月かげの虹 -15ページ目

格差拡大


【格差拡大】固定化避ける実効策を

 大手と中小企業、正社員と非正社員、都市と地方など、さまざまな格差の広がりが社会のあちこちで指摘されている。

 こうした傾向をあらためて示すように、日本世論調査会が今月行った調査で、所得格差の拡大を感じるとの回答が87%に上った。

 景況感では、景気好転とみる人がその理由として「消費の回復」を最も多く挙げた。一方、悪化と判断する人の主な理由は「消費は未回復」だ。所得の差で必然的にばらつく消費動向が如実に現れたといえよう。

 自由経済下で競争と努力の結果として格差が生じるのはやむを得ない。ただし、競争に敗れた者の切り捨てや放置は格差の固定化を招き、社会の成り立ちにも甚大な影響を及ぼす。

 所得格差を感じる割合が最も高い30代は、就職がバブル後の氷河期に当たり、ニートやアルバイトなどが特に増えたといわれる。「一億総中流」が崩れ、要援護世帯や貯蓄ゼロ世帯の増加も指摘される。

 こうした現象は、晩婚化や少子化に拍車を掛け、経済社会の持続的発展にも影を落としかねない。親の世代の所得格差が、子どもの進学・就職先の格差に波及する可能性を憂慮する声も少なくない。

 リストラ断行などで業績を回復した企業には、ようやく採用枠拡大や賃上げの動きもみえだした。パート・アルバイトから正社員への転換を促す仕組みや、実効性のあるニート支援策の構築も求められよう。

 格差拡大は小泉構造改革の「負の側面」ともいわれるだけに、今国会ではライブドア事件などの4点セットに並ぶ論点となっている。

 与野党とも自らに都合のいいデータを掲げる場面が目に付くが、党利などに絡めず、改革の功罪をしっかり検証し、真摯(しんし)に論議を深めることが必要だ。

 「行き過ぎた改革」批判に「格差発生は別に悪いことではない」と反発する首相も、「弱肉強食社会」を生み出すことは否定する。「ひとたび挑戦して敗れた者も、次に勝つ機会を提供したい」とも述べている。

 確かに、各種の格差固定を避ける上では、「チャンスの格差」排除が不可欠だ。首相には機会の平等保障に向けた具体策を明示する責務がある。

 世論調査は、関東と北海道を両極とする地域間の景況格差を再認識させる結果にもなった。地方圏の底上げも政治の重い課題である。

2006年3月22日付け
高知新聞朝刊 社説

高校生活とアルバイト


アルバイトをする高校生が近年増えている。中にはスーパーや飲食店などで、夜遅くまで「働く」高校生の姿も。

社会勉強のメリットを指摘する声がある一方で、授業や部活など、学校生活への悪影響も言われる。その実態と背景は……。高校生のアルバイト事情をリポートする。

県内の多くの高校は親の承認の上、学校に申請すればアルバイトを認める許可制を採る。ただ、これが守られているとは言い難いようだ。データはないが、「ここ数年、バイトする生徒が増えてきている」と話す教員は多い。

ある高校では「クラスの七割がバイトをしている」という。高知市内の公立高2年の女子生徒、Aさん(17)はスーパーでアルバイトをしている。週四回、午後5時半から9時半まで働く。

ある日のAさん。午後4時前、学校が終わると急いで帰宅。カバンを置くとすぐに自転車でバイト先へ向かった。バイト先では商品の入った重い段ボールを倉庫から売り場へ運び、商品を陳列するなど、広い店内を動き回った。

いつも通り午後9時半まで働き、店の片付けが終わって10時ごろにようやく家路に就いた。遅い夕食のあと風呂に入り、自分の部屋でゆっくりするころには11時を過ぎる。

Aさんがバイトを始めるようになったきっかけは携帯電話。「携帯を持つなら自分でお金を払う」という親との約束で、1年生の夏ごろから始めた。今では月に4万~5万円を稼ぎ、携帯代や衣服代などに使う。

携帯代を理由にバイトを始める高校生は多いようで、ある教員は「うちの学校でバイトしゆう生徒は、ほとんど携帯代」。高校生の月々の携帯代は1万~1万5千円が多いようだが、親からもらう小遣いは3千円~1万円程度。足りない分はバイトで補うという実態が見えてくる。

加えて高校生の周りには、カラオケやゲームセンター、服やアクセサリーなど、さまざまな魅力的「商品」がある。消費社会の中に組み込まれた高校生が、流行の商品欲しさにバイトを始めるケースも多い。

接客や上司とのコミュニケーションを通じ、人間的に成長できる場としてアルバイトを歓迎する声もある。「バイトを続けることで、自分の言動に責任を持つようになった」と話すのは、生徒指導を担当する教員。自らの学費や生活費を稼ぐ高校生もいる。

雇用する企業側にしても、夕方から夜の時間帯に安定した人手を確保できるメリットがある。あるスーパーの人事担当者は「主婦パートが少ない時間帯に、高校生は必要不可欠。
友人や後輩を紹介してもらうことで、継続性があるのも大きい」と説明する。

