現代短歌とともに -4ページ目

「ふさぎの蟲」第百三十四行(とんぼがへりの思ひ出の二)

   「ふさぎの蟲」第百三十四行(とんぼがへりの思ひ出の二)

くるくると二つばかりとんぼがへりをする。

 

 白秋の初恋の思ひ出を読んで、「柔かな」から「やはらかに」への変化を見てみたい。

 

 私はある夕かた、六騎の貧しい子供らの群に交つて喇叭を鳴らし、(くさ)れた野菜と胡蘿葡の()ごれた(どぶ)どろのそばに、粗末な蓆の小屋をかけて、柔かな羽蟲の(もつ)れを(かな)しみながら、ただひとり金紙に緋縅の鎧をつけ、鍬形のついた甲を戴き、木太刀を佩いて生眞面目(きまじめ)に芝居の身振をしてゐたことがあつた。以上、「桐の花」では、

 

やはらかに夏のおもひも老いゆきぬ中年の日の君がまなざし

 

鳩よ鳩よひとりぽつちのわが鳩よ

 

煩悩の赤き花よりやはらかに煙る草生(くさぶ)へ鳩飛びうつる

 

 活字を眺めていても無駄で、白秋が「マザーグース」での言葉、

それでそのお話をお母さんからうかがったり、そのお唄を夢のようにうたっていただいたりするイギリスの子供たちは、どんなにあの(きん)の卵をうむがちょうや、マザア・グウスのおばあさんをしたわしく思うかわかりません。以上

 

 音楽として歌を味わうということだろうか。白秋、

邪宗門扉銘

 

ここ過ぎて曲節(メロデア)の悩みのむれに、

ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、

ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。

 

挿絵では、

越前堀とあるから「ふさぎの虫」も「柔かな羽蟲の(もつ)れを(かな)しみながら」やはらいでいるのだろう。

 

「ふさぎの蟲」第百三十四行(とんぼがへりの思ひ出)

    「ふさぎの蟲」第百三十四行(とんぼがへりの思ひ出)

くるくると二つばかりとんぼがへりをする。

 

 当行、白秋が「とんぼがへり」と思ひ出を呼び出だす。初恋も含むのだろう。白秋の七歳(ななつ)水祭(みずまつり)

 

わが生ひたち6

美くしい小さな Gonshan. 忘れもせぬ七歳(ななつ)の日の水祭(みずまつり)に初めてその兒を見てからといふものは私の羞耻(はにかみ)に滿ちた幼い心臟は紅玉(ルビイ)入の小さな時計でも懷中(ふところ)(かく)してゐるやうに何時となく幽かに顫へ初めた。

 

ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫ひそめし日

 

三句切れ、後二句が初恋が水祭(みずまつり)の日、白秋の幼児期の終わりを詠んだ、白秋の体言止めが決まって良い。「はじめて」と「そめし」が、初めてと、と()めしとヒヤシンスに「染し」と掛けている。

 

この「()めし」と「はじめ」の用例は「若菜集」だろう。

 

 

若菜集

初戀

 

まだあげ()めし前髮(まへがみ)

林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花櫛(はなぐし)

花ある君と思ひけり

 

やさしく白き手をのべて

林檎をわれにあたへしは

薄紅(うすくれなゐ)の秋の()

人こひ()めしはじめなり

 

わがこゝろなきためいきの

その髮の毛にかゝるとき

たのしき戀の(さかづき)

君が(なさけ)に酌みしかな

 

林檎畑の()(した)

おのづからなる細道(ほそみち)

()が踏みそめしかたみぞと

問ひたまふこそうれしけれ

 

 藤村の耽美、白秋の豪華絢爛と違い、「自然主義」の薄紅(うすくれなゐ)といえるのだろうか。白秋の用例では、

童謡

薔薇

薔薇は薄紅(とき)いろ、 なかほどあかい。 重ね花びら、 ふんわりしてる。 薔薇は日向に お夢を見てる。 蟻はへりから のぞいて見てる。 薔薇の花びら、 そとがわ光る。 なかへ、その影、うつして寝てる。 

 

 とき色は江戸時代に生まれた、この当時は朱鷺(とき)がいたるところにみられたので、『朱鷺色』といわれた。

 

 白秋の色彩感覚はうかがい難い。

 

「ふさぎの蟲」第百三十三行(淫らな活惚)

