西太后の食事 | 月かげの虹

西太后の食事


まことに信じ難い食生活が続いている。今さら無理なダイエットをしているわけではない。何とかれこれ2週間も、中華料理完食の日々が続いているのである。

ことの発端は中国旅行であった。以前にも書いたように、私は海外では徹頭徹尾その国の食事ばかりを食べ続ける主義である。

べつに主義というほどのことではない。子供の時分から他人様の飯ばかり食っていると食い物の文句を言わなくなるので、旅先でも白然に目の前に供されたものを食べ続けるだけである。

とりわけ今回の旅行は観光でも取材でもなく、日本ペンクラブの主要行事である日中文化交流の代表団の一員であったから、毎日が豪勢な中華料理の連続であった。つまり、否も応もない。

手順としては、まず中国作家協会主催の歓迎会。翌日は必ずその返礼の祝宴をこちらが催す。けっしておろそかにしてはならない中国流の応酬である。

これを北京と上海で夜ごとくり返すわけであるから、6日間の旅程は胃袋を休める間もなかった。唯一、北京と上海の移動が列車であったので一息つくかと思いきや、食堂車での大宴会となった。中国の長距離列車には必ず世界の追随を許さぬ食堂車がついているのである。

中華料理の朝食もはずせない。お粥に皮蛋(ピータン)、豆乳、揚げパン、饅頭、といったメニューは私の大好物で、ホテルのダイニングでは飽き足らずに街なかの食堂にまで足を延ばす。むろん昼食は飲茶(ヤムチャ)である。

というわけで、往復の機内食を除き6日間の中華完食。ここまでは毎度のことであるからふしぎは何もない。問題は帰国後の1週間である。

前倒しの原稿が重なっていたせいで、帰ってからは間髪を容れずに連夜の会食となった。中国流の饗応の応酬というのも大変だが、わが国には「打ち合わせ会食」なる商習慣がどの業界にもあって、たぶんこのせいで男子の平均寿命は5年くらい縮んでいると思われる。

会議なら会議、メシならメシと決めればよさそうなものだが、そうはいかぬのが妙なところまで和の精神を貴(たっと)しとする伝統なのであろう。

作家と出版社との会食には、中華レストランがよく利用される。理由は他の会食ではありえぬ、あの巨大な円卓である。

小説家には生産性が本人ひとりにかかっているという職業的特徴があり、一方の版元には、単行本、文庫本、雑誌担当の各編集者のほかに、それぞれのセクションの上司がいる。

つまり、作家と出版社の正規の「打ち合わせ会食」のスタイルとしては、ひとりを囲んでみんなで攻める、もしくは責める、中華料理の円卓が好もしいのである。

理由はもうひとつある。翌年の執筆や刊行のスケジュールを調整するこの季節には、双方が連日の会食となる。作家はたくさんの版元と付き合っており、版元も大勢の作家が相手であるから、自然にそうなるのである。

毎日ともなれば、店がちがっても同じような旬の献立が並ぶ和食は飽きる。洋食が続くのもまたしんどい。その点、中華料理は店によってメニューが異なり、またあんがい体にやさしいのである。

かくて私は、上海から帰国した翌日にあろうことか上海蟹をふるまわれ、まさかきのう食べましたとも言えぬので黙って完食し、その翌日は北京ダックの元祖「全聚徳」の東京支店に招待された。こちらも同様に、実は4日前に北京の本店でいやというほど食べました、とは言えぬ。

3日目には地域医療に励む娘がへこたれて帰ってきたので、何かうまいものでも食わせてやろうという親心で問えば、「おいしい中華料理が食べたい」と言うではないか。うまいかおいしいかというより、これはまずいことを訊いてしまったと悔いたが、やむなく笑顔で希望を叶え、またしても完食。

その翌日の会食が中華であったのは非情な偶然であるとしてあくも、また翌る日も中華、しかも同じ店の予約であったというのは呪いか崇りではなかろうかと思った。

ところできょうは、亡き母の命日である。母は生前、中華料理をこよなく愛していたので、この日は力いっぱいの大盤ぶるまいをするのが何よりの供養と決めている。賛沢な話ではあるけれども、「ワンコ中華」はさすがにつらい。

中華帝国五千年の悼尾(ちょうび)に君臨した西太后(せいたいごう)は、毎度の食事に360品の料理を並べたといわれる。

多少の誇張はあるのかもしれぬが、3つの大円卓に皿を積み重ねたというから、なまなかの数ではあるまい。

ちなみに100年後の1人のファンとして彼女の弁護をしておくと、こうした豪勢な食事は個人的な奢侈(しゃし)ではなく、一種の儀式であったらしい。

つまり早帝にかわる祭祀権者として、西太后は祖宗の霊とともに卓を囲み、陪食を賜っていたというわけである。

西洋史観に基づけば、西太后の奢侈が国を滅ぼした一因とされているが、最大の原因は列強の纂奪(さんだつ)であったことを忘れてはなるまい。

かつて資本主義は植民地経営なしでは成り立たぬと信じられており、中国は地球上に残された唯一最大の楽土であった。そうした重大な史実をうやむやにして、すべてをひとりの女性の責任のように言うのは、近代100年の地球的欺瞞であろうと私は思う。

西太后は1908年11月15日に崩じた。働きづめの過酷な人生であったにもかかわらず74歳の天寿を全うしたのは、豊かな食生活の賜物かもしれない。

私が訪中する直前に、敬愛する作家の巴金(はきん)先生が亡くなられたのだが、100歳の長寿であった。中国の作家はおしなべて長命である。北京と上海の文学館を訪れて、近現代の作家の年譜を読むうちに、巴金先生が格別ではないことを知って驚いた。

おそらく中国は正確な統計がとりづらく、また国土が広いので医療面も不利ではあろうが、お年寄りの数の多さとその矍鑠(かくしゃく)たるたたずまいを見るにつけ、たぶん世界一の長寿大国はこちらであろうと、私は信じて疑わない。

やはりそれも、中華料理のもたらす福音ではなかろうか。このごろの日本では、長生きがしたければ「食うな」であるが、医食同源の中国では、もちろん「食え」である。実にうらやましい。

ふしぎなことに、かれこれ2週間も脂っこい中華料理ばかり食べ続けているにもかかわらず、私の体重に変化はない。おいしいうえに飽きもせず、高カロリーなのになぜか太らない。まさしく中華5000年の叡智というべきであろう。

この際いっそ肚をくくって、巴金先生のように百寿を全うしようかと、なかば本気で考えている。とりあえず今宵も、亡き母の供養のために中華料理を完食する。

浅川次郎「西太后の食事」
あさだじろう 作家
日本ペンクラブ理事
1951年、東京都に生まれる。
『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞、『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞を受賞。壮大なスケールで描く『蒼穹の昴』、琴線揺さぶる短編集『霞町物語』等、多彩な作風で多くの読者を魅了し続けている。近著は『天切り松 闇がたり(第4巻)昭利侠盗伝』(集英社)、『憑神(つきがみ)』(新潮社)。