誇るべき、我が民族の先祖と歴史!
日本を救った秀吉の切支丹伴天連追放令
近世の始まりとは、ヨーロッパ人が言う「大航海時代」である。
その実態は、
アジア、アフリカ、南北アメリカ大陸の土地と人民の
「大強奪」であった。
彼らは、アジア、アフリカ、南北アメリカ大陸を
元々住んでいた人々、
つまりヨーロッパ人が言う「原住民」から強奪し、
そこを、現在では植民地と呼ぶが、実態は、奴隷大陸にした。
その彼らの支配の実態は、
日本は植民地支配されていないので、実感できないが、
ビルマ(現、ミャンマー)で、捕虜として
イギリス軍の「アーロン収容所」に一年九箇月間収監された
京都大学教授の会田雄次氏が、
捕虜生活で実感した彼らの支配の実態を、
「アーロン収容所」という名著(中公新書)で暴き出している。
次は、その「まえがき」の一節。
「・・・このままでは気がすまなかった。
私たちだけが知られざる英軍の、イギリス人の正体を、
垣間見た気がしてならなかったからだ。
それは恐ろしい怪物であった。
この怪物が、ほとんどの全アジア人を、
何百年にわたって支配してきた。
そして、そのことが
全アジア人のすべての不幸の根源になってきたのだ。」
大航海時代が始まる一四五二年、
こともあろうに、
人間愛を説くキリスト教のローマ教皇は、
ポルトガルに対し、
異教徒を奴隷にしてもよいという許可を与えている。
このようにして、二十世紀まで、
ヨーロッパとアメリカは、
人種差別と奴隷と植民地の存在を当然として世界を支配した。
しかし、十九世紀半ば、
アジアの日本の「原住民」が、国際社会に参入して、
二十世紀に入ってロシアを打倒し、
さらにその四十年後には、
欧米の植民地と人種差別を打破するために戦った。
それから八十年後の現在、
地球に数万年の太古からあった神々の世界(多神教世界)を
再興することが、
ほんとうの「ルネッサンス」であり、
これからの人類の未来を明るくすることになると、
我らの魂が感じている。
二十世紀後半に始まる
この人類史の「文明の転換」という大河の流れは、
極東の多神教の日本から始まり、
いずれ、ほんの千数百年間ほど
一神教世界であったのヨーロッパに至るであろう。
かつて、そのヨーロッパから観れば、
日本は、極東(ファー・イースト)である。
十五世紀の後半から十六世紀の初頭にかけて、
ヨーロッパのスペインとポルトガルの船は、
東ではインド大陸に達し(ブァスコ・ダ・ガマ・一四九八年)、
西ではアメリカ大陸を「発見」し(コロンブス・一四九二年)
一五一九年~一五二二年、
マジェラン一行が西に向かって
イベリア半島から出航して地球を一周して東から帰港して、
地球は丸いと実証した。
我が国には、一五四三年、
ポルトガル人が種子島に来て鉄砲を伝え
さらに、一五四九年、
ザビエルが鹿児島に来てキリスト教を我が国に伝えた。
そして、一五四九年、
ローマ教皇の下でスペインとポルトガルは、
子午線の西経46°37″で、
地球の西の勢力圏を分け(トリデシリヤス条約)
次ぎに一五二九年、東経133°で、
地球の東の勢力圏を決め(サラゴサ条約)、
両国は地球を勝手に二分して各々の勢力圏とした。
よって、ローマ教皇とスペインとポルトガルから見て
日本が一番遠かったから
日本は極東(ファー・イースト)なのだ。
従って、これは、
キリスト教という一神教の勢力圏つまりヨーロッパが、
地球世界を覆うという勝手な前提のなかでの名前である。
そして、ここから始まる近世は、
スペイン・ポルトガルを尖兵として、
後続に、ヨーロッパのイギリス、オランダ、フランス、
さらに小国のベルギーが加わり、
海から南北アメリカ大陸とアフリカとアジアに進出してその地を領有した。
また、この十六世紀の半ば、
モンゴルによる数百年の支配の頸城から脱却して、
始めて全ロシアのツァール(皇帝)となった
イワン四世(雷帝)は
直ちに、ユーラシア大陸北部を
モスクワから陸路で東方に膨張を始め、
以後ロシアは、