   「ふさぎの蟲」第百三十三行(淫らな活惚)

活惚、活惚、甘茶で活惚、塩茶で活惚、ヨイトナ、ヨイ、ヨイ、……

 

 当行、白秋の「ふさぎの虫」原因の「(たはれ)ごころ」の歌をいう。

 「鶏頭、鶏頭、俺はもう気が狂ひさうだ。」で、段落を終え、白秋の意識に「活惚」が聞こえてくる。「思ひ出」より、

 わが生ひたち8

ある夜はわれとわが(たましひ)の姿にも驚かされたことがある。(そと)には三味線の()じめも投げやりに、町の娘たちは觀音さまの紅い提燈に結びたての髪を匂はしながら、華やかに肩肌脱ぎの一列(いちれつ)になつてあの淫らな活惚(かつぽれ)を踊つてゐた。取り亂した化粧部屋にはただひとり三歳(みつつ)四歳(よつつ)の私が(はひ)(まは)りながら何ものかを探すやうにいらいらと氣を(あせ)つてゐた。ある拍子に、ふと薄暗い鏡の中に私は私の思ひがけない姿に衝突(ぶつつ)かつたのである。鏡に映つた兒どもの、(つら)には凄いほど眞白(まつしろ)白粉(おしろひ)()つてあつた、(まつげ)のみ黒くパツチリと(ひら)いた(ふたつ)の眼の底から恐怖(おそれ)(すく)んだ瞳が生眞面目(きまじめ)震慄(わなな)いてゐた。さうして見よ、背後(うしろ)から尾をあげ()を高めた黒猫がただぢつと(きん)の眼を光らしてゐたではないか。私は悸然(ぎよつ)として泣いた。以上

 

 人格形成は三歳くらいから始まり、価値観や特性などの基礎的な部分は十歳までに確立すると言われている。小品「白猫」での挿絵の猫は幽霊のように描かれ、白秋の分身のようでもあった。上記の文からも「黒猫の金の眼」が「わが(たましひ)」を脅かす存在と知れる。

 そして「淫ら活惚(かつぽれ)」とは、生きる喜びといえるだろうか。

 白秋も「霊」とは、雲から雨がしたたり落ちるのを、巫女が受けて喜ぶ姿の象形文字として書いている。また、淫らとは、降りすぎの雨を意味し、そこから、「度を超す」を意味する。短絡するが、かっぽれとは豊穣の神をたたえる歌と思う。

 

 また、「願人坊」という游芸人が「活惚」も踊った、白秋の詩、

 

願人坊

雪のふる()の倉見れば

願人坊を思ひ出す。

雪のふる()に、(おど)けしは

酒屋男(さかやをとこ)の尻かろの踊り上手のそれならで、

(もつと)(みにく)く美しく()ゑてひそめる仇敵(あだがたき)

おのが身の(たはれ)ごころと知るや知らずや。

 

 最後二行が素晴らしい。(たはれ)ごころととは()ゑてひそめる我が心。

「ふさぎの蟲」第百三十二行(鶏頭と寂寥)

      「ふさぎの蟲」第百三十二行(鶏頭と寂寥)

 鶏頭、鶏頭、俺はもう気が狂ひさうだ。

 

 当行、白秋が狂気を嘆く。もう一度挿絵を見てみよう。

 赤地に、三味線と鶏頭が描かれている。先の世(鶏頭)を嘆きながら歌を詠む三味線の白秋に見える。

 

 第一行を見る、。

大正元年八月二十六日午後四時過ぎ、俺は今染々とした気持で西洋剃刀の()を開く。庭には赤い鶏頭が咲いてゐる。細い四角の西洋砥石に油をかけ、ぴつたりと()を当てると、何とも云へぬ手あたりが軟かな哀傷の辷りを続ける。奇異な赤い鶏頭、縁日物ながら血の(やう)鶏冠(とさか)疣々(いぼ/″\)が怪しい迄日の光を吸ひつけて、じつと凝視(みつ)めてゐる私の瞳を狂気さす。

 鶏頭、(おまへ)はまるで寂寥と熱意との一揆のやうだ、何時でも(おまへ)集団(むらがり)さへ見ると俺の気分が(ふさ)ぎ出す。以上

 

 寂寥と熱意との一揆を「ふさぎの虫」がさせている。

 