半面、アルバイトによる学校生活への負の影響も少なくない。「先生、早う終わってくれな、バイト間に合わんき」。ある公立高校の終わりのホームで、生徒が声を上げた。

学校が終わると一目散にバイト先へ向かう生徒たち。ある教員は「授業よりもバイトという空気がある」と話す。「放課後の指導は、生徒に前もって『予約』しておかないと不可能」と嘆く教員もいる。

部活動に支障が出るケースもある。「きょうバイトやき、部活休むきね」。休んだのはチーム競技の中心的役割を担う生徒。練習のレベルは下げざるをえなかった。

学習への影響も深刻だ。ある公立高校は、1日に1人は「バイト疲れ」で保健室を訪れる生徒がいる。ぐったりとした様子でやって来た生徒は「今週休みがなかった」「昨日、夜遅かった」と言って寝ていく。

別の高校では、遅刻して2時間目から登校する生徒もいる。中には、体調が悪いと学校を早退してでもアルバイトに備える生徒もいるという。

「社会が高校生のバイトを受け入れる構造になっている」。高知東高校の森暁校長はこう指摘し、「部活や家庭の時間に取って代わり、バイトが『主』になっている生徒も多い。『高校生』としての優先順位を忘れず、今の貴重な時間を大切にしてほしい」と注文をつける。

消費社会の中で、携帯代の支払いや流行の商品欲しさに増加する高校生アルバイト。雇用する側にとっても、必要不可欠な存在になっている。

バイトのメリット、デメリットを学園生活の中にどう位置付けるのか。重い問い掛けだ。

2006年3月19日付け
高知新聞朝刊
教育特集 すぽっとこうち
(社会部・宮本晋之)

世界に広がる嫌米感


2003年3月20日にブッシュ米大統領が踏み切ったイラク戦争開戦から3年。今、イラクは宗派や民族の対立が深まり、内戦すら懸念される危機にある。単独行動主義と先制攻撃ドクトリンが失敗した米国の威信は失墜。

イスラム教徒をはじめ世界で嫌米感が広がる。冷戦後の米一極化の世界秩序は、米国の求心力低下で漂流を始めた。米国内からも「ベトナム戦争よりひどい失敗」(オドム元国家安全保障局長)との声が出始めた。

最近の世論調査で、米国民の6割が「イラク戦争は過ち」と答えた。ブッシュ大統領は「戦争は正当」との立場を崩さないが、今月11日の演説では「果たしてこの戦争は戦う価値があったのか、国民が疑問を抱いている」と認めざるを得なかった。それほど米国民のいら立ちは強まっている。

開戦の大義だった大量破壊兵器は見つからず、世界各地での凶悪なテロは戦前より飛躍的に増加、テロ封じ込めの思惑も完全に外れた。

「自由と民主主義の拡大」も停滞している。中東ではイラクでのイスラム教シーア派主導政権発足を機にイランの影が急速に広がり始めた。

核開発で米国に挑むイランは、原理主義勢力ハマスが躍進したパレスチナ、さらにシリア軍撤退後のレバノンでも影響力を拡大している。

高騰する石油価格は、先進国のアキレス腱となり、米国は中東政策で手を縛られた。嫌米感、イスラム主義の魅力を背景にしたハマスの躍進になすすべもないブッシュ政権は、中東和平の進展をあきらめつつある。

米国の求心力低下は欧州で明らかだ。イラク戦争で鮮明になった軍事力行使への考え方の違い、国連や京都議定書など国際枠組みへの対応の差。北大西洋条約機構(NATO)も形骸(けいがい)化した。

ロシアも米国離れが著しい。プーチン大統領は石油事業を掌握、超大国復活への夢を膨らませている。ブッシュ政権は「独裁への逆戻り」とされるプーチン流の強権統治に見て見ぬふりだ。

イラク戦争は日米関係の強化をもたらしたが、山口県岩国市の住民投票結果に見られるように、米国の「押し付け」にノーを突きつける住民意識が根を下ろし、米軍再編を困難にしている。

核など大量破壊兵器保有の疑いを理由にフセイン政権を打倒しながら、インド、パキスタンの核保有を黙認し関係を強化する米国の二重基準に、批判が強まっている。

米国は北朝鮮の核問題での6カ国協議重視、米中関係の枠組みづくりなど、多国間外交、大国間外交に軸足を移したが、イラクの混迷に象徴される威信低下で、成果を上げられない状況が続いている。(杉田弘毅・共同通信ワシントン支局長)

イラクでは戦後、旧フセイン政権下で目立たなかった宗教や民族の違いに根差した対立が激しくなっている。

イスラム教シーア派の民兵組織が牛耳る内務省の特殊部隊が、かつて政権の中枢を握っていたスンニ派住民を虐待している実態も次第に明らかになっており、お互いの憎悪は深まるばかりだ。

