千尋の波 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

現在、我が国の、東京永田町の国会議事堂の内外で行われている問答を見聞していて、

幕末の、陽明学の大家にして

備中松山藩の改革者である山田方谷の言葉を思い浮かべた。

徳川幕府最後の第十五代将軍徳川慶喜は、寺社奉行などを歴任してきた備中松山藩の藩主板倉勝静を、

老中首座(幕臣のトップ)に任命した。

そして、藩主板倉勝静の顧問であった山田方谷は、

徳川幕府の江戸城をみて藩邸に帰り藩主に会った。

その時、藩主は山田方谷に、

「江戸城は、天下の大城で、驚いたであろう」と言った。

方谷は、すかさず「大きな船である」と答えた。

さらに、怪訝そうな顔で、

幕府を「船に喩えた訳」を尋ねる藩主に、

方谷は静かに言った。

「下は千尋の波でございます」と。

そして、山田方谷が老中首座の藩主を支え、

遂に将軍徳川慶喜の「大政奉還上奏書」を起案した。

即ち、

二百五十年間の太平を味わった「徳川幕府統治下の日本」は、

幕末には「千尋の波」の上に浮かんでいた。

しかも、幕府の統治者自身が、そのことに気付いていなかった。

同様に、令和七年には

八十年間に及ぶ「戦後体制下の日本」も

「千尋の波」の上に浮かんでいることを

自覚していない。

石破茂総理と彼を選んだ雁首たち、

そして、与野党仲良く国会議事堂で生息してうごめく

老若男女を思い浮かべて戴きたい。

これが

「戦後体制下の日本」の江戸城に生息している面々である。

彼らの共通点は、

「日本が滅んでも誰も責任をとらない」ということだ。

まさに現在、我が国は、明治の田中正造が警告した、

「亡国を知らざれば之即ち亡国」の状況にある。


平成二十四年(二〇一二年)暮れの総選挙において、

自民党総裁安倍晋三は、

「戦後体制からの脱却」そして「日本を取り戻す」

というスローガンを掲げて選挙を戦い、

勝利して与党に返り咲き、安倍晋三内閣を組閣した。

その上で、始めて迎える四月二十八日、

即ち平成二十五年の四月二十八日、

安倍総理は、憲政記念館において、

天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、

安倍内閣主催の「主権回復を祝う集会」を開催した。

昭和二十七年のこの日こそは、

サンフランシスコ講和条約が発効し、

その第一条によって、

我が国は主権を回復して被占領状態から脱却し、

独立国家になった日であった。


この集会において、挨拶に立った安倍総理は、

被占領下の国民に対して、昭和天皇が詠まれた御製

 ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 

 松ぞををしき 人もかくあれ

を朗唱して、

込み上げる嗚咽に絶句した。


まさに、この時、日本国総理大臣安倍晋三は、

昭和二十年九月二日、

東京湾の浦賀沖に投錨したアメリカの戦艦ミズーリ号の艦上で、

我が国が、連合国に対する降伏文書に調印してから、

同二十七年四月二十八日に

連合国とのサンフランシスコ講和条約が発効するまでの間、

我が国は、被占領下におかれ

「国家主権がなかったこと」を

明確に宣言したのだ。

よって、この時、安倍晋三総理が総選挙で掲げた

「戦後体制からの脱却」と「日本を取り戻す」との主張は、

「具体的に何を為すことか」が、

同時に明らかになった。

即ち、それは

被占領下の国家主権が剥奪されていた時期に

奪われたものを取りもどし、

押しつけられたものを廃棄すること

に他ならない。

これ、まさに、帝国陸海軍即ち「軍隊」を取りもどし、

押しつけられた「日本国憲法」を捨て去ることだ。

この憲政記念館における歴史的な

「主権回復を祝う会」の終了にあたり、

天皇皇后両陛下が御退出される際、

出席者総員は、期せずして起立し、

「天皇陛下萬歳」を三唱した。


以上の如く、平成二十五年四月二十八日、

憲政記念館において天皇皇后両陛下の御臨席を得て、

我が国の主権回復を祝ったこと、

これが総理大臣安倍晋三の最大の功績である。


しかし、彼は、それから八年間、総理大臣を勤め、

史上最長期の総理大臣在職者となるが、

自ら提唱した我が国家の命運を懸けた

「戦後体制からの脱却」と「日本を取り戻す」という

切実な具体的緊急課題に、

まるで、目を瞑れば世界が無くなる!

とでも思っていたかの如く着手せず、

令和二年九月に総理大臣を退いた。

そして、

二年後の令和四年七月八日午前十一時三十一分、

遊説先の近鉄大和西大寺駅頭で銃撃されて死亡したのだ。

期せずして、同じ長州出身の伊藤博文が、

明治四十二年十月、ハルビンで銃撃されて死亡した年齢と同じ

享年六十八歳だった。

さらに、伊藤が安重根の放った拳銃弾で死亡したのか、

フランス騎兵銃弾で死亡したのか

不明であるのと符合するかの如く、

安倍元総理の心臓を貫いて失血死に至らしめた銃弾は、

体内から発見されていないという。

よって、安倍元総理を直撃した銃弾が、

山上徹也の模造銃弾か、

謎の他の者のライフル銃弾!か、

不明である。

そして、現在、

東アジアの動乱が待ち構える

令和七年(二〇二五年)を迎えようとしている。


歴史を奪われた我が国政界において、

大東亜戦争を検証して、

「我が国の敗北が決定的になったのは何時の時点か」

という課題に明確に答えられる者がいるのだろうか?

仮にいるならば、

中共がフィリピン沖の南シナ海で行っている軍事行動の

戦略目的を理解し、

東アジアの動乱期が始まっていることを実感しているであろう。

しかし、

我が国政界は東アジアの動乱期到来を実感していない。

従って、石破茂君を総理大臣に選んだのだ。


大東亜戦争において、我が国の敗北が決定的になったのは、

昭和十九年(一九四四年)六月十九日、二十日の

フィリピン東方のマリアナ沖において行われた日米両軍の

マリアナ沖海戦において、

我が海軍の海上航空戦力が壊滅させられた時である。

これによって我が国は

シーレーンを失って敗北が決定的になった。

アメリカ軍の戦略爆撃報告には、

日本への爆撃は必要なかった、

何故なら、日本の工場は既に稼働していなかったからだとある。

これ、我が国がマリアナ沖でシーレーンを失った結果である。

そして、中共は、今、南シナ海で

我が国のシーレーンを閉める為の軍事行動を

着々と積み重ねつつある。

世界の動乱は、中東とウクライナだけではなく、

南シナ海にある。

そして、現在、朝鮮半島情勢も動き始めたようだ。

よって事態は、

明治の日清・日露の両戦役と昭和の朝鮮戦争が、

同時に起こりそうな状況に入りつつある。

ここにおいて、我等日本民族は、

「戦後体制からの脱却」と「日本を取り戻す」ことを、

瞬時に断行し、

東アジアの動乱克服に向かう絶好の機会が訪れたものと、

覚悟すべきである。

それは、先ず第一に、「日本国憲法」の無効確認である。


本稿は、「月刊日本」令和七年一月号原稿に、加筆したも。


西村眞悟時事通信FBより

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山田方谷

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