「ふさぎの虫」第百十四行(鶏頭と晝の三味線)より、

 

「鶏頭」の最終連

ものゆかし、墓の鶏頭、

さきの世か、うつし世にしか、

かかる人ありしを見ずや。

われひとり涙ながれぬ。以上

 

 白秋、輪廻転生を嘆いている。

 

銀笛哀慕調より、

ゆく春のなやみに堪へで

鶯も草にねむれり

たんぽぽに誰がさし置きし()すぢほど日に光るなり春の三味線

 

 白秋が鶯となり夢見ながらさえずっている、この挿絵のように、

 「寂寥」に注目する、ルビが無いことは、当時の読者には要らないということで、読みは「さびしさ」で出典は、島崎藤村の「落梅集」で、また「海潮音」の出典でもある。

 

 今日は、七五調の詩「寂寥」を読んでみたい。

 

藤村詩抄

落梅集より

  明治三十二年――同三十三年

        (小諸にて)

寂寥

 

岸の柳は低くして

羊の群の繪にまがひ

野薔薇の幹は埋もれて

流るゝ砂に跡もなし

蓼科山(たでしなやま)の山なみの

麓をめぐる河水や

龍住む淵に沈みては

鴨の頭の深緑

花さく岩にせかれては

天の鼓の樂の音

さても水瀬はくちなはの

かうべをあげて奔るごと

白波高くわだつみに

流れて下る千曲川

 

あした炎をたゝかはし

ゆふべ煙をきそひてし

駿河にたてる富士の根も

今はさびしき日の影に

白く輝く墓のごと

はるかに沈む雲の外

これは信濃の空高く

今も烈しき火の柱

雨なす石を降らしては

みそらを焦す灰けぶり

神夢さめし天地の

ひらけそめにし昔より

常世につもる白雪は

今も無間の谷の底

湧きてあふるゝ紅の

血潮の池を目にみては

布引に住むはやぶさも

翼をかへす淺間山

 

あゝ北佐久の岡の裾

御牧が原の森の影

夢かけめぐる旅に寢て

安き一日もあらねばや

高根の上にあかあかと

燃ゆる炎をあふぐとき

み谷の底の青巖に

逆まく浪をのぞむとき

かしこにこゝに寂寥(さびしさ)

その味ひはにがかりき

 

あな寂寥(さびしさ)や其の道は

獸の足の跡のみか

舞ひて見せたる大空の

鳥のゆくへのそれのみか

さてもためしの燈火に

若き心をうかゞへば

人の命の樹下蔭

花深く咲き花散りて

枝もたわゝの智慧の實を

味ひそめしきのふけふ

知らずばなにか旅の身に

人のなさけも薄からむ

知らずばなにか移る世に

假の契りもあだならむ

一つの石のつめたきも

萬の聲をこゝに聽き

一つの花のたのしきも

千々の涙をそこに觀る

あな寂寥(さびしさ)や吾胸の

小休(をやみ)もなきを思ひみば

あはれの外のあはれさも

智慧のさゝやぐわざぞ是

 

かの深草の露の朝

かの象潟の雨の夕

またはカナンの野邊の春

またはデボンの岸の秋

世をわびびとの寢覺には

あはれ鶉の聲となり

うき旅人の宿りには

ほのかに合歡(ねむ)の花となり

羊を友のわらべには

日となり星の數となり

夢に添ひ寢の農夫には

はつかねずみとあらはれて

あるは形にあるは()

色ににほひにかはるこそ

いつはり薄き寂寥(さびしさ)

いづれいましのわざならめ

 

さなりおもては冷やかに

いとつれなくも見ゆるより

深き心はあだし世の

人に知られぬ寂寥(さびしさ)

むかしいましが雪山の

佛の夢に見えしとき

かりに姿は花も葉も

根もかぎりなき藥王樹

むかしいましが沅湘の

水のほとりにあらはれて

楚に捨てられしあてびとの

熱き涙をぬぐふとき

かりにいましは長沙羅の

鄂渚(がくしよ)の岸に生ひいでて

ゆふべ悲しき秋風に

香ひを送る(けい)の草

またはいましがパトモスの

離れ小島にあらはれて

歎き仆るゝひとり身の

冷たき夢をさますとき

かりに(おもて)は照れる日や

首はゆふべの空の虹

衣はあやの雲を着て

足は二つの火の柱

默示をかたる言葉は

高きらつぱの天の聲

 

