ウクライナのしたたかさを知れ | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 

現在(二〇二五年二月)、ロシアとウクライナが、

ユーラシアの西方で、戦争を始めて三年になる。

従って、ユーラシア東方の太平洋側即ちわが日本周辺でのロシア軍は静かだ。

このユーラシアの東西で、

「東が戦争なら西は静かで西が戦争なら東は静か」

と連動するロシアの行動パターンは、

十六世紀のイワン四世(イワン雷帝、一五三三~八四年)による東方進出が開始されてから、現在に至るまで

変わらぬロシアの習性である。


このロシアは、イワン雷帝出現以前には、

十三世紀から十五世紀まで二百五十年間、

タタール・モンゴルに、占領支配されていた。

このタタール・モンゴルこそは、専制的軍事国家であり、

この頸城から脱したロシアのイワン雷帝も、

ツアーとして、

タタール・モンゴルの専制的統治方式をそのまま踏襲した。

何故なら、ロシアの西と東は、

山岳がないほとんど限りない平原と森林で、

国境線はその国の権力の強弱に従って移動するからだ。

つまり、ユーラシアの平原国家の特色は、

政府の権力が弱ければ、

国境線が内側に縮み、

強ければ国境線は外に広がるのだ。

そして、イワン雷帝は、

かつてタタール・モンゴルが遮るものなき平原を

東から西に馬を走らせてロシアを飲み込んだように、

ロシアの国境線の東方への拡大を開始した。

同時にロシアは、同じスラブ族で、

草原を移動する武装集団であるサポロージャコ・サックの本拠地でモスクワの南西に位置するウクライナを併合し、

そのコサックの軍事力を、

ツアーの権力を東方へ拡大させる尖兵とした。

従って、十八世紀に、

わが国の徳川幕府が、

既に実効支配していた日本列島北方の樺太と千島に、

沿海州とカムチャッカ半島から

武器を持って侵入してきてわが国を攻撃したのは、

この、ロシアの尖兵となったウクライナのコサックである。


そして、イワン雷帝から三百年後、ロシアは、

一八六〇年に清国と北京条約を締結して沿海州を手に入れ、

ついに、

ユーラシアの西の欧州のバルト海から

ユーラシア東端の太平洋にまたがる巨大帝国となった。

従って、ロシアには、

西ヨーロッパの近代化を生み出した市民社会は形成されず、

ルネッサンスも宗教改革もない。

まことにロシアは、

「白い皮をかぶったタタール」と言われる所以だ。


この状態で、ロシアは、二十世紀初頭に、

ユーラシア東端の満州と海上で、我が日本と戦って敗北し、

次ぎにレーニンの主導による暴力と殺戮と無秩序のボルシェビキ革命の狂乱に入り、

ロマノフ王朝最後のニコライ二世と家族は革命軍に殺害され、

二十世紀の終盤までソビエトという共産党独裁体制下にあった。

しかし、この共産党独裁体制下において、

ロシアがイワン雷帝以来維持してきた

百パーセント以上の安全を求めて空間を拡大するという衝動はますます強力となり、

一九三九年のナチス・ドイツとのポーランド分割や

フィンランド侵攻、そして四十年のバルト三国併合、

さらに四十五年の

日本領樺太と千島の軍事的占領に至ったのだ。


現在のロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、

このソビエトという共産党独裁体制を維持する為の

諜報機関であり秘密警察である

KGB(ソ連国家保安委員会)の幹部であった。

そして、一九八九年十一月九日、

ソ連解体の引き金となったベルリンの壁崩壊の時、

東ドイツに駐在していて、

ベルリンにソビエト軍戦車を雪崩れ込まそうとしていたのだ。

即ち、現在のロシアの大統領である

ウラジーミル・プーチンは、

ソビエト共産党のエリートである。


従って、ここで、このプーチンを理解する為に、

大正九年生まれで、昭和十八年ハルピン学院を卒業し、

昭和二十年から三十一年まで十一年間ソ連に抑留され、

後に北海道大学教授や上智大学教授を勤めたロシア研究者であった内村剛介氏が、

著書「ロシア無頼」に書かれたことを二点記しておく。


まず、内村氏は、十一年に及ぶソ連の収容所生活で、

関東軍参謀長であった秦彦三郎氏と親しくなった。

