当時小学6年になって間もない頃、廊下にポスターが貼ってあったことだけはよく覚えている。「沖縄、返還‥‥?」と不思議な感覚と共にとても印象に残っている。教師からも簡単に話があったと思うけど、廊下のポスターだけ妙に記憶に残っている。
と言っても、特に時事問題や社会の動きに関心を持っていたわけでもなく、小学校6年生と言っても新聞すらもろくに読まないような、ほんの子供だった。
同じ頃のことでもう一つ印象に残っていることがある。
社会科の授業だったかと思うけど、「両親の子供の頃の暮らしを聞いて、ノートに書いて来なさい」という宿題があり私も家に帰ると、父が仕事から帰るのを待って両親に聞いてみた。
その結果、両親が思いも寄らない場所(いわゆる「外地」)で生まれ育ち、ほんの10年そこそこ生きて来た私の想像を超える暮らしをしていたことを初めて知ることになったのだ。
両親の話に衝撃を受けると同時に、母の「満州」と父の「台湾」での全く対照的な暮らしぶりがどんなものだったのかと大いなる想像を膨らませ、今流行りの言葉「うちなーぐち」で言えば「ちむどんどん」したのが忘れられない。
小学校1年から4年までは毎年クラス替えがあったけど、5〜6年時はそのまま持ち上がりで担任も同じだった。
だから、小学5年生だったと思うのだけど、もしかしたら小学6年生だったかもしれない。
いや、小学6年の頃は教師とのコミュニケーションにも悩み、すでに学校生活に夢も希望もなくしていたので、まだそこまでない頃、やはり小学5年生のことだったと思う。
両親から聞いたとても興味深い暮らしぶり(例えば母は満州で学校に通うときにスキーを履いて通った、とか、床暖房のオンドルがあって家はレンガで出来ていた、と言った話など)を、話を元に念入りに描いたイラストと共にノートにまとめた私は、(多分)意気揚々と授業に臨んだのだけど、いざ発表した時のクラスの反応が、教師(担任)を含め思ったほどに無く、尻すぼみで終わったことがとても残念だったことだけが記憶に残った。もっと興味を持ってくれると自分でも期待していたのに期待はずれだったのだ(笑)
「本土」という言葉も、沖縄返還の話とも重なるけど、両親の「日本本土への引き揚げ」という話からもその後度々聞くことになったのだった。
そんな50年前のことを思い出す一日。