月かげの虹 -17ページ目

仲川恭司の書「久遠」


「久遠(くおん)」は仏教用語である。限りなく遠い時間のことを言う。作者はそれを過去から未来への永遠ととらえた。言葉の意味の深さに引かれて取り上げた素材のようだ。

「遠」の一字の表現にその想いのほとんどが託されているように感じる。淡墨による快い抑揚と適度な筆の動静とが美しい空間を造形している作品だ。

その美しさは造形的な調和から生まれるものであると同時に、主題との素直な取り組みが大きく作用したと見ることもできるだろう。

無論その造形的調和を純粋に絵画的にだけとらえて評価することはできない。言葉と文字という絶対的な条件を抱えての造形であることを避けるわけにいかないからである。

しかし、なおそこにおいて、その条件、その約束を意識することなく書き上げたところに独特の美しさが見えたような気がする。

つまり、色や形や運筆などにおける絵画とはまったく違ったミニマルな状況と手法によるつくからこそ創り出せる造形、という意味においてである。

おそらくは作者にとっての「久遠」は、そ
の文字、その言葉を発見した時点から自身の所有物と化して心身に取り込まれたものと思われる。

彼がその文字と言葉から受けた忘れ難いインスピレーションとは何だったのか。あるいはその感動の起因するところはなんだったのか、われわれはその肝心なところを知りたいものだが、知ったところであまり意味のないことかも知れない。

何故なら、それは単に彼の知覚を共鳴させ、その創作意欲に点火しただけに過ぎないモノだからである。

「久遠」という文字と言葉に強く反応した時の仲川恭司という書家が有した知性と感性の背後にあったモノが重要なのである。

「久遠」を通して揺さぶられ、同調した彼の肉体と精神に宿っていたモノ、その正体が作品としての「久遠」に内在しているのではないだろうか。

したがって作品「久遠」は仏教用語としての「久遠」による写実的表現ではない別格のモノである。彼自身、師・手島右卿の作品を通してそのことをよくよく理解している。

特に右卿芸術の「文字の裏がわにあるもの、その厚さと深さを感じさせるある境地」に強くひかれ、そのエスプリの存在に感じ入っているのだ。

いうまでもなく、書にとって言葉の意味は限りなく重要なものである。と同時に文字の形の重要度もまたそれに匹敵する。

視覚化される形象は造形であり、内省する文字の意味は主題となり、表現における作者の精神のあり方、その基本に深く関わるものとなる。

要は言葉と文字がそれぞれに課せられた役割をどのように果たし得たか、つまり総合的調和が成されたか、ということで書は成り立っているように私は思っている。

その調和の「有り様」によって生じる個別性のことを個性と呼んでいいのだろう。無論、それら双方のいずれかが優位に立つことは当然あるわけだが、仮にその言葉と文字の役割の差が極端に現れたとしても、それが各自の個性的表現と呼ばれるものに直接つながる大事世ずな要素と成り得る筈のだ。

冒頭にも述べたように、仲川恭司の仕事はまさにその調和によって個性を表出するものと思うが、加えて、彼の作品にみる表現の柔軟性や品位ある美的感性が、私にとっては授賞対象とする大きな要素となった。

単に「書」の表現領域を超えるとか革新するとかいうことではなく、「書」という芸術それ自体の存在の絶対的肯定の上に立って、その表現領域の開発に一歩一歩取り組む個性的姿勢が好ましいのである。

武田 厚「仲川恭司『久遠』について」
多摩美大客員教授
美術評論家
(神奈川県横浜市在住)

好ましい個性的姿勢
快い抑揚と適度な筆の動静

2006年3月1日付け
高知新聞朝刊

フェチシズム


現代の禁欲主義というテーマで、フェティシズム、とりわけ緊縛感を伴うボンデージライクなフェティッシュ・プレイについて話したいと思う。

これまで、フェティッシュプレイというと、性的欲求不満→オナニーによる欲求充足解消という、動機理論によって私たちはその本質を求めようとしてきた。しかしここに来て、どうもそれは違うのではないかという気がしてきたのである。

この気づきを、筆者は『<生きる意味>を求めて』(V.E.フランクル著 春秋社)の「スポーツ──現代の禁欲主義」という論考によって得た。そこでこの論考を読者とともに追体験しながら、フェティシズムを楽しむ方法を体得してもらいたい。

さて、『<生きる意味>を求めて』の著者フランクルとは、1905年にウィーンに生まれ、ナチスを生き抜いてウィーンやアメリカの大学の教授職を歴任し、97年に没した精神科医である。

彼によると、スポーツ(フェティッシュプレイ、とそのまま置き換えて読んで差し支えない)をどうして人間が求めるのかというと、それは人間はそもそも緊張状態を必要としているからだ、という。

このような結論に至るためには、これまでのようなスポーツ分析である、「動機理論」では本質をとらえることができないと主張する。動機理論とは、運動をしたいという動機が高まって、次第に我慢できなくなり、スポーツをする。

そして、スポーツをすることによって満足する。満足=緊張緩和にただ進んでいくのが人間なんだというのが動機理論だ。フランクルは、この動機理論自体、人間分析のツールとしては使えないと断じる。

フランクルは、人間は緊張緩和という「内的均衡」ではなく、常に何かあるいは誰かといった外の世界に、おもな関心を持つ存在だと考えている。

その関心は、果たすべき義務でもいいし、愛する相手でもいい。こうした人間が持つ、自分以外の何かをめざしたり、関わろうとする本質的特徴を「人間存在の自己超越性」と名付ける。スポーツを通じて、人間を志向するあたり、まさに哲学者である。

さて、自己実現というのも、この自己超越性の副産物としてのみ、可能なのだというのだが、フェティシズム(フランクルのいうスポーツ、以下同)を考察するに当たってフランクルが提出した重要なテーマを引用しよう。

1.人間は緊張緩和に主な関心を持っているのではない。人間は緊張を要求しさえする。
2.したがって、人間は緊張を探し求める。
3.しかし今日、人間は十分な緊張を見つけられずにいる。
4.それゆえに、人間は時に緊張を作り出す。

