アンダーカレント ~高良俊礼のブログ

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短歌、音楽、日々のあれこれについて。。。


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またひとり飽きたといえばここにまだのこるわたしの熱のさびしさ (鈴木杏龍)

 

”自己と他者”というものを考えて、ふと途方もない気持ちの深い谷に入り込んでしまうことがあります。「わざわざ考えなくても自分は自分だよ」という言葉を言い訳として常に持ってはいますが、詩と向き合う事は深い谷の孤独と向き合うことでもあり、そこに見出せる美というものは確かにあります。飽きて離れてゆくものは存在としての他者かも知れないし、意識としての”わたし”かも知れないが、実在としての”わたし”の熱はあって確かに寂しい。

 

 

 

みんなみんな迷える子等を見守るよ向日葵畑のひまわり達は (川村健二)

 

ひまわりは夏の花。夏といえば無邪気に汗を流しながら駆け回った子供の頃の夏休みがまず脳裏をよぎります。年齢を持つ私達の夏休みはとうの昔に過ぎ去ってしまいましたが、夏になるとひまわりは咲き、雄々しくその茎を空に伸ばして、花は力強く太陽を向きます。変わらない夏の顔、あぁあの頃見たひまわりも確かこんなだったねと思う時、大人になった私達はまだきっとあの頃を彷徨っている。迷いながら季節が過ぎても、また夏になると咲くのでしょう。深遠な詠みに感傷が染みている歌。

 

 

 

サイレント映画にかすかなる涙ながれて涙は無音と知りぬ (大平千賀)

 

一読して清らかな哀しみがスーッと流れて行きます。サイレント映画、涙、無音、視覚から視覚へと流れる意識がふと聴覚に行った時、涙は無音であった。こういう歌に何らかの解説を加えることは憚られます。その場面を思い浮かべて、読む人の心の内の哀愁を言葉と言葉の間に、そして美しい韻律に委ねるべき。心の奥底、感覚の奥底に、確かな美しい波紋を拡げましょう。

 

 

そういえばあったと言える夏の日にあったことさえも言えぬ死がある (辻 和之)

 

辻和之さんの連作で綴られているのは、1945年8月15日に集結した戦争のこと。具体的に判ずるのではなく、何ひとつ救われぬ状況で日常と断絶をしてしまった人達の死を、詞で呼び寄せて慰める祈りの歌です。私達はあの戦争の体験者ではありません。人から聞いた話や、色々な知識として知り得たことも、遠い「あの頃」の記憶。「あったことさえも言えぬ死」に込められた感情が胸を打ちます。

 

 


野に秋のいろ満つるなり雨そそぐなかなるも赤き曼珠沙華 (矢古野春子)


誰かからか聞いた話か、それとも何かに書いてあった話だったかは忘れましたが、心の奥底に残っているものとして「彼岸花のあの真っ赤な花の色は、地獄の業火の色なのだ」という話がありました。作者のイメージの中に類似するものがあったかは分かりません。しかし曇天から雨が落ちてくる、その暗さの中を揺るぎもしない鮮烈な”赤”を燃やしながら咲き誇っている彼岸花は恐ろしげではありますが美しい。それが群生するものであればなおさらでしょう。この世ならざる景色と気配。

 

 

 

西部劇に建国神話語らせて銃の悲劇を止め得ぬアメリカ (野上 卓)

 

西部劇は娯楽映画の王道であります。大体正義のガンマンが、開拓したての町や村を襲う無法者や悪い先住民をカッコ良くやっつけてハッピーエンドとなる、実に痛快な勧善懲悪のストーリーですが、そういえばこれはアメリカが開拓いう名で先住民から、銃で土地を奪って作り上げた歴史を英雄譚的な建国神話に仕立てたプロパガンダなのだと気付いた時、一気に現実のアメリカが抱える銃社会ゆえの問題が眼前に現れます。銃を置いたことのない社会は成熟とそれを巻き戻す悲劇との悲しい繰り返し。

 

 

 

お疲れさまでした、と言えば秋の風ああやわらかく生きねばならぬ (古賀大介)

 

古賀大介さんの歌に関しては、有り体に申し上げて私はファンなのですが、この人の歌で歌われているのは、日常と次の日の日常のあいだ。その”あいだ”の中でふっと内を見つめる、内を見付ける時、そこにあるもののどこまでも純粋でどこまでも優しいぬくもりであることを、真摯な言葉で紡いでおります。身の回りの風景や物事のちょっとした優しさ、それを大切にしたい。そういう前向きにさせてくれます。

 

 

 

気の重いことのありたり秋風に揺られて咽ぶ風鈴の音 (田林昌子)