首都バグダッド西部のジハード地区。昨年5月28日未明、アデル・ラウィさん(36)の自宅に武装した男たちが侵入した。「私は軍の将校だった」。

ラウィさんが名乗ると、内務省の特殊部隊「狼(おおかみ)旅団」の肩章を付けた指揮官は「おまえがテロ組織に属しているとの情報がある」と告げた。

目隠しされ、車に乗せられた。到着したのはバグダヅド南部の狼旅団の施設。先の指揮官に呼ばれ、ラウィさんが進み出ると、いきなり足をけりつけられた。夜が明けた後、別室で尋問を受けた。

旧政権時代は防空部隊の大尉で、スンニ派武装勢力とは無関係だと説明しても納得してもらえない。「テロ組織の指導者だと白状しろ」と、両手をロープで縛られ天井からつるされた。拷問は6日間続いた。「人に見られないようトイレで泣いた」

約120人の別の集団が連行されてきた。ドリルで両手両足、体中に冗を開けられたり、電気ショックで両足が麻痺した人物を見た。取り調べに当たった係官らはスンニ派主体のフセイン政権時代に虐待されてきたシーア派。

「尋問官は楽しそうだった」。拘束者の中にはシーア派も2人いたが、すぐ釈放された。拘束から18日後、一緒に連行された弟3人とともに釈放された。

「父親が車2台と宝石類を売って1万5千ドル(約180万円)を支払った」。いとこが要求通り、現金を詰めたタイヤを早朝、高速道路上に置いた日から5日後のことだ。

「今度見つけたら殺す」。尋間官の言葉に今もおびえ、ラウィさんは自宅から少し離れた友人宅に間借りする。週に2度、妻や生後9カ月の娘がいる自宅を訪ねる。釈放後、治安のよい北部クルド人自治区の建設現場で働く弟たちからの仕送りが頼りだ。

「スンニ派の元軍人は皆フセイン元大統領の支持者だと思われている。旧政権で将校だったことが罪なのか」。シーア派主導の支配体制への憎しみは募るばかりだ。
(バグダッド共同=ファラハド・ジャフ通信員)

2006年3月19日付け
高知新聞朝刊

イラク開戦3年


米国は占領後の青写真を持たずにイラク戦争に踏み切ったと当初から言われてきたが、ここまで何も考えていなかったとは予想外だった。

「米国が望むイラク」に変わることはもはや困難だ。親米世俗政権の誕生は絶望的で、イランに似たシーア派のイスラム主義政権が基盤を固めつつある。

米国は「戦争の後始末」として、たとえ望まないものであっても「イラク人が望むイラク」の国造りを支援し、その後に軍を撤退させるべきだろう。それしか選択肢はないのではないか。

中東では最も軍事的に強いとみられていたフセイン政権があっけなく倒された3年前のイラク戦争直後は確かに「米国には逆らえない」という空気が中東を一時的に支配した。

パレスチナ和平案(ロードマップ)合意などはその現れだった。しかし、その後のイラクの混迷で別の見方が広がった。

米国は軍事的には圧倒的超大国だが、政治や経済では必ずしもそうではなく、占領政策に長じているわけでもないと人々は知った。

大きな転機はイラクのアブグレイブ刑務所で米兵が行ったイラク人虐待事件だったと思う。一般市民も多数拘東されていたアブグレイブで米兵はイラク人を全裸にしてはずかしめた。

男女を問わず肌をさらすことをタブー視するアラブ社会の人々に「米兵はイラク人を人間扱いしていない」という強烈な印象を与えてしまった。

欧米社会も人権問題として批判したが、アラブ社会の反発はそれ以上だった。この事件で欧米流の民主主義にも理解を示すアラブ諸国の穏健派が面目を失った。

アブグレイブだけでなく、イラクのファルージャの検問所などで米兵は部族の長老さえも手荒に扱った。イラクで部族の長老を侮辱するということは、長老個人としての問題でなく、集団との問題になる。

そういったアラブの文化、イスラム的価値への無理解が重なり、戦争に踏み切ったことも含めて米国は「ボタンの掛け違い」を繰り返した。

イラクの今後をめぐっては、連邦制の導入がイラクの一体化を維持しない方向に進めば、必ずクルド独立問題が浮上する。

総人口2千万人以上のクルド人が独立国家を持つことは民族自決の原則から支持すべきだと思うが、現実にはトルコは少なくとも自国領内での独立は許さないし、既存の国境線を変更しないという前提を崩す。

国境線を変えるとなれば、イラクの政権が今後、フセイン時代と同様にクウエートの領有権を主張する可能性もある。

イラクがイスラム主義政権に変わることによって、反米的、イスラム主義的な勢力が地域全体で力を増しつつあり、親米イスラム主義のサウジアラビアなどにも危機は波及しそうだ。