1については、ほどよいさじ加減のストレスは人生の隠し味だと、ストレス学説の父であるハンス・セリエがいったことを引いて、フランクルは、人間と、充足すべき意味とのあいだに築き上げられる類の緊張を欲していると主張する。それゆえに、2でいう緊張そのものではなく、人間存在に意味を与えてくれるような「意味」を求めている。

意味がまずあって、それに向かう緊張が人間の健康に必要だというわけだ。たとえば希望する仕事に就いた若いサラリーマンが、昼夜を惜しんで仕事に没頭するときに、彼は退屈を覚えたり、人生の意味を問うことがあるだろうか。もちろんない。やり甲斐のある仕事が彼の人生の意味そのものであり、それを行うプロセス自体は適度なストレスに満ちている。

ところが、3でいうとおり、リストラや仕事の意味が見失われがちな現代社会にあっては、この幸運な若いサラリーマンはむしろ少ない。ほとんどの現代人が、もはや自分を緊張させてくれるような使命や意味が見いだせなくなってしまっている。

人間はもはや性的欲求不満ではなく、実存的欲求不満なのである。人間の主な不満を、フランクルは不条理感、無意味感、虚無感にフォーカスし、それを「実存的空虚」と名付けた。そしてその主たる症状は「退屈」なのだという。

19世紀にショーペンハウエルが「人類は足りなくて飢えることと、満たされて退屈することという、2つの極のあいだを永遠に揺れ動くよう運命づけられている」と言ったが、今日の私たちは退屈の極に到達した。
 フランクルは「3.十分な緊張を見つけられずにいる」人類が、いよいよもって緊張を自ら創りはじめたと指摘する。ヘルダーリンは「危険の生じるところに救いあり」といっている。

ではどんな緊張か?

「豊かな社会によって味わわなくてもすむようになった緊張を、人間は今や人工的に創っている。自分自身に故意に要求を課し、一時的にでもストレス状態にわざとさらすことによって、人間は自分自身に緊張を与えようとしているのである。私の見るところでは、これはまさにスポーツによって果たされる機能である。スポーツによって、人間は自らの中に非常事態を造り上げる。」

フランクルがスポーツに見いだしたこの機能、私たちフェティシストにとっては言うまでもなく、ボンデージの要素をはらむフェティッシュプレイが持つ機能にほかならない。

私たちはフェティッシュプレイにおいて、人為的な緊張状態を作り出して楽しんでいるのである。この営みのおかげで、「無意味感」「退屈さ」から解放され、当面生きる意味が見いだせなくても、その意味を求めるときに生じる緊張感だけを味わうことで再び日常へと戻れるのだ。

フランクルはスポーツを、「豊かさの大海の真ん中に、禁欲主義の島が現れた」と称した。

禁欲主義──そういえばフェティシズムはなんと禁欲的なことだろう。フェティシズムの営みは、必要のない業績、必要のない義務に満ちている。人間は、エレベーター、エスカレーター、ヘリコプターなど、自分の足でのぼる「必要のない」時代に生きているにもかかわらず、あえて自分の足で山に登る、岩にかじりついてみるといった、「必要のない業績」に夢中だ。そのためにシューズやザイル、装備などの産業すら成り立つ。

フェチが禁欲的であるというのは今更いうまでもない。裸で性器をいじれば出てくるその不必要な精液を、わざわざもっとも遠い、関連性の低い、必要のない「服」から、あるいはともすれば身体から離れさえして、観念における「設定」から入っていくのだから。

スポーツとは人間の可能性の限界に挑戦し続ける営みである。そしてそれは自分との闘いだ。可能性に挑戦するという「意味」が、いつまでもある限り、スポーツが人類を、しかも空虚で退屈な豊かな現代を生きる私たちを魅了し続けることだろう。

フェティシズムもまた、人間の可能性に挑戦する自分との闘いという「意味」を持っている。たとえば普通にキャットスーツを着てみる。想像をはるかに超えた拘束感に、手記を寄せる体験者の多くがそのまま着続けて夜を明かしたり、日常の所作を行ってみたりする。

フェティシズムの体験は、体が震えるほどの意味を与えてくれる。その緊張感は日頃の退屈を吹き飛ばすにあまりあるエンタテイメントだ。

フェティッシュプレイの実践者は、一回のプレイを経るごとに新しい可能性を発見して、それに挑戦する使命を得ることが出来る。キャットスーツを手にして、何度か着ると、今度はもっともっと体を拘束してみたくなる。体に、緊張感を与えてみたくなる。行き着く先のひとつが、バキュームベッドとか、インフラタブルスーツといった、真空状態あるいは空気の圧力で全身を密閉するプレイだ。

体中が文字通りのストレスだらけとなる。しかしそれがどうしてこんなにワクワクする、心躍る体験になるのか。もう読者はおわかりのことと思う。

フランクルはスポーツに自己超越性があるから、つまり自分以外の目標になりうべきものや誰かをめざそうとする力が働くから、その過程に生きる意味が生じ、その実現のために緊張する、その緊張を求めて人はスポーツをするといった。

フェティッシュ・プレイにおける自分以外のもの、対象は何か。それはもう言うまでもないのだが、フェティッシュ(フェティシズムの対象となる物)である。ブーツフェチにとってのブーツ、ラバーフェチにとってのラバーのあの黒光り。それらの執着できる外的対象を、早くから見つけられて、いつも緊張しているのが、スポーツパーソンであり、私たちフェティシストなのだと言える。

フェティッシュプレイへの欲求が健康な精神の営みのひとつなのだということを、フランクル──20世紀を生き抜いたひとりのユダヤ人精神科医が私たちに教えてくれている。

自分の中の欲求に拘泥し、自分に閉じこもるのではなく、自分の外に対象を求める。自己超越性の快楽を手っ取り早く得たいのならば、キャットスーツを着てみることだ。キャットスーツの拘束感と黒光りするその対象物としては十分すぎるほどの魅力。

