念頭所感
令和七年(西暦二〇二五年)を迎え、
我が腹の底にあった予感が、具体的に浮上してきた。
その予感とは、
「東アジアの動乱」と「世界の文明の転換」、
即ち、「不安」と「希望」である。
そして、この「世界の文明の転換」とは、
具体的には、「一神教世界の衰退」と「多神教世界の復活」だ。
しかも、「多神教世界の復活」の為に、
地球上でその先導の盟主となりうる国は、
近代国家でありながら、
民族誕生の太古からの神話と
総ての人々が皆家族だという八紘為宇の建国の志を
現在に継承して維持している世界唯一の国即ち我が日本である。
とはいえ、我が国は、
この「人類の未来を拓く」という役割を自覚しながら、
眼前に迫る
「東アジアの動乱」
という深刻な試練を克服しなければならない。
振り返れば、我が国は、
十九世紀の半ば、
四方の海から迫る帝国主義の外患に対処する為に
徳川幕藩体制を克服して近代国家体制を築いた。
その明治維新の過程において、
清国(支那)とロシアという
海を隔てた西の大陸国家と戦って勝利し、
次ぎに、二十世紀の半ば、
アジア・アフリカを支配する帝国主義列強との相剋の中で、
人種差別撤廃とアジアの植民地解放を掲げて戦った。
そして、
「戦闘」では敗北したが
「戦争」では勝利した。
即ち、世界の欧米列強の植民地支配と人種差別は終焉し、
我が国は戦争目的を達成したのだ!
そして、まさに現在、
ロシアはユーラシアの西でウクライナと戦っている。
従って、アジアの東では静かである。
しかし、これ、丁度明治維新期に、
ロシアはウクライナのクリミア半島のセバストーポリ要塞攻防戦でイギリス・フランスの連合軍と戦っていて極東に出てこられなかったのと同じだ。
ウクライナとの戦争を終えれば、十九世紀後半と同じように、
ロシアは必ず中共と連動して東アジアに出てくる。
その中共は、まさに現在、
南シナ海と東シナ海の制海権を
掌中に入れるための橋頭堡として、
南ではフィリピンの南沙諸島(スプラトリー諸島)を占領し、
北では我が国の尖閣諸島を占領しようとしている。
本年一月一日元旦の読売新聞朝刊は第一面で
「中国 宮古海峡で封鎖演習」、「台湾有事想定か 政府警戒」と大書しているが、
過小評価である。
中共は、尖閣を橋頭堡として、
台湾を飲み込み、
同時に、
沖縄本島を飲み込もうとしているのだ。
沖縄本島を飲み込めば、
「全日本」は中共の掌中に入る。
中共は大東亜戦争における日本屈服の過程を検証して、
明確にそう判断している。
これ、現在只今が、
大東亜戦争敗北以上の我が国の危機ではないか!
よって、我が国政府は、他人事のように
「台湾有事」を想定して
海上保安庁の巡視船を強化するのではなく、
「全日本有事」を想定して、
一隻で百隻の巡視船を一挙に沈めることができる
イージス艦の建造と
空母機動部隊の創設を急ぐべきである。
同時に、我等日本民族は、
百五十年前に、国家的危機を克服するために
「徳川幕藩体制」を解体して
明治維新を為したのと同様に、
まさに現在、
眼前にある国家的危機を克服するために
「アメリカ製戦後体制」を解体して
「明治新政府」と同様の
軍隊を保持する「令和新政府」を
創建しなければならない。
よって、次ぎに、
この眼前の危機克服は何の為に必要か、
その大義に関して述べる。
現在の世界で広く用いられる元号は、
キリスト教を生み出した
イエス・キリストの誕生を起点としたものだ。
新年の令和七年は、世界では紀元二〇二五年、
即ち、キリスト誕生から二〇二五年が経ったということだ。
この世界の元号の起点は、
ローマ帝国がキリスト教を国教にしたことに淵源する。
皇帝テオドシウスが
西ローマ帝国と東ローマ帝国を完全に支配していた時の
紀元三八八年、テオドシウスはローマの元老院に、
ローマ人の宗教として
「一神教のキリスト教をローマ帝国の国教とする」
と決定させた。
それから、広大なローマ帝国内で、
驚くべきことが起こる。
それは、首都ローマだけでも二十八もある公共図書館を含む
帝国領土内の膨大な数の図書館の閉鎖である。
何故なら、ローマ帝国内の図書館は、
多神教の神々の文明である
ギリシャ・ローマ文明を伝える文書を所蔵していたからだ。
そして、紀元三九三年、
ローマ帝国は神々の祭典であった
オリンピアード競技会の全廃を決めた。
よって、この年を以て、西洋の歴史家は、
ギリシャ・ローマ文明の終焉とする。
同時にローマ帝国内の諸民族つまり現在のヨーロッパ諸民族は、
先祖から伝えられていた民族誕生の神話を奪われた。
即ち、キリスト教の宣教師によってヨーロッパの諸部族に対して開始された布教活動は、
彼らの父祖から伝えられた神々の神話を否定することであった。
宣教師は、彼らの前で、
