ラインの滝
「ラインの滝」をご存知だろうか ? ゆったりと水量豊かに流れるライン河が、ただ1ヶ所、滝となって流れ落ちている所がある。もっとも滝といっても、その落差は大したことはない。「高さ」だけを言えば、滝の内に入らないかもしれない。
この滝の面白いのは、滝の真中に、流れを左右に分けるように巨大な岩が突き出ていて、観光客がその岩に行けることである。揺れるボートに乗り、水しぶきを浴びながら岩のふもとへ着くと、その岩に彫られた階段を上って、岩の天辺に上ることができる。
狭くて、7~8人も立ったら一杯になるくらいだが、ここに立つと、豊かな水が轟音と共に流れ落ちる、その真っ只中にいるようで、ふしぎな感覚に捉えられる。あまり一般の観光ルートには入っていないが、一度は経験する価値があるだろう。
それにしても、考えてみると、これはずいぶん危険な観光スポットである。岩へ乗り入れるボートも、結構古くて、途中でエンジンがいかれたらどうするんだろう、と心配になるが、それよりも、巨大な岩そのものも心配だ。
どんなに巨大な岩でも、絶えずあれだけの水量の圧力を受け続けていて、万一、小さなひび割れでも入ったら、いつ崩れ落ちてもおかしくない。
しかも、年中滝の中にあるのだから、岩の状態を点検することもできないのだ。たとえ何百年後、何十年後かにせよ、いつかその日はやって来るだろう。たまたまそのとき、岩の上に立って周りを眺めていた観光客は、「不運だった」ということになる。
海外の観光地に行くと、しばしば〈どんな事故が起きても、責任は自分にあります〉という書類にサインさせられる。オーストラリアで馬に乗って町中を散歩したときも、サインさせられた。
ニュージーランドのクィーンズタウン郊外のショットオーバー河では、底の平らなジェットボートで急流を突っ走る。それもわざと岩や崖のすれすれの所を走るのである。
これが結構面白くて、何度も乗ったが、「きっと、いつか事故を起すだろうな」と思っていたら、やはり数年前に観光客が死亡する事故を起した。しかし、このときも、客は当然書類にサインさせられているだろうから、補償はどうなったのか……。
「事故に遭うのはあくまで自分の責任」という発想が、西欧には根づいている。スイスの山に登ると、展望台など、足を滑らしたら何千メートルの谷へ落ちる、という場所が珍しくない。手すりも隙間が広くて、滑ったらその間から人一人、簡単に落ちてしまいそうだ。
日本なら、さしずめ金網でも張って、たとえ足を滑らしても落ちない工夫をするだろう。こういう発想の違いはどこから来たのだろうか。
ヨーロッパでは、どこでも足の悪い年寄りが多い。ある年齢になると、杖をついて歩く人の方がずっと多いのではないか、とさえ思うほどだ。
肉食中心の食事、ワイン、チーズ……。痛風や関節炎にならない方がふしぎかもしれない。
これほど、足を引きずってゆっくりとしか歩けない人が多く、社会はバリアフリーの先進国を自任するヨーロッパなのに、どうにも理解できないことがある。それは横断歩道で青の信号がむやみに短いものがある、ということである。
ウィーンで、ずいぶん泊ったインペリアルホテル。その正面から少し外れた横断歩道は、いわゆるリングと呼ばれる、市電の通る環状道路を横切るものだ。
これが、驚くほど青の信号が短いのである。横断歩道の片側に立って、信号が青になるのを待って渡り出しても、半分も行かない内に、もう青信号の点滅が始まる。
そのままのぺースで歩けば、向うへ行き着かない内に、必ず信号は赤になる。特に足の悪くない人間でもこうなのだ。杖などついている人は、一体いつもどうやって渡っているのだろう?
初めてこの信号を渡ってから、もう10数年。一向に改善されたという話も聞かないが、今もあの横断歩道を、人はせかせかと駆けながら渡っているのだろう。
ローデンバックは『死都ブリュージュ』を書いて、当のブリュージュの市民からすっかり嫌われてしまったそうだが、ヨーロッパの都市はどこもある意味で「死の都」である。
ウィーンの街を歩けば、「死の香り」はどこにでも漂っている。生と死はいつも隣り合せ。ヨーロッパの人々は、そのことを常に意識しながら生きている。(つづく)
赤川次郎「ドイツ、オーストリア旅物語」
生と死の世界(1)
波 2006年2月号
新潮社
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