非常に親日的だったアラブ社会の日本への見方は、イラク戦争支持と自衛隊派遣によって変わった。過去の友好関係の遺産を2~3割食いつぶした印象がある。

しかし、逆に言えばまだ遺産は残っている。日本がイラクの将来像を決める国際的な枠組み作りを主導する意思を示せば、アラブ社会は耳を傾けるはずだ。日本の責任と役割は残っている。

(聞き手は共同通信編集委員・石山永一郎)

小杉 泰「過ち重ねた占領策」
京都大学大学院教授
こすぎ・やすし
1953年生まれ。
エジプトのアズハル大イスラム学部卒。京都大学法学博士。著書に「現代中東とイスラーム政治」「イスラームとは何か」など。

2006年3月19日(日)付け
高知新聞朝刊

ドラゴン桜


TBSで放映され最終回を迎えたドラゴン桜で冒頭とてもよい台詞が聞かれた。元暴走族の弁護士という設定の教師が、東大受験の前日、生徒に向かってこういう。

「東大に受かってえばり腐るやつがいる。相手が東大だと分かるととたんに卑屈になるヤツがいる。みんなゲスだ。どうしてそういうヤツばかりなのか分かるか? それはみんなが勝手に東大を難関だと祭り上げ、最初から勝手にあきらめてしまっているからだ。

自分なんてどうせダメだ、うけたってうかりっこないと思いこんじまっている。受けようとする前にあきらめてしまうんだ。そうやってコンプレックスの殻に閉じこもった狭苦しい人生を送るほかなくなってるんだ」───たしかこんなようなことをいっていた。
私はこういう受験ネタというか、受験ならではの根拠なき励ましがすごく好き。なんだか生きようっていう気分が盛り上がるでしょ?

それにしても、この「最初からあきらめている人たち」「無理だと思いこむ人たち」ってホント多いと思う(もちろん自分を含めて、ハイハイ)。今年は行政書士の試験を「勝手にあきらめちまっ」たし……。あきらめたほうが、やめたほうが、チャレンジしないほうが、チャレンジするよりも断然ラク。

そこがポイント。人間ラクなほうに流れるから。でもそうやって流されていくと気が付くとすっごくきつい、選択肢のない、制約だらけの長い人生に填り込む。パートタイムジョブ。リストラ。少ない年金。勝手に変えられてしまう憲法。低賃金。声を出させられる研修。「バカな」上司。痛勤電車。こういうのはぜーんぶ、若いときにどんどん、勝手にあきらめた人たちの末路以外の何ものでもない。

実際まわりにいるあきらめていない人たちを見ると、こういうのとは無縁の人生をそれぞれでどんどん楽しんでいる。

どんなことでもあきらめないでやってみよう、より困難な道を選ぼうというのはこのドラマからあらためて教えられた大切な人生訓。

ドラゴン桜「勝手にあきらめてしまう人生」
http://alt-fetish.cocolog-nifty.com/fj/cat423061/index.html

西太后の食事


まことに信じ難い食生活が続いている。今さら無理なダイエットをしているわけではない。何とかれこれ2週間も、中華料理完食の日々が続いているのである。

ことの発端は中国旅行であった。以前にも書いたように、私は海外では徹頭徹尾その国の食事ばかりを食べ続ける主義である。

べつに主義というほどのことではない。子供の時分から他人様の飯ばかり食っていると食い物の文句を言わなくなるので、旅先でも白然に目の前に供されたものを食べ続けるだけである。

とりわけ今回の旅行は観光でも取材でもなく、日本ペンクラブの主要行事である日中文化交流の代表団の一員であったから、毎日が豪勢な中華料理の連続であった。つまり、否も応もない。

手順としては、まず中国作家協会主催の歓迎会。翌日は必ずその返礼の祝宴をこちらが催す。けっしておろそかにしてはならない中国流の応酬である。

これを北京と上海で夜ごとくり返すわけであるから、6日間の旅程は胃袋を休める間もなかった。唯一、北京と上海の移動が列車であったので一息つくかと思いきや、食堂車での大宴会となった。中国の長距離列車には必ず世界の追随を許さぬ食堂車がついているのである。

中華料理の朝食もはずせない。お粥に皮蛋(ピータン)、豆乳、揚げパン、饅頭、といったメニューは私の大好物で、ホテルのダイニングでは飽き足らずに街なかの食堂にまで足を延ばす。むろん昼食は飲茶(ヤムチャ)である。

というわけで、往復の機内食を除き6日間の中華完食。ここまでは毎度のことであるからふしぎは何もない。問題は帰国後の1週間である。

前倒しの原稿が重なっていたせいで、帰ってからは間髪を容れずに連夜の会食となった。中国流の饗応の応酬というのも大変だが、わが国には「打ち合わせ会食」なる商習慣がどの業界にもあって、たぶんこのせいで男子の平均寿命は5年くらい縮んでいると思われる。

