象徴詩としての「ふさぎの蟲」
第百五十四行
変だ、何だか何処かで火事でも燃え出しさうだ、空が焼ける、子供が騒ぐ、遠くの遠くで音も立てずに半鐘が鳴る……をや、俺の脳膸までが黄くさくなつて来たやうだぞ……犬までが吠え出した……何か起るに相違ない。
当行、「遠くの遠くで音も立てずに半鐘が鳴る」に注目すれば、象徴詩なのだろう。その定義は、「世界史の窓」では、科学的合理性や写実を否定し、象徴的手法で物事の真の姿を暗示する。
当行では、「遠くの遠くで音も立てずに半鐘が鳴る」が該当する。
常識では、遠くの音は聞こえず、音を立てずに半鐘を鳴らすことが出来ない。
白秋の心を類推してきて、当行から最終二行の意味が読み解けてきた。世俗を去り、詩に生きるだろうか。
最終二行は、
ははははは……………………
ははははは……………………
この最終二行で白秋、何を笑い飛ばしているのか。
当時の白秋は、犯罪者として「朱欒(大正元年九月号)」に「わが愛する人々に」で謝罪文を書いている。だが、同時期に書かれた当小品の最終行は、白秋の大笑いなのだ。
心のままを書けない。耽美に生きれば、親族郎党が生きてゆけない。その苦しみを笑うことで耐えることだろう。その「笑ふ」を後に歌にしている。
雲母集(1915、大正4年)
三崎哀傷歌
大正二年一月二日、哀傷のあまりただひとり海を越えて三崎に渡る。淹留旬日、幸に命ありてひとまづ都に帰る。これわが流離のはじめなり。
深々と人間笑ふ声すなり谷一面の白百合の花
笑うという意味、「春の芽吹きはじめた華やかな山の形容」広辞苑。さらに参考歌、
夏の野の繁みに咲ける姫百合の知れえぬ恋は苦しきものぞ
万葉集 大伴郎女
白秋の片恋の思いを込めて;
さはいへどそのひと時よまばゆかりき夏の野のしめし百合の花
みだれ髪 与謝野晶子
第百六首
すっきりと筑前博多の帯をしめ忍び来し夜の白百合の花
白秋の耽美も冴えわたる、
すつきりと筑前博多の帯をしめ忍び来し夜の白ゆりの花
「桐の花事件」は、白秋の失敗ではなく、耽美の極み、これは言えないので、「ふさぎの虫」として公表した。だから、読み解く人が居ない。世間に逆らう内容なので象徴詩にした。だから意味不明でここまで来た。ここまで来てうれしい。