ノモンハンでソ連と戦った
二万の日本軍将兵が、
九年後の昭和二十年八月、
北海道を守った。
前の時事通信で、ロシアは、
西はバルト海から東は太平洋に至る
ユーラシアの大帝国になってから、
ユーラシアの、
「東が戦争ならば西で静かにし、
西が戦争ならば東で静かにする」
と書いた。
最近の例では、少々陳腐だが、
ロシアのプーチン大統領が、
東では、
日本の安倍晋三首相を「シンゾー」と呼び、
安倍首相から「ウラジーミル」と呼ばれて、
気持ちが悪いほど、日露の親密ぶりをアピールしていたが、
西では、冬期オリンピックを開催しながら、
黒海に張り出したクリミア半島に攻め入って
軍港セバストーポリを占領していた。
この時期、
西ヨーロッパの冷戦期の対ソ軍事同盟であるNATOが、
ソ連の崩壊と冷戦終結後にも対露軍事同盟となって存在し続け、
ロシアの近くの東ヨーロッパで加盟国を増やしていたことが、
プーチン大統領に、東で対日友好ポーズをとらせたと思われる。
従って、安倍晋三総理は、
クリミア半島へ軍事侵攻する決意を固めた者から、
「シンゾー」と呼ばれて、
その意図に気付かず、
日露の親密さをアピールしていたことになる。
以上は、最近の些細な例だが、
この際、
わが国が、ソ連のスターリンの意図に気付かず、
ソ連と停戦し、
さらに日ソ中立条約を結んで、
それを守り、
日本の運命と世界史の流れを変えた重大な事例を挙げておく。
それは、
昭和11年(1936年)5月11日から9月16日までの
ユーラシアの東のソ満国境におけるノモンハン事件である。
このノモンハン事件は、草原の日ソ戦であり、
わが国においては、
五味川純平や司馬遼太郎という作家によって、
装備が貧弱で戦術も戦略も無い日本軍が、
ソ連の機械化部隊によって
完全に打ち負かされた戦闘だとされている。
しかし、現実は、
小松原道太郎中将率いる熊本の第23師団2万人が、
ソ連のゲオロギー・ジューコフ将軍(後に元帥)率いる
スターリン自慢のソ連軍機械化部隊23万人
をノモンハン草原で完璧に撃破して、
スターリンに強烈な対日恐怖感を与えた戦闘であった。
それ故、第二次世界大戦後に、西側の記者から、
「第二次世界大戦で、最も苦しい戦争は何だったか?」
と質問されたソ連のジューコフ元帥は、
「ノモンハンにおける日本軍との戦争である」
と直ちに明言したのだ。
ノモンハンの戦闘で、
23万のスターリン自慢のソ連軍機械化部隊は、
2万の日本軍によって、
戦車800台が破壊され、
航空機1673機が撃墜されて壊滅した。
これに対し、日本軍の損害は、
戦車29台が破壊され、
航空機179機が撃墜されたに過ぎない。
この戦闘で、戦死した篠原弘道少尉は、
一人でソ連軍機58機を撃墜して、
ホロンバイルの荒鷲、東洋のリヒトホーヘン、
と内外の記者から呼ばれた。
しかし、勇戦奮闘した第23師団の消耗も激しく、
1939年8月に入り、わが国の大本営は、
ノモンハンへ、10万人の部隊を増派することを決定する。
この時、日本の中枢には、
ゾルゲや尾崎というソ連のスパイが入り込んでおり、
スターリンは、直ちに
ノモンハンへの日本軍10万増派を知り得たと思われる。
そこで、
ユーラシア東のノモンハンでの
自慢のソ連機械化部隊壊滅の報に接したスターリンは、
東の日本と西のドイツという
ユーラシアの二正面での戦闘を回避するために、
1939年8月23日、独ソ不可侵条約を締結する。
そして、
ソ連とポーランドで激突する恐れがなくなったドイツは、
独ソ不可侵条約締結の九日後の9月1日、
突如、ポーランドに侵攻を開始して第二次世界大戦が勃発する。
これに対して、
ドイツとポーランドを分け合うつもりのスターリンは、
東のノモンハンでの日本との停戦を急ぎ、
同9月16日、
日ソのノモンハン停戦協定を成立させるや、
直ちに、その翌日の9月17日、
ソ連軍をポーランドに侵攻させ、
ドイツと、ポーランドを分け合ったのだ。
この独ソ不可侵条約は、
ノモンハンにおける日本軍第23師団2万人の将兵の勇戦奮闘に
スターリンが恐れをなした結果、締結されたものであるにも関わらず、
わが国の内閣は、それに気付かず、
「欧州の情勢は複雑怪奇」
との奇怪な声明を発して総辞職してしまう。
その上で、わが国は、思考停止のまま、
1941年4月13日、
ソ連と日ソ中立条約を締結する。
これに対して、ソ連のスターリンは、
ユーラシアの西において
ドイツのヒトラーとの激突は避け得ないと判断しており、
ユーラシアの東西での両面作戦を回避する為に
日本と日ソ中立条約を締結したのだ。
そして、スターリンの読み通り、
日ソ中立条約締結二ヶ月後の
同年6月22日、
ドイツのヒトラーは、バルバロッサ作戦を発動して
ソ連へ侵攻して独ソ戦が開始された。
しかし、わが国は、日ソ中立条約を守って
ユーラシアの東西で
ソ連に二正面作戦を強いることはなかったのだ。
イギリスの首相W・チャーチルは言った。
仮に日本が北進して
東からソ連に攻め込んでいたら、
日本が第二次世界大戦で勝者となる
唯一にして最大の好機だった!