一六八九年のネルチンスク条約、一七二七年のキャフタ条約、
一八五八年のアイグン条約を経て、
ついに一八六〇年の北京条約で、
一万キロ東のウスリー以東の沿海州を獲得し、
ユーラシアの西のバルト海から、
東の日本海にまたがる大帝国となった。
そして、ロシアは、直ちに、
沿海州から我が国の樺太に上陸して、
先住する日本人を攻撃して砲台を築き、
カムチャッカから
我が国の千島列島北半分に侵攻して領有した。
これらロシアの東方侵略の尖兵は、
ウクライナを根拠地とするコサックである。
さらに、ロシアは、
太平洋への通路を確保する為に、
軍艦ポサドニック号を対馬の芋崎に強引に入泊させて
陸に兵舎を造り井戸を掘って真水を確保し、
六箇月間も居座った。
また、十七世紀に、大西洋を渡って
北米大陸に上陸を開始した後にアメリカ人となるイギリス人達は、
先住民のインディアンを駆逐しながら
北米大陸を同時期のロシアとは反対に西に膨張を始め、
ロシアと同時期の十九世紀半ばに太平洋に達した。
このアメリカ人を突き動かした西に広がる衝動を
「マニフェスト・デスティニー」(神から与えられた明白で神聖な使命)
と彼らは勝手に言った。
そして、
彼らが、神から与えられたと信じた西進の衝動は
北米大陸に止まらなかった
彼らは更に西の太平洋上のハワイを併合し、
次ぎに、二十世紀になっても、
F・D・ルーズベウト大統領は、
ハワイのさらに西にいる日本民族を
インディアンと同様に駆逐して、
アメリカが東アジアでのヘゲモニーを確保しようとした。
これが、
大東亜戦争(アメリカの言う太平洋戦争)の原因である。
前任のハーバード・フーバー大統領が、
F・D・ルーズベルト大統領を
「戦争を欲する狂人」
と呼んだのは正確に彼の本質を見抜いている。
以上の外に、
勿論、他のヨーロッパ諸国による
アジア・アフリカ・南北アメリカ大陸・オーストラリア等の侵略と略奪があった。
しかし、ここでは、それを詳述せず、
侵略を受けた原住民の
人口の激変に焦点を当てて述べるに止める。
諸兄姉におかれては、
彼らヨーロッパ人の
「新大陸発見」の内実は何であったか察知されたい。
コロンブスがアメリカ大陸に到着(一四九二年)したときの
南米大陸の「原住民」の人口は、
最大推計1億1000万人、
中間推計7000万人、
最小推計4000万人。
そして、
インカ帝国滅亡時の一五七〇年の人口は、
1000万人である。
西インド諸島では、原住民の皆殺し作戦が展開され
現在、原住民の人口よりも
奴隷としてアフリカから送り込まれた黒人の人口の方が多い。
北米大陸では、コロンブスが到着したとき、
原住民即ちインディアンは、
200万~500万人いたと推計される。
しかし、一八九〇年、
ウンデッド・ニーでスー族三百人が虐殺されるまでに、
北米インディアンの人口は三十五万人に激減していた。
また、F・D・ルーズベルト大統領の叔父の
セオドア・ルーズベルト大統領は、
十九世紀の末になっても、
「良いインディアンとは死んだインディアン
とまでは言わないが
十人のうち九人までがそうである」
と語った(以上、平間洋一著「日露戦争が変えた世界史」芙蓉書房出版参照)。
しかし、「インディアンと戦う西部劇」で有名になった
バッファロー・ビル(本名 ウイリアム・コディ)は、
一九二五年、ワシントンにおいて
「動物記」で有名な、アーネスト・シートンと食事をして、
次のように語った(アーネスト・シートン著「レッドマンのこころ」)。
「私は何度も遠征隊を率いてインディアンと闘ったが、
そのたびに、わが身を恥じ、我が政府を恥じ、
わが軍の旗に恥ずかしい思いをしたものです。
正しいのはいつも彼らインディアンであり、
間違っているのはいつもわれわれアメリカ軍だったからです。
彼らが協約を破ったことは一度もありません。
我々が協約をきちんと履行したことも一度もなかったのです。」
さらに、このキリスト教圏のヨーロッパの近代における
アジア、アフリカへの拡大期で特筆すべきことは、
