月かげの虹 -18ページ目

格差社会と心の貧しさ


昨年から「格差」や「階層」といった言葉が、やたら飛び交っている。私のところにも取材や解説の依頼が舞い込んできて、落ち着かない日々をすごしている。

落ち着かないのは、忙しいからだけではない。「格差」の語られ方が気になるのだ。例えば厚生労働省の調査では、世帯あたりの所得で、ジニ係数という貧富の差を示す数値が少しずつ上昇している。

先月の国会でも、小泉純一郎首相と民主党の前原誠司代表が「格差が拡大した」「いや見かけだけだ」と議論を戦わせていた。

たしかにこれはむずかしい問題で、世帯で測った場合、世帯の姿が変わると、貧富の差の数値も変わってしまう。

例えば、おばあさんやおじいさんと一緒に住んでいたのが、あばあさんたちだけで住んだり、家計を分けたりして、別々の世帯になれば、1つの世帯当たりの収入や資産は減る。それは数字の上では、貧しい世帯がふえたことになる。

貧富の差が広がった主な原因はそれだ、というのが政府の公式見解である。実際、年齢や世帯の大きさが以前と同じになるよう、数字の上で切りはりすれば、貧富の差は以前と変わらない。

しかし、私はこの説明にあまり納得していない。すごく気持ち悪い。

世帯が別々になる理由はいろいろある。ゆとりができたから別々にした人もいるだろうが、一緒に暮らせない事情ができた人もいる。家族を失った人だっている。一人一人、理由はことなる。

だから本当は、貧富の差を世帯単位で測ること自体、あまり良くないのだが、それはおいておこう。

厚労省の調査は世帯ごとに所得を調べているが、世帯が分かれたり、一緒になったりする理由まで調べたわけではない。

だから、世帯の姿が以前と変わったためだから、貧富の差が広がっても問題ない、とはかぎらない。変わったからこそ、貧富の差の数値が上昇するのはまずい、ともいえる。

一人暮らしやお年寄りだけの世帯がふえれば、何か困った場合、すぐ立ち行かなくなったり、立ち直れなくなる可能性もますからだ。

実際の世帯は、統計の数字のように、切りはりできるわけではない。困ったら家族や他の誰かと一緒に住めばいいのであれば、地方の過疎や高齢化が問題になることもないはずだ。世帯の姿を昔に戻せない以上、今の姿のままで貧富の差を考えるしかないと私は思う。

正直いって、この辺はややこしい。専門家の間でも、見方が一致しているわけではない。私も自分の見方が唯一の正解だというつもりはない。

いや本当は、だからこそ、私は気持ち悪さを感じているのだろう。格差そのものというより、一つの数字をはさんで、「拡大だ」「見せかけだ」と決めつけあうことに対して。

その向こうにある現実を見て、考えてほしいのだ。理想論だろうとなんだろうと、ジニ係数をいじり回すより、そちらの方がずっと大切だと思う。

例えば、格差を是認する人は、「成功者の足をひっぱるな」という。だが、親の職業によって、現在の収入がかなりちがうことは、別の調査でわかっている。

親の職業という、本人にはどうしようもないことが、貧富の差に影響しているのだ。それをどう考えるのか。

さらにいえば、ホームレスになったり、自殺に追い込まれたりする人が、厚労省の所得の調査で調べられることはまずない。一番貧しい人たちは、こうした調査には出てこない。それも忘れたくない。

「格差」にはいろんな見方や考え方がある。だから、自分に都合のいい見方だけでなく、都合が悪い見方も真剣にとりあげてほしい。

格差を批判するにせよ、是認するにせよ、妙な決めつけに走らない。それが「格差をおろそかにしない」ことだと思うが、今の格差談義では、そこが一番おろそかになっているのではなかろうか。

数字の向こうにある現実の生活を想像できない貧しさ。自分に都合の悪い話を聞けない貧しさ。そんな「心の貧しさ」の方が、数字が表す「モノの貧しさ」より、本当は深刻なのかもしれない。

佐藤 俊樹「数字の向こうの現実を」
(東大助教授・社会学)