キャットスーツ体験とは、人間が生きる意味そのものを教えてくれる貴重な機会にほかならない。

市川哲也(フェティッシュ・ヴォイスライター)
Alt-fetish.com

http://www.alt-fetish.com/cnts/aboutfetishism.htm

ラインの滝


「ラインの滝」をご存知だろうか ? ゆったりと水量豊かに流れるライン河が、ただ1ヶ所、滝となって流れ落ちている所がある。もっとも滝といっても、その落差は大したことはない。「高さ」だけを言えば、滝の内に入らないかもしれない。

この滝の面白いのは、滝の真中に、流れを左右に分けるように巨大な岩が突き出ていて、観光客がその岩に行けることである。揺れるボートに乗り、水しぶきを浴びながら岩のふもとへ着くと、その岩に彫られた階段を上って、岩の天辺に上ることができる。

狭くて、7~8人も立ったら一杯になるくらいだが、ここに立つと、豊かな水が轟音と共に流れ落ちる、その真っ只中にいるようで、ふしぎな感覚に捉えられる。あまり一般の観光ルートには入っていないが、一度は経験する価値があるだろう。

それにしても、考えてみると、これはずいぶん危険な観光スポットである。岩へ乗り入れるボートも、結構古くて、途中でエンジンがいかれたらどうするんだろう、と心配になるが、それよりも、巨大な岩そのものも心配だ。

どんなに巨大な岩でも、絶えずあれだけの水量の圧力を受け続けていて、万一、小さなひび割れでも入ったら、いつ崩れ落ちてもおかしくない。

しかも、年中滝の中にあるのだから、岩の状態を点検することもできないのだ。たとえ何百年後、何十年後かにせよ、いつかその日はやって来るだろう。たまたまそのとき、岩の上に立って周りを眺めていた観光客は、「不運だった」ということになる。

海外の観光地に行くと、しばしば〈どんな事故が起きても、責任は自分にあります〉という書類にサインさせられる。オーストラリアで馬に乗って町中を散歩したときも、サインさせられた。

ニュージーランドのクィーンズタウン郊外のショットオーバー河では、底の平らなジェットボートで急流を突っ走る。それもわざと岩や崖のすれすれの所を走るのである。

これが結構面白くて、何度も乗ったが、「きっと、いつか事故を起すだろうな」と思っていたら、やはり数年前に観光客が死亡する事故を起した。しかし、このときも、客は当然書類にサインさせられているだろうから、補償はどうなったのか……。

「事故に遭うのはあくまで自分の責任」という発想が、西欧には根づいている。スイスの山に登ると、展望台など、足を滑らしたら何千メートルの谷へ落ちる、という場所が珍しくない。手すりも隙間が広くて、滑ったらその間から人一人、簡単に落ちてしまいそうだ。

日本なら、さしずめ金網でも張って、たとえ足を滑らしても落ちない工夫をするだろう。こういう発想の違いはどこから来たのだろうか。

ヨーロッパでは、どこでも足の悪い年寄りが多い。ある年齢になると、杖をついて歩く人の方がずっと多いのではないか、とさえ思うほどだ。

肉食中心の食事、ワイン、チーズ……。痛風や関節炎にならない方がふしぎかもしれない。

これほど、足を引きずってゆっくりとしか歩けない人が多く、社会はバリアフリーの先進国を自任するヨーロッパなのに、どうにも理解できないことがある。それは横断歩道で青の信号がむやみに短いものがある、ということである。

ウィーンで、ずいぶん泊ったインペリアルホテル。その正面から少し外れた横断歩道は、いわゆるリングと呼ばれる、市電の通る環状道路を横切るものだ。

これが、驚くほど青の信号が短いのである。横断歩道の片側に立って、信号が青になるのを待って渡り出しても、半分も行かない内に、もう青信号の点滅が始まる。

そのままのぺースで歩けば、向うへ行き着かない内に、必ず信号は赤になる。特に足の悪くない人間でもこうなのだ。杖などついている人は、一体いつもどうやって渡っているのだろう?

初めてこの信号を渡ってから、もう10数年。一向に改善されたという話も聞かないが、今もあの横断歩道を、人はせかせかと駆けながら渡っているのだろう。

ローデンバックは『死都ブリュージュ』を書いて、当のブリュージュの市民からすっかり嫌われてしまったそうだが、ヨーロッパの都市はどこもある意味で「死の都」である。

ウィーンの街を歩けば、「死の香り」はどこにでも漂っている。生と死はいつも隣り合せ。ヨーロッパの人々は、そのことを常に意識しながら生きている。(つづく)


赤川次郎「ドイツ、オーストリア旅物語」
生と死の世界(1)

波 2006年2月号
新潮社
¥100

皮膚と肌


ところで、刺青師・清吉は「心を惹きつける程の皮膚」「光輝ある美女の肌を得て」念願の刺青を始めるが、さて、「皮膚」と「肌」はどう違うのか。

谷崎はどう使い分けているのか。『刺青』には「肌」が7回、「皮膚」が4回用いられている。もちろん皮膚科学会などでの学術用語は「皮膚」である。

谷川 渥は『刺青』で「語られる皮膚は……即自的な物質的存在としての皮膚ではなく、距離を前提とし、それゆえに欲望を誘発する皮膚、つまり肌である。肌とは、対自性と対他性を含んだ皮膚のことである。つまり皮膚は意識化されることで肌となる」という。

その用例の具体は「線と色とが其頃の人々の肌に躍った」「参会者おのおの肌を叩いて」「何十人の人の肌は、彼の絵筆の下に絖(ぬめ)地となって」「人々の肌を針で突き刺す時」と最初の4回はいずれも刺青を通して、まさに対自、対他性的に意識された「肌」である。

そして「光輝ある美女の肌」「美しい顔、美しい肌」は女そして欲望の対象として「皮膚」が「肌」となった。最後のは「肌を袒いた」である、これは言わずもがな「皮膚」の用語は使えない。

一方、「皮膚」の用例はまず「皮膚と骨組み」で、解剖学的表現として用いられ、「肌」は馴染まない。なお、『水滸伝』に「肌骨」の用例があるが、中国からの留学生2人とも、この「肌」は筋肉を意味していると教えてくれた。