ヨーロッパ人による奴隷売買である。
彼らは、「原住民」を、
野生動物を捕らえるように捕らえて奴隷として売買した。
アフリカ大陸からは、ヨーロッパ人によって、
十六世紀に九〇万人、
十七世紀には三〇〇万人、
十八世紀には七〇〇万人
そして、
十九世紀になっても四〇〇万人の黒人が
奴隷として南北アメリカ大陸に売られた。
その上で、
日本人が、忘れてはならないことを指摘しておく。
この十六世紀中期から
我が国が鎖国する十七世紀前半までの約九十年間に、
キリスト教宣教師と一対となって来日する
武器商人と奴隷商人によって、
九州を中心とした地域から五十万人にのぼる日本人少女が、
奴隷として主にヨーロッパの奴隷市場に売られていったのだ。
一五八二年(天正一〇年)、
北九州からキリシタン大名の子弟の、
十三歳から十四歳の四人の少年達が、
イエズス会巡察使のアレッサンドロ・ブァリニヤーノに連れられ
欧州に出発し、
ローマ法王に謁見して、
八年後に帰国した。
天正遣欧少年使節である。
彼らは、ヨーロッパの奴隷市場で、
同じ九州の同胞の少女たちが裸にされて
家畜のように売られているのを目撃している。
時は、戦国時代。
我が国の各大名が保有する鉄砲の総数は、
全欧州の鉄砲よりも多かった。
しかし、
我が国には銃弾を発射する為の火薬がなかった。
そこで、切支丹伴天連と一体になって来日している
武器商人と奴隷商人は、
戦国大名に、
「火薬一樽」と「少女五十人」を
交換することを持ちかけた。
少女たちは、
大名が一樽の火薬を受け取ると同時に、
奴隷商人に渡され、
直ちに奴隷として裸にされ、
鎖をつけられて
船艙に閉じ込められ欧州に運ばれた。
日本人の少女たちは、
聡明で従順であったので、
欧州の奴隷市場で高値で売れたという。
この時期、九州平定を終えた豊臣秀吉が、
北九州の筥崎に滞在していて(一五八七年、天正十五年)、
切支丹大名の領地を見聞した。
そして、領地内に古くからある神社仏閣が切支丹宣教師の指示で破壊され
キリスト教の教会が建てられ、
土地が切支丹に贈与されているのを見た。
切支丹達は日本で信者を増やし領地を拡げていたのだ。
さらに、
領内の少女たちが
奴隷として伴天連達に売られて海外に運ばれていた。
それを観て知った秀吉の慧眼は、
来日している切支丹伴天連と欧州人の本質を見抜いた。
そして、筥崎において、
直ちに「切支丹伴天連追放令」を発する。
この時期、アジア・アフリカで
珍しい貢ぎ物をもって擦り寄ってくる切支丹伴天連と
奴隷商人と武器商人の一団の無法と危険性を
直ちに見抜いた国家指導者は、
豊臣秀吉のみである。
次ぎに、秀吉の「切支丹伴天連追放令」の冒頭を記しておく。
日本ハ神國たる處
きりしたん国より 邪法を授候儀
太以然候事(まことに以てけしからん)
この冒頭の
「日本ハ神國」との確信は、
二百五十年前に北畠親房が記した
「神皇正統記」の冒頭
「大日本は神國也」と同じである。
即ち、秀吉は北畠親房と同じ、
強い、「尊皇の志」をもった英傑であった。
そして、この秀吉の「尊皇の志」が、
日本を救った。
この時、南の「フィリピン」が、
スペインのフィリップ国王の名をとって
「フィリピン」と命名されたように、
スペインかポルトガルの国王の名が
日本の「国号」になっていたかもしれないのだ。
一樽の火薬に目が眩んだキリシタン大名が、
増え続けておれば、そうなったであろう。
この豊臣秀吉の死後、
豊臣を打倒した徳川の時代が、
明治維新まで二百五十年も続いたので、
現在、我が国の歴史教科書では、秀吉は軽く書かれている。
しかし、同胞の少女たちが、
ヨーロッパ人に裸にされて鎖につながれ、
奴隷として海外に売られていることを知り、
直ちに伴天連追放の命令を発した秀吉は、
世界史においても、現在においても、
傑出した国家指導者である。
現在の我が国の総理大臣を見よ!!
北朝鮮に十三歳の少女を始め
多くの日本人が拉致されたことを知ったとき、
怒髪天をついたか!?
