現代短歌とともに -5ページ目

白秋の片恋の末路

           白秋の片恋の末路

 

 白秋が新詩社を退社した理由は鉄幹の編集方針とされている。しかし、白秋の本音は、晶子に思想家として打ち負かされたからだろう。端的な言い方だが、白秋は数学が得意ではない。晶子は優れていた。中学でもめた原因の一つが数学ができないのを責められたからだ。

 「ふさぎの虫」の最終行「ははははは……………………」、意味不明だ。だが、最終頁の絵にヒントが隠されていた。

巻末の絵

黒鶫が五羽、左上に「TOKIO」とある、対照概念は「郷里柳河」なので、探せば実家破産の時の歌、

 

銀笛哀慕調

 Ⅱ夏

郷里柳河に帰りてうたへる歌

Gonshan, Gonshan, 何処へいた、

きのふ札所(ふだしよ)の巡礼に

 

馬鈴薯の花咲き穂麦あからみぬあひびきのごと岡をのぼれば

黒鶫の絵

黒鶫(くろつぐみ)野辺にさへづり唐辛子(たうがらし)いまし花さく君はいづこに

 

(つばさ)コツキリコ、畦道(あぜみち)やギリコ

注、コツキリコとは、

こきりこ節・筑子節(こきりこぶし)は、富山県南砺市の五箇山地方 に伝わる民謡。麦屋節とともに五箇山地方を代表する、全国的に有名な古代民謡(古謡)である。

 白秋は、俗謡に向かうのだが、「道化師白秋」の姿を偲ばせる。

 

笹竹を背負い、「こきりこ」を手にもつ烏帽子姿の放下師

 

 病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし(ばた)の黄なる月の出

 

 明治42年(1909年) 24歳末の出来事ではあるが、まだ自己を「病める児」と詠むのは、精神的に脆いことを証明している。

 また、「君はいづこに」の君は「初恋の人」。

初戀

 

薄らあかりにあかあかと

踊るその子はただひとり。

薄らあかりに涙して

消ゆるその子もただひとり。

薄らあかりに、おもひでに、

踊るそのひと、そのひとり。

 

 白秋らしい純情詩だろう。

 

 片や晶子は、

 

源氏をば十二三にて読みしのち思はれじとぞ見つれ男を

朱葉集

注、つれ、完了の助動詞の已然形、みつれで見てしまうの意味。

まことかと聞きて見つれば言の葉を飾れる玉の枝にぞありける

                   竹取物語

ほんとうかと(よくよく)聞いて見たら(なんのことはない) 言葉を飾っただけの(うわべだけきれいにとりつくろった)玉の枝だったよ。

 つまり、晶子は男なんかに恋われたくない、才女らしい若き日の思い入れだ

 

あなかしこ(よう)()()のごと斬られむと思ひたちしは十五の少女(をとめ)

明治四十四年十一月「明星」

 

注、宇治拾遺物語 「あなかしこあなかしこ、人に語り給ふな」、「夢は(他人が)取るということがあるそうだ。今の太郎君の御夢を、私に取らせてください。

 

 わが十二ものの哀れを知りがほに詠みたる源氏枕の草紙

           大正四年十一月「三田文学」

注、枕の草紙、枕草紙

1 身辺に置いて、日々の見聞や思いついたことなどを書き留めておく綴じ本形式の雑記帳。 2 春画の本。 また、春本。

 晶子は、もちろん後者を指している。

 

 白秋も春画をほめてはいるが、耽美では負けている。

 

 五羽の黒鶫に戻り、上部の二羽は、父と母、下部の三羽は、白秋、弟と妹。

 この絵の意味は、白秋が小市民として生きる喜びだろう。

 彼の生きざまでもあるだろう。

 これが、「桐の花」の結論と思われる。

白秋の片恋の二(晶子との差し向かいの夕べ)

白秋の片恋の二(晶子との差し向かいの夕べ)

 

白秋が晶子との「思ひ出」を「詞書」に残した。「アルベエル・サマン」と「籐椅子」。

Ⅲ 浅き浮名

 

白き籐椅子をふたつよせてものおもふひとのおだやかさよ。読みさせるはアルベエル・サマンにや、やはらかに物優しき夕なりけり

 

さしむかひ二人(ふたり)暮れゆく夏の日のかはたれの空に桐の匂へる

 

 当時新詩社は千駄ヶ谷に有った。当然面会室と校正のための作業室も置かれていた。写真でも作業中の物がある。

 「読みさせるはアルベエル・サマンにや」、「才ある婦人」でほとんど名も知られていない象徴派詩人の本」を読むのは「晶子」だろう。と「にや」に含ませる。同室の理由は原稿の「削正」だろうか。

 「やはらかに物優しき夕なりけり」、参考詩。

 

断章

 

女子よ、

()はかなし、

のたまはぬ汝はかなし、

ただひとつ、

一言(ひとこと)のわれをおもふと。

 

 

あはれ、日の

かりそめのものなやみなどてさはわれの悲しく、

窓照らす夕日の光さしもまた涙ぐましき、

あはれ、世にわれひとり残されて死ぬとならねど、

わが側遠(かたへ)く去るとも人のまた告げしならねど、

さなり、ただ、かりそめのかりそめのなやみなるにも。

   十

 

あはれ、あはれ、色薄きかなしみの葉かげに、

ほのかにも見いでつる、われひとり見いでつる、

青き果のうれひよ。

あはれ、あはれ、青き果のうれひよ。

ひそかにも、ひそかにも、われひとり見いでつる

あはれその青き果のうれひよ。

 

十一

 

(さけ)()ぐきみのひとみの

ほのかにも濡れて(うれ)ふる。

さな病みそ(まち)のどよみの()()ふけて遠く泌むとも

 

 遠く泌むとも、ここでも「秘める恋」、辛かった。

 

