【古典個展】
西暦共通化の愚かさ 立命館大フェロー・加地伸行
近ごろ気になるのは、事件や事柄の時間を指すとき、西暦で示されていることである。
例えば、サンフランシスコ講和条約は1952年発効したと記してはいるが、それは昭和27年だという年号を記していない辞書が多い。
これには抵抗を覚える。まずは年号を記すべきではないのか。わが国にとってという立場がまずあるべきだからである。
しかし、近ごろは頭から西暦で言う人が増えてきており、メディアでは西暦で書くことが多くなってきている。
その点、産経新聞は、紙面の上欄の外に示される日時についてまず年号、その次に括弧づきで西暦。これならよろしい。
一方、他紙はその逆で、まず西暦を記し、その次に括弧づきの年号を記している。
おそらく今後は西暦が中心となり、年号は付けたしになる可能性が大きい。テレビにおける発言では、西暦で示すのが、もうふつうとなってきている。
これでいいのか。
老生は、よほどのとき以外、必ず年号で示す。西暦感覚はまったくない。
その大きな理由は、老生はキリスト教徒でないからだ。
キリスト教と西暦と-これはぴったりと重なる。すなわち西暦とはキリスト教暦のことなのである。キリスト教を開いたイエスの生年を元年としての暦である。
けれども、世の中、西暦だけで動いているわけではない。イスラム教徒はイスラム暦を、ユダヤ教徒はユダヤ暦をそれぞれ使っているではないか。
いや、宗教的理由の暦ばかりではない。台湾では民国暦(中華民国成立の年である西暦1912年が元年)を使っている。
と主張すると、必ずこう言う者がいる。グローバルな時代ですから西暦を使って世界共通でゆきましょうと。
愚かな話である。西暦とは、西欧キリスト教諸国がアジアなど各地を侵略して広めてきたものであり、それを勝手にグローバルと言っているだけなのだ。
ところがこう言う人もいる。世界共通のコンピューターを使う今日、西暦で統一するのがよいと。
大嘘である。例えば日本の銀行の預貯金通帳を見るがいい。その日付はすべて年号であり、コンピューター上、なんの問題もなくちゃんと活(い)きているではないか。
日本では年号を使うべきである。法的にもそれが正しい。早い話が役所関係での諸届・諸申請の日付はすべて年号である。
にもかかわらず、国会の委員会審議を聞いていると、野党の質問者の多くが「2015年度」と称している。法的にそのような会計年度は存在しない。あくまでも「平成27年度」である。ところがなんと、答弁する閣僚や諸委員の中にも西暦年度を使う者がいる。法的にも保守政権としても正しくない。しっかりと不動の信念を持つべきだ。『詩経』●風(はいふう)・柏舟に曰(いわ)く「我(わ)が心は石にあらず。転がすべからず。我が心は席(むしろ)(敷物)にあらず。巻くべからず」と。
(かじ のぶゆき)
●=北の右におおざと
━─━─━─━─━─やはり日本は、年号か皇紀の使用がよろしいかと。