拉致された彼女や彼を救出することが、
総理大臣たる自分の最大の責務だと直感したか?!
反対に、却って、日本人拉致を足場にして、
日朝国交樹立の功名を得ようと
北朝鮮の独裁者に首脳会談のセットを頼み、
そこで、北朝鮮の
「拉致した日本人少女達は既に死亡している」
というウソに飛びつき、それを信じて、
北朝鮮による日本人拉致はなかったかの如く、
それを首脳会談の課題から外し、
卑屈にも、北朝鮮に、
戦前の日本の朝鮮支配を
「深く反省して謝罪」してみせて、
まさに現在、
核ミサイルを開発している無法な独裁国家に、
その開発費となる巨額の資金を渡す約束をして、
我が日本を、
「世界最大のテロ支援国家」
に転落させる寸前までもっていったことを!!
首脳会談成功!
と思い込んで得意になり、
卑しいかな!
まことに、卑しいかな!
北朝鮮から、トラック二台分の松茸を
「おみやげ」に貰って、
それを、
神聖なる我が政府専用機・エアーフォース ワンに積み込み、
得意になって帰国してきたのだ。
これに対して、
四百年前の極東アジアの豊臣秀吉は、
当時のキリスト教圏を世界の中心とする
ヨーロッパ主体の国際世界において
断乎として切支丹伴天連を追放した。
これ、秀吉は、記憶され、特筆されるべき、
「日本の英傑」ではないか。
現在の我々は、
この豊臣を倒した徳川の、
江戸時代というあまりにも長い支配のなかで、
秀吉が奴隷として売られていく
「同胞の無名の少女」を
直ちに救おうとしたことを知らされず、
世界史における秀吉の存在を観ていない。
徳川家康は、
豊臣家を滅ぼした大阪夏の陣の時(一六一五年)には、
未だ生きていて出陣していた(翌年死亡)。
そして、大阪城が落ちた慶長二十年五月七日、午後四時頃、
現在の天王寺付近の本陣にいた。
その時、
大阪方の真田幸村らの最後の決死の突撃による猛攻を受け、
命からがら三里も逃げて助かった。
その時、家康をおんぶして逃げたと伝えられる久保彦左衛門は、
家康が、武田信玄に鍛えられた武田の騎馬軍団の猛攻に
小便を漏らしながら敗走した
三方が原以来の危機だったと回想している。
しかし、家康は、
この大坂夏の陣での真田勢の猛攻によって
殺されたとも言われている。
堺にある南宗寺には、
昔建てられた「徳川家康の墓」が、今もある。
とはいえ、徳川は、この大坂夏の陣に勝利し、
京都の後水尾天皇と公家達が
夜中に、紅蓮の炎を上げて燃え続ける大阪城を観ることが、
尊皇の志の篤かった豊臣の徹底的な滅亡を知り、
徳川に天下が移ったことに納得する絶好の機会と思った。
事実、この時、
十九歳の後水尾天皇は、関白以下の公家と共に、
皇居の屋根に登り、
南西の彼方の天を、真っ赤にそめて燃える
大阪城の紅蓮の焔を御覧になっていた。
その上で、徳川は、
さらに、皇居に豊臣の滅亡を知らす徹底的な手を打った。
それは、縄をかけられた大阪方の落ち武者を、
連日、大阪から京都の六条の河原まで歩かせて、
そこで首を打ち落とし、
京都から伏見に至る十キロの街道に沿って台を設け、
首級をその台の上に晒すことだった。
その台は、十六列あり、
一つの列には一千余の首が晒されていた。
時は暑くなり始めた五月、
伏見から北に十キロにわたって晒された
豊臣方の一万六千を超える首と、
六条河原の同数の胴体で、
天皇のおられる京都の町は
吐き気をもよおす屍臭に覆われたであろう。
このようなことを、
天皇のおられる京都に仕掛けた者は、呪われる!