参考詩、

海潮音

伴奏      アルベエル・サマン

 

 白銀(しろがね)筐柳(はこやなぎ)菩提樹(ぼだいず)や、(はん)()や……

 (みづ)(おも)に月の落葉(おちば)よ……

 

(ゆふべ)の風に(くし)けづる丈長髪(たけなががみ)の匂ふごと、

夏の()(かをり)なつかし、かげ黒き(みづうみ)の上、

(かを)淡海(あはうみ)ひらけ鏡なす波のかゞやき。

 

(かぢ)()もうつらうつらに

夢をゆくわが船のあし。

 

船のあし、空をもゆくか、

かたちなき水にうかびて

 

ならべたるふたつの(かい)

徒然(つれづれ)」の櫂「無言(しじま)」がい。

 

水の(おも)の月影なして

波の上の楫の()なして

わが胸に吐息(といき)ちらばふ。

 

アルベール・ヴィクトール・サマン(1858~1900)象徴派詩人

フランスのリール生まれ。14歳の時に父の死により学業をあきらめ、パリに出て、市役所の事務員となる。詩作に励み、サロンに参加しボードレールやヴェルレーヌの影響を受けた。1893年に 哀愁と耽美の第一詩集「王女の庭園にて」詩人としての名声を確立した。

 

 晶子も後に、与謝野寛(鉄幹)をパリに送り、離れ離れの悲しみを「片恋」で詠んだ、

 

思へるは片恋ながら自らは塵もすゑじとなす人はよし

青海波、有朋舘, 明治45[1912].1月発行

 

 塵もすゑじ、床の上に塵がないということは、いつも妻といっしょに寝ているということ。白秋が俊子と盛んなことを揶揄している。

参考歌、古今和歌集

 

隣(となり)より、常夏(とこなつ)の花をこひにおこせたりければ、惜しみてこの歌をよみてつかはしける

 

塵(ちり)をだに すゑじとぞ思ふ 咲きしより

妹(いも)とわが寝る とこなつの花

 

 此の頃、白秋の弟の鉄雄の出版社の世話をしているのだから、姉さん肌、頼りがいのあるお姉さんのような女性を表す言葉。優しく、面倒見がよいだけでなく、やや勝気なところがあり、強い信念を持っている女性。

 わが母も、そういう人であった。

 白秋の片恋

            白秋の片恋

「ふさぎの蟲」第百二十九行の六(白秋の浪漫主義の終わり)

俺ははらはらしながら自分の面の皮でも一枚一枚ひん飜(めく)られるやうに辛かつた………

 

 前回で白秋が「桐の花」で「浪漫主義」を終えたとした。白秋は「片恋」から「俗謡体」へと俗人に近づく。民謡や歌謡、童謡を作り、短歌も平明になった。きっかけは「桐の花事件」で、白秋は「俊子との大恋愛」によるとするが、端緒は「晶子との片恋」と思われる。

 白秋の構想では「桐の花とカステラ」より、

 

実際、思ふままのこころを挙げてうちつけに掻き口説くよりも、私はじつと握りしめた指さきの微細な触感にやるせない片恋の思をしみじみと通はせたいのである。

短歌は一箇の小さい緑の古宝玉である、古い悲哀時代のセンチメントの精(エツキス)である、としている。

 そして「悲哀」と言う言葉を多用している。第一首の「ななきそ」より、

 

きりぎりす いたくななきそ 秋の夜の 長き思ひは

我ぞまされる

              藤原忠房 古今集

参考文

「ふさぎの虫」第五十九行(きりぎりす)

未決監を出てからもう彼是一と月、その間、日となく夜となく緊張し切つた俺の神経はまるで螽斯(きりぎりす)のやうに間断(きり)もなく顫へ続けた。

 

 白秋曰く「罠にはめられた」、大事件にしたくなかったのが本音だろう。

  本論として、「桐の花」の意味が、「晶子」を指していることを論述したい。まず本詩「片恋」の「君」が晶子だろう。

片恋

 

あかしやの(きん)と赤とがちるぞえな。

かはたれの秋の光にちるぞえな。

片恋(かたこひ)薄着(うすぎ)のねるのわがうれひ

曳舟(ひきふね)」の水のほとりをゆくころを。

やはらかな君が吐息(といき)のちるぞえな。

あかしやの金と赤とがちるぞえな。

四十二年十月

 

 

Ⅲ 浅き浮名

 

 

恋すてふ浅き浮名もかにかくに立てばなつかし白芥子の花

 

 

薄青きセル単衣(ひとえ)をつけそめしそのころのごとなつかしきひと

 

片恋のわれかな身かなやはらかにネルは着れども物おもへども

 

茴香さく

 

わが世さびし身丈(みたけ)おなじき茴香(うゐきやう)も薄黄に花の咲きそめにけり

 

茴香の花の中ゆき君の泣くかはたれどきのここちこそすれ

 

 

白き籐椅子をふたつよせてものおもふひとのおだやかさよ。読みさせるはアルベエル・サマンにや、やはらかに物優しき夕なりけり

 

さしむかひ二人(ふたり)暮れゆく夏の日のかはたれの空にの匂へる

 

 

潮来出島の真菰の中にあやめ

咲くとはしほらしや

 

かきつばた男ならずばたをやかにひとり身投げて死なましものを

 

 

たんだ振れふれ六尺袖を

 

桐の花ことにかはゆき半玉の泣かまほしさにあゆむ雨かな

 

 

すずかけの木とあかしやとあかしやの木とすずかけと舗石みちのうす霧に

 

ほのぼのと人をたづねてゆく朝はあかしやの木にふる雨もがな

 

 赤で同語を示した。

 各論は今後に続く。

ふさぎの蟲」第百二十九行の五(白秋の浪漫主義の終わり)

ふさぎの蟲」第百二十九行の五(白秋の浪漫主義の終わり)

