白秋のグロキシニアは罪悪の結晶
白秋のグロキシニアは罪悪の結晶
「ふさぎの蟲」第百五十一行
当行、行頭が「おや」で、感動詞。感動詞は「まあ」「さあ」のように、感動・呼びかけ・応答などをあらわします。自立語で活用がない体言で、普通は文頭にある という特徴があります。
次語が「もう 」で、副詞。 現に、ある事態に立ち至っているさま。また、ある動作が終わっているさま。
二語で、「電燈(でんき)が点いて居る」を修飾し、「夜」になったと宣言している。
白秋の回りくどい文言は、読者への注意喚起なのだろう。当行では「夜」となる。参考詩、
思ひ出
夜
夜は黒…………銀箔の裏面の黒。
滑らかな瀉海の黒、
さうして芝居の下幕の黒、
幽靈の髮の黒。
夜は黒…………ぬるぬると蛇の目が光り、
おはぐろの臭いやらしく、
千金丹の鞄がうろつき、
黒猫がふわりとあるく…………夜は黒。
夜は黒…………おそろしい、忍びやかな盜人の黒。
誰だか頸すぢに觸るやうな、
力のない死螢の翅のやうな。
夜は黒…………時計の數字の奇異な黒。
生じろい鋏を持つて
生膽取のさしのぞく夜。
夜は黒…………瞑つても瞑つても、
青い赤い無數の靈の落ちかかる夜。
耳鳴の底知れぬ夜。
暗い夜。
ひとりぼつちの夜。
夜…………夜…………夜…………
注、下幕(さげまく)の黒、後ろ幕、舞台の背景をすっぽり隠すように掛けられている幕ですが、多くは黒色で夜や暗闇を表します。
定九郎の蛇目傘(じやのめがさ)、次行の「蛇目傘」のこと。
時計の數字の奇異(ふしぎ)な黒、ここで「時計の針、I(いち)とIとに来(きた)るとき」が導き出される。画像参照、
時針がIIを指している。また、白秋の書斎の時計もIIが読み取れる。挿絵参照、
霊の薄き瞳を見るごとし時雨の朝の小さき自鳴鐘
深夜の二時とは、「丑の刻」であり、昼とは同じ場所でありながら「草木も眠る」と形容されるように、その様相の違いから常世へ繋がる時刻と考えられ、平安時代には呪術としての「丑の刻参り」が行われる時間でもあった。また「うしとら」の方角は鬼門をさすが、時刻でいえば「うしとら」は「丑の刻」に該当する。ウイッキ
そこで、次の二首を見てゆきたい。
IV 哀傷終篇
八
夜ふけて
ぐろきしにあつかみつぶせばしみじみとから紅のいのち忍ばゆ
白秋は「ぐろきしにあ」と濁点を打っている。その指し示す「白猫」の文章、
将に午前二時半、夜明前三時間、拭きすました紫檀の机に鏡を立て、つくづくと険しくなつて了つたわれとわが顔をぢつと凝視めてゐた私は心の底から突きあげてくる悲しさと狂ほしさから、思はず傍にあつたグロキシニアの真赤な花を抓みつぶした――鏡の中に一層ひときは強く光つてゐた罪悪の結晶が血のやうに痙攣んだ五つの指の間から点々と滲み出る。
「罪悪の結晶」と「血のやうに」に符合する出来事は、鎭夫の自刃か俊子との情事だが、やはり鎭夫の自刃だろう。参考詩、
思ひ出
たんぽぽ
わが友は自刄したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より靜かに釣臺に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ、友、年十九、名は中島鎭夫。
あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕にしたたるや、
君がかなしき釣臺は
ひとり入日にゆられゆく…………
注、釣臺(つりだい)、物をのせてかついで行く台。板を台とし、両端をつり上げてふたりでかつぐ。嫁入道具・病人などをのせて運ぶのに用いる。
白秋は、鎭夫との因縁を「さきの世」からのものと受け止めていたようだ、参考詩、
第二邪宗門
熊野の烏
夜は深し、熊野の烏
旅籠の戸かたと過ぐ、
一瞬時、――燈火青に
閨を蔽ふかぐろの翼
煽り搏つ羽うらを透かし
消えぬ。今、森として
冷えまさる恐怖の闇に
身は急に潰ゆる心地。
「変らじ。」と女の声す。
ひと呻く、熊野の烏。
丑満の誓請文
今か成る。宮のかなたは
忍びかに雨ふりいでぬ。
『誓ひぬ。』と男の声す。
刹那、また、しくしくと
痙攣む手脚のうづき、
生贄の苦痛か、あなや、
はたと落つる、熊野の烏。
と思へば、こは如何に、
身は烏、嘴黒く
黒金の重錘の下に
羽平み、打つ伏す凄さ。
はた、固く、痺れたる
血まみれの頭脳の上ゆ、
暗憺と竦まりながら
魂はわが骸をながむ、
注、熊野の烏、熊野権現の境内に群棲し、その神使とされる烏。
閨、ねや、寝室。
ねま。寝室
かぐろ、黒い。
丑満の起請文、うしみつのきしょうもん、丑の刻を四分してその第三に当たる時刻に行う行で、起請文とは、神仏に呼びかけて、もし己の言が偽りならば、神仏の罰を受けることを誓約し、また相手に表明する文書。
護符ちぎる呪咀(のろひ)のひびき、護符とは、神仏の名や形像、種子 (しゅじ) 、真言などを記した札。 身につけたり壁にはったりして神仏の加護や除災を願う。白秋の身に着けた護符をちぎり、呪いをかける。身を挺して呪いをかけた。
魂(たま)はわが骸(むくろ)をながむ、読点ではなく句点で終わっている、残りは削除したのだろうか。白秋の霊が分離して、上から眺めている。これは、死後、魂が分離する現象だろう。ここで、祈祷を終えたのだろう。
白秋の苦悩は深刻で、超常現象を経験したよ思う。「鋭く」が意味するところか、
時計の針、IとIとに来るときするどく君をおもひつめにき
白秋にとって丑満は罪悪が結晶する時、次の詩も何回も読んで身に染みる。
「邪宗門」
「灰色の壁」
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一面の壁の色。
臘月の十九日、
丑満の夜の館。
龕めく唐銅の櫃の上、
燭青うまじろがずひとつ照る。
時にわれ、朦朧と黒衣して
天鵝絨のもの鈍き床に立ち、
ひたと身は鉄の屑
磁石にか吸はれよる。
足はいま釘つけに痺れ、かの
黄泉の扉はまのあたり額を圧す。
白秋の悪因縁、これが「桐の花」の底にあり、晶子が影の花、さすがの万華鏡だ。