2006年2月17日付け
高知新聞朝刊
論考 06
月1回掲載

冬を越す


暖冬だ、地球温暖化だなどといわれているうちに、20年ぶりという大雪に見舞われて、久々に「冬」を思い知らされた。地球全体はたしかに温暖化しているのかもしれないが、温帯には厳然として冬が存在していたのである。

考えてみれば、古来地球上には恒常な時代などあったはずがない。毎年、毎年が何らかの形で異常であり、それが不規則にくり返されていきながら、何万年、何十万年といううちに、全体的な気候も推移してきたのだろう。

今われわれが目にしている温帯の生きものたちは、その中であるときはじっと耐え、あるときは束の間の繁栄を享受しながら、長い長い年月をしたたかに生きてきたにちがいない。

降り積もっていく雪を眺めながらそう思ってみると、それぞれの生き物たちの冬の越しかたがどのようにプログラムされているのかをあらためて考えてしまうのである。

「冬を越す」というと、すぐ頭に浮かぶのは冬眠とか冬ごもりとかいうことばである。しかし誰でも知っているとおり、これはひとつの姿にすぎないし、そのためにもじつに周到なプログラムが組まれているのである。

いつのころからかよくおぼえていないけれど、冬になると、家の中にカメムシという虫が入ってくることが多くなった。部屋のどこかにひそんでいて、暖かい昼には日のあたる窓ガラスを歩いていたりするが、夜になるとまたどこかへ姿を消してしまう。

近くに木立が多い家などでは、年によってずいぶんたくさん入ってきて、ちょっとした話題になったこともある。

要するにこれはカメムシたちの冬越しの営みなのだ。冬が近づいて外が寒くなったので、人家に入りこんできたのである。

けれど冬を越す虫たちは、単に暖かい場所を求めているわけではない。そもそもたえず動きまわっている虫たちには、どこがいつも暖かいかなど、かんたんにはわからないだろう。たとえば、晴れた日の昼にとても暖かい場所は、雨の夜にはかえって寒いかもしれないのだから。

その上彼らにとって、体が濡れるのは、冬には大変危険なことなのだ。もし気温が零下何度まで下がると、濡れていたら凍ってしまうおそれがあるからだ。

昼と夜で温度がはげしく変わるのも困る。何も食べずにいるのだから、昼間日がよくあたって体が温まることは、エネルギー消費という点からすれば、とても迷惑なことなのである。

結局多くの虫たちは、雨や雪が降りこまず、昼と夜の温度変化がなるべく少ない乾いた場所を選ぼうとするようである。どうしたらそんな場所をみつけることができるだろうか ?

寒さはたちまちにしてやってくるから、場所探しにゆとりはない。冬越しの場所を選ぶプログラムは、きっと驚くほど単純に、しかしきわめて妥当にできているにちがいない。

そんなときすぐ思い出すのは、かつて聞いたテントウムシの話である。夏の間どこにでもみられるあのテントウムシは、秋の半ばごろてんでに飛び立って、冬を越す場所を探す。

彼らが求めるのは、少し高いところにある乾いた物かげである。乾いた場所。それは一般的にいって周りよりは白っぼくみえる。

まだそれほど寒いとはいえない晴天の日、テントウムシたちは思い思いに飛びながら、白っぼい色の場所を探す。それはちょっとした小屋の軒先の物かげだったり、立てかけられた古い板の裏側だったりする。

たまたまこういう場所をみつけたテントウムシはそこへもぐりこみ、そこで落ちつく。するとそこへは、1匹、また1匹とテントウムシがやってきて、たちまちのうちに何10匹という集団ができる。

それは1種類ではなく、いろいろな種のテントウムシの集団である。それはみんなで一斉に、ではなく、1匹1匹の選択の結果なのである。

選択の基準にされたのは、白っぽい色を手がかりにした乾いた物かげである。その結果として、あまり寒くなく、乾いていて雨もかからず、昼夜の温度差も少ないという、冬越しに適した場所が選ばれることになる。カメムシの場合も同じことであろう。

ただしこういう選択には、まちがいもおこりうる。たとえば人家のカメムシの場合、暖房をつけた人家の中は、しばしば乾燥しすぎるものである。そういうところを選んでしまったカメムシたちは、寒さにこそ遭わないが、乾燥しすぎて、春を待たずに死んでしまうことが多いのだ。