俺ははらはらしながら自分の面の皮でも一枚一枚ひん(めく)られるやうに辛かつた………

 白秋の自画像を眺めて、当行の「辛かつた………」の詠嘆から、対義の「楽しかった………」を探れば、「(さい)ある身」を含む詩を見出した。

「早稲田学報」の懸賞で『全都覚醒賦』が一等になり、早くも詩壇から注目され「韻文界の泉 鏡花」といわれた。参考詩、

 

邪宗門

わかき日

 

『かくまでも、かくまでも、

わかうどは悲しかるにや。』

『さなり、(をみな)

わかき日には、

ましてまた(さい)ある身には。』

 

 自画像を見れば、白秋が「(をみな)」でもあることが分かる。

その才が発揮されたのが象徴詩で、難解極まる。上田敏の文は難しい。当時、活版印刷の技術が向上して、難読漢字が溢れる文となる。一例、

 

「海潮音 序」より

肉體の欲に()きて、とこしへに精神の愛に飢ゑたる放縱生活の悲愁こゝに(たた)へられ、或は空想の泡沫(ほうまつ)に歸するを哀みて、眞理の捉へ難きに(あこ)がるゝ哲人の愁思もほのめかさる。

注、饜きて、あきて、飽きる。

(たた)へられ、満たす。

 この「精神の愛に飢ゑたる放縱生活の悲愁」を(たた)へた詩の一つが「耽溺」だろう。

 白秋の溢れる才能が発揮されている。邪宗門では「四十年十二月」の日付だから、初出と思われる。デジタル版を出来るだけ読みとった。

 

明星 明治41年第1号(一月)

耽溺

 

あな(かな)(あか)()きたる。

()けよ、(いま)(あか)()きたる。

 

白日(はくじつ)(ひかり)水脈(みを)に、

わが(こひ)器樂(きがく)(うみ)に。

 

あはれ()け、光は(むせ)

(うみ)(ふる)ひ、(すが)(がき)()がれ

眩暈(めくる)めく悲愁(かなしみ)(はて)

苦悶(もだへ)そふ歡楽(よろこび)のせて

きゆらそおの(あか)()(ひび)く。

 

()けよ、()け、(どく)ィオロン。

吹けよ、また媚薬(びやく)の嵐。

あはれ歌、あはれ(まぼろし)

その(うみ)(あか)()光る。

海の歌きこゆ、このとき、

(あゝ)、かなし、(ほのほ)よ、(よく)よ、

接吻(くちつけ)よ。』

 

()けよ、また(にが)愛着(あいぢやく)

(しゝむら)のおびえと恐怖(おそれ)

()ねよ、()ね』、(あか)()(ひゞ)く、

(こひ)よ、()よ。』

 

()けよ、()け、(どく)のヴィオロン。

吹けよ、また媚薬(びやく)(あらし)

 

一瞬(ひととき)よ、――(ひかり)よ、水脈(みを)よ、

(がく)()よ――(さけ)のきゆらそお、

接吻(くちつけ)非命(ひめい)快楽(けらく)

毒水(どくすゐ)の火のわななきよ。

 

(くる)へ、(くる)へ、破滅(ほろび)(なぎさ)

()くははや(がく)大極(たいきよく)

狂亂(きやうらん)の日の(ひかり)()

(あか)き帆の(つひ)のはためき。

 

()なむ、()なむ、二人(ふたり)()なむ。

 

(あか)()きゆる。

(あか)()きゆる。

 

注、耽溺、たんでき、

〖耽〗 タン・ふける

度をすごしてたのしむ。夢中になる。ふける。

 「耽溺(たんでき)・耽読・耽美」

白秋の耽美への意気込みを題名にたくしたのだろう。

あな(かな)し、「あな 」は感嘆詞。参考首、古今和歌集、

あな恋し  今も見てしか  山がつの  かきほにさける  大和撫子

 

(あか)()、邪宗門の「詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。」から、海原を逝く帆船の紅い帆を「耽美」の象徴にしたのだろう。

水脈、船の通ったあと。航跡。参考歌万葉集

たたなめて泉の川の水脈絶えず仕へまつらむ大宮ところ

あはれ、もののあはれ、参考歌、

しみじみと物のあはれを知るほどの少女となりし君とわかれぬ

光は(むせ)び、光がむせびなく、参考歌、

寝てきけば春夜のむせび泣くごとしスレート屋根に月の光れる

 

 ()なむ、()なむ、二人(ふたり)()なむ。

 

 この「二人(ふたり)」と白秋は晶子に思ひを掛けたが、五年の歳月は、

辛かつた………

 

 白秋の「浪漫主義」は「桐の花」で終わる。この「ふさぎの虫」の最終行「ははははは……………………」の詠嘆符の意味は深い。

 

「ふさぎの蟲」第百二十九行の四(晶子との秘め事)

「ふさぎの蟲」第百二十九行の四(晶子との秘め事)

俺ははらはらしながら自分の面の皮でも一枚一枚ひん飜(めく)られるやうに辛かつた………

 

 白秋の自画像と「片恋」の悲しみを思へば、「銀笛哀慕調」に思い至る。

 「銀笛哀慕調」の【哀慕】とは、

[名](スル)愛する人の死を悲しみ、その人を慕うこと。

 第一首より第五首までは鎮夫への「哀慕」で、第六首からが、晶子への相聞ならぬ片聞歌となる。

 

ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日

 

 始めて東京新詩社を訪ねた時の歌だ、参考文「田中章義(たなか あきよし)さん」のHPより、
 

早春を代表する香りのいいヒヤシンス。

ヒヤシンスの名前は、ギリシャ神話の美青年ヒヤキントスに由来するそうです。

ヒヤキントスが同性のアポロンと楽しそうに円盤投げをして遊んでいた際、二人に嫉妬をした別の神様が風を吹かせ、円盤がヒヤキントスの額に当たってしまいました。

ヒヤキントスはこれが致命傷となり、命を落としてしまいます。

この時、流した血から生まれた花がヒヤシンスだったと言われています。花言葉は「悲しみを超えた愛」なのだそうです。

 

