台湾を肌で感じる旅 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

本年秋の、だらだらとした総選挙から、

選挙後に開会された国会の痴呆の如き状況を観ていて、

思い描いた情景は、

鎌倉幕府滅亡後の、「京都の公家社会」だった。

彼ら公家の面々は、西国から京都に迫る足利の大軍団から

如何に京都を守らんとするのか、

考えようともせず、

ただ、自分たちの安楽な生活が続くことだけに執着して

楠正成が建言した足利殲滅の方策を無視し、

彼を湊川の死地に追い払った。


現在も同じだ。

中東、ウクライナに続いて、

我が国が位置する東アジアに

動乱が勃発する可能性大であるにも関わらず、

我が国の国政は、従来通り、

日本国憲法と題する文書の

「平和を愛す諸国民の公正と信義に信頼」

すれば、

「我等の安全と生存」

が保障されると盲信しているが如くである。


そこで、十二月に入り、俄に

「来年に東アジアで動乱が勃発するならば、

今こそ、

台湾の状況そして雰囲気を肌で感じておこう」

と思い立ち、

大阪からの二人と、東京からの二人の合計四人が

台北で落ち合うことにして、十二月十六日朝、

それぞれ、関空と羽田から台湾に向かって出国し、

台湾の桃園飛行場と松山飛行場に降り立ち、

同日午後四時、台北市中山区農安街の「同一大飯店」でメンバー四人が集まった。

そして、「台湾を肌で感じる動き」を開始した。


四年ぶりに台湾を訪れた私にとって、

台湾の風景は、何もかもが新しくなったように思えた。

何故なら、

私が親しくさせてもらった台湾の「日本語世代の人々」は、

総て、今、眼前にある台湾からいなくなっていたからだ。

李登輝先生、蔡焜燦先生を始め、

旧制高雄中学同窓会の皆さん、

ウソのように私の「バネ指」を、

一瞬に針で治してくださった楊応吟先生、

「海ゆかば、水く屍・・・」を涙して歌った

東海岸で会った高砂族の九十歳を越えた旧日本軍将兵、

そして、

総統選挙の時に、ステテコ姿で台北の街を歩いていて、

私が壁に貼ってある馬英九候補のポスターを指さして

「彼を支持しているのか?」

と質問すると、

即座に、日本語で

「ダメ、ダメ、これは、チャンコロ、チャンコロ、だめ!」

と答えたおっちゃんも、

皆、亡くなって天に昇ってしまった。


従って、この度の

「台湾を肌で感じる旅」は、

「台湾の日本人を偲び両国の絆を確認する旅」

になった。


そこで、次ぎに、

お二人の方との、

忘れ得ない情景を記して台湾報告としたい。


台北から電車で淡水に向かっていた時、

左手の湾の向こうに富士山の形をしたひときわ高い山が、

雨雲に囲まれて聳えていた。

そして、李登輝総統が、

懐かしく生き生きと甦った。

李登輝先生は、淡水に近い事務所の窓から、

この山を観ながら、

人差し指で、まっすぐに天を指さし、私に言われた。

台湾の総統になった時、

あの山に登った時のことを、まざまざと思い出したよ。

何故なら、総統の地位の上には、

ただ、天の神が、おられるだけだったからです。


我が国では、学校の卒業式などで「蛍の光」を歌うが、

歌われるのは一番と二番の歌詞だけで、

戦後は、三番と四番の歌詞は無視されている。

そこで、以前、

僕は台湾での会食を終えて別れるに際し、

「蛍の光」の

次の三番と四番の歌詞を歌った。


(三番)

筑紫のきわみ 陸の奥 海山遠く へだつとも

その真心は へだてなく ひとえにつくせ 国のため

(四番)

千島の奥も 沖縄も 八洲のもとの 守りなり

いたらぬ国に いさおしく 守れよわが背 つつがなく


すると、蔡焜蔡先生が、

すっくと立った。そして、言った。

「ダメ、ダメ、歌詞が違うではないか、

日本人のくせに、

間違ってはダメじゃないか!」

そして、

次の通り歌い始めた。その目に涙が光っていた。


(四番)

台湾の奥も 樺太も 八洲の内の 護りなり

いたらぬ国に いさおしく 守れよ我が背 つつがなく


我々、日本国民は、

この台湾を守ることが、

即ち、

日本を守ることだと覚悟し、

決意しなければならない。


西村眞悟時事通信FBより

日本日本日本

日本日本日本





クリスマスに欲しいもの教えて!

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう

クリスマスツリークリスマスベルジンジャーブレッドマントナカイサンタ