会議なら会議、メシならメシと決めればよさそうなものだが、そうはいかぬのが妙なところまで和の精神を貴(たっと)しとする伝統なのであろう。

作家と出版社との会食には、中華レストランがよく利用される。理由は他の会食ではありえぬ、あの巨大な円卓である。

小説家には生産性が本人ひとりにかかっているという職業的特徴があり、一方の版元には、単行本、文庫本、雑誌担当の各編集者のほかに、それぞれのセクションの上司がいる。

つまり、作家と出版社の正規の「打ち合わせ会食」のスタイルとしては、ひとりを囲んでみんなで攻める、もしくは責める、中華料理の円卓が好もしいのである。

理由はもうひとつある。翌年の執筆や刊行のスケジュールを調整するこの季節には、双方が連日の会食となる。作家はたくさんの版元と付き合っており、版元も大勢の作家が相手であるから、自然にそうなるのである。

毎日ともなれば、店がちがっても同じような旬の献立が並ぶ和食は飽きる。洋食が続くのもまたしんどい。その点、中華料理は店によってメニューが異なり、またあんがい体にやさしいのである。

かくて私は、上海から帰国した翌日にあろうことか上海蟹をふるまわれ、まさかきのう食べましたとも言えぬので黙って完食し、その翌日は北京ダックの元祖「全聚徳」の東京支店に招待された。こちらも同様に、実は4日前に北京の本店でいやというほど食べました、とは言えぬ。

3日目には地域医療に励む娘がへこたれて帰ってきたので、何かうまいものでも食わせてやろうという親心で問えば、「おいしい中華料理が食べたい」と言うではないか。うまいかおいしいかというより、これはまずいことを訊いてしまったと悔いたが、やむなく笑顔で希望を叶え、またしても完食。

その翌日の会食が中華であったのは非情な偶然であるとしてあくも、また翌る日も中華、しかも同じ店の予約であったというのは呪いか崇りではなかろうかと思った。

ところできょうは、亡き母の命日である。母は生前、中華料理をこよなく愛していたので、この日は力いっぱいの大盤ぶるまいをするのが何よりの供養と決めている。賛沢な話ではあるけれども、「ワンコ中華」はさすがにつらい。

中華帝国五千年の悼尾(ちょうび)に君臨した西太后(せいたいごう)は、毎度の食事に360品の料理を並べたといわれる。

多少の誇張はあるのかもしれぬが、3つの大円卓に皿を積み重ねたというから、なまなかの数ではあるまい。

ちなみに100年後の1人のファンとして彼女の弁護をしておくと、こうした豪勢な食事は個人的な奢侈(しゃし)ではなく、一種の儀式であったらしい。

つまり早帝にかわる祭祀権者として、西太后は祖宗の霊とともに卓を囲み、陪食を賜っていたというわけである。

西洋史観に基づけば、西太后の奢侈が国を滅ぼした一因とされているが、最大の原因は列強の纂奪(さんだつ)であったことを忘れてはなるまい。

かつて資本主義は植民地経営なしでは成り立たぬと信じられており、中国は地球上に残された唯一最大の楽土であった。そうした重大な史実をうやむやにして、すべてをひとりの女性の責任のように言うのは、近代100年の地球的欺瞞であろうと私は思う。

西太后は1908年11月15日に崩じた。働きづめの過酷な人生であったにもかかわらず74歳の天寿を全うしたのは、豊かな食生活の賜物かもしれない。

私が訪中する直前に、敬愛する作家の巴金(はきん)先生が亡くなられたのだが、100歳の長寿であった。中国の作家はおしなべて長命である。北京と上海の文学館を訪れて、近現代の作家の年譜を読むうちに、巴金先生が格別ではないことを知って驚いた。

おそらく中国は正確な統計がとりづらく、また国土が広いので医療面も不利ではあろうが、お年寄りの数の多さとその矍鑠(かくしゃく)たるたたずまいを見るにつけ、たぶん世界一の長寿大国はこちらであろうと、私は信じて疑わない。

やはりそれも、中華料理のもたらす福音ではなかろうか。このごろの日本では、長生きがしたければ「食うな」であるが、医食同源の中国では、もちろん「食え」である。実にうらやましい。

ふしぎなことに、かれこれ2週間も脂っこい中華料理ばかり食べ続けているにもかかわらず、私の体重に変化はない。おいしいうえに飽きもせず、高カロリーなのになぜか太らない。まさしく中華5000年の叡智というべきであろう。

この際いっそ肚をくくって、巴金先生のように百寿を全うしようかと、なかば本気で考えている。とりあえず今宵も、亡き母の供養のために中華料理を完食する。

浅川次郎「西太后の食事」
あさだじろう 作家
日本ペンクラブ理事
1951年、東京都に生まれる。
『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞、『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞を受賞。壮大なスケールで描く『蒼穹の昴』、琴線揺さぶる短編集『霞町物語』等、多彩な作風で多くの読者を魅了し続けている。近著は『天切り松 闇がたり(第4巻)昭利侠盗伝』(集英社)、『憑神(つきがみ)』(新潮社)。

キューバに感謝!