いかに乾いた場所を選んでも、冬に零下何度という寒さになる土地では、虫たちの体が凍るということもある。そういう場合、虫たちは自分で不凍液をつくりだし、凍ってしまわないようにするしくみをもっている。

昔、茅野春雄さんの研究でカイコの卵が一躍有名になった。秋にカイコの卵が産みつけられると、卵の中の栄養分であるグリコーゲンが、なぜかどんどん減っていって、1週間ほどすると完全になくなってしまう。

いったいどこへいってしまったのかと調べてみると、グリコーゲンはグリセリンとソルビトールという物質に分解してしまっていることがわかった。

ところが、この2つの物質の混合物は、強力な不凍液なのである。こういう状態になった卵は、ちょっとやそっとの寒さでは凍ったりすることはない。けれどこの不凍液ができるためには、皮肉なことに秋の暖かさが必要なのである。

やがて冬になってほんとうに寒くなると、グリセリンとソルビトールは結合して再びグリコーゲンに戻っていく。そして冬の寒さが2ヶ月もつづくと、卵の中には元どおりグリコーゲンができ上がっている。

このグリコーゲン再合成には、かなり長期にわたる冬の寒さがなくてはならない。暖冬は、カイコの卵には迷惑なのだ。そして暖かい春になると、このグリコーゲンを栄養分にしかえて、卵の中でカイコの幼虫が育ち、艀ってくることになる。

冬の寒さを乗り切るには秋の暖かさが必要で、春に卵が艀るには冬の寒さがなくてはならないのだ。

年ごとに暖かさも寒さもちがう。だが、このようなプログラムのおかげで、虫たちは年ごとの変動に耐えていくのである。

日高敏隆「冬を越す」
ひだか・としたか
人間文化研究機構・地球研所長

第121回 猫の目草(ねこのめぐさ)

波 2006年2月号
新潮社
¥100

手動式タイプライター


1974年、3年半の欧州生活を終えてニューヨークに帰ってくるや否や、ポール・オースターは大切なものを失った。スイスの著名なメーカー、ヘルメスの小型タイプライターである。

「カバーはつぶれているし、キーは絡まり、ねじれて、どう見ても修理のしようはなかった」。だが若き翻訳家にして未来の作家の卵に、新品を買う経済力はなかった。

2日ほど経った晩、かつての大学の同級生と夕食を共にして事故の顛末を話すと、その友人が使っていないタイプライターを安く譲ってくれるという。

いまは亡き「西ドイツ」製の、オリンピア・ポータブル。1962年に、中学の卒業祝いにもらったものらしい。以後、ポール・オースターの言葉は、「一言残らずこの機械によって清書されてきた」。

本書は、30年以上にわたって彼の創作を支えてきた、「ほとんど破壊不能と思える」ほど頑丈な相棒との、ごく私的で詩的な物語であり、その物語を引き出すきっかけになった、画家サム・メッサーの絵との、共同作業である。

筆記具としてのタイプライターをめぐっては、数え切れないほどの作家たちが、彼らだけにしかわからない、長く熱く固い信頼と愛情でむすぱれた物語をつづってきた。

ここでのタイプライターは、言うまでもなく手動式に限定される。初期の重厚な据え置き型を脱して、ケースの裏蓋に本体の底が留められる持ち運び型が誕生したとき、それは物書きにとって、鉛筆や万年筆とはべつの筋肉の動きを介してなんとも説明のつかない悦びを与えられる、まったくあたらしい創作機械となった。

私事を言えば、日本語の執筆環境にワープロが導入されるまえ、欧米の詩人や作家の書斎が紹介されている雑誌などを手に取るたびに、彼らがどんなタイプライターを使っているのか、美しい姿かたちを確かめずにいられなかったものだ。

アンダーウッド、レミントン、スミス・コロナ、ロイヤル、オリベッティ、ヘルメス、オリンピア、アドラー。

基本的には単一の機能しかないし、黒いナイロンリボンもほぼ汎用だから、あとは色や外見、素材と重量、そして打ち出されるフォントの相違が好みを分ける。

キータッチは時間とともに育てていくものなので、購入時の硬さはそう問題にならない。手動タイプライターはまた、楽器でもある。鍵盤を叩くと、エスケープメント機構を介して、バーが1本ずつ円筒形のプラトンを打つ。