思へばむかし北のはて

舟路侘しき佐渡が島

雲に戀しき天つ日の

光も薄く雪ふれば

毘藍(びらん)の風は吹き落ちて

(ぼん)音聲(おんじやう)を驚かし

岸うつ波は波羅密の

海潮音(かいてうおん)をとゞろかし

朝霜ふれば袖閉ぢて

衣は凍る鴛鴦の羽

夕霜ふれば現し身に

八つのさむさの寒苦鳥

ましてや國の罪人の

安房の生れの栴陀羅(あま)が子を

あな寂寥(さびしさ)や寂寥や

ひとりいましにあらずして

天にも地にも誰かまた

そのかなしみをあはれまむ

 

げに晝の夢夜の夢

旅の愁にやつれては

日も暖に花深き

空のかなたを慕ふとき

なやみのとげに責められて

袖に涙のかゝるとき

汲みて味ふ寂寥(さびしさ)

にがき誠の一雫

 

秋の日遠しあしたにも

高きに登りゆふべにも

流れをつたひ獨りして

ふりさけ見れば鳥影の

天の鏡に舞ふかなた

思ひを閉す白雲の

浮べるかたを望めども

都は見えず寂寥(さびしさ)

來りてわれと共にかたりね

 

注、旃陀羅考、日蓮聖人は非人の子なりという説

くちなはのかうべをあげて奔るごと、蛇が頭を上げて泳ぐように。

中国の湖南省を流れる川の名。沅水(げんすい)。

旧約聖書」でカナンは約束の地。「乳と蜜の流れる地」と呼ばれた。

 

 上田敏は士族出、白秋は商家出、士農工商という言葉がある、アナクロニズムながら、白秋の詩は庶民の詩なのだ。

「ふさぎの蟲」第百三十一行(白秋の言霊)

     「ふさぎの蟲」第百三十一行(白秋の言霊)

Gen-gen, byŌ-soku-byŌ …… Gen-gen, byŌ-soku-byŌ……お岩稲荷大明神様……南無妙法蓮華経……どうぞ商売繁昌致しまするやうに……

当行、隣のお岩稲荷から聞こえてくる、商売繁盛の御祈祷であろう。「南無妙法蓮華経」だから、法華系の祈祷咒法の声が聞こえる。

 

 前行でも「雪と花火余言」より、

「それから一年経たずの内に私は苦しい恋に堕ち、咒はれて、一時はこの世のどん底に迄恋人と墜落して行つた。」

 

 白秋は、誰に呪われているのか? 「思ひ出」より、

 (のち)には晝の日なかにも蒼白い幽靈を見るやうになつた。黒猫の背なかから(にほひ)の強い大麥の穗を眺めながら、(さき)の世の母を思ひ、まだ見ぬなつかしい何人(なにびと)かを探すやうなあどけない眼つきをした。ある時はまた、現在のわが父母は果してわが眞實の親かといふ恐ろしい(うたがひ)()かつて酒桶のかげの蒼じろい(かび)のうへに素足をつけて、明るい晝の日を寂しい倉のすみに坐つた。その恐ろしい(なぞ)を投げたのは氣狂(きちがひ)のおみかの婆である。温かい五月の苺の花が咲くころ、樂しげに青い硝子を碎いて、凧の絲の鋭い上にも鋭いやうに瀝青(チヤン)の製造に餘念もなかつた時、彼女(かれ)は恐ろしさうに入つて來た、さうして顫へてる私に、Tonka John. (おまへ)のお母つかさんは眞實(ほんと)のお母さんかろ、返事をなさろ、證據があるなら出して見んの――私は青くなつた、さうして駈けて母のふところに抱きついたものの、また恐ろしくなつて逃げるやうに父のところに行つた。丁度何かで不機嫌だつた父は金庫の把手(とりて)をひねりながら(かぎ)の穴に鍵をキリリと入れて、ヂロツトとその兒を振りかへつた、私はわつと泣いた。それからといふものは小鳥の歌でさへ私には恐ろしいある(ささや)にきこえたのである。以上

 

 「ある(ささや)き」を詠んだ歌、

 

哀調一首

 

きりはたりはたりちやうちやう血の色の棺衣(かけぎ)織るとか悲しき(はた)

 