高校を卒業して間もなく、ギターの最高峰ともいわれる「ハバナ国際ギターコンクール」に出場することになった私は、あわててキューバについて集められる限りの情報を探しに本屋さんへ駆け込んだ思い出がある。

何しろその頃の私は「キューバってどこ?」というくらい、何の知識もなかったのだ。かくして諸準備をし、20歳を迎えた私はいよいよコンクールにエントリーするためにキューバヘ旅立った。

忘れもしない、その時留学していたパリは朝5時。だいだい外はまだ霧に包まれていた。橙色の街頭を通り抜け、シャルル・ド・ゴール空港へと向かった。そして、スペインはバルセロナ経由でキューバのホセ・マルティ空港へと向かった。

そこは自分にとって未開の土地。「もしかしたら帰って来られなくなるかもしれない……」と少々大袈裟ながら、パリのアパルトマンには遺言にも似た親への置き手紙を残していた。

今となっては笑い話だが、当時はこれから起こる何かに足を踏んばって、真剣に対時しようと必死だったのだろう。

キューバはカリブ海に浮かぶ島。機内の窓から眺めると快晴の空よりも青い海のなかに亜熱帯の緑と赤茶色の土壌をもった景色が少しずつ近づいてきて、着陸と同時に自分もその風景のなかに混ざってゆく。

空港では人の代わりに、27度を超す熱風と身体を包むような湿気、この国特有の何か挨っぽい軽油の香りが混ざつた、しかしなぜか懐かしいにおいが出迎えてくれた。

おんぼろタクシーに乗ってコンクール会場へ。そこでやっとパスポートをチェックするお役人さん以外のキューバの人に接することになる。

「何とフレンドリーな人たちだろう ! 」。その絵に描いたような "屈託のない笑顔" をする彼らといると、それまで不安を抱えていた自分に笑顔が取り戻されてゆく過程が実感できる。

その瞬間から、この国に生きる人が奏でる音楽への興趣が増していった。キューバのミュージシャンとも一緒にCDの録音をし、友達もできた。

いつの間にかキューバ行きも7回を数えるほどになっていたのは自然なことだったのかもしれない。

キューバでの音楽見聞はプロフィールに載せるためのキャリアだけではなく、音楽に対する「親しみ」を「享受」したと実感させてくれた。

そして私の聴覚に「キューバ音楽」をしっかりと馴染ませてくれた、今は亡きブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのリーダー的存在、コンパイ・セグンドヘのオマージュ的意味もグ含めて、『Gracias Compay』というCDタイトルのごとく「有難う! キューバ!! 」と言いたい.

大萩 康司「キューバに感謝!」
おおはぎ やすじ
ギタリスト
1978年宮城県生まれ
高校卒業後、渡仏。パリエコールノルマルに留学後、パリ国立高等音楽院に入学。約6年間パリに滞在。98年、ギターの国際コンクールとして世界最高峰とされる「ハバナ国際ギターコンクール」にて、第2位入賞。同時に審査員特別賞(レオ・ブローウェル賞)を獲得。2005年5月にはキューバ政府より招聘され、キューバ最大の音楽祭「クバディスコ2005」に出演。6月にはアルバム『ハバナ』、10月にはDVD『鐘のなるキューバの風景』をリリース。

http://www.jvcmusic.co.jp/ohagi/

砂漠感覚


電車が代々木上原駅を通るとき、窓から東京ジャーミイ(イスラム寺院)の建物を見かけると、ときどきサウジアラビアを思いだす。

もう四半世紀も昔のことだが、私は出版社を脱サラし、現地に留学したことがあるのだ。私はなぜ砂漠に魅せられたのか。

その留学をなぜ短期間で打ちきって帰ってきたのか。いまだに私にはよくわからない。そのせいか、いまも中東やイスラム関連の本をしばしば手にとる。

近年面白かったのは四方田犬彦の『モロッコ流謫(るたく)』。著者はモロッコのタンジェに長年住んでいたニューヨーク生まれの作家ポール・ボウルズ(1910~99年)を何度も訪ねている。

ボウルズの作品は〈徹底した達観〉に貫かれ、〈自分を世界の外側に置いて語ろうとしている〉と書く著者は、ある日、砂漠を歩いて、こう記す。

〈戻ろうとしても、もはや方向がわからない。(中略)世界でもっとも困難な迷路は砂漠にあるという逆説は、あながち文学的修辞であるばかりではない〉

この砂漠感覚は実にリアル。私もまったく同感だ。もしかしたら、人間は、あの広大な砂漠で味わう孤独や無力感に、現代社会ではおきざりにされている自らの一個の生の感覚を呼びさまされる気がするのかもしれない。

実際、産業革命以降、西欧社会からオリエントに足を踏みいれた "知の冒険者" は少なくない。その代表的なひとりは詩人のアルチュール・ランボー(1854~91年)である。

