永代神楽祭 | 神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

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古来、日本では、「愛」と云う字を使わないで、「産巣日(むすび)」と言いました。「むすび」と云う言葉は、「愛」と云う言葉よりも非常に深遠な意味を含んでいるのです。ときに、神産巣日神は「造化の三神」の内の一柱の神であり、獨神(ひとりがみ)で御座います。唯々感謝。

 昨日は、去る12月4日(木)の「神社参拝」のブログ で記しましたように、1月29日で、靖国神社に(まつ)られている伯父の祥月しょうつき命日(御承知のように、一周忌以後の当月の命日のことです。)であり、永代神楽祭えいたいかぐらさいに参りました。最近では、母親は寒いから行けないとのことで御座ございました。以前から父親は、この日は家にます。近年では家族で一人になりましたが、参ります。午後の比較的あとの時間から始まるのです。万障ばんしょうり合わせて、毎年、参拝致しております。御承知のように、今年は、大東亜戦争終結70年の節目の年にあたります。(^O^)


 ときに、昭和20年(1945年)1月20日、九州の門司もじから第12師団隷下れいかの歩兵46連隊は明秀丸、くらいど丸、馬来丸まれーまるの3隻の輸送船に乗船して台湾を目指めざしました。(とき)さかのぼって 昭和19年(1944年)11月、満州にあった 陸軍 第12師団に対して台湾派遣はけんが決定されたからです。これにより転進が開始されました。伯父は満州まんしゅうしばらたと、以前 父親が話していたことを思い出しました。ちなみに、満州国まんしゅうこくの首都は新京しんきょう長春ちょうしゅん)でした。

 伯父はくらいど丸に乗船していて、昭和20年1月29日午前6時30分、台湾海峡でアメリカ海軍潜水艦ピクーダ SS-382 の魚雷攻撃により撃沈されました。祖母が帰還兵きかんへいから聴いた話によりますと、一旦、伯父は船の甲板に上がったものの、部下が下にるので、戻ったとのことでありました。ちなみに、伯父は 伍長(二等兵曹)であり、戦死して二階級特進で 曹長になったと聞かされています。

 冷たい1月の海に投げ出された生存者は、多数が海中に没したとのことです。少なくても、数日前の同・1月25日に 鹿児島県では 雪が降っています。しかも、魚雷命中から沈没まで (わず)か 3分以内とのことでした。御承知のように 大型船が沈みますと、周囲にうずを巻きます。近くの海岸には多数の水死体が流れ着いたそうです。なお、くらいど丸の戦没者は、船員を含めて1107名でした。父親によりますと、生存者は17名だったとのことで御座ございます。


 去る10月11日(土)の「海外のこと」のブログ の中段やや下に、カラチ(パキスタンの都市)から成田への国際線に搭乗したとぉ伝え致しました。その際、途中、バンコク(英語: Bangkok)(タイ王国の首都)、そして、台湾で、機内待機のトランジット (transit)(一時寄港)がありました。その際、台湾上空から黙禱もくとう致しました。ちなみに、当時、台湾上空では、軍事上のために撮影禁止とのことでした。

 また、これ(まで)、偶然も含めて西側が海になっている海岸線に立ったときには、台湾方向に向かって、黙禱もくとうしております。

 

 伯父はパン屋で修行していました。パンを調理するレシピ(英語: recipe)のノートが残されています。ちなみに、新婚3ヶ月で、赤紙が来ました。相手の女性は 伯父との間の子供が 欲しかった と話していたそうであります。なお、父親が 電話をして 分かったことですが、伯父が 戦死したあと 相手の女性は 再婚した とのことです。ついながら、上記のように 伯父は 伍長(二等兵曹)で御座ございましたが、戦死して二階級特進で曹長そうちょうになったと聞かされています。

 母親は、日本の官僚でもあり、実業家でもあった白洲次郎しらすじろうのことが好きです。その言葉に、徴兵されるよりも、農家は農業のことを行うことが一番いいとのむねのことが御座ございます。家族は、伯父がパン屋で進んでいたら・・・と話します。父親によりますと、伯父は犬死だったとのことでした。しかしながら、()たして そうでありましょうか。


 生まれたときに、伯父の生まれかわりとのことで、伯父と同じ名前を命名されました。伯父とは縁が深いので、前述のように、近年では家族で一人になりましたが、参拝しているので御座ございましょう。


 ところで、一人で靖国神社に向かうために、J.R.線に乗りましたら、誠に有り難いことに、男子学部4回生のかたから声を掛けられました。こんなことは、一生の間に一人のかたについて一回あるかないかのこと、と話しましたら、うなずいてくれました。そこで、これから靖国神社の永代神楽祭に行く旨を話しましたら、吉祥寺の教会にいくつもりであったが、また行けるので、一緒に同行してくれるとのことでした。勿論、無理はしないように、と伝えました。乗り越し分の交通費は負担させて頂きました。ちなみに、聖書を全部読みたいとのことでした。

