帝国陸軍の落下傘部隊「義烈空挺隊」百六十八名は、
昭和二十年五月二十四日の出撃前、
熊本の健軍神社に参拝して武運を祈り、
同日、十八時五十分、
夕日に照らされながら、
十二機の九七式重爆撃機に分乗して、
神社近くの健軍飛行場を離陸し、
沖縄本島を目指した。
その目的は、
既に敵基地と化した沖縄の嘉手納飛行場と読谷飛行場に
強行着陸して、
敵の主力爆撃機のB29爆撃機と基地機能を破壊して、
敵の我が本土爆撃能力を粉砕することである。
もとより、
生還なき「十死零生」の特別攻撃隊であった。
義烈空挺隊は、
元々サイパン戦への投入のために編成され訓練を重ねてきた。
しかし、
その機会は得られずにサイパンは陥落し、
次ぎに始まった沖縄戦に投入されたのだ。
沖縄を守る第三二軍司令官牛島満中将は、
この義烈空挺隊出撃の報に接し、
激烈な戦闘のなかから、
空挺隊に対し、次の感謝の電報を発した。
「壮烈雄渾なる義号並びに菊水7号作戦の実施を感謝し、
衷心より必成を祈念する。
軍が目下為し得る限りの努力をなし、
これに策応を期しつつあり。」
そして、健軍飛行場を飛び立った義烈空挺隊の
十二機のうち八機が、
沖縄本島上空に到着した。
その時、まさに二十二時十一分、
隊長の奥山道郎大尉(大正八年生、二十六歳、最終階級大佐)は、司令部に、次の最初で最後の打電をした。
「オクオクオク
ツイタツイタツイタ
ツイタツイタツイタ
ツイタツイタツイタ」
そして、義烈空挺隊を先導した重爆撃隊から、
六機の九七式重爆撃機が読谷飛行場に、
二機の九七式重爆撃機が嘉手納飛行場に、
強行着陸したとの報告が司令部に発せられた。
是と同時に、アメリカ軍から、平文で、
読谷飛行場の騒乱を伝える電文が次々に発せられていた。
さらに、慌てたアメリカ軍の管制官が、
着陸しようとした在空機を、空母に誘導しようとして、
空母機動部隊の位置を
平文で暴露してしまう混乱に陥った。
このアメリカ軍の状況を知った軍司令官菅原道大陸軍中将は、
義烈空挺隊が、激烈な攻撃を敢行したものと判断し、
二十四時〇分、
大本営に「作戦成功」の第一報を発した。
さらに、翌五月二十五日、司令部の偵察機は、
「読谷飛行場機能喪失、嘉手納使用制限中、
同日、なおも、義烈空挺隊は、
飛行場付近において敢闘中と判断される。」
と報告したのである。
即ち、通常の「特別攻撃」即ち「特攻」は、
爆弾を搭載した搭乗機を、
敵艦に激突させると同時に自らも散華できるのであるが、
落下傘部隊である義烈空挺隊は、
敵飛行場に胴体着陸して、
地面に飛び降りるや、
敵と交戦しながら、敵機を破壊し、敵の航空燃料を燃やし、
管制塔や対空砲火群を破壊し、
さらに、たった一人になっても、
翌日夜が明けて明るくなっても、
最後まで、
誰にも知られることのない壮絶な戦闘を
続けていたのであった。
義烈空挺団将兵にとって、
この敵飛行場に足をつけた瞬間が、
「よく生きることは、よく死ぬこと」であり
「よく死ぬことは、よく生きること」であった。
この、義烈空挺団の訓練は凄まじく、
途中から合流した陸軍中野学校二俣分校の卒業生は、
空挺団員の体格と鍛えられた筋肉のたくましさに驚いた。
彼らの出撃時の装備は、
一○○式機関短銃、八九式重擲弾筒、手榴弾十~十五発、破甲爆雷、爆薬などの破壊機材の重装備であった。
そして、輸送機に乗り込む彼らに、戦闘糧食として、
海苔巻き十個、いなり寿司二個、力餅、生卵、梅干し、大根漬け、キャラメルなどが与えられたが、
多くの隊員達は、
「自分達には食べている余裕は無いから」
と言って、それを世話になった整備兵に渡したのだ。
この出撃に際し、隊長の奥山道郎大尉は、
次の最後の訓示を行った。
「出撃にあたり、隊長として最後の訓示を与える。
待望の出撃の日は遂に到来をした。
平生の訓練の成果を発揮して、
敵アメリカの心胆を震駭し、
全軍決勝の先駆けとなるは、
まさに今日である。」
この訓示が終わると、
奥山隊長は、報道班員の求めに応じ、
一番機に搭乗するにあたり、
