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学部生の頃(昭和61年の夏・菜食を始める前のことです)、エコノミー(economy)に、シンガポール航空を用いて、往路、東京(成田・8月19日【火】午後6時30分発)からロンドン(英国)(翌々日・8月21日【木】午前6時55分定刻通り着・日本との時差はサマータイムで、8時間)
主に、ユーレイル・パス(当時、欧州[ヨーロッパ]以外の地域で購入出来る、欧州の鉄道のパスのこと。日本にも、日本以外の地域で購入するパスがあると聞きました。)を用いて、二学期が始まる9月9日【火】迄、欧州(ヨーロッパ)中を旅しました。
ガイドブックを一冊のみ持って、一人で、往復の格安航空券だけで 自由旅行をすることは初めてで御座いましたので、旅の最初、ロンドン(英国)のヒースロー空港(英語: London Heathrow Airport)に降り立ったときには、これからどうしようか 途方に暮れました。しかし乍ら、取り敢えず ダウンタウンに行こうと思いましたら、何とかなるもので御座いますね。欧州(ヨーロッパ)旅行の最初に訪れる国は、英語の通じる英国が いいとされています。旅に慣れて来る迄は、馴染みのある言語を用いる国の方が比較的安心です。
今回は、途中、スイスに立ち寄りましたことを記させて頂きます。(^O^)
登山電車(ユングフラウ鉄道[Jungfraubahn])のその日一番電車が割引料金とのことでしたので、当初は、8月29日【金】午前7時40分 Interlaken(インターラーケン)発、午前9時2分に、Kleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)(標高2061m)着、そして、午前9時58分、Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)(御承知のように、独語:Jungfrau は「乙女」「若いぉ嬢さん」の意味)(標高3454m)の予定でした。
実際は、8月29日【金】・午前4時42分、Basel(バーゼル)、午前5時31分、丁度Olten(オルテン)で目覚めました。そして、午前5時31分、Olten(オルテン)からBern(ベルン)で降りるはずが、午前6時55分、Fribourg(フリブール)迄行(い)ってしまいました。乗り換えるため、降りるべきBern(ベルン)で目覚めたのですが、起きたばかりで注意力散漫で、日本とは違い、列車の到着が定刻通りでは無いことがあるので、この駅で降りていいものかどうかもハッキリわからず、鉄道員にも聞かず、降車し損(そこ)なってしまいました。教訓と致しましては、手許(てもと)にあった(time table)(タイム・テーブル)(時刻表)だけでは不充分(ふじゅうぶん)で、鉄道員にきくことですね。
因(ちな)みに、東・西独(ドイツ)が存在致しましたときに、東・西ベルリンに行きましたが、直通の列車で、西独のハンブルクから、3時間半で、まずは、西ベルリンに入るルートが御座いました。もう一つのルートは、ハノーバーから入るルートで御座います。東独(ドイツ)内では、列車が電化されていませんでした。下の写真は列車の窓から撮影した景色で御座いますが、お気付きのように、架線が御座いません。御承知のように、インフラにおきましては、西独(ドイツ)が勝っていました。
当時、東独(ドイツ)内はユーレイル・パスが効(き)かないので、国境駅からの運賃を支払わなければなりませんが、直通列車は国境駅で乗り換える必要が御座いません。
この点、仏(フランス)から、西(スペイン)に入国する際に、 仏(フランス)の鉄道は狭軌、そして、西(スペイン)の鉄道は広軌なので、午前5時8分に、国境駅のPort Bou(ポルトボウ)で乗り換える必要がありました。
そこで、去る10月11日(土) のブログで記しましたように、翌年の昭和62年、エコノミー(economy)に、パキスタン航空を用いて、欧州(ヨーロッパ)に行った際には、西(スペイン)のマドリード(Madrid)から仏(フランス)のパリ(仏語: Paris)に行くときに、寝台車を利用致しました。これですと、夜中に国境駅で起こされて、長い列を待って(前述のPort Bou[ポルトボウ]のときがそうでした。)、パスポート・コントロール(passport control)(出入国審査のこと)する必要が御座いません。パスポートは寝台車の車掌に預けます。ユーレイル・パスを持っていますと、寝台分の追加料金を支払えば、利用することが出来ます。但し、当時の西(スペイン)では、主要な駅(後年、オリンピックが開かれたバルセロナ駅のことです。)でも、端末が無く、しかも、すべて手作業で御座いましたので、この駅で寝台車の予約を入れるために長い列を並び、漸(ようや)く購入した覚えがあります。
