平成27年2月24日(火)
以前、西郷隆盛または西郷南洲という人が、
現在に生きていたら何をしているだろうか、としきりに考えたことがある。
そして、ふと、そうだ、と思った。
西郷さんが、現在に生きていたら、
田舎の小学校の先生をしている。
都会の学校の先生ではないだろう、自分の生まれた近くか海を隔てた孤島の学校の先生だ。
それも、中学校でも高校でも大学でもない。
小学校の先生だ。
西郷という人は、こういう人だ。
これが、多くの識者が「分からない」という西郷さんの本質であろうと思う。
西郷さんは、
幕末の動乱期の三十歳代のほとんどを、南の島の牢獄の中で過ごし、
明治維新前後の数年間、表面に出て「明治維新の形を決定」するや、
我が国で唯一の陸軍大将の地位と俸給を飄然となげうって郷里に戻り、
集まってきた青年に、ぼつりぼつりと聞かれるままに思いを話し、
思いあまれば、話ながらしきりに涙を流し、
明治十年秋の末、
その若ものらに担われて、何の言い訳もせず、
「晋どん、晋どん、もうこんあたりでよか」
と言ってその場に坐し、双手を合わせて天子のおられる遙か東天を拝して、晋どんに首を打たせた。
こういう人が、現在生きていたら、
田舎の小学校の先生をしている、と私は思うのだ。
幼児教育が幼い魂に与える影響の尊さ大きさを思へば、この結論になる。
教育とは、その人が死に絶えた遙かあとに花を咲かせる尊い営みであるとするならば、
西郷さんは、その通り生きてその通り死んた。
それ故、西郷さんは、
他の「維新の元勲」連中が皆忘れられても、
唯一人、日本人の魂に残ってゆく。
西郷さんのことを言ってきたのは、
西郷という「抜山蓋世の勇ある達人」(勝海舟)に、
最も謙虚で目立たない畏敬すべき教育者の原像を感じるからである。
真の教育者とは、西郷さんと同じ大きな影響を後世に残すものである。
私の師である森信三先生は、
「教育とは、流れる水に文字をかくような作業である。
しかし、それを石に文字を刻むような真剣さで為さねばならない」
と言われていた。そして、
「花は、その先生が亡くなったあとに咲く」と。
さて、産経新聞は、二月二十二日の朝刊で、
尾張の一宮市の中学校の校長先生が、
二月十一日の「紀元節」に際して生徒に向けて書かれたブログ全文を掲載した。
この校長先生は、我が国を、
「古代から、天皇陛下と民が心を一つにして暮らしてきた国」と生徒に説明され、
我が郷里に御陵のある仁徳天皇の「民の竈の煙」の仁政を述べられている。
仁徳天皇は、ぼろぼろの衣服を着られ、雨や風が吹き込むぼろ屋に住まれていながら、
民の竈から上がる煙を見て、「我は豊になった」と喜ばれた。
ぼろ服を着て廃屋に住むのに豊になったとは、といぶかる后に、
天皇は、「民が豊なれば私も豊なのだ」と言われたのだ。
民が豊になれば自分も豊かだと思われ、
自分よりも民のことを思われる治世の伝統こそ我が国特有のものである。
その証拠に、現在の我が国周辺の権力者を眺められよ。
これらの者達に民との絆はなく、民が飢えていても自分達だけが豚のように肥え太って財を蓄えているではないか。
「天皇と民の絆」が我が国の治世の、今に続く伝統である、と校長先生は生徒に語りかけられた。
なんと立派な先生であろうかと思う。
政府主催の紀元節奉祝の集会が、仮にあったとしても、
そこに出てくる与野党の今の国会議員連中が、何人逆立ちしても、
この先生一人に適わない。
何故なら、この先生は、教育者であるからだ。
ここに、日本の将来を明るく拓く教育の力を感じる。
なお、
仁徳天皇は、減税と同時に大土木工事をされた天皇であり、
現在の大阪平野はこの土木事業によって原型が作られている。
つまり、古代にケインズなきケインズ論を実践されたのが仁徳天皇である。