飛行隊長の諏訪部忠一大尉と握手した。
その時、奥山大尉は、カメラを見て、
「ウワー、これは映画の名優なみですね」
と言い、
周囲の隊員達とともに大笑いした。
今に遺るこの時の笑顔の写真。
これ、「確実な死」即ち「大義」に向かう
勇者の笑顔である。
「義烈空挺隊」は「日本人の生き方の極限」に、
笑顔で向かっていったのだ。
そこで、今に生きる我等が、
明確に自覚しなければならないことがある。
それは、
昭和二十年五月二十四日に
義烈空挺隊が出撃し散華した八十年後の
令和七年五月の今、
我々は、何故、
「義烈空挺隊顕彰碑」を健軍神社境内に建立したのか
ということである。
我々は、過ぎ去った八十年前に生きて死んでいった彼らを、
偲ぶために碑を建立して集まっているのではない。
義烈空挺隊の勇者は、
過ぎ去った過去の日付のところにいるのではなく、
我が日本民族が存続している限り、
勇者として現在の我々と共にある。
これからも我々と共にある。
従って、今、我等は、是に顕彰碑を建てて集るのだ。
即ち、お国の為に勇戦奮闘した英霊は死なず、
常に、我等とともにあるのだ。
これが、日本民族の死生観であり確信である。
天平感宝元年(七四九年)五月、
大伴家持は、次の如く歌った(萬葉集)。
「・・・大伴の 遠つ神祖(おや)の
その名をば、大来目主と負いもちて
仕えし官(つかさ)
海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
顧みは せじと言立(ことた)て
丈夫(ますらお)の 清きその名を
古よ 今の現(うつつ)に
流さへる祖(おや)の子(こども)等そ
大伴と佐伯の氏は・・・」
また、楠正成は、
延言元年(一三三六年)五月二五日、
湊川で「七生報国」を誓って微笑みながら自決した。
以後、現在に至るまで、
無量の日本人が「海ゆかば」を歌い
「七生報国」を誓って、
お国の為に散華していった。
義烈空挺隊員も、
確実に七生報国を誓い「海ゆかば」を歌った。
我等も、わが国の、
この至高の伝統を継承しているが故に、
今、義烈空挺隊顕彰碑の前に、佇立している。
このことを確認した上で、
最後に次のことを申しておきたい。
それは、この日本民族の精神は、
人類の精神史において、
普遍的であり、根源的なものである、
ということだ。
即ち、これが我が日本民族の、まことの姿である。
動物記で有名なアーネスト・シートンは、
最晩年には妻のジュリア・シートンと共に、
北米インディアンの魂の教えを集め、
それを
「レッドマン(インディアン)のこころ」(発行所 北沢図書出版)として出版した。
この本の前書きに、妻のジュリアは、
「レッドマンの信仰は、
普遍的であり、基本的であり、根源的である」
と書いた。
そして、この本の訳者である近藤千雄氏は、
「訳者あとがき」に、
インディアンの、
現在はアメリカ合衆国の都市の名になっている
シアトルという名の卓越した酋長が、
彼らに先祖の地からの退去を命令した
アメリカ合衆国総督に対して、
一八五五年に提出した抗議文を掲載している。
その抗議文の最後は、
次のように結ばれている。
私は、”死“という文字は一度も用いていない。
”死“は存在しないからだ。
ただ生活の場が変わるだけなのだ!
これを読んだ時、私は、
日本民族は、何万年か前、ユーラシアの何処かで、
北米大陸に渡っていったアメリカインディアンと、
共通の先祖をもっていると直感した。
よって、明言しておく。
即ち、我等日本民族は、
数万年前の人類の最も素朴な確信を心にもち、
それを現在に維持しながら、
近代国家を形成してきた世界唯一の民族である、と。
それ故、義烈空挺隊員、
さらに、
お国の為に散華していった無量の勇者達は、
死んではいないし、
日本から離れてもいない。
今も、我等と共に日本にいる。
そして、萬葉集の時代も、
今も、
共に「海ゆかば」を歌う。
一番好きな漫画を教えて!
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