そんな「ヒヤシンス」を詠んだ青年期の北原白秋。

歌人としてはもちろん、「ペチカ」「からたちの花」「この道」「ゆりかごのうた」などの童謡の作詩者としても知られています。

淡い「薄紫」のヒヤシンスが恋に揺れる歌人のこころに何かを感じさせてくれたのでしょうか。

 

作家として名高い芥川龍之介も二十代前半に多くの和歌を詠み、「片恋の わが世さみしく ヒヤシンス うすむらさきに にほひそめけり」という作品を残しています。

ヒヤシンスの薄紫色は、どことなく片想いのせつなさを想起させるのでしょう。

白秋はあえて漢字で、龍之介はあえてひらがなで、「薄紫(うすむらさき)」と色彩を表記したヒヤシンス。

 

江戸時代末期に入ってきたヒヤシンスは、日本では「にしきゆり」とも呼ばれていました。

与謝野晶子に、「紫の ヒヤシンス泣く くれなゐの ヒヤシンス泣く 二人並びて」という作品もあります。

相聞歌(恋の歌)に多く詠まれたヒヤシンス。太い花茎に支えられたたくさんの小花は、なるほど、思いが溢れる青春期の恋心のようです。

植物でありながら、実は恋する誰かにとてもよく似ている花なのかもしれません。以上

 

第七首

かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし

 

 晶子の黒い眸からくるまなざしに白秋は癒される。対応する晶子の参考歌、

 

みだれ髪

 

水に飢ゑて森をさまよふ小羊のそのまなざしに似たらずや君

 

 小題が「臙脂紫」

〘名〙 赤の濃い紫色。

※みだれ髪(1901)〈与謝野晶子〉春思「湯あがりを御風(みかぜ)めすなのわが上衣(うはぎ)ゑんじむらさき人うつくしき」

 

第八首

君を見てびやうのやなぎ薫るごとき(むな)さわぎをばおぼえそめにき

 

白秋、晶子を、びやうのやなぎ(未央柳)に例える。最高の賛辞だろう。出典が、白楽天の「長恨歌」で楊貴妃の美しさを称えている。

 「太液の芙蓉未央の柳此に対ひて如何にしてか涙垂れざらむ」

 太液の池の蓮花を楊貴妃の顔に、未央宮殿の柳を楊貴妃の眉に喩える。

 「片恋」の始まり。胸騒ぎはすぐに悲しみに変わる。隠し通さねばならない、象徴詩

 

ただ秘めよ

 

()ひけるは、

あな、わが少女(をとめ)

天艸(あまくさ)(みつ)少女(をとめ)よ。

()が髪は(からす)のごとく、

()(くち)()()(あけ)没薬(もつやく)(しゆ)(したた)らす。

わが鴿(はと)よ、わが友よ、いざともに(いだ)かまし。

(くゆり)()き葡萄の酒は

玻璃(ぎやまん)(つぼ)()るべく、

もたらしし麝香(じゃこう)(ほぞ)

()が肌の百合に染めてむ。

よし、さあれ、()が父に、

よし、さあれ、()が母に、

ただ()めよ、ただ守れ、(いつ)き死ぬまで、

(しひたげ)の罪の(しもと)はさもあらばあれ、

ああただ()めよ、()くるす(あい)(しるし)を。

 

 「五足の靴」で旦那との旅での詩、死ぬまで口を割らぬ誓い。

 

()(くち)()()(あけ)没薬(もつやく)(しゆ)(したた)らす。

 

対応首、第二十一、二首、

 

あまりりす息もふかげに燃ゆるときふと(くちびる)はさしあてしかな

 

くれなゐのにくき唇あまりりすつき放しつつ君をこそおもへ

 

 当首は前にも「あまりりす」を晶子として述べた。年上の人との秘め事を良く表現している。

「ふさぎの蟲」第百二十九行の三(白秋の晶子への悲しき慕情)

「ふさぎの蟲」第百二十九行の三(白秋の晶子への悲しき慕情)

俺ははらはらしながら自分の面の皮でも一枚一枚ひん(めく)られるやうに辛かつた………

 

 前「二」の傍証として、孫引きながら、白秋の俊子との書簡を出しておきたい。

 

「月吠ノート」

「05.13 18話ー白さんアッコさんのこと」より一部引用、

 

一方、晶子が『明るみへ』を執筆している時期ー大正二年の白秋は

明治四十五年の姦通事件の相手、俊子さんと恋愛関係が続いていながら、人妻である俊子さんの離婚手続きがうまくいかず、結婚に至れないという状況でした。

(その後大正三年に夫婦として三崎に移住しますが、白秋の家族と俊子さんのそりがあわず、数ヶ月で俊子さんは先に三崎を離れ、大正三年夏に離別しています。

これまで何度か触れている、朔太郎の白秋宛の手紙が多く残り、二人の関係が密になるのは同年秋のことです)

 

俊子さん宛の手紙が『白秋全集 39巻 書簡』に収録されています。その中に

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(前略)

 

僕はあなたを思ふ存分迷はす方法を知つてゐる。またある外の女を夢中に迷はす方法も知つてゐる。それはたゞーーーーもつと自分を夢想家にするか、一段低級に身を落すかの二つである。

そこでーーーー面倒くさいからこんな事はやめやう。まあまあ御安心なさい。今のところまだ用心に用心して手紙をかいてゐるから。

 晶子さんとの中は心と心の戦争です。それはこの位僕の対手にして面白い人はない、憎いほどに神経がはたらいてゐる。然しかはゆくはない、然しね、巴里にゐて僕の事をきいてたゞ一人日本に帰つて来たのは何のためでせう。あなたが写真を焼いたので向ふで病気になつたさうだ、すまぬ事をするではないか、然し今の僕の心はやはりあなたといふ人をあの人の前に見せつけてやりたいのさ。僕もバカになつて了つたものだね。どうしてこんなに誰かゞかはいいのかね。