同時にスプールが移動し、カメラのフィルムみたいにリボンを1文字ぶん送ってキャリッジをがたんと歌わせるのだが、これら梃子の原理と回転による力点移動とラチェットの連繋のすばらしさは、まさしく言葉を生み出す脳髄と呼ぶにふさわしい。

さらにそのひとつひとつの動きにともなう、リズミカルな打鍵音。電動式の派手で均一な音はそこになく、手の大きさ、指の長さ、それぞれの指の力と思考速度に見合った音が奏でられる。

そうするうち、ただ「仕事をするのを可能にしてくれる道具でしかなかった」物体に、命が、血が通いはじめる。

注意すべきは、手動タイプライターがほんとうに日常的な筆記具でありまちがいなく主役であった時代は、すでに遠い過去に属するということだ。

オースターが長年愛用してきた目のまえの機械に「愛情」を抱きはじめ、「好むと好まざるとにかかわらず、我々が同じ過去を共有していることに」思いあたるのは、こうした流れのなかにおいてのことだからである。

その不思議な愛情を共有し、タイプライターにひとつの人格を与えたのが画家のサム・メッサーで、彼はなんと、主人が不在だとわかっている仕事場へ出向いて、タイプライターの肖像を描いたこともあったらしい。

かくてオリンピアは「固有の性格を有し、世界のなかで確固たる場を占める1個の存在」に変わっていった。オースターの感覚も、メッサーの画業に触れることで、決定的な変化を被る。

「タイプライターをひとつのそれとして考えることに私は困難を感じてしまう。ゆっくりと、しかし確実に、それは彼に変わったのだ」。

時にペンで、時に油彩で描かれるオリンピアの表情は、目の下に真っ黒な隈をつくっているオースターにひけをとらないほど豊かである。

白いボディに白いキー。その両端に緑色のキーを配して、同色のロゴプレートをセグメントの中央に置くことで、緑の三角形を形作るこのモデルが、メッサーの筆の下で顔を赤らめたり歪めたり、鎮まったり怒り狂ったりする。

オースターは「彼」の気分に合わせ、なだめすかし、励まし、励まされ、ついには一体化して、今日も言葉を紡いでいるだろう。

堀江敏幸 「彼」と「私」の物語
ほりえ・としゆき 作家

波 2006年2月号
新潮社
¥100


ポール・オースター著/サム・メッサー絵/柴田元幸訳
『わがタイプライターの物語』
4-10-521710-0

http://book.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/521710-0.html

ロックンロール


こんなにおかしくて奇妙な小説、久しぶりに読んだ。不思議な響きを持つ語り口だな、という印象をまず持った。耳慣れない発音の地名や人名が頻出するというのも、理由のひとつにはあるだろう。

ヴイットライェンケ、パヤラ、パルカヨッキ、キットキエヨッキ、ムオドスロンポロ、ペッロ。

異国の言葉というより、昔話に出てくる架空の街の言葉のように聞こえてくる。あるいは魔女が唱えたまじないのような。

小説の舞台は1960年代のスウェーデン、フィンランドの国境にも近い、小さな村だ。本国の経済成長によっていわゆる豊かな生活を手に入れながらも、ラジオ局によっては受信するのに自前のアンテナを張らなければならないような場所だ。

主人公は思春期直前、この地でビートルズに出会い、衝撃を受け、やがて友人とバンドを結成する。

本書はこの村で育った作者の半自伝的小説だという。少年がロックンロールにのめりこみながら成長していく話は世界中どこにでもあるだろうが、この小説は語り口の独特さから、そして登場人物たちの奇人っぷりから、とても現代の話を聞かされているとは思えなくなってくるのだ。

主人公マッティにはニイラという幼なじみがいる。彼は幼いときから、親や兄弟の鉄拳を浴びながら育っていた。彼は口が利けなかった。人のいうことは理解できるし、口を開きもするのだが、なにかが引っかかっていて、ひとことも話すことができない。そんな彼が、ある日、教会にやってきたアフリカ人といきなり言葉を通じ合わせ、周囲をびっくりさせる。