そして、共に昭和三十一年に帰国してから、

三年後の臨終近い別れの日に、

秦氏は内村氏に言った。

「私は生涯ロシア・サービスで一貫し、

ソ連にも長く駐在し、ソ連の演習にも参加した。

でも、何ひとつ分かっちゃいなかった。

敗戦後ソ連の収容所暮らしをするまでは・・・」

この時、内村氏は、

「監獄に入ったことのない者は、

その国がどのような国家か、知ってはいない」

と書いたトルストイをはるかに思い出していた。

次ぎに、内村氏は、

「無理難題に処してたじろがず、手段を選ばない者が共産主義的エリートコースに乗る。それはいつでもどこでも変わらない。」と書く。

そのうえで、共産主義の「新しさ」は

いつでもどこでも変わらないという「古さ」の反動性にこそある。

「古さ」こそ「新しさ」だというこの共産主義独特の新しさは、

ジャーナリストにはひどく捉えにくいと書いた上で

次の通り締めくくる。

「古くて変わらない新しさというものは、

そもそも無理難題なのであって、

この難題をベンショーホー的にうまく解く者、

つまりでっちあげる者だけがオルガナイザーということになる。

そしてこの『オルガナイザー』は何もののまえでもたじろがないから、

当然親友を『裏切る』ことを屁とも思わない。」


そこで、三年前の二月、何故、ロシアのプーチン大統領は、

突如、北方と東方からウクライナに戦車を雪崩れ込ませたのか。

それは、

イワン雷帝以来のロシアの頭目ツアーのタタール的遺伝子が

共産党エリートの本性と混合して、

プーチンの体内で騒いだからだ。

かつてロシアに攻め入った

ナポレオンの軍隊とヒトラーの軍隊は、

まずキエフを攻略してウクライナを東北方向に横断して

ロシアのクルスクに入り、

そこでロシア軍と激突しながらモスクワに向かった。

よって、ロシアの文豪トルストイは、「戦争と平和」で、

ナポレオンのロシア攻略戦を描いたが、

その主人公アンドレイ・ニコライビッチの

父親である老ボルコンスキー公爵は、

ナポレオンがキエフを突破したことを知って、

祖国ロシアの危機迫ると憔悴して眠られなくなり、死去する。

キエフ陥落は、

ロシアの喉元に刀を突きつけるのと同じなのだ。


では、この度、プーチン大統領がもつ

イワン雷帝以来のロシアの頭目の遺伝子を刺激したものは何か?

それは、単純にして明確なことだ。

つまり、ウクライナの

対露軍事同盟NATO加盟への動きである。

これが北極熊に電気ショックを与えるように

プーチンを刺激した。

しかし、

一九六二年十月十六日、

キューバにソ連が核ミサイル基地を建設していることを知った時の、アメリカ大統領ケネディーが、直ちに発した

断固たるDEFCON2(準戦時体制)の発令を是認するならば、

この度の、ロシア大統領プーチンの反応も是認されるべきだ。

よって、先日、

アメリカのトランプ大統領が、プーチン大統領と連絡を取り、

「和平」に動いたことは極めて適切である。

そもそもウクライナは、

北極熊に睨まれたひ弱なウサギではない。

ウクライナのコサックは、

近代ロシアのユーラシア東方侵略の尖兵であり、

江戸時代中期、樺太と千島に侵攻して、

わが国に最初の攻撃を仕掛けてきたのは

ウクライナのコサックなのだ。

そもそも、ベレンスキーは、

自国の兵士が血を流している戦闘の最前線を視察した現場から

直接外国首脳との会見場に駆けつけたのならともかく、

戦場視察などせず、

宝石好きの女房と宮殿で暮らしながら、

外國の首脳に会うときには、

戦場から駆けつけた格好で、

ロシアと戦争をしているウクライナは、

援助を受けるのは当たり前だ!

という顔(ツラ)をしておる。


わが国の総理大臣は、

ボートせずに、トランプを見習って、

ウクライナのしたたかさを知れ。

そして、

ウクライナのベレンスキーが、

運動服で、広島サミットに来たとき、

ウクライナがわが国の仮想敵国である中共に、

空母を売却したことに抗議すべきであった。


本稿は、「月刊日本」への出稿原稿に加筆した。

西村眞悟時事通信FBより

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あまり長い時間は入れませんが滝汗