 東雲堂の西村陽吉君は青鞜の平塚明子から可愛がられて夢中になつてゐるよ。平塚といへばこん度の僕たちの事件は明子草平の事件以来の話のたねになつてゐる、随分評番してゐる。あなたもしつかり

覚悟なさい、今に立派に名乗りをあげさしてあげる。僕は今二人のそも〵〳からの小説を書いて見やうかと思ふ、随分評番のものが出来るぜ、それとも芝居にして見やうかとも思つてゐる。とし子といふ女をどういふ風にかくかは僕の方寸にある、お前が干渉してはいけない。とにかく正直に見たまゝをかくから怒つてはいけない、だきやうなんぞしないから、キツスを百も二百も持つてきたつて、だきやうはしないから、怖がらなくていいさ、僕はお前に惚れてゐるんだもの、バカだね。

                               南 低 吉

大きらひなリリーさん

 

ーーー大正二年一月 北原白秋 福島俊子宛書簡(『白秋全集 39巻』岩波書店)

 

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(前略)

 

晶子さんに就ての邪推はおよしなさい。

 

(後略)

 

ーーー大正二年八月二十四日 北原白秋 福島俊子宛書簡(『白秋全集 39巻』岩波書店)

 

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(前略)

 

鉄雄は晶子さんの世話にて出版業の処に落ちつくらしく候。晶子さん一人にて二三日内に遊びに来る由、お前様がゐたらばよきにとおもひ居候。何となく不思議な気持ちにて待ちうけ居候。それとてもつまらぬ邪推はなさるまじく候。

 

(後略)

 

ーーー大正二年八月二十八日 北原白秋 福島俊子宛書簡(『白秋全集 39巻』岩波書店)

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という、俊子さんが晶子に嫉妬していたことが窺える文面があります。

他にも度々晶子の名前は出てきて、白秋の家族についても働き口を世話したり詩人として人気絶頂の中の下獄で社会的に傷を負った白秋を頻りに励まし支えていることがわかります。

 

俊子さん宛の手紙では、鞘当てに使ってる感がなきにしもあらず…な、白秋のこういう所を感じ取った上での晶子の「明るみへ」の記述なのかな〜と思ってさらに白秋の『桐の花』中の

 

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ほれぼれと君になづきしそのこころはや裏切りてゆくゑしらずも

                      才高きある夫人に

 

ーーーー北原白秋『桐の花』以上

 

 映画「この道」でも、晶子を羽田美智子が演じ、酒を酌み交わしている。「片恋」ではなく友情なのだろう。白秋は「白秋」で「片恋」は想像界の詩であり続ける。鳴かぬ鳥の悲しみ、これが当集の心なのだろう。

 

片恋

 

あかしやの(きん)と赤とがちるぞえな。

かはたれの秋の光にちるぞえな。

片恋(かたこひ)薄着(うすぎ)のねるのわがうれひ

曳舟(ひきふね)」の水のほとりをゆくころを。

やはらかな君が吐息(といき)のちるぞえな。

あかしやの金と赤とがちるぞえな。

四十二年十月

 

野田宇太郎の「浮世絵と近代詩」に、

「ちるぞえな」といふ純然たる芝居ことばに溶けこんで。とある。

 白秋も芝居がかる、

 

才高きある夫人に

 

ほれぼれと君になづきしそのこころはや裏切りてゆくゑしらずも

 

 

嗅ぎなれしかのおしろいのいや薄く(つめ)たき(なさけ)忘られなくに

 

 晶子の「薄く(つめ)たき(なさけ)」と嘆き、恋しく悲しむ慕情だろうか。

「ふさぎの蟲」第百二十九行の二(晶子と白秋)

「ふさぎの蟲」第百二十九行の二(晶子と白秋)

俺ははらはらしながら自分の面の皮でも一枚一枚ひん(めく)られるやうに辛かつた………

 「辛かつた………」を白秋の自画像に思いを馳せる。

 晶子への恋情は、これまでも指摘してきたが、謎の一首を読み解いた。

銀笛哀慕調

1春

 

一匙(ひとさじ)のココアのにほひなつかしく(おとな)ふ身とは知らしたまはじ

 

 末句が、知らしたまはじ、と敬語になっている。また「(おとな)身」と女性と知れる。それで、訪ふ、何処へ。

 解答が、訪仏。

一九一二年(明治四五)五月,晶子はヨーロッパに向けて出発した。鉄幹に会うために。後十二首に、

 

ああ笛鳴る思ひいづるはパノラマの巴里(パリス)の空の春の夜の月

 

 白秋は、晶子に無聊の寂しさの餌食にされていたのであろう。晶子の奔放さの例文、

与謝野晶子,寛夫妻のパリ,ヨーロッパ逍遥(しょうよう)

          と『夏より秋へ』

                   福 永 勝 也

        はじめに

平安以降,日本文学の一翼を担ってきた短歌は,明治の世においても伝統的な⽛花鳥諷詠⽜の風雅を重んじることにさほどの変容はなかった。ところが,そのような伝統的歌壇に挑むかのように,女性の側からの赤裸々な恋情の吐露,それも妖艶(ようえん)な肉体美や性的隠喩(いんゆ)すら織り交ぜて,その歓喜を高らかに(うた)い上げる女流歌人が彗星の如く登場する。まるでジャンヌダルクの出現を彷彿させ,「革命歌人」と形容してもけっしておかしくない与謝野晶子がその人である。