白川 静の『字統』にも「肌」の項に皮膚の意味とともに「肉なり」とあり、「皮膚下の肉を指す」と記載されている。

次の「清冽な岩間の水が絶えずに足下を洗ふかと疑はれる皮膚の潤沢」はどうであろう。やはり生理学的な皮膚の状態を表規し、それは意識される肌の前提と言うべきであろうか。

同じように「清浄な人間の皮膚を、自分の恋で彩らうと」、いまから意識して「皮膚」から「肌」になるのだろうか。

「若い刺青師の霊は墨汁の中に溶けて、皮膚に滲んだ」はどうだろう。「肌」ではないのか。いや「皮膚」が「肌」に化ける一瞬の表現なのか。その解釈は難しいが、両者の使い分けを、谷崎はきっと大事にしたに違いない。

さらに、谷崎は女の白い皮膚に格別にこだわった作家で、真っ白な女の素足に清吉の胸を躍らせたのである。また火野葦平の『花と龍』にも「白い肌理の細かい肌」に刺青がよく合うとある。

また、『幕末明治女百話』の「近江のお兼の刺青女性」の話にも、「一般の説には、刺青師が女の白い皮膚を……キメの細かい、豊満るような肉を彫るのは、快感だといいますが、どんなものですか。悪い心持はしますまいが、一生懸命なものです」とある。

さて、清吉は理想の肌をもった娘に近寄った。「彼の懐には嘗て和蘭医から貰った麻睡剤がいつの間にか忍ばせてあった」麻睡剤とはなにか。

松木明知・前弘前大学麻酔科学教授が、おそらくクロロホルムの可能性が高いと教えてくれた。『刺青』が上梓(じょうし)された明治43年頃に、異臭性が少なく、効果が早いことからクロロホルムが急速に普及した。

文久元年(1861)、吉原の幇間(ほうかん)桜川善孝の子・由次郎の右足の脱疽の手術がクロロホルム麻酔下に伊藤玄朴によって行われたのは有名であるが、その際用いられたクロロホルムはオランダの医師ポンペが取り寄せた。

「麻睡」の文字について松木は、「ま」は麻・魔・痲、「すい」は酔・睡などが用いられ、この組み合わせでできる言葉は、すべて文献上認められるという。

なお「麻睡」について、塩崎文雄は鴎外の「<魔睡>(「スバル」1906・6)に、女性に麻睡をかける医者の話があるのと関係があるか」と問いかけている。しかし、鴎外のそれはその内容から催眠術を指している。

松木によると、当時ドイツから入ってきたヒプノーゼHypnose(催眠)に対して「魔睡」の訳がつけられ・そのためアネステジーAnesthesie(麻酔)と混同されたそうである。それでアネステジーに「魔睡」の訳が見られるという。

なお、「麻酔」なる言葉は日本で作られたことも指摘している。嘉永3年(1850)、江戸の蘭学者・杉田成卿が意識消失と鎮痛状態を「麻酔」と表現したのであるという。

刺青師清吉が、果たしてクロロホルムを手に入れ、それを使いこなしたかどうか。玉林は『刺青』の価値を損傷しないがと断った上で、「昼頃から彫り始め、日没を越えて夜に入り、遂に暁に至る迄彫り続け、漸く完成して居るが、そんな事は実際には出来ない話である。いくら麻睡がかけてあっても、先ず死んでしまふであろう」と述べている。

麻酔についても、それはあくまでも谷崎の少説の世界である。しかし、刺青が痛いのはいたいのである。

先の刺青女は「近頃注射彫というのがあるそうですが、男らしくもないと思います。三寸四方を彫る時、四本四カ所ヘコカインを注射して、彫るといいますが、痛みはないかしらないが、弱いじゃありませんか。あとでは彫りすぎて悩むといいます。墨ヘコカインを入れて、耳掻き二杯ぐらい交ぜて、ソレで彫ってもいるといいます。それくらいならね彫らない方がと恵います」と言っている。刺青が「がまん」とも呼ばれる所以である。

小野 友道「いれずみ物語」
谷崎の『刺青』
皮膚から肌への一瞬
(熊本大学理事・副学長)

松木明知先生に深謝いたします。

主要文献
1)塩崎文雄:〈テクスト評釈)『刺青』國文学、38;84.1993.
2)篠田鉱造:『幕末明治女百話』岩波文庫、1997.P46.
3)城生佰太郎:『オオタミ・ベンベの言語学』、日本評論社、1987.
4)谷川渥:『文学の皮膚』白水社.1996.
5)玉林晴朗:『文身百姿』、恵文社、1987.
6)火野葦平:『花と龍」・『現代長編文学全集22』、講談社、1969.
7)松木明知: 私信
8)松木明知:日本における江戸時代以前の麻酔科学史、麻酔.53(臨時増刊号)、2004.
9)吉川幸次郎・清水茂訳:『完訳 水滸伝(1)』岩波文庫、1998.

大塚薬報 2006年1・2月号
No.612
大塚製薬

入墨と刺青


明治40年代、日本は軍国主義が台頭し、いれずみどころではない時代であった。国家の体面にこだわり、政府は明治41年9月、「警察犯処罰令」を発布した。

その第二条二十四号で「自己又ハ他人ノ躰二刺文シタル者」を罰するとした。それは何よりこの時代、いれずみが盛んであった証拠に他ならなかった。

事実、明治45年には神田の彫宇之のいれずみを背負った者が参集して「神田彫勇会」を立ち上げている。谷崎の『刺青』はこのような時勢の下で書かれた。

「馬道を通ふお客は、見事な刺青のある駕籠舁(かごかき)を択(えら)んで乗った。吉原、辰巳の女も美しい刺青の男に惚れた。博徒、鳶の者はもとより、町人から稀には侍までも入墨をした」とある。

ここで谷崎は何故「入墨」と「刺青」を使い分けたのか。「刺青」をいわゆる「いれずみ」の意として用いたのは、実は明治からである。

先の「警察犯処罰令」では「刺文」となっている。その前の明治13年制定の刑法にも「刺文」とある。谷崎の『刺青』が世に出るまで「刺青」の用例は見当たらないので、谷崎の独創になる文字と見なされている。