そして、幕末の為政者である西郷南洲も山田方谷も、この仁徳天皇の故事を実践しようとした者達である。
「租税を薄くして民を豊にするは、即ち国力を養成する也・・・」(西郷南洲遺訓)
しかし、
校長先生のこのブログに関して、何処の誰とも分からんたった一人の者が、
一宮市教育委員会に抗議の電話をしたのだという。
すると、この教育委員会は、校長先生に注意して先生のブログを削除させた。
安倍総理、
馬鹿な野党議員の発言にヤジるよりも、
この一宮市教育委員会に見られるように、
我が国の津々浦々の行政組織にカビのように蔓延っている「左翼からの抗議」に小心翼々たる風潮に、
烈火のごとく怒っていただきたい。
そして、自分の内閣が組織した「戦後七十年有識者懇談会」も、この一宮市教育委員会と同様の、
左翼と支那朝鮮からの反応に小心翼々たる小吏の世話をうけるように仕組まれているろくでもない「懇談会」であると見切った上で、
委員とオフレコで一度だけワインを飲んで飯でも食ってから、
ではご苦労さまと解散していただきたい。
その上で、この校長先生のように、
戦後七十年に際して、
自ら確信するところの所見を率直に述べられよ。
私は、一昨日の日曜日に仁徳天皇御陵に参拝し、
「昭和天皇実録」の昭和二十年九月二十七日の記録、
即ち、天皇陛下がアメリカ大使館にダグラス・マッカーサーをお訪ねになり、
マッカーサーに謁を賜れるときの記述を涙しながら拝読した。
よって、本日、
仁徳天皇および昭和天皇とマッカーサーに触れられている
一宮の校長先生のブログに関して書かざるをえない思いになった次第だ。
最後に話題も次元も違うが、
与那国の陸自配備賛成の住民投票に関して私の考えと体験を述べておこう。
投票結果に安堵するが、
この問題を住民投票にかける感覚に疑問を抱く。
さらに、中学生以上の未成年と外国人にも投票権を与えるとは何事か。
いい加減にしろ。
ことは、国家の存亡のかかる国防の問題だぞ。
また、与那国に陸自を駐屯させるならば、
同時に、下地空港を空自が自由に利用できるようにしなければ与那国への陸自展開の意義がない。
制空権および制海権なき陸上兵力は、
いざとなれば、孤立して飢えるからだ。
これ、我が国の痛切な戦訓ではないか。
次ぎに、左翼紙の影響力が強い沖縄本島と、
先島諸島の人々の意識はかなり違う、がらりと違うということを言っておく。
平成九年の春に、
私は、尖閣諸島渡航準備のために石垣島や宮古島に度々行った。
その時、住民に言われた。
「我々は国境の島に住んでいるんだ。しかし、我が国の日の丸を掲げた自衛艦の姿を見たことがない。
日本政府は我々を日本国民とはみなしていないのか。」
また、石垣島の民家に招かれたとき、
床の間に「君が代」の歌詞が垂らされ「日の丸」が掲げられていた。
本土で、このような民家は見たことがなかった。
また、石垣島の新空港建設問題に関し、
新しく改良した農地に空港を造成する県の案に反対する農民が鎖を体に巻き付けて県の調査に反対したことがある。
その時、県知事は、直ちに警察力を動員して鎖を切断して有無を言わせずに座り込む農民を強制排除させた。
このこと、本島の「琉球タイムス」や「沖縄日報」などの左翼マスコミも騒がなかった。
しかし、この県知事は、沖縄本島では、
基地のなかのハンケチくらいの地面を所有する反戦地主が数千人いる基地の使用反対を左翼と共に叫んでいた知事だった。政府が、警察力による基地反対派の強制排除などしようものなら、沖縄の左翼紙とともに、
狂ったように反政府を叫ぶ知事だった。
この知事は、沖縄本島では、反戦平和・人権尊重で、
先島では楯突く者は断じて容赦しない直ちに強権発動の、どうしようもない知事だった。
この知事、その後、参議院議員になった。
何をしていたのか知らんが、歳費だけはもらって任期を全うしたようだ。これを税金の無駄使いという。
