アンダーカレント ~高良俊礼のブログ

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短歌、音楽、日々のあれこれについて。。。

 

 

感動がしたい。

 

感動というのは文字通り、何かが心身の外側を突き破って内を掴み、激しく揺さぶられるような感覚に陥ることである。

 

感動がしたいから音楽を聴く、絵画や写真や映像を観て、物語を読んだり詩を求めたりする。

 

そんな渇望の中で、たとえば詩の中の言葉達が明確な意思を持って私の心身を心地良く撃ち抜いてくれるととても嬉しい。

 
2年前、私は鈴木智子という人の『砂漠の庭師』という歌集に撃たれた。
 
そして今日まで、この人の明確な意思を持った言葉の哀しみが私の心を打ち震えさせ、そして疲れたり落ち込んだり、己に失望した時に寄り添い、救いになってくれた。
 
ツイッターの告知で新しい歌集の発売を知ったのは、昨年の暮れのことだ。
 
『舞う国』
 
美しいタイトルだと思った。そしてきっとまた新たな感動で胸を打ち震えさせてくれるだろうと、淡く激しく期待した。
 
踊る、と落ちるは似ている今がそう淵にいるとき私は踊る
 
祈るような想いで目次から最初のページをめくってこの一首だ。
 
おもむろに提示される”淵”、祈るような気持ちを抱えたまま飛び込みたくなる、そんな淵だ。
 
夢よりもぶっ壊れてる今が良いプレパラートに羽根を預けて
 
ほとり、とは涙が落ちる音に似てまなうらに水鳥は飛び交う
 
ああこれはインクのにおい図書館に沼があるなら共に落ちよう
 
この橋を渡った頃に真水へと戻るにおいに寂しさ揺れる
 
前作『砂漠の庭師』は、苦悩と救済の物語として読んだ。その読後のヒリヒリ感がどこまでも心地の良い余韻として今も響いているが、『舞う国』の言葉は最初から目標を定めて、飛ぶべき所へと真っ直ぐに飛んでいるように思える。「ぶっ壊れ」「涙が落ちる音」「共に落ちよう」「寂しさ揺れる」。虚飾や変な希釈のない、そのままの言葉が歌の流れの中で正しく割れて砕けて飛び散って光を放つ。
 
 
夏ひとつそれでどこまで行けるだろう町中に鳴るアザーンの音
 
コーランは何故美しい耳でなくたましいへ行くその周波数
 
この人の歌はたとえ身近な生活の場面を詠んだ歌であっても、常に「ここでないどこか」の匂いがする。歌に通低する深く、重く、そして明るい「青」を辿ると、本人が強く影響を受けたと語るイランへ飛ぶ。私はイランに行った事がないが、ネットや写真で見るイランの空はどれも果てしなく高く、そして青の深みに吸い込まれそうな空ばかりだ。
 
これはもうアンダーカレントすれすれで生きていくこと覚えて踊る
 
死ぬことは悲しいですか?音楽をうしなうことは悲しいですよ
 
セプテンバーどこを取っても略せないセプテン、セプテ、プテンバ、セプ、ゼ
 
熱っぽさに何を抱えて愛しゆく 椿ぼろぼろ咲いてごめんね
 
霧雨の中でわたしの名をお呼び希死と清廉の顔持つけもの
 
一方で、日常を生きる事は、絶えず消耗し続けてゆくことでもある。消耗の果てにある「うしなうこと」。ここで書かれる”音楽”は、ジャンルの名の付いた特定のそれではなく、一人一人の心臓が脈打つことによるウキウキやワクワクに思う。心を失って生きてゆくことへの抵抗は希死であり、切り刻んで内に抱えた季節の断片となって心を生かす。
 
どの国も舞はきれいだ星空にすばるが揺らぐたびに思った
 
滅びにも音があるとは知らなくて ああ 失うね、会いたかったね
 
はっきりと心情や心象を描き、読者の目線の先を明確に示す言葉は、読む人によっては重く感じられるかも知れないが、この歌集全体を覆う豊かな感情の震えは、読者を「内なるどこか」へ誘う感動の震えと共鳴するものに感じる。この歌集のことばのひとつひとつが読む人の心を訳もなく激しく打ち震えさせる、そんな感動の凄みの中に歌が溢れている。