しかし、中国では古く「刺青」の文字があり、それはいれずみのことを指している。現在の中国では「文身」あるいは「紋身」が汎用されていると聞くが、以前は「刺青」も用いられていたという。おそらく中国から入った「刺青」を谷崎が用いたと考えるのが自然であろう。

玉林晴朗は『文身百姿』の冒頭で、「<いれずみ>と云ふ事は墨を入れる。即ち墨を皮膚に刺すと云ふ意味であって、最近は専ら<刺青>と云ふ文字が用ひられて居るがこれでは青い色素でも刺すかの様にも取れる。これは理屈から云へば刺墨と云ふべきだが、結果から見て墨を刺して青い色素を刺したかの様に見えるので左様に云ったものであろう」といささか「刺青」に批判的である。

さらに「現在では刺青と文身と両方の文字が用いられ、称呼としては一般に"いれずみ"と"ほりもの" の両様が用いられている。が然し江戸から発達した処の、あの背中一面に彫る大きな絵図の文身は矢張り<ほりもの>と云ふ方がそれらしくていい」としている。

それで、彼の著作の題名は『文身百姿』である。なお谷崎は初版本において、その箱の書名と中扉の題名には「しせい」とルビしているものの、その他、そして初出以降はすべて「ほりもの」とルビしている。

ところで、前述のように谷崎は一方で、「入墨」も使っている。何故か。「入墨」は江戸時代、専ら刑罰として用いられる用語であった。

谷崎は「すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者である」ことを強調したいがために、町人や侍の貧弱ないれずみを醜い弱者として登場させ、そんなもの「刺青」とは言わせないと啖呵をきったのではないか。

それで女の惚れる見事な強者の刺青が浮き立った。そのような見事な刺青を「時々両国で催される刺青会では参会者おのおの肌を叩いて、互いに奇抜な意匠を誇り合ひ、評しあった」のである。

「アッ」といわせた者が1等となる「文身会」が天保の頃に両国などで催されたという。その1等について玉林が披露している。

その一つ、「肩から背に蜘蛛の巣があり、楓の紅葉したのか二枚ひっかかって居り、其の巣から一本の糸がスツーと下って居て、右足の踝(かかと)の処で止まり、其処に大きな蜘蛛が一つ彫ってあった者が優勝」した。その他、思いもかけない奇抜な例がいくつも紹介されている。(つづく)

小野 知道「いれずみ物語」
谷崎の『刺青』<皮膚から肌への一瞬>
大塚薬報 2006年1・2月号
No.612
大塚製薬

ドガと踊り子


印象派の画家は光を描いたといわれる。たしかにそのとおりだが、印象派の画家のなかでも、エドガー・ドガは、室内の光を描くのを得意とした。

戸外の太陽の光を描いたモネやルノワールと違って、ドガは舞台を照らす照明や、カフェの店内の明かりといった、人工的な光を好んで描いたのである。自然光を描く場合も、多くは窓から入る室内の光であった。

そういうドガの作品のなかで、もっとも人気があったのは、バレエの踊り子を描いたものである。舞台の踊り子たちの動きを、ライトに照らされる衣装も美しく、ドガは繰り返し絵にし、甘の稽古場での踊り子も描いた。

バレエの踊り子の絵がなぜ人気があったのか。バレエそのものが当時ヨーロッパで人気があり、ドガがその舞台を独自の美しい画法で描いたからである。

だが、それだけではなかった。バレエの世界には、とくにフランスで、隠された一面があったのである。

画家のマネはパリの街を散歩する趣味があった。ときによっては、一日中でも歩き回ったようである。そのことについて、友人のひとりから、こんなことをいわれる。

「どこかに踊り子を囲っておくより、よっぽどいい趣味だよ」

この時代、踊り子を愛人として密かに住まわせることが、ブルジョワの金持ちたちの間で流行した。だから、悪くいえば、バレエの世界はブルジョワたちのための愛人の供給源になっていたのである。

マネはブルジョワ階級の画家であったから、友人との会話にも、そんな話が出たのであった。ドガもマネと同じブルジョワ階級の画家だったから、ブルジョワたちの踊り子漁りの事実は、熟知していたに違いない。

踊り子たちの側からみれば、バレエの舞台出演だけで生活できるバレリーナは一握りで、スポンサーがいなければ生活できない踊り子が多かった、という事情があったのだろう。

オルセー美術館にあるドガの有名な作品「スター」は、左手前景で踊るひとりの踊り子を、左手の隅でひとりの男が他の踊り子たちとともに見つめている絵だ。

専門家の解説によると、この男は、踊っているバレリーナのスポンサーか、踊り子たちを物色しに来ている紳士なのである。

のっけからバレエ界の裏話をもち出したのは、ここでは、バレエの踊り子やバレエの教師を、生活をかけた仕事としてみようとするためである。

ここに取り上げた「ダンス教室」は、昼間の、踊り子たちの勉強風景である。教室に柔らかく満ちているのは、窓から入る昼の光だ。

威嚇的に杖を構えた老ダンス教師は、子どものような踊り子たちを前に、なにやらきびしいことをいっているに違いない。ここでの踊り子たちは、舞台で踊っているときとは違って、思い思いの姿勢で教師の話を聞いている。

左手の踊り子は、背中でもかゆいのか、手を背中にまわしているし、奥のほうでは脚を投げ出している子もいる、といった具合だ。

バレエのレッスンは非常にきびしいもので、一流のバレリーナでも、何日か稽占を怠けると、たちまち力が落ちるといわれる。

ところで、ドガがこの絵を描いた1870年代は、フランスのバレエの衰退期であった。フランス・バレエの全盛期は、1820年代から1850年代までの30年余り、ロマンティック・バレエが一世を風靡した時期である。

文学、絵画、あらゆる分野を巻き込んだロマン主義の波に乗って、マリー・タリオー二という天才的なバレリーナが主演した「ラ・シルフィード」が、パリのバレエ・ファンを魅了した。