従って、徳川は京都から遠く離れた東に行った。
家康は、夏の陣で真田の猛攻で殺されていなかったとしても、
翌年、駿府で死んでいる。
遺体を駿府に運んだとも考えられる。
また、後水尾天皇のお后(きさき)は、
家康の息子の徳川秀忠の娘であるが、
皇后から、男子は生まれなかった。
従って、徳川の血は、皇室に入っていない。
これに対して後水尾天皇は、
皇居の建物から降りて
地面に足をつけること自体が「行幸」になるとして、
京都所司代に行幸の許可を貰わねばならないという
徳川幕府の定めた「禁中並公家諸法度」があるのに
祇園の遊郭を含めたいろいろな場所に行幸され、
幾人かの女性に男子を産ましておられる。
この異色の天皇を
監視する徳川幕府方の忍者・隠密に対抗して、
この天皇を密かにお守りして、
京都所司代を無視した行幸の安全を確保し、
また、徳川秀忠の娘である皇后が、
男子を産まないような、
恐ろしい呪いを含めた手を打つ、
陰の「特殊集団」即ち「天皇の隠密」こそ、
「八瀬童子」だったと言われている。
この「後水尾天皇の世界」に、さらに興味のある方は、
十六歳の若き後水尾天皇と天皇の隠密、八瀬童子を書いた
隆 慶一郎著「花と火の帝」(日経文芸文庫)を、お読みいただきたい。
後水尾天皇は、慶長元年(一五九六年)にお生まれになり、
十六歳で天皇に即位された後、
十九歳の時に前記の通り大坂夏の陣を目の当たりに観られた。
そして、徳川幕府が、
天皇と皇族を取り締まるために制定した
「禁中並公家諸法度」の桎梏と戦われ(紫衣事件)、
また、三代将軍家光の乳母の春日局が
宮中の慣例を無視して
無官のまま参内したことを不問とはされず、
一六二九年、三十四歳の時、突如退位され、
以後、六歳の明正(女性)、後光明、後西、霊元の
四人の御自分の子供達が天皇である間の五十一年間、
院政を敷かれた。
この後水尾天皇の御代の間、
二百年後の「王政復古の大號令」と
「明治維新」の思想的バックボーンを形成する
水戸学の徳川光圀と
乃木希典将軍が殉死前に
昭和天皇にお渡しした「中朝事実」を著した山鹿素行、
また山崎闇斎や
「靖獻遺言」を著した浅見絅齋が
次々と生まれていることを記しておきたい。
また後水尾上皇が、徳川幕府の監視を物ともせず、
比叡山山麓に修学院離宮を造営され(一六五五年)、
日本文化の粋を現在に遺してくださったことは、
まことにありがたく印象深い。
私西村は、京都における学生時代の最後の冬、
その修学院の民家に下宿していて、孤独な日々をすごし、
暖かい太陽の日差しのもとで、
よく、修学院離宮の近くの枯れ野に、
一人、寝転んで空を見上げ、無限の安らぎを感じた。
次ぎに、我が国に渡来した外国人は、
日本人を如何に見たか?
を記しておく。
十六世紀後半から
我が国の徳川幕府が鎖国するまでの約八十年間は、
ヨーロッパのキリスト教宣教師や
それと結託した奴隷商人や武器商人などの各種商人と船員達
そして
異郷の文物を物色して一攫千金を夢見る正体不明の者どもが
我が国に来日した時期である。
宣教師達の目的は、
日本以外のアジアやアフリカと同様、
日本人を信者にし、果ては日本を征服して
ローマ教皇の領地にして教皇陛下に差し上げることである。
従って、
切支丹伴天連達は、その征服の為の偵察の役割を担っていた。
しかし、彼らの
本国の国王やローマ法王宛の報告には、
日本征服を薦めたものは一通もなく、
異口同音に、
日本は、征服の可能な所ではないと報告している。
その時、日本は、自力で鉄砲を量産していて、
その数は全欧州の鉄砲の数よりも多かったのだ。
それ以上に、
彼らが、日本に上陸して、
先ず第一に、驚いたことは、
日本人の民度が、
ヨーロッパの本国より遙かに進んでいたことだ。
彼らは、日本の街中で信じられない光景を見た。
それは、