彼女は少女のような直向(ひたむ)きさと恋愛至上主義,さらには女性の自我の確立という堅固な信念を胸に,それまで歌壇を支配してきた伝統的道徳観念に対して勇猛果敢に挑戦を試みる。そして,結果的にそれを完膚無きまで打ち破り,閉塞感に不満を持っていた若き大衆たちから拍手喝采を受け,一躍,人気抒情歌人としてスポットライトを浴びる。

その発端は処女歌集『みだれ髪』の刊行で,そこに収録された短歌のどれもが,男中心の封建的社会に対する「個」としての女性の尊厳と権利の主張,そして自我の存在確認を訴求するという思想的文脈におけるフェミニズムの表象である。その新しい眼差しは肉体を含めた人間美の礼讃,さらには自己肯定的な恋愛至上主義へと飛翔を続け,究極的には封建的因襲によって封じ込められてきた女性解放への叫びとなる。以上

 

 もう一つの例証、

女友どち

 才高きある夫人に

 

ほれぼれと君になづきしそのこころはや裏切りてゆくゑしらずも

 

 才高き夫人とは、出典、

〇明治34年3月15日発行の『鉄幹子』による本文 

 

      人を戀ふる歌                 

           (三十年八月京城に於て作る)

 

(つま)をめとらば才たけて

顔うるはしくなさけある

友をえらばば書を讀んで

六分の俠氣四分の熱

 

 戀のいのちをたづぬれば

 名を惜むかなをとこゆゑ

 友のなさけをたづぬれば

 義のあるところ火をも踏む

 

 くめやうま酒うたひめに

 をとめの知らぬ意氣地あり

 簿記(ぼき)の筆とるわかものに

 まことのをのこ君を見る

 

 あゝわれコレッヂの奇才なく

 バイロン、ハイネの熱なきも

 石をいだきて野にうたふ

 芭蕉のさびをよろこばず

 

 人やわらはん業平(なりひら)

 小野の山ざと雪を分け

 夢かと泣きて齒がみせし

 むかしを慕ふむらごころ

 

 見よ西北(にしきた)にバルガンの

 それにも似たる國のさま

 あやふからずや雲裂けて

 天火(てんくわ)ひとたび()らん時

 

 妻子(つまこ)をわすれ家をすて

 義のため耻をしのぶとや

 遠くのがれて(うで)を摩す

 ガリバルヂイや今いかん

 

 玉をかざれる大官(たいくわん)

 みな北道(ほくどう)訛音(なまり)あり

 慷慨(かうがい)よく飲む三南(さんなん)

 健兒(けんじ)は散じて影もなし

 

 四たび玄海の浪をこえ

 (から)のみやこに來てみれば

 秋の日かなし王城や

 むかしにかはる雲の色

 

 あゝわれ如何にふところの

 (つるぎ)(なり)をしのぶとも

 むせぶ涙を手にうけて

 かなしき歌の無からんや

 

 わが歌ごゑの高ければ

 酒に狂ふと人は云へ

 われに過ぎたる希望(のぞみ)をば

 君ならではた誰か知る

 

「あやまらずやは眞ごころを

 君が詩いたくあらはなる

 むねんなるかな()ゆる血の

 價すくなきすゑの世や

 

 おのづからなる天地(あめつち)

 戀ふるなさけは洩すとも

 人を罵り世をいかる

 はげしき歌を秘めよかし

 

 口をひらけば嫉みあり

 筆をにぎれば譏りあり

 友を諌めに泣かせても

 猶ゆくべきや絞首臺(かうしゆだい)

 

 おなじ憂ひの世にすめば

 千里のそらも一つ家

 おのが袂と云ふなかれ

 やがて二人(ふたり)のなみだぞや」

 

 はるばる寄せしますらをの

 うれしき(ふみ)を袖にして

 けふ北漢の山のうへ

 駒たてて見る日の出づる(かた)

 

 有名な詩だが、現代では歌を聴くことも稀になった。

 今回は、遊ばれた白秋の悲しみを理解したい。少しづつ白秋の謎も解けてきた。

「ふさぎの蟲」第百二十九行(白秋の詠嘆符)

「ふさぎの蟲」第百二十九行(白秋の詠嘆符)

俺ははらはらしながら自分の面の皮でも一枚一枚ひん(めく)られるやうに辛かつた………

 

 当行、前行からの白秋の自画像を話題にしている。「この點々(ポチポチ)は何だ。」との看守長からの尋問に注目すれば、「………」に目がゆく。

 そういえば最終行も「ははははは……………………」で終わる。

 それで探せば、「………」のある自画像が「思ひ出」に有った。

 

白秋の詩は、

ⅠⅡⅢⅣⅤⅥⅦ

ⅧⅨⅩⅪⅫ……

………

過ぎゆく時計

の音のあや

しさよ。

晝ハ晝とて

苅麥に…

……

 

 白秋、「苅麥に………」と點々(ポチポチ)を付けている。対応する詩、

「思ひ出」

「苅麥のにほひ」

 

あかい日の照る苅麥に

そつと眠れば人のこゑ、

鳥の鳴くよに、欷歔(しやく)るよに、

銀の螽斯(ジイツタン)(はじ)くよに。

 

ひとのすがたは見えねども、

なにが悲しき、そはそはと、

黄ろい羽蟲がやはらかに

()けて(もつ)れて欷歔(しやく)るこゑ。

 

あかい日のてる苅麥に、

男かへせし美代はまた

(あひる)追ひつつその卵

そつと()るなり前掛(まへかけ)に。

 注、螽斯(ジイツタン)、キリギリス

美代とは、「黒い小猫」に描かれた使用人だろう、対応部分、

そつと墮胎(おろ)したあかんぼの蒼い(あたま)か、金茶の眼、

ある日、あるとき、ある人が生埋(いきうめ)にした私生兒(みそかご)

その兒さがすや、金茶の眼、

 

 もう一つの詩、

「穀倉のほめき」

 