 

夏のうだるような暑さをその涼しい音色で心地良く鎮めてくれる風鈴。秋になってくると風もやや強いものになってきて、風鈴の音もやや肌寒く感じるほどのものになるでしょう。気の重い事があって風鈴を片付ける気力もなく、ただ秋風に吹かれるままにしているのか、それとも片付けるタイミングを逃して風鈴の叫びのようなカンカンした音が心情とリンクしているでしょうか。いずれにしても心や季節の「穏やかな状態」からずれた風鈴のけたたましい音が辛く響きます。

 

 

 

ほの暗いテントの床はむき出しの土が広がりやがて暗やみ (黒﨑聡美)

 

今は大分減ってしまったようですが、昔は田舎にもサーカスがちょくちょくやってきましたね。大体何もない空き地に突如テントが建ち、その外で団員の人達がステージ衣装で稽古をしてたり、動物の入った折があったり、非日常の”ハレ”の雰囲気に満ち溢れておりますが、中に入ると外の明かりをわずかに反射する、その場所の土の床があり、やがて入り口は閉じられた真っ暗の中でショーが始まり、完全にそこは”ハレ”の場になります。怖いような懐かしいような不思議な感覚が無駄なく詠まれております。

 

 

 

 

生きるって未練のつみきを重ねゆくそうなんだなと最近おもう (金 二順)

 

リアルな”生きること”との格闘と苦悶、そこから漏れる溜息のような感慨を、金二順さんの歌から感じております。この月に目に飛び込んできたこの歌には、私もどうしようもなく惹かれます、いや、引かれてしまいます。これまで生きてきた中で、何度心残りを置いてきただろうか、そしてそれを恐らく回収できないままでこれからの人生はあるのだろう。そう考えると人間はとても無力で、でも生きて行かざるを得ない。「つみきを重ねゆく」とした表現の繊細さも美しい。

 

 

 

教会の木の十字架が青空を支へて立てるさまを仰げり (冨樫由美子)

 

深い信仰によって荘厳な風景がそこに現れたかのような冨樫由美子さんの連作。奄美はカトリック教会が多く、田舎の集落には神父さんが巡回してくるだけの小さな教会も多くありますが、夏の抜けるような青空にそびえる教会の十字架はまさにこれで、特に信仰心のない私のような人間にも、何かそこに聖なる存在があるような気がします。青空を支えて立つ十字架に、人類の罪を背負って磔刑にかけられたイエス・キリストの姿も重なります。祈りは尊い。

 

 

 

他人様に知られると濁る悲しみを抱きつつひたすら漂う吾である (大鋸甚男)

 

もう何度も言っているかも知れませんが、大鋸甚男さんはかっこいい。もうね、何て言えばいいんでしょう、このベテランのいい味わいの役者さんのような味わいとニヒリズム、そうニヒリズムです。他人様に知られると濁る悲しみ、ひたすら漂う吾、どの言葉のチョイスからも、じわりと滲む人生の重みが、しかし少しも説教臭くなく「オレはオレだよぉ」と親し気に伝わってくる。「あっしには関わりのねぇことでござんす」と、木枯し紋次郎のようなセリフを言いながらも、人に悲しみを悟られぬように去って行く、カッコイイなぁ~・・・。

 

 

 

今そこに幼きわれが来てゐたり人の乱るる祭りのさなか (鈴木秋馬)

 

今回紹介した川村健二さん、辻和之さん、そして黒﨑聡美さんの世界観とある意味共通している「境界」の歌。とりわけ鈴木秋馬さんの詠む光景には、どこか不安で禁忌に触れそうなあやうさを感じ、そこにのめり込んで共感してしまいます。夏祭りというリアルな幻想を、外側から眺めている。この視点は極めて現実的で冷静なはずが、別の時間軸に存在するはずの自分自身の残滓をずっとそこに見ています。その冷たく狂った感じにゾクゾクします。

 

 

 

煎じ薬が冷えたるような秋風にこの世のすべてはあはあはとせり

「狂信者(ファナティック)」ときにうるはし 曼珠沙華」五百万本たつ巾着田

宇宙(コスモス)といふ名をもちて夕星のしたにほのかにゆるる花あり   (桐江襟子)

 

短歌人2016年の終わりの号、会員2欄の最後の方に、思いもかけず幽玄の極北のような美しい連作を見付けました。ハッとしてつい3首も採ってしまいました。秋風の中にある万物のゆらぎを美しく捉えた素晴らしい歌。これは言葉を少なく、鑑賞に費やしたいと思います。こういう歌を私も詠みたい。

 

 

 

 

 

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