スイス(海外のこと)・前編 | 神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

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古来、日本では、「愛」と云う字を使わないで、「産巣日(むすび)」と言いました。「むすび」と云う言葉は、「愛」と云う言葉よりも非常に深遠な意味を含んでいるのです。ときに、神産巣日神は「造化の三神」の内の一柱の神であり、獨神(ひとりがみ)で御座います。唯々感謝。

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 学部生の頃(昭和61年の夏・菜食を始める前のことです)、エコノミー(economy)に、シンガポール航空を用いて、往路、東京(成田・8月19日【火】午後6時30分発)からロンドン(英国)(翌々日・8月21日【木】午前6時55分定刻通り着・日本との時差はサマータイムで、8時間)(まで)、途中、シンガポールで、丸一日のトランジット (英語:transit)(一時寄港)があり、シンガポール8月20日【水】午前0時着・同日午後8時25分発、南回りで、トータルで、44時間25分でした。シンガポールでは、今は無い オベロイ・インペリアルホテルという中堅のホテルに宿泊しました。

 主に、ユーレイル・パス(当時、欧州[ヨーロッパ]以外の地域で購入出来る、欧州の鉄道のパスのこと。日本にも、日本以外の地域で購入するパスがあると聞きました。)を用いて、二学期が始まる9月9日【火】迄、欧州(ヨーロッパ)中を旅しました。

 ガイドブックを一冊のみ持って、一人ひとりで、往復の格安航空券だけで 自由旅行をすることは初めてで御座ございましたので、旅の最初、ロンドン(英国)のヒースロー空港(英語: London Heathrow Airport)に降り立ったときには、これからどうしようか 途方に暮れました。しかしながら、取りえず ダウンタウンに行こうと思いましたら、なんとかなるもので御座ございますね。欧州おうしゅう(ヨーロッパ)旅行の最初に訪れる国は、英語の通じる英国が いいとされています。旅に慣れて来るまでは、馴染なじみのある言語を用いる国のほうが比較的安心です。

 今回は、途中、スイスに立ち寄りましたことを記させて頂きます。(^O^)

 

 登山電車(ユングフラウ鉄道[Jungfraubahn])のその日一番電車が割引料金とのことでしたので、当初は、8月29日【金】午前7時40分 Interlaken(インターラーケン)発、午前9時2分に、Kleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)(標高2061m)着、そして、午前9時58分、Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)(御承知のように、独語:Jungfrau は「乙女」「若いぉ嬢さん」の意味)(標高3454m)の予定でした。

 実際は、8月29日【金】・午前4時42分、Basel(バーゼル)、午前5時31分、丁度Olten(オルテン)で目覚めました。そして、午前5時31分、Olten(オルテン)からBern(ベルン)で降りるはずが、午前6時55分、Fribourg(フリブール)迄行(い)ってしまいました。乗り換えるため、降りるべきBern(ベルン)で目覚めたのですが、起きたばかりで注意力散漫で、日本とは違い、列車の到着が定刻通りでは無いことがあるので、この駅で降りていいものかどうかもハッキリわからず、鉄道員にも聞かず、降車し損(そこ)なってしまいました。教訓と致しましては、手許(てもと)にあった(time table)(タイム・テーブル)(時刻表)だけでは不充分(ふじゅうぶん)で、鉄道員にきくことですね。

 

 因(ちな)みに、東・西独(ドイツ)が存在致しましたときに、東・西ベルリンに行きましたが、直通の列車で、西独のハンブルクから、3時間半で、まずは、西ベルリンに入るルートが御座いました。もう一つのルートは、ハノーバーから入るルートで御座います。東独(ドイツ)内では、列車が電化されていませんでした。下の写真は列車の窓から撮影した景色で御座いますが、お気付きのように、架線が御座いません。御承知のように、インフラにおきましては、西独(ドイツ)が勝っていました。

 

 

ドイツ・列車
東独(ドイツ)内の列車

 

 

 

 当時、東独(ドイツ)内はユーレイル・パスが効(き)かないので、国境駅からの運賃を支払わなければなりませんが、直通列車は国境駅で乗り換える必要が御座いません。

 この点、仏(フランス)から、西(スペイン)に入国する際に、 仏(フランス)の鉄道は狭軌、そして、西(スペイン)の鉄道は広軌なので、午前5時8分に、国境駅のPort Bou(ポルトボウ)で乗り換える必要がありました。

