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さて、今日は、母親の84歳の誕生日です。誠に有り難く存じます。
ときに、去る2月14日(土)の「絵本の影響」のブログ
の中段で、明治天皇陛下、そして、昭和天皇陛下のことを言及させて頂きました。御承知のように、日露戦争(明治37年[1904年]~明治38年[1905年])開戦前、明治天皇は何度も露側と交渉をするように、すなわち、外交努力を続けるように指示されました。安易に戦争に走らず、慎重に事を進められました。開戦した際に、日本国民の負担をぉ思いになられてのことであり、大御心で御座います。明治天皇陛下は、
四方の海 みな同胞と 思ふ世になど 波風の 立ち騒ぐらむ
よものうみ みなはらからと おもふよになど なみかぜの たちさわぐらむ
(四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思われる世に、何故波風が立つように騒ぎ立てるのであろう)
という御製をぉ詠みになられました。
しかし乍ら、開戦を抑止することを得ませんでした。すなわち、明治37年2月4日の対露宣戦御前会議(元老、そして、閣僚の御前会議)にて、露との国交断絶の最終案を決定しました。そして、露外相に通告しました。
その日露戦争において、明石 元二郎、元治元年[1864年]~大正8年[1919年])という、日本の陸軍軍人が、ロシア帝国内の騒乱を図り、ロシア革命発生の種蒔きをしました。すなわち、レーニン(露語:Ле́нин)(露の革命家、政治家)が率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出ました。資金援助を行い、ロシアが内部崩壊することを狙いました。日露戦争が早く終結した理由の一つは、ロシア政府が国内混乱を鎮圧するために大きな力を注がなければならなくなったことであるとされています。山縣 有朋は、明石 元二郎の功績について、「数個師団の活躍にも相当する。明石は実に恐ろしい男である。」と言っています。因みに、以前、父親によりますと、中国共産党を崩壊させるために米国は画策しているだろう、との旨のことでした。平時でもそうなのですから、日露戦争当時の国際社会において、対戦国に関して画策することは当たり前のことであったでありましょう。
また、去る11月28日(金)の「ソフィア(東欧)」のブログ
の上段に、
「(前略)
当時、ソフィア駅前に、レーニン像がありましたが、その場所に、今では聖ソフィア像が立っているとのことです。(後略)」と記させて頂きました。更に、東京の椿山荘は、以前、山縣 有朋の邸宅であり、ここで姉は挙式と披露宴を致しました。
勿論、御承知のことであらせられますように、日露戦争が終結した理由と致しましては、日本海海戦に勝利し、この勝利は奇跡であると評した東郷 平八郎元帥、そして、乃木 希典陸軍大将等の、海軍と陸軍の存在も御座います。因みに、東京・原宿にある、東郷 平八郎元帥を祀っている東郷神社、そして、東京・赤坂にある、乃木 希典大将を祀っている乃木神社にはよく参拝しました。乃木 希典大将は、西那須野(栃木県)の田園生活をこよなく愛したと言われています。
そして、日本は日露戦争に勝利し、第一次世界大戦のときに露革命が起こり、ロシアは共産化します。
時が過ぎ、大東亜戦争・末期の昭和20年8月8日、その共産化したソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に襲い掛かって来ました。御承知のように、大東亜戦争後、日本も共産化しそうになりました。
以上の、日露戦争と大東亜戦争における、日本とロシア(ソ連)のことが歴史の業(カルマ:サンスクリット語のकर्मन् [karman])であるように思われます。
ところで、御承知のように、歴史は繰り返すとも言われます。去る12月9日(火)の「阿闍世太子」のブログ
の中段に記させて頂きました男子大学4回生(史学科専攻)が何のために歴史を勉強しているのであろうか、所詮歴史なんか役に立つのかと、すなわち、歴史を学ぶ意義を失いかけているときに話したことですが、歴史は繰り返すので、将来を予想するために、また、自分の進路を定めるための情報として、学ぶ価値があるとの旨のことを伝えたことがあります。因みに、御承知のことであらせられますように、「賢者は 歴史に学び、愚者は 経験に学ぶ。」という言葉がありますね。
また、去る1月2日(金)の「古事記の物語に基づいた医療」のブログ
の中段に、N.B.M.(Narrative-based Medicine)(物語に基づいた医療)のことを記させて頂きました。歴史という意味の独語である“Geschichte”には、物語という意味もあります。このことも伝えました。
最後になりますが、大東亜戦争前の、昭和16年(1941年)9月6日の御前会議のときのことで御座います。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇陛下は、この席上で敢えて発言をなされ、前述の明治天皇の御製を朗詠なされました。昭和天皇の大御心は、明治天皇陛下と御同様で御座います。しかし乍ら、開戦を抑止することを得ませんでした。去る1月30日(金)の「永代神楽祭」のブログ
の冒頭に記させて頂きましたように、今年は大東亜戦争終結70年の節目の年にあたるということもあり、敢えて言及させて頂きました。
本日も、最後迄ぉ読み頂き、誠にありがとうございました。唯々感謝。(^-^)