 そして、「きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記」の本(岩波文庫)の話しになりました。学徒出陣の歌が御座いますが、学徒出陣した戦没学生の方々(かたがた)の手記が記されている感動的な本です。このかたは、この本を読んだが、学徒出陣はしたくないとのことでした。現在の日本人の学部生の方々(かたがた)が共通して思っておられることであるか、と思われました。

 日本国民にとりまして、まもるべきものがある場合の価値観が関わって参ります。日本国民が、国家を愛して国家をまもるために戦いました。その戦いという行為は、相手があり 相対的なものであるから、各々おのおのの立場の異なる人々によって、その価値 もしくは 不価値をいろいろに評価されるけれども、その戦いという相対的行為の奥にあるところの、日本国民が 天皇を愛し大日本帝国を愛したという、その純忠なる愛の価値は相対的価値を超えた絶対的なものでありますから、肉体という相対的存在が滅びても、永遠にその愛の価値が滅びることは無いので御座ございます。


 このかたのぉ父さんが長崎で被爆され、放射能に被曝されたとのことでした。広島の被爆者はどこに(まつ)られているのでしょうと尋ねられましたので、平成2年夏、訪れましたが、原爆死没者慰霊碑(公式名は広島平和都市記念碑)と答えました。帰宅して調べましたら、原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって(まつ)られているとのことです。十数年前、長崎の平和祈念像にも訪れました。

 極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)において、印度インド代表のラダ・ビノード・パール(英語: Radhabinod Pal)判事も、広島を訪問されました。同・判事は、他国の裁判官達が、夜、パーティに出席しているのに、一人で部屋にこもって、もの書きをして、日本の子供達に、簡単なわかり易い言葉で申しますと、うしろめたい思いを背負って、すさんでいくのは見逃せないと言って、このさばき(東京裁判)は無効であると語ってくれました。誠に有り難いことで御座ございます。裁判官の中で唯一人の国際法学者として、この東京裁判を認定し、許容すること自体が「法の真理」を破壊する行為だと判断し、戦勝国が敗戦国を一方的に裁くことに、強い危惧きぐいだかれたためとされています。約十八年前、箱根にある同・判事の資料館にも行きました。

 去る10月05日(日)の「ボランティア・高尾山登山」のブログ で、「(前略)18年間、月二回、日曜日に、・・・ボランティアを、このトップの方々(かたがた)二人に委託されて、おこなって参りました。(後略)」とぉ伝え申し上げましたボランティアでも、この話しを致しました。最初に資料を配りましたが、誠に有り難いことに、このとき用意致しました資料を、数名の方々(かたがた)から、伝えるためにということで、更に求めて頂きました。

 靖国神社境内にあるパール博士顕彰碑の写真を、下に添付させて頂きます。



パール判事
パール博士顕彰碑



パール判事



 男子学部4回生のかたの話しに戻りますと、このかたの卒論のことは心より祈らせて頂いておりました。卒論の中間発表が終わり、その後担当教官の指示が変更になったとのことも伺いましたが、卒論提出も済み、明日(本日のこと)、10分間の面接があって最後とのことでしたので、安堵致しました。

 昨年夏、卒業前祝いとして、このかたが希望していた仏教辞典・第二版を贈りました。昨日は、お祝いに食事を御馳走致しました。靖国神社境内の遊就館に隣接する茶寮で、このかたは、海軍カレー・サラダ付、たこ焼き、そして、三ツ矢サイダーのセットを注文しました。御承知のように、当方は菜食なので、外出するときには、玄米を持って行きます。勿論、茶寮内で頂くことは致しません。ちなみに、遊就館は次回入館したいとのことでしたので、無期限で使える入館券を2枚渡しました。誠に有り難いことで御座います。

 吉祥寺の某・パン屋でアルバイトをしていたが、クビになったとのことでした。それでも、研修中のアルバイト代はもらえたとのことでした。伯父はパン屋で修行していたと前述致しましたが、このことを連想しました。


 さて、知り合いの医師から、親戚が 宮司であったと伺いました。その靖国神社の写真を、下に掲載致します。靖国神社の撮影は、警備員の前でも、周囲の方々(かたがた)が皆 おこなっていましたので、それに習いました。それでも、中門鳥居の外から撮影させて頂きました。



靖国神社
靖国神社




 玉串たまぐし料を奉納致しまして、本殿に昇殿しょうでんしました。永代神楽祭えいたいかぐらさいでは、修祓しゅばつ献饌けんせん祝詞奏上のりとそうじょう、戦没者招霊しょうれい、かずら舞い(神道式の巫女みこさんの舞い)、玉串奉奠たまぐしほうてん撤饌てっせん、そして、黙禱もくとうが御座います。最後、全員に巫女みこさんから御神酒おみきが振る舞われますが、去る11月01日(土)の「東ベルリン(旧・東ドイツ)」のブログ の下段に記させて頂きましたように、医者(研修医)になってから、お酒を飲んでいませんので、毎年、通路上の神官、そして、巫女みこさんの(わき)を通り抜けて、失礼します。


 本日も、最後(まで)ぉ読み頂き、誠にありがとうございました。唯々感謝。(^-^)