日本の街の広場に立てられた支配者の「立て札」に、
日本の民衆が群がり、
それを読んでいたことだった。
即ち、彼らは、
一般の民衆が文字を読むことが出来る世界を
日本で始めて見たのだ。
私西村が、小学生だった昭和三十年代は、
日本に欧米からの観光客増えだしたころだ。
その時、聞いた話を思い出す。
それは、欧米人が日本に来て驚くのは、
先ず、日本では、
浮浪者が路上に座り込んで新聞を読んでいることだった。
十六世紀も十七世紀も、そして、二十世紀も、
欧米では
浮浪者が路上で字を読んでいる姿など、なかったらしい。
また、当時も日本人は、
箸を使って手を汚さずに食事をしていた。
しかし、欧米人には、未だナイフやフォークがなく、
彼らは、手で肉を引きちぎり、
血だらけの手で食事をしていたのだ。
また、来日した切支丹伴天連と日本の僧侶が、
観衆の前で宗教論争をしたことにも注目しなければならない。
これは、日本人に、
西洋人への劣等感は微塵もなく、
論争をする余裕と自信が、
日本側にあったということだ。
一五三二年にリスボンで生まれ、
一五九七年に長崎で死んだポルトガル人の
宣教師ルイス・フロイスは、
「日本における布教の歴史を記録しておくため」に
「日本史」を執筆した。
そのなかに、フロイスが、一五六九年(永禄一二年)、
織田信長の前で
日本人僧侶と宗論をたたかわせたことが記述されている。
論争を見るために集まった観衆は
「多数の諸侯、高貴な殿たちと、
充満した貴人ら総勢三百人くらい」だとある。
この「日本史」の要点を抜粋した
川崎桃太著「フロイスの見た戦国日本」(中公文庫)によると、
フロイスに「論破された僧侶は、・・・ついに怒り狂い、唇を噛み、歯ぎしりをし、手足を震わせ・・・刀を抜いて
『しからば予は汝の弟子ロレンソをこの刀で殺してやろう。
その時、人間にあるという汝が申す霊魂を見せよ』
と言って鞘から刀を抜き始めたとき、
信長およびその場にいた多くの貴人達が立ち上がって、
彼を後ろから抱き、刀をその手から奪い」停めた。
とある。
しかし、戦国時代の日本において、
織田信長の前で
僧侶が刀を抜くなどあり得ない。
仮にそんなことをしても、
信長およびその場にいた多くの貴人が
立ち上がって彼を後ろから抱いたりはしない。
信長と多くの貴人は、座ったままで、
僧侶は、信長の家来によって、
直ちにその場で首を刎ねられただろう。
私西村が、教えられて知っている話は、
ルイス・フロイスの話とは逆だ。
問い詰められ、
「唇を噛み、歯ぎしりをし、手足を震わせた」のは
フロイスである。
僧侶は、こう言ってフロイスを問い詰めたと教えられている。
「オーオー、よーく、分かった。
貴公は、全知全能の唯一の神が、
地球をはじめ、貴公も、そして我等も、
総てのものを造られたと言うのだな。
そうならば、尋ねる。
全知全能の唯一の神が、
この全世界と我等を造ったというならば、
何故、その全知全能の神を、
貴公等だけが知っていて、
我等は今まで
知らなかったのか?」
次ぎに、彼らは、
日本人が常に軍事訓練をしていることに注目した。
しかも、前記の通り、日本人が持つ鉄砲の総数は、
当時の全欧州にある鉄砲の数より多いのだ。
よって、ある伴天連の本国への手紙には、
日本人は、
常に軍事訓練をしているので
皇帝陛下の征服の対象にはなり得ません。
日本よりも支那大陸が、
皇帝陛下の征服の対象になり得ます。
と書かれている。
ここで思い当たるのは、
この十六・十七世紀の切支丹伴天連の日本報告と
その三百年前に日本に侵攻しようとした
蒙古の頭目フビライの使者帳良弼の
日本報告の結論が、
見事に同じだと言うことだ。
帳良弼は、
フビライの使者として文永八年(一二七一年)来日し、
二箇月間、日本に滞在して帰国し、
フビライに対面した。
そして、フビライに日本を討つべきか?