ロマンティック・バレエの幕開けである。ロマンティック・バレエはいずれも、異国的な背景に、妖精などが登場するファンタジックな舞踊劇だった。

タリオーニのライバルとして、ファニー・エルスラーが登場し、さらに「ジゼル」の名演で知られるカルロッタ・グリジーが現れて、パリのバレエ界は黄金期を迎えることになる。

だが、この3大スターが競ったのも1840年代までで終わり、1858年にデビューしたエンマ・リプリーが、将来を嘱望されながら、21歳の若さで死亡したころから、パリのバレエは急速に衰退してしまった。

パリに取って代わったのがロシア・バレエの人気で、フランスの優秀なダンス教師、振付師などは高額でどんどんロシアに引き抜かれていったという。

そして、20世紀初頭には、ロシアのデアギレフ・バレエが、ヨーロッパを席巻することになる。ドガが踊り子を描いていたのは、パリのバレエ界が落日を迎えていた日々だった。

それでも、彼があれだけバレエの世界に情熱を燃やしたのは、なぜだろうか。おそらく、ドガのなかには、少年時代のバレエ体験が刻み込まれていたのではないだろうか。

ドガは1834年の生まれだから、彼が20歳ころまでは、パリのバレエは盛んだった。富裕な銀行家の息子だったドガが、子どものころ、両親に連れられて3大スターの舞台を見たことも十分に考えられる。

まして彼の父親オーギュスト・ドガは、自宅にギターの演奏家などを招くほど、音楽好きだった。思い出のなかのバレエのすばらしい舞台が忘れられず、ドガはバレエを描き続けたのではないかと考えられる。

しかし、一面冷徹なリアリストであったドガは、思い出に合わせて現実を美化しようとはしなかった。彼が描いたのは、斜陽のなかでも、バレエを仕事として生きるパリの踊り子やダンス教師である。

黄金時代が去ったとはいえ、人工照明のなかでバレリーナが踊れば、バレエの舞台はやっぱり華やかだった。踊り子をデッサンするために劇場や稽古場に通ったドガは、踊り子たちとも親しかった。

こんなエピソードがある。あるとき、ドガは、訪ねてきた2人の踊り子の1人から、オペラ座との契約更新に際して、給料をもう少し上げてほしいのだがどうしたらいいか、という相談を受ける。

来年の契約で示されている金額は2,400フランだが、2,700フランはないとどうにもならないし、自分にはそれだけもらう資格がある、と踊り子はいうのだ。

そこでドガはさっそく友人でもあるオペラ座の作者で演出家のリュドヴィク・アレヴィに手紙を書き、彼女の要求どおりにしてくれるよう、強く頼んでいる。

ドガはよく冷たい人間のようにいわれているが、決してそんなことはなかった。踊り子たちは絵の材料になりさえすればよかったのではなく、ドガはやはり彼女たちの生きる姿を愛してもいたのである。

磯辺 勝「バレエ」
名画の扉を開く
大塚薬報 2006/No.612
大塚製薬

りんごの花咲くころ


「津軽を訪ねたいが、いつが一番いいですか」と聞かれると、「リンゴの花咲くころ」といつも言っている。

「リンゴの花は、近くで見れば淡いピンクと薄い白の花であり、遠くから見れば白い花ぐもりであり、山河が全体として匂ってくるようである。それが津軽の春である」医師であり政治家、津川武一の小説『綱子のりんご日記』の一節である。

弘前市石川から岩木町百沢まで20kmにわたり、リンゴ輸送基幹道路「アップル・ロード」が通っている。この道路の両側には一面にリンゴ園が広がっており、岩木山を背景に四季折々美しい変化を示す。

特にリンゴの花咲くころは最高で、世界に誇るべき景観だと思う。リンゴ栽培種の花は、前年の夏に短枝に形成された花芽から、1カ所に5、6個の蕾がつき、その中心から咲き始める。

開花から花が散るまでの期間は10日くらいである、花は5枚の花弁と16-20本の雄しべ、1本の雌しべからなっている。リンゴの花は完全に雄しべと雌しべが同居しているが、自分の花粉では受精できない。相性のよい雄を得なければならず、その手助けをするマメコバチは縁結びの神である。

マメコバチは津軽地方に古くから分布していたもので、かやぶき屋根のアシ筒に巣を作ることが農家の間ではよく知られていた。子供たちはこのハチの巣を割って中の花粉の塊を食べていたという。

花粉の塊がきな粉(豆粉)のような色と形をしていたところからマメコバチの名称がついたともいわれている。和名はコツノツツハナバチだったが、リンゴ授粉への利用と研究が進む過程で地方語であるマメコバチが正式和名となった。

マメコバチがリンゴ授粉用に飼育されてから約60年、普及技術に移されてから37年経過した。現在、県下リンゴ園の約80%で利用されており、結実確保や良品生産に欠かせないものとなっている。青森県のリンゴ農家は訪花昆虫利用の点では、間違いなく世界の最先端をいっている。

リンゴの花の色は白地に紅色を帯び、この紅色の程度は品種によって異なる。果実が赤く色づく「ふじ」の花は白っぽく、黄色品種の「陸奥・王林」の花の方が紅色が鮮やかである。

リンゴの仲間として、春の花や秋の果実を賞でる「観賞用マルス」にも多くの種や品種がある。観賞用マルスはアメリカ、ヨーロッパでは「クラブ・アップル」と呼ばれ、寒冷地での庭木や街路樹として普及している。

花の色は純白、ピンク、赤紫と変化に富み「バン・エセルタイン」のよっに花弁が大きく15枚もある八重で、とてもリンゴの仲間と思えない品種もある。

リンゴの花言葉にはいろいろある。そのひとつに「清純」があるが、一番ぴったりする。

2005年8月に地元から214頁のカラー版「青森県のりんご 市販の品種とりんごの話題」(北の街社)が出版された。

ここに登場するリンゴの品種は157種、著者の杉山芬・雍ご夫妻がいずれも県内で購入したり、農家から直接手に入れたものである。

そのリンゴを食べたり、眺めたりしたときの感想や品種の来歴などが・美しいカラー写真と平易な図解で記載されている。どの頁からも、リンゴの香りが漂ってくる、

こんなに多くの品種をそれぞれの旬ごとに楽しむことができるのは産地に住む者の特権である。品種の多さに驚かれた方も多いと思うが、市場に受け入れられるものは限られている。