西村眞悟の時事通信より。
現在に生きていたら何をしているだろうか、としきりに考えたことがある。
そして、ふと、そうだ、と思った。
西郷さんが、現在に生きていたら、
田舎の小学校の先生をしている。
都会の学校の先生ではないだろう、自分の生まれた近くか海を隔てた孤島の学校の先生だ。
それも、中学校でも高校でも大学でもない。
小学校の先生だ。
西郷という人は、こういう人だ。
これが、多くの識者が「分からない」という西郷さんの本質であろうと思う。
西郷さんは、
幕末の動乱期の三十歳代のほとんどを、南の島の牢獄の中で過ごし、
明治維新前後の数年間、表面に出て「明治維新の形を決定」するや、
我が国で唯一の陸軍大将の地位と俸給を飄然となげうって郷里に戻り、
集まってきた青年に、ぼつりぼつりと聞かれるままに思いを話し、
思いあまれば、話ながらしきりに涙を流し、
明治十年秋の末、
その若ものらに担われて、何の言い訳もせず、
「晋どん、晋どん、もうこんあたりでよか」
と言ってその場に坐し、双手を合わせて天子のおられる遙か東天を拝して、晋どんに首を打たせた。
こういう人が、現在生きていたら、
田舎の小学校の先生をしている、と私は思うのだ。
幼児教育が幼い魂に与える影響の尊さ大きさを思へば、この結論になる。
教育とは、その人が死に絶えた遙かあとに花を咲かせる尊い営みであるとするならば、
西郷さんは、その通り生きてその通り死んた。
それ故、西郷さんは、
他の「維新の元勲」連中が皆忘れられても、
唯一人、日本人の魂に残ってゆく。
西郷さんのことを言ってきたのは、
西郷という「抜山蓋世の勇ある達人」(勝海舟)に、
最も謙虚で目立たない畏敬すべき教育者の原像を感じるからである。
真の教育者とは、西郷さんと同じ大きな影響を後世に残すものである。
私の師である森信三先生は、
「教育とは、流れる水に文字をかくような作業である。
しかし、それを石に文字を刻むような真剣さで為さねばならない」
と言われていた。そして、
「花は、その先生が亡くなったあとに咲く」と。
さて、産経新聞は、二月二十二日の朝刊で、
尾張の一宮市の中学校の校長先生が、
二月十一日の「紀元節」に際して生徒に向けて書かれたブログ全文を掲載した。
この校長先生は、我が国を、
「古代から、天皇陛下と民が心を一つにして暮らしてきた国」と生徒に説明され、
我が郷里に御陵のある仁徳天皇の「民の竈の煙」の仁政を述べられている。
仁徳天皇は、ぼろぼろの衣服を着られ、雨や風が吹き込むぼろ屋に住まれていながら、
民の竈から上がる煙を見て、「我は豊になった」と喜ばれた。
ぼろ服を着て廃屋に住むのに豊になったとは、といぶかる后に、
天皇は、「民が豊なれば私も豊なのだ」と言われたのだ。
民が豊になれば自分も豊かだと思われ、
自分よりも民のことを思われる治世の伝統こそ我が国特有のものである。
その証拠に、現在の我が国周辺の権力者を眺められよ。
これらの者達に民との絆はなく、民が飢えていても自分達だけが豚のように肥え太って財を蓄えているではないか。
「天皇と民の絆」が我が国の治世の、今に続く伝統である、と校長先生は生徒に語りかけられた。
なんと立派な先生であろうかと思う。
政府主催の紀元節奉祝の集会が、仮にあったとしても、
そこに出てくる与野党の今の国会議員連中が、何人逆立ちしても、
この先生一人に適わない。
何故なら、この先生は、教育者であるからだ。
ここに、日本の将来を明るく拓く教育の力を感じる。
なお、
仁徳天皇は、減税と同時に大土木工事をされた天皇であり、
現在の大阪平野はこの土木事業によって原型が作られている。
つまり、古代にケインズなきケインズ論を実践されたのが仁徳天皇である。
そして、幕末の為政者である西郷南洲も山田方谷も、この仁徳天皇の故事を実践しようとした者達である。