 そこで、去る10月11日(土) のブログで記しましたように、翌年の昭和62年、エコノミー(economy)に、パキスタン航空を用いて、欧州(ヨーロッパ)に行った際には、西(スペイン)のマドリード(Madrid)から仏(フランス)のパリ(仏語: Paris)に行くときに、寝台車を利用致しました。これですと、夜中に国境駅で起こされて、長い列を待って(前述のPort Bou[ポルトボウ]のときがそうでした。)、パスポート・コントロール(passport control)(出入国審査のこと)する必要が御座いません。パスポートは寝台車の車掌に預けます。ユーレイル・パスを持っていますと、寝台分の追加料金を支払えば、利用することが出来ます。但し、当時の西(スペイン)では、主要な駅(後年、オリンピックが開かれたバルセロナ駅のことです。)でも、端末が無く、しかも、すべて手作業で御座いましたので、この駅で寝台車の予約を入れるために長い列を並び、漸(ようや)く購入した覚えがあります。

 因(ちな)みに、寝台車には、広軌と狭軌の双方に対応することが出来る機能が備わっている、すなわち、両方の車軸が装備されているとの旨のことでした。

 

 日本で、東独(ドイツ)大使館に行って、滞在ビザ(Visa)が発給されていましたので、東独(ドイツ)の入国係官が直通列車内に来て、パスポートと共に見せました。

 

 

査証
東独(ドイツ)の出入国印

 

 

 

 単に西ベルリンに行くだけでしたら、東独(ドイツ)の入国係官が車内に来て、西ベルリンに行く人のパスポートを見て、トランジット ・ビザ(transit visa)(通過査証)を渡してくれます。

 このトランジット ・ビザ(transit visa)(通過査証)を持っている人が注意しなければならないことは、西ベルリンの中央駅(Zoo Bf)(最初、何故[なぜ]中央駅にZooと付くのかわからなかったのですが、動物園があるので、Zooという名称が付いています。デンマークの首都であるコペンハーゲンでも、駅前にチボリという遊園地がありました。日本でも、例えば、東京の北の玄関口である上野には、駅の近くに動物園がありますね。)で必ず降りることです。降り損(そこ)なって、車内にいると、10分で、東ベルリンの駅にビザ(Visa)無しで降り立つことになります。

 しかも、このトランジット ・ビザ(transit visa)(通過査証)ですと、その日の夜12時迄に、西側に戻らなければなりません。

 

 また、いずれに致しましても、当時、東ベルリンに入るためには、25DM(ドイツ・マルク)の強制換金が御座いました。

 東・西独(ドイツ)のDM(ドイツ・マルク)のレートは1:1でした。しかし乍(なが)ら、実際の価値は西独(ドイツ)マルクの5に対して、東独(ドイツ)マルクが1でした。西独(ドイツ)の銀行では、1西独(ドイツ)マルクに対して、5東独(ドイツ)マルクを換金してくれるとのことです。但し、社会主義圏での経済犯は罰則が重く、日本円で100万円程度の西独(ドイツ)マルクを西独(ドイツ)の銀行で5倍のレートで換金して、東独(ドイツ)に持ち込もうとした独(ドイツ)人が発見されて、極刑だったとのことを旅行中に聞きました。

 

 西ベルリンを見て、東ベルリンに入国しようと思っていましたので、このときは確かに西ベルリンの中央駅(Zoo Bf)で降りました。仮に、この駅で、降り損(そこ)なっても、滞在ビザ(Visa)を持っていましたので、大丈夫で御座いました。しかし乍ら、東ベルリンの次は東独(ドイツ)内を通って、チェコ・スロバキア(御承知のように、現在はチェコとスロバキアに分かれています。)に行(い)こうと、チェコ・スロバキアの滞在ビザ(Visa)(同じくチェコ・スロバキア大使館に行[い]って、発給されましたが、数千円という結構な額でした。)を持っていましたので、降り損(そこ)なったら、西ベルリンに戻ることはしなかったでしょう。だから、西ベルリンは見ていなかったと思います。この年は、去る10月11日(土) のブログで記しまして、前述させて頂きましたように、翌年の昭和62年、エコノミー(economy)に、パキスタン航空を用いて、欧州(ヨーロッパ)に行った年で、大曲の花火の件で有名なベルリン市制750年祭典(1987年)(昭和62年)の年でした。

