仲川恭司の書「久遠」
「久遠(くおん)」は仏教用語である。限りなく遠い時間のことを言う。作者はそれを過去から未来への永遠ととらえた。言葉の意味の深さに引かれて取り上げた素材のようだ。
「遠」の一字の表現にその想いのほとんどが託されているように感じる。淡墨による快い抑揚と適度な筆の動静とが美しい空間を造形している作品だ。
その美しさは造形的な調和から生まれるものであると同時に、主題との素直な取り組みが大きく作用したと見ることもできるだろう。
無論その造形的調和を純粋に絵画的にだけとらえて評価することはできない。言葉と文字という絶対的な条件を抱えての造形であることを避けるわけにいかないからである。
しかし、なおそこにおいて、その条件、その約束を意識することなく書き上げたところに独特の美しさが見えたような気がする。
つまり、色や形や運筆などにおける絵画とはまったく違ったミニマルな状況と手法によるつくからこそ創り出せる造形、という意味においてである。
おそらくは作者にとっての「久遠」は、そ
の文字、その言葉を発見した時点から自身の所有物と化して心身に取り込まれたものと思われる。
彼がその文字と言葉から受けた忘れ難いインスピレーションとは何だったのか。あるいはその感動の起因するところはなんだったのか、われわれはその肝心なところを知りたいものだが、知ったところであまり意味のないことかも知れない。
何故なら、それは単に彼の知覚を共鳴させ、その創作意欲に点火しただけに過ぎないモノだからである。
「久遠」という文字と言葉に強く反応した時の仲川恭司という書家が有した知性と感性の背後にあったモノが重要なのである。
「久遠」を通して揺さぶられ、同調した彼の肉体と精神に宿っていたモノ、その正体が作品としての「久遠」に内在しているのではないだろうか。
したがって作品「久遠」は仏教用語としての「久遠」による写実的表現ではない別格のモノである。彼自身、師・手島右卿の作品を通してそのことをよくよく理解している。
特に右卿芸術の「文字の裏がわにあるもの、その厚さと深さを感じさせるある境地」に強くひかれ、そのエスプリの存在に感じ入っているのだ。
いうまでもなく、書にとって言葉の意味は限りなく重要なものである。と同時に文字の形の重要度もまたそれに匹敵する。
視覚化される形象は造形であり、内省する文字の意味は主題となり、表現における作者の精神のあり方、その基本に深く関わるものとなる。
要は言葉と文字がそれぞれに課せられた役割をどのように果たし得たか、つまり総合的調和が成されたか、ということで書は成り立っているように私は思っている。
その調和の「有り様」によって生じる個別性のことを個性と呼んでいいのだろう。無論、それら双方のいずれかが優位に立つことは当然あるわけだが、仮にその言葉と文字の役割の差が極端に現れたとしても、それが各自の個性的表現と呼ばれるものに直接つながる大事世ずな要素と成り得る筈のだ。
冒頭にも述べたように、仲川恭司の仕事はまさにその調和によって個性を表出するものと思うが、加えて、彼の作品にみる表現の柔軟性や品位ある美的感性が、私にとっては授賞対象とする大きな要素となった。
単に「書」の表現領域を超えるとか革新するとかいうことではなく、「書」という芸術それ自体の存在の絶対的肯定の上に立って、その表現領域の開発に一歩一歩取り組む個性的姿勢が好ましいのである。
武田 厚「仲川恭司『久遠』について」
多摩美大客員教授
美術評論家
(神奈川県横浜市在住)
好ましい個性的姿勢
快い抑揚と適度な筆の動静
2006年3月1日付け
高知新聞朝刊