思ひ出は(こく)倉の(ひき)(うす)の上に

ぼんやりと置きわすれたる蝋燭の火か、

黄いろなる蝋燭の火は

苅麥(かりむぎ)と七面鳥の卵とに陰影(かげ)をあたへ、

惡戲者(いたづらもの)の二十日鼠にうちわななく。

 

柔かに鳴く聲は物忘(ものわす)れゆく女のごとく、

薄あかりする空窓(そらまど)の硝子より、

ふけゆく(よる)のもののねをやかなしむ。………

黄いろなる蝋燭のちろちろ火。

 

いまだに大人(おとな)びぬ TONKA JOHN のこころは

かの穀物(こくもつ)の花にかくれんぼの友をさがし、

暖かにのこりたる(まつり)のお囃子(はやし)にききふける…………

 

さみしき曙の見えて

顏青き乞食らのさし覗かぬほどぞ、

しづやかに燃え盡きむ

美くしき蝋燭のその涙…………

 註 Tonka John. 大きい方の坊つちやん、弟と比較していふ、柳河語。

   殆どわが幼年時代の固有名詞として用ゐられたものなり。

   人々はまた弟の方を Tinka John と呼びならはしぬ。阿蘭陀訛?

 

 以上、「辛かつた………」を、白秋の自画像と詩を参照して、白秋の心は、この歌なのだろう。

放埒

美くしきかなしき痛き放埒の薄らあかりに堪へぬこころか

 

 そこで、この点々を文法で判断するならば、記号文字では悲しい。感嘆符では無いのだから、詠嘆符と名付けよう。

 白秋も辛い顔の自画、像は描けなかった、母を心配させたくなかったからだろうか。

 ふさぎの虫、読み応えがある。桐の花の掉尾を飾る迷彩詩だ。

 

 何か質問とかあれば、コメントしてください。

「ふさぎの虫」第百二十八行(ゴッホの青い眼玉)

「ふさぎの虫」第百二十八行(ゴッホの青い眼玉)

また(めく)ると矢張り黄色く滲み込んでゐる、また一枚また一枚、矢つ張り青い眼玉が光つてゐる。

 

 当行、「青い眼玉が光つてゐる」に注目すると、「蜻蛉(とんぼ)眼玉(めだま)」に行き当たる。「麦稈帽子(むぎわらばうし)」も出てくるので「麦わら帽をかぶった自画像」を意識した詩だろう。

 

蜻蛉(とんぼ)眼玉(めだま)

 

蜻蛉(とんぼ)眼玉(めだま)(でつ)かいな、

(ぎん)ピカ眼玉(めだま)碧眼玉(あをめだま)

(まア)るい(まア)るい眼玉(めだま)

地球儀(ちきうぎ)眼玉(めだま)

(せは)しな()(だま)

眼玉(めだま)(なか)に、

小人(こびと)()んで、

(せん)(まん)()んで、

てんでんに虫眼鏡(むしめがね)で、あつちこつち(のぞ)く。

(うウへ)()いちやピカピカピカ。

(しイた)()いちやピカピカピカ。

クルクル(まは)しちやピカピカピカ。

 

玉蜀黍(たうもろこし)(とま)れば玉蜀黍(たうもろこし)(うつ)る。

雁来紅(はげいとう)(とま)れば雁来紅(はげいとう)(うつ)る。

(せん)(まん)(うつ)る。

綺麗(きイれい)な、綺麗(きれい)な、

五色(ごしき)のパノラマ、綺麗(きイれ)いな。

 

ところへ、子供(こども)()んで()た、

黐棹(もちざを)ひゆうひゆう()んで()た。

さあ、()げ、

わあ、()げ、

麦稈帽子(むぎわらばうし)()つて()た。

(せん)(まん)()つて()た。

おお(こは)

ああ(こは)

ピカピカピカピカ、ピッカピカ、

クルクル、ピカピカ、ピッカピカ。

注、初出:蜻蛉の眼玉「赤い鳥 3巻3号」

   1919(大正8)年9月1日

 

 当行で白秋が寓意としているのは「自殺」、ゴッホは1890年7月29日オーヴェル=シュール=オワーズでピストル自殺で死んだといわれる。ゴッホが兄と最期に交わした言葉の一つが「このまま死んでゆけたらいいのだが」だった。

 後の「ふさぎの虫」に、

「さうだ、盆の十六日。」

「あの睾丸(きんたま)抓んだら死ぬんでせうか。」

白秋が、自殺をほのめかす。

 

「ふさぎの虫」第百八行(白秋の戯談)にも、

俺が自殺したら無論肉親の一人二人は墓場迄も縦いて来るだらう――これは偽りでない――而してあの女でもひよつとかしたらあの可愛いい小さな心臓を今度は戯談でなしにキユツとピンの尖きで突き刺して笑つて眠て了ふかもわからない。

 

 白秋も劇的に死ぬのが理想だった時も有った。しかし、「コンプレックス」、

精神分析で、感情の複合。現実の意識に反する感情が抑えつけられたまま保存され、無意識のうちに現実の意識に混じり込んでいるもの。強迫観念や夢はこの複合が象徴的に現れたもの。

 これの三乗ぐらいの複雑系でもあろうか。

 この「ふさぎの虫」の難渋さはすばらしい。

 最終行「ははははは……………………」の意味が、読者に対する挑戦の意味でもあるのだろう。

「ふさぎの虫」第百二十七行(白秋の真黄色の自画像)

「ふさぎの虫」第百二十七行(白秋の真黄色の自画像)

「それはバタで。」「この点々(ポチポチ)は何だ。」「それは辛子(からし)で御座います。」「青い眼玉はどうした。」俺はつくづく苦笑した、「それはサラダを(しぼ)りましたので。」一帖の半紙を一枚(めく)ると矢つ張り下にも俺の真紅な顔が泣つ面をしてゐる。