因(ちな)みに、寝台車には、広軌と狭軌の双方に対応することが出来る機能が備わっている、すなわち、両方の車軸が装備されているとの旨のことでした。
日本で、東独(ドイツ)大使館に行って、滞在ビザ(Visa)が発給されていましたので、東独(ドイツ)の入国係官が直通列車内に来て、パスポートと共に見せました。
単に西ベルリンに行くだけでしたら、東独(ドイツ)の入国係官が車内に来て、西ベルリンに行く人のパスポートを見て、トランジット ・ビザ(transit visa)(通過査証)を渡してくれます。
このトランジット ・ビザ(transit visa)(通過査証)を持っている人が注意しなければならないことは、西ベルリンの中央駅(Zoo Bf)(最初、何故[なぜ]中央駅にZooと付くのかわからなかったのですが、動物園があるので、Zooという名称が付いています。デンマークの首都であるコペンハーゲンでも、駅前にチボリという遊園地がありました。日本でも、例えば、東京の北の玄関口である上野には、駅の近くに動物園がありますね。)で必ず降りることです。降り損(そこ)なって、車内にいると、10分で、東ベルリンの駅にビザ(Visa)無しで降り立つことになります。
しかも、このトランジット ・ビザ(transit visa)(通過査証)ですと、その日の夜12時迄に、西側に戻らなければなりません。
また、いずれに致しましても、当時、東ベルリンに入るためには、25DM(ドイツ・マルク)の強制換金が御座いました。
東・西独(ドイツ)のDM(ドイツ・マルク)のレートは1:1でした。しかし乍(なが)ら、実際の価値は西独(ドイツ)マルクの5に対して、東独(ドイツ)マルクが1でした。西独(ドイツ)の銀行では、1西独(ドイツ)マルクに対して、5東独(ドイツ)マルクを換金してくれるとのことです。但し、社会主義圏での経済犯は罰則が重く、日本円で100万円程度の西独(ドイツ)マルクを西独(ドイツ)の銀行で5倍のレートで換金して、東独(ドイツ)に持ち込もうとした独(ドイツ)人が発見されて、極刑だったとのことを旅行中に聞きました。
西ベルリンを見て、東ベルリンに入国しようと思っていましたので、このときは確かに西ベルリンの中央駅(Zoo Bf)で降りました。仮に、この駅で、降り損(そこ)なっても、滞在ビザ(Visa)を持っていましたので、大丈夫で御座いました。しかし乍ら、東ベルリンの次は東独(ドイツ)内を通って、チェコ・スロバキア(御承知のように、現在はチェコとスロバキアに分かれています。)に行(い)こうと、チェコ・スロバキアの滞在ビザ(Visa)(同じくチェコ・スロバキア大使館に行[い]って、発給されましたが、数千円という結構な額でした。)を持っていましたので、降り損(そこ)なったら、西ベルリンに戻ることはしなかったでしょう。だから、西ベルリンは見ていなかったと思います。この年は、去る10月11日(土) のブログで記しまして、前述させて頂きましたように、翌年の昭和62年、エコノミー(economy)に、パキスタン航空を用いて、欧州(ヨーロッパ)に行った年で、大曲の花火の件で有名なベルリン市制750年祭典(1987年)(昭和62年)の年でした。
但し、事前に知らず、調べておりませんでしたので、何処(どこ)でぉ祭りが行(おこな)われているのかわかりませんでした。
翌日には東ベルリンに入りました。
なお、記憶を確認しましたが、実際には フリードリッヒ・シュトラーセ(Friedrich str.)駅で、1日ビザ(トランジット ・ビザ[transit visa][通過査証])を獲得しました。そして、上記の25DM(ドイツ・マルク)の強制換金が御座いました。
東欧は、チェコ・スロバキア(プラハでも日本人が少なく、一泊二日で、日本人に一人しか会いませんでした。)の後は、ハンガリー、ユーゴスラビア(当時の名称)、ブルガリア、そして、トルコに抜けました。同じく、ハンガリーも、ブルガリアも大使館に行って、滞在ビザ(Visa)が発給されましたが、やはり結構な額でした。今回はスイスのことですが、機会がありまして、宜敷(よろし)ければ、東欧のことを記させて頂きます。
西ベルリンから東ベルリンに入る方法は3通り(私達のような遠距離からの旅行者は2通り)あり、一つは電車で、フリードリッヒ・シュトラーセ(Friedrich str.)駅から入る方法(この方法で入りました)と、もう一つはチェックポイント・チャーリー(Checkpoint Charlie)から歩いて入る方法、そして、