毎年5~6種類もの新品種が登場しながら、そのほとんどが知られることもなく姿を消していく「リンゴ」と一言で言っても、品種ごとに色・形・味・香すべてがそれぞれ違う。

新しい仲間を味わってもらう機会がないことを、今雪の中でひっそりしているリンゴたちはど帽っているだろう。

一木 茂「りんごの国から」
(元青森県りんご試験場場長)

<取材協力>
(財)青森県りんご協会
青森県農林総合研究センターりんご試験場
青森県農林水産部りんご果樹課

大塚薬報 2006/No.612
1・2月号
大塚製薬
¥300

林檎と苹果


スーパー、デパート地下、果実専門店には季節に関係なくさまざまな果物があふれている。平成15年の総務省家計調査によると、年間1人当たり生鮮果実購入数量は30.3kgである。昭和62年と比較すると20%減少している。

そのうち、リンゴは4.6kgを占めるが、世帯主の年齢別にみると、60歳以上世帯は7.9kgであるのに対して、30歳未満世帯ではわずか1.lkgにすぎない。

日本の果樹産業が低迷していることがよく話題になるが、その最大の原因は果物消費量の歯止めのきかない減少にある。これはまさに危機的状態で、産地の崩壊につながりかねない。

日本食品標準成分表を見ても、リンゴにはほかの食品と比較して特徴的な成分は見当たらない。しかし、「1日1個のリンゴは医者を遠ざける」という格言は、科学的に証明されつつある。

もっとリンゴを食べてほしい、日常の中でリンゴが話題になってほしいという願いをこめた産地からのメッセージである。

「りんごは日本語としての響きがうつくしい。賞でて発音すると、赤くて果実のはちきれそうなりんごが、まるまると目の前に生まれてきそうな感じがする」

司馬遼太郎の『街道をゆく41、北のまほろば』の中にある言葉である。平仮名の「りんご」は行政用語などに、片仮名の「リンゴ」は植物用語、新聞用語として用いられるが、人それぞれの好みもある。

漢字では「林檎」と表記されるが、これは中国で古くから栽培されていた果物だからである。日本にいつ伝わったのかわからないが『木草和名(918年頃)』には、すでに林檎という名が出てくる。

平安中期の漢和辞書『十巻本和名抄・九』には「林檎<略>利宇古宇(りうこう)とあり、「リンゴウ」と発音していたとも考えられる。

中世以降はリンキ・リンキンの形も見られ、リンコウから次第にリンキン・リンゴのように発音形に移っていったようである。<語源大辞典・小学館(2005)より>

今は日本語としてほとんど姿を消したが、リンゴの漢字表記に「苹果」(へいか)がある。少しうるさく言えば、林檎と苹果は区別されるものである。

藤井徹『菓木栽培法(1876)」には、林檎と苹果(オオリンゴ、セイヨウリンゴ、英語のアップル)は同一種であるが、林檎はわが国在来のもので、苹果は近年外国から入ってきた新種であると記載している。

青森県においても1890年代ごろまでは、アップルを西洋リンゴと呼び、在来の林檎は地林檎(和林檎)と鮮明に区別していたという。

地林檎は直径5cmぐらいの大きさで、赤く色がつきお盆に仏前に供える果物として大事なものであった。これは外国でいうクラブアップルに相当する。クラブとは渋いという意味である。

西洋から入ったリンゴを西洋林檎とせず、分かりにくい苹果と表記するのにこだわったのは、リンゴを最初に導入した弘前の士族であった。

林檎は昔から農家の庭先に植えられていたものであり、自分たちが導入して作ったリンゴは農家のまねをしたものではないという士族の誇りと教養が苹果(中国語で西洋リンゴのことをいう)としたようである。今でいう差別化簡品である。

青森県に現存する最も古いリンゴの樹は、つがる市柏村桑野木田にある。品種は「紅絞」2本、「祝」1本で樹齢128年である。もちろんわが国最古のリンゴ樹で、1960年11月11日、樹齢82年の時、育森県指定文化財(天然記念物)に指定された。

小学校社会科の教科書にも紹介されたこともあり、全国各地から年間5000人以上の人が訪ねるという。樹の高さは7.4m、幹の周囲は3mもあり、樹の広がりは3本で600㎡以上にも達する。収量は1樹当たり800kg程度もあり、そのリンゴは「長寿リンゴ」として、近隣の老人ホームに寄贈され喜ばれている。

128年も津軽の厳しい風雪に耐え、今なお立派なリンゴをたくさんならせている姿を見ると、神々しいまでの美しさとたくましさを感じると同時に、育森リンゴの生き証人だという気がする。

このリンゴ樹は、3代目の古坂貞夫さんが亡くなった後、奥様が精魂込めて管理している。ぜひ多くの人に見てもらいたい。

古坂さんは生前、次のように述べている.「台風が最も怖く、台風情報にはいつも耳を傾け、来襲時にはすぐ畑に行き、たとえ周りの自分の樹のリンゴが落ちたり、樹が倒れたりしても、この3樹を守るために懸命になる。

朝まで被害を防ぐことに頑張ったことは何度もあった。雪害を防ぐことにも気を使い、冬は毎日のように雪下ろしを行っている。またこのリンゴの樹は親が残してくれた財産であり、樹を見ているとご先祖様が目に浮かびます。先祖があって今の白分があるのです」

感動的な言葉である。青森のリンゴは、このような父子相伝の情熱と技術によって支えられている。

注:1871年、北海道開拓使は、アメリカで育成されたリンゴ75品種を導入した.その中に、国光(Ralk Janet)、紅玉(Jonathan)、紅絞(Fameuse)、祝(Amcrican Summer Pearmain)があった。