 (はた)が「きりはたりはたりちやうちやう」とささやく、先の世の出来事を悲しんでいる、白秋には聞こえる、真っ赤な血の思ひ出。

 白秋の言霊(ことだま)といえるだろう。

 前世の呪い、白秋は旅に出て呪縛から逃れる。「桐の花」が美しいのは白秋の苦しみ故なのだろう。

 

「ふさぎの蟲」第百三十行(堕天使白秋)

    「ふさぎの蟲」第百三十行(堕天使白秋)

ぷつと吹き出して立ち上ると、活惚、活惚、三味線が調子をつける。

 

 前行の「辛かつた……」気持ちを「ぷつと吹き出して立ち上ると」「活惚、活惚」と三味線が調子をつける。

 

 再び「大正元年八月二十六日午後四時過ぎ」に戻り、白秋を見つめよう。

 上田敏は「文学博士」で、予科中退の白秋とでは知識の差がある。また、外国語でも負けている。白秋も、身分の差を知ったことだろう。

 このところの心情を、こう語る。

「雪と花火余言」より、

『思ひ出』は全く私の出世作であつた。之が為めに私はあらゆる世の賞讃と羨望とを受けた。光栄限りなき『思ひ出会』が開催され、主催者上田敏博士から涙を流して崇拝的讃辞を献げられた時に、哀な私は全く顛倒して、感謝の言葉すらもよう見つけ得ずにたゞ泣いた。かうして私は一躍して芸苑の寵児となつた。それから一年経たずの内に私は苦しい恋に堕ち、咒はれて、一時はこの世のどん底に迄恋人と墜落して行つた。以上

 

 「墜落して行つた」とは、高慢や嫉妬がために神罰された()天使(てんし)白秋となった。そして新聞報道で注目され「桐の花」はよく売れた。おかげで、家族五人の生活も安定した。肺病病みの俊子と結婚し、城ケ島生活の後、二人は小笠原で療養生活を送る。その後、

 

 「雀の卵」より、

大序

大正三年の七月に私は小笠原父島から東京へ帰つた。さうして「輪廻三鈔」の中にあるやうな生活に入つた。それから「雀の卵」の生活が続いて来た。「葛飾閑吟集」の生活は五年の五月から初まつてゐる。

以上

閑吟集(かんぎんしゅう)は、永正15年(1518年)に成立した小歌の歌謡集。

長閑(のどか)に歌を詠むということだろうか、言辞を弄するという例言、諧謔(かいぎゃく)(こっけいみのある気のきいた言葉。しゃれや冗談)の意味を感じる。

 

 白秋は紅い空を好んだ、堕天使の星、金星を思うのだろう。

 

海豹と雲

 

 風格高うして貴く、気韻清明にして、初めて徹る。虚にして満ち、実にしてまた空しきを以て、詩を専に幻術の秘義となすであらう。

北原白秋の象徴詩2

           北原白秋の象徴詩2

                   2003,7,4

 

 白秋が邪宗門を書いたとき「海潮音」を先例とした。白秋は理論家ではないので、自己流に詩象徴詩を創造した。一つの例として、上田敏の詩と比べてみたい。

 上田敏の詩は、冒頭に「遙に満洲なる森鴎外氏に此の書を献ず」として、

 

大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりて

あまぐもとなる、あまぐもとなる。

               獅子舞歌

 

 「獅子舞歌」とは、五七調で句読点がある象徴詩のことだろう。

 

 白秋は、この詩に『長崎ぶり』と長崎地方の手ぶり・身ぶりで上田敏に返したということだろう。「邪宗門」には、

 

邪宗門扉銘

 

ここ過ぎて曲節(メロデア)の悩みのむれに、

ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、

ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。

 

詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。中略、

 

(むかし)よりいまに(わた)()黒船(くろふね)(えん)がつくれば(ふか)()となる。サンタマリヤ。

『長崎ぶり』

 

 この詩の出典が、長崎に伝わる民謡のようだ、

 

混声合唱のための「どちりなきりしたん」

Ⅱ 作曲:千原 英喜、より引用。

 

(南蛮小唄 など)
出船の酒を 過ごせ道連れ
 出航祝いの酒で 連れ立ちと共に過ごし、
羅面琴(ラベイカ)※1で名残り 惜しむ唄もあり。
 ラベイカを弾いて、名残を惜しむ唄を歌う。