成長したニイラは、死んだおばあさんの姿を見るのだといって恐怖に怯え、なんとかすべく、奇薬を持つという人物のところへ主人公とともに訪れる。ここでマッティも、幽霊となったおばあさんの姿を、あろうことかそのペニスまでも目撃することになる。

シビアな環境におかれると、人はそれに対抗するためか、逃避のためなのか、自分の内側に独自の世界を作ろうとするのかもしれない。

北極圏という、過酷な自然のなかで生きる人たちには、だから夢想家がおおいにちがいない。

主人公の目から見る周囲の人々は、現実の人物というよりもどこかおとぎの国の登場人物めいている。その姿が鮮明に描かれているのが、彼のおじさんの結婚祝いの場面だ。

食卓には、女たちが腕をふるったごちそうがずらりと並ぶ。食欲旺盛な男たちがつぎつぎと皿を空け、酒をおかわりするうちに、新郎の親族は、いかに先祖が力持ちだったかという自慢話をはじめる。

ほとんどホラにしか聞こえない話の数々に、新婦側の親族もだまっちゃおらず、いきおい、力競べがはじまる。一族の名誉をかけて、筋肉のりゅうりゅうと盛り上がる腕と腕がからみあい、おばあさんたちまでが指相撲で競りあい、ついには北国らしくサウナ競争にまで発展する。

なんだか、古代の神話に出てくる、人間くさい神々が催した宴を見ているかのようなのだ。この皆景に、エルヴイスやジミ・ヘンドリックスが流れているというのだから、不思議なおかしみを感じずにはいられない。

昔話や民話には、あまりにも荒唐無稽に思われる逸話がたくさんあるが、あれらは実際にあったものなんだろうなと納得がいった。

成長したマッティたちは、新しく出会った音楽の先生に指導を受けながらギターを練習し、おなじ曲を4回演奏して、2曲目がよかった、といわれるような演奏会を開いたりする。

村のなかで連鎖していく殴りあいや、大人でも手の出せないひどいいじめやら、彼らの環境はあいかわらず生易しくないけれど、それらすら笑い話のように聞こえるのは、主人公の語り口がひょうひょうとした自然なユーモアにあふれているからだ。

その楽しさの源は、厳しい寒さを生き抜いた肉体と精神力だろうか。そしてなによりも彼らのそばには、いつもロックンロールがあったのだ。

栗田有起「ロックンロール」
くりた・ゆき 小説家

ミカエル・ニエミ著/岩本正恵訳『世界の果てのビートルズ』(新潮クレスト・ブックス)

波 2006年2月号
新潮社

モダンガール


戦後60年が、区切りか、反省か、自己弁護かわからないが、テレビで度々、ドキュメンタリーをやっている。そしてテレビで戦前の銀座が映ることがある。

男も女も帽子かぶれり、昭和の初め洋服は大変正しく伝統的であった。銀座通りもきれいなおねえさんと帽子かぶった男の人が、ほどよくのまばらさで歩いている。

銀座通りは人がまばらで丁度よく柳もまだヒェロヒェロと風に流れていた。銀座の建物もとてもおしゃれで落ち着いていた。昭和8~9年位か。

そういえぱ、家の母の写真帳に、こんなモダンガールの母さんの写真が何枚もあった。わざわざ写真屋で友人2人とか1人とかもうセピア色に変わっている時の流れが大正ロマンの色である。

間違いなく母さんはモガであった。大きなつばの白い帽子をななめにかぶり、だらっとしたうすものの体にへばりつく形のドレスを着ている。あのモガスタイルは何10年たっても新しくモダンなのが不思議である。

私が70年代の洋服を着た写真を見ても、よくこんなすその広いパンタロン着る度胸があったなあと流行の持つおかしみが恥ずかしい。他人が見ても恥ずかしいだろうと思う。

しかしあのモガやモボの写真は、何か洋服というものに対して立派である。銀ブラ、資生堂パーラー、尾張町の交差点は何百回も聞いた様な気がする。

モガとモボがピクニックに行った写真もあった。モボは白い上下の背広にパナマの帽子をかぶっている。4~5人の男女が川の石に立ったり座ったりしているが、母の靴は複雑なコンビネーションであった。