と問われると、
彼は、簡潔に答えた。
「撃つ勿れ」と。
その上で、唖然とするフビライに次の通り説明した。
「私がしばらく日本にいて観察したところによりますと、
日本人はまず狼の如く勇ましく、
人を殺すことが好きです。
礼儀がありません。
日本は、山や川ばかりが多く、
農地や桑畑がありません。
こういう人間どもを支配しても使いものにならず、
こういう土地を獲得しても富が増したことになりません。
しかも海を渡らなければならないのに、
風の吹き方が不安定で、どんな損害が生ずるか知れません。
こんな處に出兵するのは、
有用な人間で底なしの谷を埋めるようなものです。
日本を攻撃してはいけません。」
しかし、フビライは日本に出兵した。
そして、蒙古の軍団は、
日本軍の近海撃滅作戦によって、
ほぼ博多の海岸付近で全滅した。
また、私が、
このフビライの使者の報告を読んで思い浮かぶのは
約七四〇年後の日露戦争の時の
明治三八年一月末の日本軍とロシア軍の黒溝台の会戦における
ロシア軍の報告である。
この会戦は、雪が降る極寒のなかで
少数の日本軍左翼に
二・五師団のロシア軍の大軍団が襲いかかり、
日本軍は全滅が迫る中で、
かろうじて兵士一人一人の鬼神も退く猛反撃によって
ロシア軍を退却させた戦闘であった。
この戦闘のロシア軍側の報告には、
「突っ込んでくる日本兵は、
一人一人、狼のように凶暴だった」
と書かれている。
以上の通り、
蒙古とロシアという
同じユーラシアの大平原で生まれ育った者達にとっては、
決死の覚悟で突っ込んでくる日本兵は、
狼に思えるのであろう。
現在、絶滅した日本狼の剥製を保持しているのは
イギリスの大英博物館と和歌山県である。
両者の保有する日本狼は、同じ明治三七年ころ、
同じ奈良の大台ヶ原付近で捕獲された狼である。
和歌山の海南市の博物館で一年に一度展示される
その日本狼の剥製を見に行ったが、
大陸の大型ではなく中型の狼であったが、
すぐ近くに顔を近ずけて対峙してみると
犬には感じない異様な恐ろしい力を感じ、
山中でこいつと遭遇すれば、
間違いなくやられると感じた。
また、昔の人達が、
狼を「山の神」と言った理由も分かる。
狼は、
「山の生態系のトップ」に君臨していた。
その狼を絶滅させた我が国の山林原野では、
鹿と猪が増えすぎて山林が破壊され、
報道によると、伊吹山の斜面などは、
丸坊主になって土砂崩れが起こっている。
私は数年前に、
尾瀬ヶ原と奈良の大台ヶ原で鹿の群れを目撃している。
最後に、今まであまり触れていない
徳川家康について、
最近になって知ったことを記しておく。
この話は、家康在世中の日本の力と存在感が
欧州諸国の勢力圏を、
左右するまでに至っていたことを示すものだ。
ある日、私は、
高校の教員として、長年日教組との闘争を繰り返し、
現在は、社会教育者として有志を集めて勉強会を主催している
南木隆治さんと話していて次の通り呟いた。
インドネシアは、
赤道直下の東西約五千キロに及ぶ広大な
世界最大の群島国家である。
そして、十六世紀以来、オランダの植民地であった。
しかし、日本軍の今村第十六軍司令官は、
ジャワ島に上陸して十日間で、
インドネシアを数百年も植民地支配をしていた
オランダ軍を降伏させ
インドネシアは独立した。
オランダは、今も昔もヨーロッパの小国だ。
何故、この小国が、十六世紀に、
遙か二万キロも離れたアジアの赤道下東西五千キロの
世界最大の群島国家インドネシアを植民地にして
以後、三百五十年も支配できたのであろうか?
この問いに対して、尊敬すべき南木さんは、言った。
僕にも疑問だった。
しかし、最近、オランダの当時の公文書に、
明確に、オランダのインドネシア支配は、
日本の徳川家康の援助によって可能となった、
と書いてあるのを知った。
オランダのインドネシア支配は、
徳川家康の助力によって可能となったのだ!
オランダの公文書に書いてあるからこのこと真実であろう。
これで、
島原の乱の時(一六三七~三八年)、
オランダの軍艦が、
海から原城を砲撃して徳川軍を援助した理由が分かった。
以上の通り、
先に豊臣秀吉の視野の広さを記したが、
徳川家康の目も、
欧州列強の力と動向
そして遙か日本から五千キロ南の赤道直下の
インドネシアとオランダの状況を
観ていたのだと思う。
やはり、
日本の近代を切り開いた
織田信長と豊臣秀吉と徳川家康の視野は、
広大、幽遠であり、当時においても現在においても、
常人の域を超えていたのだと思う。
この歴史と誇りを持つ日本が、
これからの二十一世紀の人類史を、
地球の全民族の幸せの為に
転換させる使命を与えられていることを、
自覚する時が来た!
印象に残っているヒーローは?
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