 但し、事前に知らず、調べておりませんでしたので、何処(どこ)でぉ祭りが行(おこな)われているのかわかりませんでした。

 翌日には東ベルリンに入りました。

 

 なお、記憶を確認しましたが、実際には フリードリッヒ・シュトラーセ(Friedrich str.)駅で、1日ビザ(トランジット ・ビザ[transit visa][通過査証])を獲得しました。そして、上記の25DM(ドイツ・マルク)の強制換金が御座いました。


 

査証
チェコ・スロバキアの滞在ビザ(Visa)と出入国印

 

 

 

 東欧は、チェコ・スロバキア(プラハでも日本人が少なく、一泊二日で、日本人に一人しか会いませんでした。)の後は、ハンガリー、ユーゴスラビア(当時の名称)、ブルガリア、そして、トルコに抜けました。同じく、ハンガリーも、ブルガリアも大使館に行って、滞在ビザ(Visa)が発給されましたが、やはり結構な額でした。今回はスイスのことですが、機会がありまして、宜敷(よろし)ければ、東欧のことを記させて頂きます。

 

 

査証
ハンガリーの滞在ビザ(Visa)と出入国印

 
査証
ブルガリアの滞在ビザ(Visa)と出入国印 
 
 
 

 西ベルリンから東ベルリンに入る方法は3通り(私達のような遠距離からの旅行者は2通り)あり、一つは電車で、フリードリッヒ・シュトラーセ(Friedrich str.)駅から入る方法(この方法で入りました)と、もう一つはチェックポイント・チャーリー(Checkpoint Charlie)から歩いて入る方法、そして、さらに もう一つはブランデンブルク門から入る方法です。最後のブランデンブルク門から入る方法は、主に、車で用いられていたと思います。

 

 チェックポイント・チャーリー(Checkpoint Charlie)の西ベルリン側には、下のパンフレットの壁博物館がありました。

 

 

ドイツ・チェックポイント
壁博物館のパンフレット
 

 

実際のチェックポイント・チャーリー(Checkpoint Charlie)

 

 

ドイツ・ブランデンブルグ
ブランデンブルク門




 1961年8月13日にドイツ民主共和国(東独[ドイツ])政府によって建設された、西ベルリンを包囲する壁で御座います。

 当然のこと乍(なが)ら、当初、直(す)ぐに下のような壁が出来た訳では御座いません。 初めはソ連兵も加わって、人間でバリケートを設けたと伺っています。

 

 

ドイツ・壁
西ベルリンから見たベルリンの壁

 
ドイツ・壁
西ベルリンから見たベルリンの壁
 
 
ドイツ・壁
西ベルリンから見たベルリンの壁
 
 
 
 壁博物館で観覧すると、東ベルリンから西ベルリンへ脱出するやり方はいろいろありました。例えば、発電機の箱の中に何人も詰め込んで運ぼうとしたりとか、双子の姉妹で、東・西ベルリンに分かれたケースで、西ベルリンの一方が、ビザ(Visa)で東ベルリンに入って、そのビザ(Visa)で東ベルリンに残されたもう一方を西ベルリンに入国させ、自らはビザ(Visa)を紛失したとして、再発行してもらい、そのビザ(Visa)で西ベルリンに戻ったりとか、バスで乗り越えて、強硬突破しようとして、最後は通路に太いバー(鉄棒)を置かれて、遮(さえぎ)られて最終的に突破が叶わなくて、窓ガラスが粉々(こなごな)であったりとか等で御座います。壁博物館に展示されていますが、下の写真も脱出しようとしている様子です。
 
 
ドイツ・壁
 
 
 
 これらの写真の二年後に、御承知のように、ベルリンの壁が崩壊する訳で御座いますが、当時、西独(ドイツ)の首相は自分の存命中に、このベルリンの壁が崩壊すること(東・西独[ドイツ]が統一すること)はないだろう、と思っていたと話していたように記憶しています。
 