彼らの先祖が、神が宿ると信じていた大木を切り倒した。
このようにして、彼らは
「民族の神話」即ち「民族の記憶」を壊されて喪失した。
これが、一神教世界の特色である。
そして、
この一神教の世界となったヨーロッパ諸民族は、
異端者を火焙りにする魔女狩りの暗黒の中世を経て、
十六世紀初頭には、
スペインとポルトガルが、キリスト教の総本山ローマ教皇の元で、地球を二分してそれぞれの植民地支配の勢力範囲を決めるトリデシリヤス条約とサラゴス条約を結び、
「地球の植民地化」を開始した。
この結果、四百年後の二十世紀初頭には、
日本を除くアジアとアフリカは、
ほとんど欧米のキリスト教圏諸国の植民地となっていた。
しかし、一神教同士の確執は、
旧約聖書の「民数記第三十一章」にある通り、
神の命令によって戦うのであるから旧約聖書の昔から
現在のイスラエルとイスラム過激派の戦いに至るまで熾烈であり絶えることはない。
これが、一神教の宿痾である。
一神教世界では、アメリカの例で明らかなように、
原子爆弾の使用も熱狂的に正当化される。
私西村が、防衛政務次官の時に、
「日本も核兵器を保有するか否か、検討すべきだ」
と発言したとき、
アメリカ本国にいる全く知らないアメリカ人から送られてきた手紙には、
「もう一度、お前達に原爆を落としてやる、
何故なら、
お前達は常に悪く、アメリカは常に正義であるからだ」
とあった。
この論理は、アメリカによるインディアン掃討の論理であり、
F・D・ルーズベルト大統領を
対日戦争に執着させた狂人の論理である。
やはり、今、人類の歴史は、
世界の諸国民の共生と幸せの為に、
一神教から本来の多神教世界への
「文明の転換・文明の回帰」を求めている。
我が国は、この「人類文明の回帰」の先導國になるために、
欧州から最も離れた極東にあって、
十九世紀半ばまで、「孤高の日本」を維持してきたのだ。
フランスの社会人類学者であるクロード・レブィ=ストロース(一九〇八~二〇〇九年)は、日本で次の通り語った(同人著「月の裏側」)。
「・・・われわれ西洋人にとっては、
神話と歴史の間にぽっかりと深淵が開いている。
日本の最大の魅力の一つは、これとは反対に、
そこでは誰もが歴史とも神話とも密接な絆をむすんでいられるという点にあるのだ。」
そこで最後に、
一神教世界における
信者であるか信者でないかを決定する基本的な出発点と、
これとは全く次元が違う
多神教世界である日本の特色を記しておく。
一神教世界の国々では、
人が、信者であるか信者でないかを決定しなければならない。
その為に、本人に神を信じるか信じないかを答えさせる。
「信じます」と誓って洗礼をうけた者が信者であり、
誓わない者は異教徒である。
欧米世界では、その者が神を信じるか、信じないかで、
決定的に人を分別する。
中世では、信じない者を火炙りにした。
しかし、日本では、そのような発想はない。
何故なら、人が、人知を超える神を
信じるか信じないかを決定するなどという大それたことを
する必要を感じないからだ。
以前、確かNHKが、
玄界灘に浮かぶ沖ノ島周辺に船を浮かべて沖ノ島を取材していた。
現在も沖ノ島は神々の島とされ、
禊ぎをした特定の人々しか上陸できない。
その時、NHKの記者が、
沖ノ島周辺海域で漁をしている漁師に
「沖ノ島に神々がおられると信じているのですか」
と質問していた。
すると、漁師は、
何を聞いているのかという表情をしてすぐに答えた。
「神さんがおられるんやから、
わいが(自分が)
信じるも信じんもないやないか。」
この漁師の答えを聞いたとき、
私は、日本では、太古の日本人も、現在の日本人も、
時空を越えて同じ心情で生きていることを実感した。
そして、クロード・レブィ=ストロースの言う通り、
西洋人は、一神教によってこの心情が剥奪され、
両者の間にぽっかりと深淵が開いているのだと得心した。
欧州においては、芸術の分野において、
暗黒の中世から脱して、
ギリシャ・ローマ文明の
明るく写実的な絵画や彫刻を復活させたことを
ルネッサンスという。
そうであるならば、
二十一世紀が中期から後半期に入らんとするこれから
日本が世界の諸民族を先導してなさねばならない
ルネッサンスとは、
従来のように、
唯一絶対の神を「信じる」か「信じない」か、
で人を分別することではなく、
あの人この人が、信じようが信じまいが
太古から存在する
ギリシャ・ローマの、縄文の、アフリカの、コーカサスの、
地球上のあらゆる人々のところにいる
神々の再発見(ルネッサンス)である。
即ち、人類のルネッサンスだ。
本稿は、「月刊日本」二月号掲載文に加筆したもの。
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