この古い母のしゃれのめした写真を見ると、わけのわからない巽和感がかすかにするのだった。

叔母が云ったことがある。「姉さんは、そりゃペタペタ、ペタペタ化粧をするのよ。それが面白くて側へ行ってじっと見ちゃうのよ。こっちはまだ子供だから。するとおこってねえ、そのへんにあるもの投げつけるのよ」それは一生変わらなかった。

私も子供の頃化粧する母が面白くてたまんなかった。最後に口紅をつけて口をむすんで「ムパッ」とすると別人の母が仕上がるのだ。

でもあの昭和10年くらいの母の写真を見るとかすかな異和感を感じた。父と母は結婚式をやっていない。母は正気の間、それをずっとうらんでいた。父の赴任が急に決まって、母があとで追いかけた形になって、別に身分の差があって親の反対があったわけではない。

多分その頃恋愛結婚は、めずらしく進んだものだったらしいが、母は見合い結婚には不利の条件をかかえていた。それは叔母も同じだったと思う。

母は不利な条件を無いものとしたかった。叔母はその条件を全て飲んで、その条件と人生を共にした。

子供の頃、母と叔母がけんかすると母は「わたしはこーんな大きな家に住んで、あんたなんか勝手口からしか入れないよ」と必ず云ったそうだ。

母は丸いぽってりした顔をして、叔母はコカコーラの瓶みたいに長い顔をしていたが、全くそっくりなのだった。そして同じ地上の南と北に立っている様に、極端に違う性質をしていた。私は叔母になじんだ。

終戦して戦後、化粧品など無くなった。しかし母は常に口紅をさしていた。ふとん皮で作った縞のもんぺの上下を着て、田んぼの真ん中に住んでいた時も、ひびわれた鏡の前でムパッとやっていた。

黒い小さな口紅だった。あとで、ミッチェルの口紅だとわかったが、私には永遠になくならない魔法の口紅の様な気がした。

私の姉妹で集まると、必ず不思議なこととして、母たちのことを「あの人たち、あんな顔しているくせに、容貌のコンプレックス全然ない。何故か」という話題になる。

妹は「母さんの顔は、昭和の初期に流行った顔だったんだ」と云う。そう云えば、丸顔で、むっちり首から胸を出した女がワイングラスを持っている有名なワインのポスターがある。

「似ているって云や似てるけど、ただむっちりしてりゃあいいてもんでもないよ」
「だから、違いのわかんない田舎者の父さんが、むっちりしているのが東京の美人と思っちまったんだよ」
「じゃあ、叔母さんは ? やせてて背が高くて顔はからかさすぼめた様なのに」
「あれは男にもてるって思っているんだよ。男も苦労したと思うよ。だってほめるとこないと部分をほめるじゃん。『私は白目が光るのよ。それが色っぽいと云われた』って云ってたよ」
「白目をほめるっての初めてきいたよネ」
「あの叔母さん、長い顔して頭のうしろ絶壁じゃん、しぶい男がいたんだよね。『良子さんは頭のかっこがいい』って云ったらしいよ。見えないとこほめるのすごくない」
「でも今でも叔母さん頭のかっこいいと思っているよ」
「あの2人は客観性つーものないのかね。叔母さんの口は加藤清正くらいでかいよ、顔の半分口じゃん」
「でもブスなのに自分はいけるって思った一生の方がずっと幸せだよね」「ンダンダ」

時々母が上京して来ると玄関わきのたたみの部屋に寝起きしていた。息子が「おばあちゃんの部屋おばあちゃんくさい」と云った。「おばあちゃんって何の匂いよ」
「おしろいくさい」

何人か居ると、必ずけんかになった。母は「あんた、自分の云った事、必ず自分の報いになるわよ」と云ってティッシュで鼻をかんで、涙もふいて、たたみの部屋に入った。

いつまでも出て来ないと私も気分がよくなくて「ちょっと、おばあちゃん見てきて」と子供に云うと、帰ってきて
「何してた?」
「お化粧してた」
母にとっての化粧というものは、生存そのものなのかと思った。