通い来る来る 黒船も。
 海を往来する巨大な黒船も
縁が尽きれば 鱶(フカ)の餌となる。
 神との縁が切れれば沈み、乗員は鮫の餌となってしまう。
さんたまりや。
 聖なるマリアよ。

ベレン※2の国の若君は
 ベツレヘムの国の若君(キリスト)は
今は何処に居らりょうか。
 今は何処に居られるのだろうか。
お賛め尊ばれ給え。
 彼をほめたたえ尊びなされ。

沖に見えるは パーパ※3の船よ
 沖に見えるのは教皇様の船だ
丸に矢※4の字が 書いてある。
 Santa Mariaの文字が書いてあるよ。

(Tantum ergo)
Tantum ergo sacramentum veneremur cernui,
 この大いなる秘蹟と聖体を崇め、歌おう
et antiquum documentum novo cedat ritui,
 古い儀式が終わり、新たな祭儀が出来た。
praestet fides supplementum sensuum defectui.
 願わくば、信仰が五感の不足を支えるように。

※注
※1 羅面琴(ラベイカ)・・当時イベリア半島で演奏された弦楽器。
※2 ベレン・・・ベツレヘム。イエスの生誕の地と言われる。
※3 パーパ・・・ローマ教皇
※4 丸に矢・・・「マリア」を意味する。以上

 

 白秋は「五足の靴」で九州を旅しているが、南国の海の明るさや汽船の赤い色が心を癒したのだろう。

 しかし、「血(ち)の磔(はりき)脊(せ)にし死(し)すとも惜(を)しからじ」だから、「ふさぎの虫」に悩まされる。

 明と暗、白秋の象徴詩も蝋燭の炎に揺れる瞳を鏡が映す耽美ではある。

 

宮沢賢治の象徴詩

            宮沢賢治の象徴詩

 

 北原白秋は邪宗門で「詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず」とした。賢治も詩人として理解していた。自然主義ではないともいえるか。賢治の信仰は狂気に近いが、詩にも表れる。「月天子」の最終連が素晴らしい。

 

      月天子

 

私はこどものときから

いろいろな雑誌や新聞で

幾つもの月の写真を見た

その表面はでこぼこの火口で覆はれ

またそこに日が射してゐるのもはっきり見た

后そこが大へんつめたいこと

空気のないことなども習った

また私は三度かそれの蝕を見た

地球の影がそこに映って

滑り去るのをはっきり見た

次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので

最后に稲作の気候のことで知り合ひになった

盛岡測候所の私の友だちは

--ミリ径の小さな望遠鏡で

その天体を見せてくれた

亦その軌道や運転が

簡単な公式に従ふことを教へてくれた

しかもおゝ

わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに

遂に何等の障りもない

もしそれ人とは人のからだのことであると

さういふならば誤りであるやうに

さりとて人は

からだと心であるといふならば

これも誤りであるやうに

さりとて人は心であるといふならば

また誤りであるやうに

 

しかればわたくしが月を月天子と称するとも

これは単なる擬人でない

 

注、月天子、がってんし、仏語。インド神話で月(Candra また Soma)を神格化したもの。

后、のち。

 

 今、隣のミュージアムが「テーマパーク」と化すのではないかという恐れを思うとき、心のない塊は醜悪に見える。

兵庫津ミュージアムの光と影

        兵庫津ミュージアムの光と影

                      2023,7,1

 

 開館より二年を経て順調に運営されてきたが、なんと今年の夏は「みんなで遊ぼう!ひょうごレゴ®展」が開催される。私としては違和感を覚える。

 兵庫津と「レゴ®」との関連が薄いように思えるから。特に私は隣の阿弥陀寺の檀家であり、また一つ隣の「戦災殉難者慰霊碑」を守る町民の一人であるから。

 阿弥陀寺には、楠木正成の供養石があり、神戸市の資料に、

 

 楠公供養石(阿弥陀寺)

阿弥陀如来を本尊とする浄土宗阿弥陀寺。境内の中央には戦災で変形・変色した『楠公供養石』がある。これは湊川合戦で『魚の御堂』に本陣を置いた足利尊氏らが、敗れた楠木正成の首を置いて首あらためをした石だと伝えられている。

 

 「戦災殉難者慰霊碑」とは、神戸大空襲での殉難者、特に大和田橋のトンネルで焼け死んだ市民を慰霊するための碑です。

 

