北海道 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 


(1)昭和四十年の初夏、

高校の修学旅行で初めて北海道を訪れた。

オホーツク海を眺めて、感慨無量だった。

その時、修学旅行に同行していた、

澤田義一教頭が、

オホーツク海を見ていて浮かんだ詩を、大声で詠んだ。

 

オホーツクの 海を眺めて 言うことなし

 日本のものは 日本にかえせ~!


我々生徒は、どよめき、拍手した。


(2)昭和四十三年八月、

一人で稚内東方沖に浮かぶ礼文島に渡り

島の南端の桃岩から西海岸を、

一人の人にも出会うことなく北に向かって歩き続け、

島の最北端のスコトン岬に立った。

そして、岬の北端から海を跨いで突き出た岩の上に直立し、

樺太方向に向かって叫んだ。


コラー! ロスケー! 樺太をかえせー!


その時、

今に至るも強烈に瞼に残っているのは

スコトン岬の先端に、

北を向いて朔風のなかに立っていた鳥居だ。

今でも、

誰が建てたのか分からないあの最北端の鳥居を思い出し、

あの鳥居は、北のロシアに向かって

日本民族の思いを、無言で伝達していたのだと思う。


そこで、申しておく。

「戦後体制に安住する日本政治」は、

北に向かって当然主張すべき「領土問題」があることを忘れている、と!

我が国は、ロシアに対して、

国後、択捉、歯舞、色丹の四島返還と共に

全樺太の返還、全千島の返還を要求すべきである。


相手は、「ロシア」である。


よって、我が国も、「ロシアの基準」に合わせて、

領土返還要求を続けるべきだ。

今、プーチンは、

クリミアはロシアのものだとして、

クリミアをウクライナから奪っている。

それが、「ロシアの論理」ならば、

全樺太、千島全島は、奪還すべき日本の領土である。


幕末の一八五三年(嘉永六年)八月、

即ち、アメリカのペリーが浦賀に来航してから一ヶ月半後に

ロシアのプチャーチンが長崎に来航し、

第一に我が国との国境の確定、

第二に我が国の開港と貿易、

を求めた。

その時、

日本の幕府代表の川路聖謨は、

ロシアに対し、根拠を示して、我が国の領土は、

北海道、樺太、千島列島全島そしてカムチャッカ!だ。

それ故、樺太と択捉には、

昔から我が国の番所が置かれているのだ、

と主張した。


しかし、二年後の一八五五年(安政元年)、

下田で日露通商友好条約が調印され、

ウルップ以北の千島列島はロシアに属し、

択捉以南は日本に属すること、

樺太は、

境界を分かたず是まで通りとすること、

つまり日露雑居地となった。

これ、我が国の完全な外交的敗北である。


しかし、相手はロシアである。

我が国も、ロシアのプーチンが

この度、クリミアを奪った論理を以て、

樺太をロシアから奪還しえる好機が見えたならば、

何ら躊躇うことなく樺太を奪還すべきである。


(3)北海道開拓について、

私は、北海道では、札幌よりも多く旭川を訪問している。

旭川市は、東方から南にかけて

北海道最高峰の煙を吐く

朝日岳(標高2291メートル)を擁する大雪山系に囲まれ、

南から西に円弧を描いて北までは

豊かな山林をもつ連山に囲まれている。

従って、その山々のなかにある旭川市街地と広大な農地は、

周囲を豊かな山林をもつ山々に囲まれた

「平坦な盆地」を、

開拓して出来上がったように思える。

しかし、

明治二十年代の屯田兵の入植当時の写真を見て驚いた。

現在の「旭川市街地と広大な農地」は、

すべて,

昼なお暗き大森林地帯であった。


これをどうして、現在の姿にしたのであろうか?

このことを疑問に想っている時、

比布町で開拓開始当時の開拓村での集合写真を見た。

それは、数名の昔の作業服姿の男達が、

地上から2メートルか3メートルの高さのところで切断された

直系2メートルほどの大木の林立する中に立っている写真だった。

開拓者達は、

雪が積もっている極寒の冬、

大木を雪の上に倒し、それを雪の上の橇に載せて除去し続けた。

これを十数年繰り返して太古からの森林を、

現在の平地に甦らせたのだ。

この大森林のなかに設けられた屯田兵村に、

夫である屯田兵と共に入植した主婦達は、

入植後二十数年して初めて、

自分たちの村の近くに山があることを知ったという。


現在の旭川市街地と広大な農地を眺めながら、

明治時代の初期は、ここが大森林であったと思えば、

日本民族の開拓力の凄まじさをしみじみ感じる。

この開拓時の様子は、

旭川神社に建てられた「旭川兵村記念館」に入れば

実感できる。


以上、北海道旭川の開拓に関する

日本人の驚くべき力量を実感した。

そうであるならば、

同時期、即ち十九世紀から二十世紀における

日本人の

千島、樺太、満州開拓の努力と偉大な成果を忘れてはならない。


(4)サイパン島の開拓

この旭川訪問直後に、南のサイパンとテニアンを観に行った。

サイパンにおける慰霊と、

テニアンのB29爆撃機に原子爆弾を搭載して

広島と長崎に投下するために飛び立った滑走路に立つためだった。

同時に、

特にサイパンにおける日本人入植者の開拓の跡を眺め点検した。

ジャングルの中に

日本人が造った発電所や製糖工場の廃墟があった。

そして、ジャングルの中に、鉄道のレールが

地上から1~2メートルほどの高さに木々に押し上げられて続いているのを見た。

日本人は、サイパン島で発電して砂糖や塩を造り、

島を一周する鉄道を建設していたのだった。

その工場を建設し鉄道のレールを敷くために、

日本人は、

サイパン島の熱帯ジャングルの木々を切り倒して平地にし

現地の人々の雇用を生み出していった。

しかし、日本人は、昭和二十年八月の敗戦後に去った。

そして、日本人の後に来たアメリカ人は、

日本人の造った工場や鉄道を、ジャングルに埋もれさせた。

アメリカは、現地人を

北米大陸における

「居留地に住まわせたアメリカインディアン」と

同じようにしか見ていなかった。


以上、日本列島の

北方と南方の地域における十九世紀から二十世紀の

「日本人の開拓」に関して思ったことを記してきた。

さらに、そこに、

同時期の南米大陸特にアマゾンにおける

「日本人の開拓」の実績を加えて判断すれば、

近現在における

アジアやアフリカやアメリカ大陸の、

最大の略奪者は欧米諸国人であり、

最大の開拓者は

日本人ではなかろうか、と思うのである。


西村眞悟時事通信FBより

日本日本日本


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