一木 茂「りんごの国から」
大塚薬報 2006/No.612
大塚製薬

懐かしの印度リンゴ


「印度」、インドリンゴは年配の人々にとって懐かしい品種である。特に第2次世界大戦末期の砂糖不足の時代には、廿味資源を「印度」に求めたことが思い出される。

1940年代後半までの生産量をみると、「国光」「紅玉」が圧倒的に多かったものの、酸っぱい「旭」と甘い「印度」が3番手を争っていた。

今では「印度」を見かけることもなく、若い人々はその味さえ知らないであろう。「印度」の特徴は、少し傾いた長い形をしており、廿く香りもよく、果肉がかたく貯蔵力もあるが、ジュースが少なく食後の爽快感に欠ける。

栽培的には紙袋をかけないと色がつかず、夏場の病気に最もかかりやすく、食べる側からも作る側からも敬遠されるようになった。

時節、もう一度あの懐かしい「印度」を食べてみたい人に出会うことがある。その際には少し言い過ぎかもしれないが、「たしかにお気持ちはよくわかりますが、今食べてみても決して美味しくないでしょう。思い出だけを胸にしまっておかれた方が良いでしょう」と答えている。

そう言うものの、気持ちは十分にわかるので、細々と栽培している農家を紹介したりする。

「印度」をインド原産と勘違いしている人もいるが、その由来についてはいろいろな説がある。1874年12月、弘前の東奥義塾に招かれたアメリ力人官教師ジョン・イングが深くかかわっていることは確かである。

イングは翌年のクリスマス・イブに塾頭および生徒14、5名を自宅に招きパーティーを開き、そこでご馳走したものは当時としてはたいへん珍しい西洋リンゴ(アップル)であった。

生徒たちは津軽地方のリンゴ(地リンゴ)と比べてあまりの大きさと美味しさに、これがアップルかと大いに驚いたようであった。

当時イングは食料品、日常雑貨を函館から取り寄せていたことから、このリンゴはアメリカ本土から持ち込まれた「白竜(ホワイト・ウインター・ペアメイン)」という品種とみなされている。

これを食べて塾頭の菊地九郎はその種子を自宅裏の畑にまき、その中から育ったものが「印度」であるというのが「印度」誕生の一般的な説である。

なぜ「印度」になったのかについては、イングが訛ってインドになったというよりも、イングの出身地インディアナ州がインドになったと考えるのが妥当であろう。

いずれにしても「印度」は日本原産の最初の品種である。その父親の血を引いたのが「陸奥」「王林」「北斗」で、世界的な評価を受けている。自らはすっかり姿を消してしまったが、「印度」は立派な子孫を残してくれた。

もうひとつ懐かしのリンゴは「国光」である。収穫期には雪をかぶることもあるので「雪の下」とも呼ばれ、津軽地方で全生産量の60%以上を占める時代があった。

大量のリンゴを腐らせず翌年の夏まで販売できたのは、津軽の冬の風土が天然の冷蔵庫の役割を果たしたからである。

黒石市にあるりんご試験場の一角には、樹齢l06年の「国光」が、今や世界一の生産量を誇る「ふじ」の母親として大切にされながら余生を送っている。

今日の栽培技術の多くは、古い品種によって培われたことを忘れてはならないと思う.

一木 茂「りんごの国から」
懐かしの「印度リンゴ」

大塚薬報 1・2月号
2006/NO. 612

大塚製薬
¥300

アンパンマン意外な展開


自分で言うのは自慢みたいでいやな感じになるが、ぼくのような高齢になって(現在87歳)漫画というような浮沈の激しい世界で現役一線で仕事している作家は世界的にも珍奇な例ではないかと思う。

戦争のせいで出発が遅れたのと、才能が非常に貧しかったから、なんとかこの世界で認められた時には既に60歳だった。いくら遅咲きでも遅過ぎるので、本当にみっともない。

実はぼくとしては老人がんばるみたいな晩年はいやだなあと思っていた。老境に入れば、枯淡の世界に入り、静寂に閑居して、「晴天好日、天下太平、色即是空、ハハ呑気だね若者よ働け」が望参だった。

ところが現実は全く逆で、繁忙の毎日、仕事の量は増え、インタビューがほとんど連日あり、ついに専用のインタビュールームをつくるなんていう馬鹿げたことになった。

おまけにステージで派手な礼装で踊ったり歌ったり、ほとんど狂気の振る舞い。もちろん年齢相応に肉体は老いているから、眼、耳、身体、すべてボロボロ。

1年のうち満足に動いているのはわずかで、入退院のくりかえし、病院ではすっかり顔なじみができて常連さんになってしまった。

いろんな仕事をしているが、なんといってもメーンの仕事はアンパンマンである。ありがたいことだとは思うが、何をやってもアンパンマンで、たとえばトークショーを依頼されてもアンパンマンをださないと後からクレームがくる。

「なぜアンパンマンをださないのか、うちの子どもが退屈して大変だった。反省してほしい」なんて書いてある。

ぼくの仕事はアンパンマンだけではない。それに本日のトークショーは趣旨がちがうと思っても反論できないんですね。

アンパンマンは子どものアイドルだが、作者のやなせたかしは単なるヨボヨボおじさんだから、完全に作者の影は薄い。

先日も千代田区の福祉まつりで講演を依頼されたが、苦い経験を何度もしたので、最初からアンパンマンの着ぐるみをだして、歌ったり踊ったりのコンサートにした。

超満員の会場は熱気がムンムン、老若男女幼児にいたるまで大よろこびでしたね。ぼくもハッスルしてバイキンマンとチャンバラして踊ったりしたものだから、終わると息がはずんで、足腰痛むし、アイテテだったが、後で感謝状いただきました。

まあね、時には反省してなんたる愚行か、少しは恥を知れと思う時もあるが、所詮とても万人に尊敬される大芸術家ではない。

この仕事はサービス業で、なんとかして人をよろこばせたいということに専心する。もっともやり過ぎるとかえって媚を売る感じでいやらしくなるから、ほどほどにする。

いずれにしてもぼくの人生の晩年は本人が一番びっくりの奇妙な展開になりました。

やなせたかし「意外な展開」
2006年2月18日付け
高知新聞夕刊
オイドル絵っせい(146)