紅海の出入口にあたるアデンを根拠地に、アフリカ内陸部との貿易に従事した日々を、彼の書簡から読みとく鈴村和成の『ランボー、砂漠を行く」は労作だ。

あの "見者" と呼ばれる天才少年詩人が、亡くなるまぎわまで、母国フランスでの兵役の義務を気にしていたという論証がせつない。

もう一冊は、ずっと昔に私がアラビアヘ行く前に読んでいた本である。やはり若き日、アデンヘの旅に幻滅してフランスに帰国したポール・ニザン(1905~40年)の『アデン アラビア』。

冒頭の文章は、何だか引用するのもためらわれるほど、有名で鮮烈な告白だ。〈ぼくは20歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい〉

アデンから北に進めば、アラビア半島南部にひろがるルブアルハリ砂漠。ちなみにルブアルハリとはアラビア語で「空白の四分の一」といった意味である。

田澤 拓也「世界一の迷路」
ノンフィクション作家
1952年青森県生まれ。

SKYWARD 2006年2月号
JAL機内誌

イスラム風刺画


これも時代を反映した現象なのだろうか。地球の片隅で起きた無責任な行動が、世界の向こう側でとてつもない災禍を引き起こすことがある。

「バタフライ効果」と呼ばれる仮説がある。例えば米国のカリフォルニアでチョウが羽ばたきしたとする。ある種の条件の下では、羽ばたきは空気を巻き上げてそよ風となり、さらに突風になる。突風はついに荒々しい台風となって日本の沖合に迫る。

イスラム教預言者ムハンマドの風刺漫画の一件はこれと同じだ。デンマークという、普段は静かな欧州の片隅に位置する国の出来事であっても、ある種の政治的緊張の下では、新聞に載った漫画が爆発物に様変わりするのだ。

この場合の緊張のもとになっているのは、テロとの戦いとイスラム嫌悪のムードだ。横柄にも欧州のニュース解説者の多くは、表現の自由を盾にイスラム世界の抗議行動を批判した。怒りにかられてデモをする群衆を時代錯誤で非科学酌な人たちと決めつけた。

フランスのメディアの中には、騒ぎのもとになったこの風刺漫画を転載するところもあった。転載に際しては絶好の言い訳を見つけた。

フランスの読者にもこの漫画を見せることによって、表現の自由を擁護し、宗教的不寛容と闘うメディアの意志を挑発的な形で表明できるというわけだ。

表現の自由が民主主義の原則だとしても、欧州においてイスラム教は、いかなる意味でも表現の自由を侵す存在にはなっていないという事実を忘れてはいけない。

いま欧州で表現の自由の脅威となっているのは、むしろメディアの合併による寡占化や金銭の力による圧力、価値観の画一化なのだ。

確かにわれわれの民主主義は表現の自由を保障しているが、表現の自由の行使については法律が限度を定めている。表現の自由はどんな時にでも行使できるわけではないし、無責任な表現を保護するものでもない。

実例をあげて説明しよう。フランスでは反ユダヤ主義酌な表現など、あらゆる人種差別的表現が禁じられている。また、英国議会は2月初め、宗教的憎悪の扇動を禁じる法律を成立させた。

この法律に伴い、英メディアは法的制裁を受けることなしにムハンマドの風刺漫画を掲載できなくなる可能性がある。

表現の自由を守るためにあえて危険をおかす勇気は、自らの文化的タブーに向けられた時、初めて本物になる。

他者の文化にタブーを見つけ出して攻撃するのは安易だし、人種差別の非難を免れない。19世紀に海外植民地の住民の風俗を物笑いの種にした植民地主義者と同じだ。

なぜデンマークの新聞「ユランズ・ポステン」はムハンマドの風刺漫画を掲載したのか。この新聞は右翼勢力の中心的日刊紙で、同国最大の発行部数を誇っている。

デンマークで政権を担当しているのは自由党や保守党などの少数政権で、極右のデンマーク国民党の協力を得ている。国民党のケアスゴー党首は以前から外国人排斥やイスラム嫌悪の立場を取っており、最近もイスラム教徒を悪性腫瘍(しゅよう)と対比する発言をした。

ユランズ・ポステンは反イスラムの論調を貫いていることで知られ、人種差別すれすれの記事をよく掲載している。

風刺漫画の掲載を受け、事態がどう進展するかは十分予想できた。今日、欧州連合(EU)からそれぞれ個別の理由で批判を受けているイスラム諸国に、絶好の反撃の機会を与えた。

シリアはレバノンヘの影響力を維持し続けている。イランはイラクに浸透しつつあり、パレスチナの選挙ではイスラム原理主義組織のハマスが勝利した。そしてアフガニスタン。それぞれ大使館にデモを仕掛けるなど激しい抗議行動が行われた。

これらの事態は、欧州とイスラム諸国の双方が、それぞれ融通が利かず、妥協を許さない社会になりつつあることを示している。ここに見られる「文明の衝突」は、まず何より過激主義同士の衝突なのだ。