 

 一帖とは、紙や海苔(のり)などの一定枚数を一まとめとして数えるのに用いる。絵巻物と言う意味でもあるだろう。小さいころ、東映映画の「鳴門秘帖」を見た思い出がある。

 

 「青い眼玉」に注目すれば、ゴッホの自画像に間違いない。白秋、憧れたのだろう。ゴッホの自画像、

 

 「桐の花」が白秋の頂点であるのは間違いない。「桐の花」は高く気高い。

  「桐の花」第百三十首 

 第五章「薄明の時」第三十首

 小題「浅き浮名」六 詞書付き

 

たんだ振れふれ六尺袖を

 

 桐の花ことにかはゆき半玉の泣かまほしさにあゆむ雨かな

 

 最終首は絶望、

ひもじきかなひもじきかな

わが心はいたしいたしするどにさみし

 

吾が心よ夕さりくれば蝋燭に火の()くごとしひもじかりけり

 

 それでも、幸せな時も描いている、

 白秋の「真黄色(まつきいろ)」を表現した詩文、東京景物詩及其他より、

 

新生

 

新らしい真黄色(まつきいろ)な光が、

湿(しめ)つた灰色の空――雲――腐れかかつた

暗い土蔵の二階の窻に、

出窻の白いフリジアに、髄の髄まで

くわつと照る、照りかへす。真黄な光。

 

真黄色だ真黄色だ、電線(でんせん)から

忍びがへしから、庭木から、倉の鉢まきから、

雨滴(あまだれ)が、憂欝が、真黄に光る。

黒猫がゆく、

屋根の(ひさし)の日光のイルミネエシヨン。

 

ぽたぽたと塗りつける雨、

神経に塗りつける雨、

霊魂の底の底まで沁みこむ雨

雨あがりの日光の

欝悶の火花。

 

真黄(まつき)だ……真黄(まつき)な音楽が

狂犬のやうに空をゆく、と同時に

俺は思はず飛びあがつた、驚異と歓喜に

野蛮人のやうに声をあげて

匍ひまはつた……真黄色な灰色の室を。

 

女には児がある。俺には俺の

苦しい矜がある、芸術がある、而して欲があり熱愛がある。

古い土蔵の密室には

塗りつぶした裸像がある、妄想と罪悪と

すべてすべて真黄色だ。――

心臓をつかんで投げ出したい。

 

雨が霽れた。

新らしい再生の火花が、

重い灰色から変つた。

女は無事に帰つた。

ぽたぽたと雨だれが俺の涙が、

真黄色に真黄色に、

髄の髄から渦まく、狂犬のやうに

燃えかがやく。

 

午後五時半。

夜に入る前一時間。

何処(どつか)で投げつけるやうな

あかんぼの声がする。

四十四年十月

 

四十四年の春から秋にかけて自分の間借りして居た旅館の一室は古い土蔵の二階であるが、元は待合の密室で壁一面に春画を描いてあつたそうな、それを塗りつぶしてはあつたが少しづつくづれかかつてゐた。もう土蔵全体が古びて雨の日や地震の時の危ふさはこの上もなかつた。

 

黄色い春

 

黄色(きいろ)、黄色、意気で、高尚(かうと)で、しとやかな

棕梠の花いろ、卵いろ、

たんぽぽのいろ、

または児猫の眼の黄いろ……

みんな寂しい手ざはりの、岸の柳の芽の黄いろ、

夕日黄いろく、(こな)が黄いろくふる中に、

小鳥が一羽鳴いゐる。

人が三人泣いてゐる。

けふもけふとて(べに)つけてとんぼがへりをする男、

三味線弾きのちび男、

俄盲目(にわかめくら)のものもらひ。

 

(まち)の四辻、古い煉瓦に日があたり、

窓の日覆(ひよけ)に日があたり、

(こな)屋の前の腰掛に疲れ心の日があたる、

ちいちいほろりと鳥が鳴く。

空に黄色い雲が浮く、

黄いろ、黄いろ、いつかゆめ見た風も吹く。

 

道化男がいふことに

「もしもし淑女(レデイ)、とんぼがへりを致しませう、

美くしいオフエリヤ様、

サロメ様、

フランチエスカのお姫様。」

白い眼をしたちび男、

「一寸、先生、心意気でもうたひやせう」

俄盲目(にわかめくら)(うしろ)から

「旦那様や奥様、あはれな片輪で御座います、

どうぞ一文。」

春はうれしと鳥も鳴く。

 

夫人(おくさん)

美くしい、かはいい、しとやかな

よその夫人(おくさん)

御覧なさい、あれ、あの柳にも、サンシユユにも

黄色い木の芽の()が煙り、

ふんわりと沁む地のにほひ。

ちいちいほろりと鳥も鳴く

空に黄色い雲も浮く。

 

夫人(おくさん)

美くしい、かはいい、しとやかな

よその夫人(おくさん)

それではね、そつとここらでわかれませう、

いくら()つてもねえ。

 

黄色、黄色、意気で高尚(かうと)で、しとやかな、

茴香(うゐきやう)のいろ、卵いろ、

「思ひ出」のいろ、

好きな児猫の眼の黄いろ、

浮雲のいろ、

ほんにゆかしい三味線の、

ゆめの、夕日の、()の黄色。

四十五年三月

 

注、小鳥が一羽鳴いゐる。

人が三人泣いてゐる。

白秋の三味線で、小鳥が鶯で三人とは、白秋と鎮夫と先の世の人だろうか。

ちいちいほろりと鳥も鳴く、

白秋は自己の音を大切にするので、ホーホケキョを、こう表現する。

三味線弾きのちび男、

俄盲目(にわかめくら)のものもらひ

白秋の悲しみをこう表現する、「ノートルダムのせむし男」と同表現、

夫人(おくさん)も俊子だが、幸せな時を描いている。