 心理学者A・H・マズロー(Abraham Harold Maslow)によれば、人間には動物と同じ本能があり、それを「5F」と名付けています。

「5F」とは、feeding(フィーディング)(食べること・食欲)、fighting(ファイティング)(戦うこと)、flocking(フロッキング)(群れること)、freeing(フリーイング)(逃げること・自由になること)、そして、fucking(ファッキング)の本能的な5つの欲求のことで、これらのどれもが行動によって満たされると、去る10月13日(月) の「芥子(ケシ)の花ー脳内麻薬」のブログで触れさせて頂いた脳内麻薬が分泌されるとされています。

 但し、これらの行為は上位の脳によって抑制されます。例(たと)えば、どんなに食べ続けていても、15分もすれば、上位の満腹中枢が働いて、それ以上食べられなくなります。因(ちな)みに、ローマ時代には、食べる喜びを享受するために、食べては戻しということを繰り返したということで御座います。

 御承知のように、上位の脳から分泌される脳内麻薬よりも、「5F」を満たすことにより分泌される脳内麻薬の方(ほう)が僅(わず)かですし、持続時間も短期間で御座います。例(たと)えば、どんなに美味(おい)しいものを食べても、せいぜい、そのことを覚えているのは翌日の夜位(くらい)迄で御座いましょう。

 

 「大脱走」という映画になったり、某・民放で、逃走中という番組が放送されるのも、この「5F」の中のfreeing(フリーイング)(逃げること・自由になること)に関わっているので御座いましょう。

 東ベルリンから西ベルリンへの脱出ということで、余談になりました。
 

 西ベルリンでは列車を降り損(そこ)なわなかった、ということで、余談をぉ伝え申し上げましたが、スイスの話しに戻させて頂きます。

 そこで、午前7時16分、Fribourg(フリブール)から、午前7時38分、Bern(ベルン)に戻りました。スイスの首都であるBern(ベルン)で時間がありましたので、駅前とAare(アーレ)川を見ました。それで、自己満足であります。

 

 

Bern(ベルン)駅前

 

 

Bern(ベルン)駅

 

 

 

 午前8時27分、Bern(ベルン)発、午前9時20分Interlaken(インターラーケン)(Jungfraujoch[ユング・フラウ・ヨッホ]の麓[ふもと]の町です。)着

 Interlaken(インターラーケン)で、多少の時間がありましたので、information(インフォメーション)で登山電車(ユングフラウ鉄道[Jungfraubahn])の切符が買えましたが、一番電車は乗り損(そこ)ないました。途中よくしゃべる東北大学・物理学科の大学院生と一緒になりました。

 

 

電車からの景色

 

 

乗り換え

 

 

登山電車内

 

 

登山電車内

 

 

乗り換え

 

 

乗り換え

 

 

 

 午前9時40分、Interlaken(インターラーケン)発、Grindelwald(グリンデルヴァルト)経由、午前11時2分Kleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)(標高2061m)着。そして、このKleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)(標高2061m)で乗り換えます。

 午前11時7分、Kleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)(標高2061m発、午後0時3分Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)(標高3454m)着。途中、aigerwand Eismeer(アイガーヴァント駅)(駅名は「アイガーの壁」を意味します)(標高2864m)で、5分間、電車を降りますが、雲の中でした。

 Scheidegg(クライネ・シャイデック)を少し過ぎた所からはずっとトンネルの中でありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スイス(海外のこと)

 

 

(当時 写真屋が 間違って ネガを 裏から プリントしましたね。ちなみに、年月日の表示が 左下に 逆に (うつ)っています)

 

 

(この写真も 上の画像と同様に、当時 写真屋が 間違って ネガを 裏から プリントしましたね。ちなみに、年月日の表示が 左下に 逆に (うつ)っています)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (半角で6万文字以内という字数制限に達しましたので、つぎのブログ記事に この続きを記させて頂きます。なお、義務教育の方々かたがたに 美しい日本語を 正しい読みかたで 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名ふりがなを付けております)

 本日も、最後 まで  お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)