 今、ウクライナで市民たちが悲惨な目にあっているが、同じことがこの地でもあった、忘れては成らないと思います。

 

 本題は、わが地は戦乱による血が流された所で、怨霊が漂う世界でもあること。

 ミュージアムが明、怨霊が暗、ミュージアムの地でも血が流れたことを忘れてはならない。

 和田岬は景勝の地だったが、今でも三菱重工があり、湊川の河口には川崎重工があり、決戦地が隠されている。

 当ブログも、様々に変化してきたが、ミュージアムが「レゴ®展」をやるらしいので、独自の思いを述べてゆきたい。

白秋の片恋の末路

           白秋の片恋の末路

 

 白秋が新詩社を退社した理由は鉄幹の編集方針とされている。しかし、白秋の本音は、晶子に思想家として打ち負かされたからだろう。端的な言い方だが、白秋は数学が得意ではない。晶子は優れていた。中学でもめた原因の一つが数学ができないのを責められたからだ。

 「ふさぎの虫」の最終行「ははははは……………………」、意味不明だ。だが、最終頁の絵にヒントが隠されていた。

巻末の絵

黒鶫が五羽、左上に「TOKIO」とある、対照概念は「郷里柳河」なので、探せば実家破産の時の歌、

 

銀笛哀慕調

 Ⅱ夏

郷里柳河に帰りてうたへる歌

Gonshan, Gonshan, 何処へいた、

きのふ札所(ふだしよ)の巡礼に

 

馬鈴薯の花咲き穂麦あからみぬあひびきのごと岡をのぼれば

黒鶫の絵

黒鶫(くろつぐみ)野辺にさへづり唐辛子(たうがらし)いまし花さく君はいづこに

 

(つばさ)コツキリコ、畦道(あぜみち)やギリコ

注、コツキリコとは、

こきりこ節・筑子節(こきりこぶし)は、富山県南砺市の五箇山地方 に伝わる民謡。麦屋節とともに五箇山地方を代表する、全国的に有名な古代民謡(古謡)である。

 白秋は、俗謡に向かうのだが、「道化師白秋」の姿を偲ばせる。

 

笹竹を背負い、「こきりこ」を手にもつ烏帽子姿の放下師

 

 病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし(ばた)の黄なる月の出

 

 明治42年(1909年) 24歳末の出来事ではあるが、まだ自己を「病める児」と詠むのは、精神的に脆いことを証明している。

 また、「君はいづこに」の君は「初恋の人」。

初戀

 

薄らあかりにあかあかと

踊るその子はただひとり。

薄らあかりに涙して

消ゆるその子もただひとり。

薄らあかりに、おもひでに、

踊るそのひと、そのひとり。

 

 白秋らしい純情詩だろう。

 

 片や晶子は、

 

源氏をば十二三にて読みしのち思はれじとぞ見つれ男を

朱葉集

注、つれ、完了の助動詞の已然形、みつれで見てしまうの意味。

まことかと聞きて見つれば言の葉を飾れる玉の枝にぞありける

                   竹取物語

ほんとうかと(よくよく)聞いて見たら(なんのことはない) 言葉を飾っただけの(うわべだけきれいにとりつくろった)玉の枝だったよ。

 つまり、晶子は男なんかに恋われたくない、才女らしい若き日の思い入れだ

 

あなかしこ(よう)()()のごと斬られむと思ひたちしは十五の少女(をとめ)

明治四十四年十一月「明星」

 

注、宇治拾遺物語 「あなかしこあなかしこ、人に語り給ふな」、「夢は(他人が)取るということがあるそうだ。今の太郎君の御夢を、私に取らせてください。

 

 わが十二ものの哀れを知りがほに詠みたる源氏枕の草紙

           大正四年十一月「三田文学」

注、枕の草紙、枕草紙

1 身辺に置いて、日々の見聞や思いついたことなどを書き留めておく綴じ本形式の雑記帳。 2 春画の本。 また、春本。

 晶子は、もちろん後者を指している。

 

 白秋も春画をほめてはいるが、耽美では負けている。

 

 五羽の黒鶫に戻り、上部の二羽は、父と母、下部の三羽は、白秋、弟と妹。

 この絵の意味は、白秋が小市民として生きる喜びだろう。

 彼の生きざまでもあるだろう。

 これが、「桐の花」の結論と思われる。