と。
しかし、既に記したように、
スターリンは、わが国中枢に
ゾルゲや尾崎秀実などのスパイを送り込んでおり、
時の近衛内閣は、彼らスパイの工作によって動いて
対ソ連戦を回避して「南進」に転換し、
わが国は、
1941年7月2日、御前会議で
南部仏印への進駐を決定していた。
今に生きる我々は、
この我が国家の中枢が、
スパイに操作されて適切な判断ができず、
機能麻痺に陥っていたことを決して忘れてはならない。
そのうえで、
この政府中枢の惨状にも関わらず、
遙か西方、ソ満国境・ノモンハンの草原で勇戦奮闘し、
その草原に横たわった
熊本の第23師団の二万の将兵の勇戦奮闘を忘れてはならない。
彼らの命をかけた勇戦奮闘が、
北海道を救ったのだ。
彼らがいなければ、
今、北海道はロシア領になっていたであろう。
スターリン自慢のソ連機械化部隊23万を
ノモンハンで壊滅させた
第23師団二万人の日本軍将兵は、
独裁者スターリンに、強烈な対日恐怖心を与えていた。
従って、
1945年2月4日から11日迄行われた
米英ソのヤルタ密約において、
ソ連は、ドイツ降伏後3箇月以内に
対日参戦することを約束されていたにも拘わらず、
スターリンは
約束の期限ギリギリまで対日参戦をしなかったのだ。
ドイツ降伏は、同年5月9日、
ソ連の対日宣戦は、同年8月9日である。
あの貪欲なスターリンが、
対日参戦をヤルタ密約で決めたギリギリまで躊躇した訳は、
日露戦争で見せつけられ、
ノモンハンで味合わされた、
日本軍の強さであった。
ノモンハンでソ連軍兵士が、
骨身にしみて味わった日本軍の強さは、
銃剣術を主体にした日本陸軍歩兵による白兵戦である。
記録によると、
ホルステン左岸高地で、四名の日本軍兵士が
三百名のソ連軍兵士を、
銃剣で突きまくり、
稜線まで刺殺しながら追いかけたと記されている。
北清事変の記録にも、
欧米の外交官と家族が避難している城壁で囲まれた広場に
侵入してきた数百名の義和団の兵士を
数名の日本軍兵士が、
銃剣で突きまくって広場から追い出して欧米人を救ったと。
次ぎにミャンマーで私が体験したことを記して本稿を終える。
私は、議員になって、
ミャンマー(ビルマ)とインドネシアを研究地域に選んだ。
そして、ある時、ミャンマーで
日本大使館の防衛駐在官(陸軍中佐)とともに、
ミャンマー国軍の陸軍中佐少佐ら数名と飲み会をした。
大いに呑んでから、
ミャンマー軍の将校らが、
「日本の自衛隊と白兵戦をすれば、必ず我等が勝つ」
と言いだした。
私が、
「何故、貴公等が必ず勝つといえるのか、その訳を言え」
と言うと、
彼らは異口同音に言った。
「我々ミャンマー国軍は、
日本の帝国陸軍に銃剣道を教え込まれているからだ。」
三月十日
陸軍記念日
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