チェックポイント・チャーリー(Checkpoint Charlie)の西ベルリン側には、下のパンフレットの壁博物館がありました。
1961年8月13日にドイツ民主共和国(東独[ドイツ])政府によって建設された、西ベルリンを包囲する壁で御座います。
当然のこと乍(なが)ら、当初、直(す)ぐに下のような壁が出来た訳では御座いません。 初めはソ連兵も加わって、人間でバリケートを設けたと伺っています。
「5F」とは、feeding(フィーディング)(食べること・食欲)、fighting(ファイティング)(戦うこと)、flocking(フロッキング)(群れること)、freeing(フリーイング)(逃げること・自由になること)、そして、fucking(ファッキング)の本能的な5つの欲求のことで、これらのどれもが行動によって満たされると、去る10月13日(月) の「
但し、これらの行為は上位の脳によって抑制されます。例(たと)えば、どんなに食べ続けていても、15分もすれば、上位の満腹中枢が働いて、それ以上食べられなくなります。因(ちな)みに、ローマ時代には、食べる喜びを享受するために、食べては戻しということを繰り返したということで御座います。
御承知のように、上位の脳から分泌される脳内麻薬よりも、「5F」を満たすことにより分泌される脳内麻薬の方(ほう)が僅(わず)かですし、持続時間も短期間で御座います。例(たと)えば、どんなに美味(おい)しいものを食べても、せいぜい、そのことを覚えているのは翌日の夜位(くらい)迄で御座いましょう。
「大脱走」という映画になったり、某・民放で、逃走中という番組が放送されるのも、この「5F」の中のfreeing(フリーイング)(逃げること・自由になること)に関わっているので御座いましょう。
東ベルリンから西ベルリンへの脱出ということで、余談になりました。
西ベルリンでは列車を降り損(そこ)なわなかった、ということで、余談をぉ伝え申し上げましたが、スイスの話しに戻させて頂きます。
そこで、午前7時16分、Fribourg(フリブール)から、午前7時38分、Bern(ベルン)に戻りました。スイスの首都であるBern(ベルン)で時間がありましたので、駅前とAare(アーレ)川を見ました。それで、自己満足であります。
Bern(ベルン)駅前
Bern(ベルン)駅
午前8時27分、Bern(ベルン)発、午前9時20分Interlaken(インターラーケン)(Jungfraujoch[ユング・フラウ・ヨッホ]の麓[ふもと]の町です。)着
Interlaken(インターラーケン)で、多少の時間がありましたので、information(インフォメーション)で登山電車(ユングフラウ鉄道[Jungfraubahn])の切符が買えましたが、一番電車は乗り損(そこ)ないました。途中よくしゃべる東北大学・物理学科の大学院生と一緒になりました。
電車からの景色
乗り換え
登山電車内
登山電車内
乗り換え
乗り換え
午前9時40分、Interlaken(インターラーケン)発、Grindelwald(グリンデルヴァルト)経由、午前11時2分Kleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)(標高2061m)着。そして、このKleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)(標高2061m)で乗り換えます。
午前11時7分、Kleine Scheidegg(クライネ・シャイデック)(標高2061m)発、午後0時3分Jungfraujoch(ユング・フラウ・ヨッホ)(標高3454m)着。途中、aigerwand Eismeer(アイガーヴァント駅)(駅名は「アイガーの壁」を意味します)(標高2864m)で、5分間、電車を降りますが、雲の中でした。
Scheidegg(クライネ・シャイデック)を少し過ぎた所からはずっとトンネルの中でありました。
(当時 写真屋が 間違って ネガを 裏から プリントしましたね。因みに、年月日の表示が 左下に 逆に 写っています)
(この写真も 上の画像と同様に、当時 写真屋が 間違って ネガを 裏から プリントしましたね。因みに、年月日の表示が 左下に 逆に 写っています)
(半角で6万文字以内という字数制限に達しましたので、次のブログ記事に この続きを記させて頂きます。なお、義務教育の方々に 美しい日本語を 正しい読み方で 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名を付けております)
本日も、最後 迄 お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)