9時半に到着。

 東ベルリン滞在は半日で、夜行列車でチェコ・スロバキア方面に向かいました。ちなみに、前述致しましたように 1日ビザ(トランジット ・ビザ[transit visa][通過査証])でありますので、その日の夜12時(まで)に 東ドイツから 出なければなりません。なお、童話のシンデレラのようでありますね。

 それで、夜12時(まで)に 東ドイツから出国出来できる列車に乗らなければなりません。そして、東ドイツの 出国係官が車内に来て、パス ポート と 1日ビザを見せました。そこで、出国印が押されました。また、チェコ・スロバキアに入りますと 入国係官が車内に来て、やはり パス ポート と チェコ・スロバキアの滞在ビザ(英語:visa)を見せました。そうして、入国印が押されました。ついながら、チェコ・スロバキアの首都であるプラハでは、日本人が少なく、一泊二日で、日本人に一人しか会いませんでした。機会がありまして、宜敷(よろし)ければ、続きを記させて頂きます。

 

 本日も、最後(まで)ぉ読み頂き、誠にありがとうございました。唯々感謝。(^-^)