「租税を薄くして民を豊にするは、即ち国力を養成する也・・・」(西郷南洲遺訓)
しかし、
校長先生のこのブログに関して、何処の誰とも分からんたった一人の者が、
一宮市教育委員会に抗議の電話をしたのだという。
すると、この教育委員会は、校長先生に注意して先生のブログを削除させた。
安倍総理、
馬鹿な野党議員の発言にヤジるよりも、
この一宮市教育委員会に見られるように、
我が国の津々浦々の行政組織にカビのように蔓延っている「左翼からの抗議」に小心翼々たる風潮に、
烈火のごとく怒っていただきたい。
そして、自分の内閣が組織した「戦後七十年有識者懇談会」も、この一宮市教育委員会と同様の、
左翼と支那朝鮮からの反応に小心翼々たる小吏の世話をうけるように仕組まれているろくでもない「懇談会」であると見切った上で、
委員とオフレコで一度だけワインを飲んで飯でも食ってから、
ではご苦労さまと解散していただきたい。
その上で、この校長先生のように、
戦後七十年に際して、
自ら確信するところの所見を率直に述べられよ。
私は、一昨日の日曜日に仁徳天皇御陵に参拝し、
「昭和天皇実録」の昭和二十年九月二十七日の記録、
即ち、天皇陛下がアメリカ大使館にダグラス・マッカーサーをお訪ねになり、
マッカーサーに謁を賜れるときの記述を涙しながら拝読した。
よって、本日、
仁徳天皇および昭和天皇とマッカーサーに触れられている
一宮の校長先生のブログに関して書かざるをえない思いになった次第だ。
最後に話題も次元も違うが、
与那国の陸自配備賛成の住民投票に関して私の考えと体験を述べておこう。
投票結果に安堵するが、
この問題を住民投票にかける感覚に疑問を抱く。
さらに、中学生以上の未成年と外国人にも投票権を与えるとは何事か。
いい加減にしろ。
ことは、国家の存亡のかかる国防の問題だぞ。
また、与那国に陸自を駐屯させるならば、
同時に、下地空港を空自が自由に利用できるようにしなければ与那国への陸自展開の意義がない。
制空権および制海権なき陸上兵力は、
いざとなれば、孤立して飢えるからだ。
これ、我が国の痛切な戦訓ではないか。
次ぎに、左翼紙の影響力が強い沖縄本島と、
先島諸島の人々の意識はかなり違う、がらりと違うということを言っておく。
平成九年の春に、
私は、尖閣諸島渡航準備のために石垣島や宮古島に度々行った。
その時、住民に言われた。
「我々は国境の島に住んでいるんだ。しかし、我が国の日の丸を掲げた自衛艦の姿を見たことがない。
日本政府は我々を日本国民とはみなしていないのか。」
また、石垣島の民家に招かれたとき、
床の間に「君が代」の歌詞が垂らされ「日の丸」が掲げられていた。
本土で、このような民家は見たことがなかった。
また、石垣島の新空港建設問題に関し、
新しく改良した農地に空港を造成する県の案に反対する農民が鎖を体に巻き付けて県の調査に反対したことがある。
その時、県知事は、直ちに警察力を動員して鎖を切断して有無を言わせずに座り込む農民を強制排除させた。
このこと、本島の「琉球タイムス」や「沖縄日報」などの左翼マスコミも騒がなかった。
しかし、この県知事は、沖縄本島では、
基地のなかのハンケチくらいの地面を所有する反戦地主が数千人いる基地の使用反対を左翼と共に叫んでいた知事だった。政府が、警察力による基地反対派の強制排除などしようものなら、沖縄の左翼紙とともに、
狂ったように反政府を叫ぶ知事だった。
この知事は、沖縄本島では、反戦平和・人権尊重で、
先島では楯突く者は断じて容赦しない直ちに強権発動の、どうしようもない知事だった。
この知事、その後、参議院議員になった。
何をしていたのか知らんが、歳費だけはもらって任期を全うしたようだ。これを税金の無駄使いという。
西村眞悟の時事通信より。