イニャシオ・ラモネ「イスラム嫌悪映す風刺画」
(ルモンド・ディプロマテイク総編集長)

2006年3月13日付け
高知新聞朝刊
現論「安易な他者のタブー攻撃」
時・ひと・言

スブラキの思い出


屋根裏の整理をしていたら、昔の写真が出てきた。その中にギリシャを旅行した際のスナップが数枚混じっていた。ギリシャに行ったのは20代の頃の話だ。

お金なんかちっともなかったのに、気軽に飛行機に飛び乗れたのは、当時、パリに住んでおり、勤め先が航空会社だったからである。

パリからアテネまでは約3時間。朝の便で発ち、到着するとすぐに港を目指した。工ーゲ海の島を訪れるためである。船が到着するまで岸壁で待つ。空は高みにあり、恐ろしいほど青かった。

陽射しに頬をさらしていると、湿った嫌な思いや気がかりなことまでもが、からからに干からび、どうってことないな、という解放感に包まれた。

そんな僕の鼻腔を、肉の焼ける芳しい香りがくすぐった。見れば串焼きが売られているではないか。美味しくて後を引いた。

気がつけば食べていない串を数本、片手に持って、肉にかぶりついていた。連れが、よくそんなに食べられるね、と陽射しに目を細めて笑っていた。

スブラキ。名前の響きもよかった。

その後も、2度、ギリシャに足を向けた。いずれの時も、スブラキを必ず食べた。岸壁から工ーゲ海を見ながら。1度目と2度目は、同じ女(ひと)と行った。3度目は女の子ふたりを連れての旅だった。

航空会社に勤めてはいたが、風来坊の気分から抜け出せなかった。風来坊の自由と不安が、いつもせめぎ合っていて、落ち着いた暮らしとはほど遠かった。

一緒に旅行した彼女たちと音信が途絶えて久しい。思い出すことも稀である。関係が深かろうが浅かろうが、ギリシャ旅行を通じて、20代の僕は、彼女たちを旅し、彼女たちもまた、僕を旅したのだ。

凪いだ海、蒼空、そして岸壁のスブラキ。数枚の写真に押されて、まるでドミノ倒しのように、あの頃の思い出が脳裏を駆け巡った。

あれから30年近く経っている。今、岸壁でスブラキを食べたら、どんな味がするだろうか。同じ味はしないかもしれない。留まることを知らないのは旅だけではない。食べ物も同じである。

それは人間が、たとえ故郷に戻ろうが、安定した生活を手に入れようが、永遠に同じ場所に立ち尽くしてはいられないからだろう。

藤田 宣永「スブラキの思い出」
ふじた よしなが
作家。
1950年福井県生まれ。
早稲田大学第一文学部中退後、渡仏。

SKYWARD
2006年2月号
JAL機内誌



スブラキ
スブラキとは串に刺した肉のこと。ギリシャ語で肉などを刺して焼くときに使う串のことを「スブラ」といい、料理名はここに由来しているそうです。本来は子羊肉を串に刺した子羊の丸焼きを意味していたようですが、今では串焼き料理を総称してスブラキア(スブラキ)といいます。ちなみに、復活祭に大串に刺して焼かれる子羊の丸焼きは、古代の「犠牲」の儀式の伝統を今に伝えるもので、オヴェリアスと呼ばれています。

ギリシャ料理の特徴
ギリシャ料理は、オリーブオイルとトマトをよく使うという点でイタリア料理に似ていますが、ヨーグルトや羊肉もよく使われます(一番近い料理はトルコ料理)。旬の新鮮な素材使った素朴な料理が多いので、日本人の口にも合うと思います。
ただオリーブオイルですが、半端じゃない量を使います。たっぷりでも良質な油なので以外としつこくないのですが、慣れていない人だとたまに下痢する人がいるそうなので、心配な人は注文の際に油を控えてもらうように伝えて下さい。
醤油を持っていくと魚介類を食べるときに重宝します。またサラダ類はオリーブオイル、ビネガー(酢)、塩、胡椒を使って自分で味付けしなければならないので、小袋入りの好みのドレッシングやマヨネーズを持っていくといいかもしれません。

ギリシャ語で食堂のことを「タベルナ」と言います。営業時間はだいたい昼は12~15時、夜は20時~深夜。美味しいタベルナの見つけ方ですが、観光客だけしかいない所は避け、地元の家族連れで賑わっている所にするというのは万国共通。ただし地元の人たちの夕食の時間は夜10時頃のため、8時頃に入った時にはガラガラでも、コーヒーを飲む頃になると満席になっている事もあります。アテネ市内やメジャーな島なら英語のメニューが置いている所もあります。ほとんどのタベルナでは厨房に行って食材や料理を見せてもらうのはOKなので、ギリシャ語のメニューしか無くてもなんとかなります。
一応前菜、スープ、肉料理、魚料理と分かれていますが、庶民的な所ではコースで注文するしなくても大丈夫です。