佐野 洋子「シズコさん」
波 2006年2月号
新潮社

木琴奏者・平岡養一


「お江戸日本橋七つだち♪」という曲を知らない人はいないだろう。この「お江戸日本橋」をみずからのテーマ曲とし、生涯にわたって「木琴」という珍しい楽器でその調べを奏で続けた音楽家、平岡養一。

明治40年に生まれ、東京育ちの彼は、昭和56年、アメリカでその生涯を閉じた。享年72歳。西暦2000年のお正月を木琴の演奏で迎える、という夢はかなわなかった。多少お年を召した方ならば、彼の名をご存じの方も多いだろう。

小さな身体で大きな木琴を前に飛び跳ねるように演奏する姿は印象的だったし、レパートリーも大衆の耳に馴染んだ曲が多かった。その数、3,OOOを超えるとも言われ、クラシックは言うに及ばず、ジャズ、ラテン、シャンソン、童謡、歌謡曲と驚異的な幅広さで聴衆の耳を楽しませた。

平岡養一という音楽家の功績はいくつもあるが、その大きなものの一つが「オーケストラの打楽器の一部」としてしか認識されていなかった木琴の地位を、ソロでリサイタルができる楽器まで引き上げたことがあげられる。

慶應ボーイだった彼は、卒業後すぐにアメリカヘ渡り、辛苦を重ねた結果、朝の生放送のラジオ番組を獲得し、11年半にわたって続けた。

最初の3年間は同じ曲を弾かない、という熱意で勉強した結果、大きな人気を博し、「アメリカ全土の少年少女は、ヨーイチ・ヒラオカの木琴で目を覚ます」とまで言われた。

第2次世界大戦で帰国を余儀なくされ、終戦後は日本とアメリカを往復し、活発な演奏活動を行った。円比谷公会堂での「木琴人生50年記念リサイタル」をはじめ、民音主催の「全国縦断リサイタル」などでは全国100カ所で演奏し、観客動員もlO万人を超えた。

晩年も旺盛な活躍を遂げ、胃がんに倒れた後も、驚異的な復活を見せて再び演奏活動に復帰したが、死期を悟った彼は、市民権を得ていた第二の祖国・アメリカヘ帰り、息を引き取った。それから24年が経つ。

なぜ、彼は「木琴」という、珍しい楽器を選んだのだろうか? 本当は、ピアニストになりたくて、レッスンを重ねていた平岡少年は、ある日、外国人の教師から、衝撃的な通告を受けた。「ヨーイチ、残念だが君はピアニストには向かない。なぜならば、手が小さすぎるからだ」と。

落ち込む少年に母が与えた言葉。「養一、神様はね、誰にでも必ず人よりも優れたものを必ず一つ授けてくださっているんですよ。でも、それを探すのはあなたの仕事です」これこそ、立派な教育、だろう。

当時、銀座に金春館という映画館があった。今もその名は路地の名前で残っている。金春館では、映画の合間にアトラクションとして楽団の演奏があり、そこで平岡少年は木琴の演奏を耳にした。

「パラパラとアクロバティックなものだった」とその感想を語っているが、その演奏に魅了された少年は、「これだっ!」と天啓を受けたのだろう。当時のサラリーマンの初任給にも相当する金5円という大枚で、小さな木琴を手に入れ、独学するところから50年を超える木琴人生が始まったのだ。

そのかみ、「今日は三越、明日は帝劇」と言われた三越。今でも老舗の風格は褪せないが、中でも日本橋本店の趣は格別だ。5階の天井まで吹き抜けの構造になったゆったりした空間で、「中央ロビー」と呼ばれる広場には巨大な天女像が鎮座している。

その裏に、かつて東洋一と謳われたパイプオルガンがある。今でも週末には演奏されているが、平岡養一もこのステージに立って、週末の午後2回、約30分程度のミニ・リサイタルを行っていた。

これは、デパートからお客様へのサービスだが、生の演奏を聴かせる、という賛沢は、やはり三越ならではの矜持だったのだろう。1回の公演での演奏は5、6曲だったが、「チャルダッシュ」や「雷神」などのテンポの良い曲を多く聴いていたような気がする。

その時も一曲ごとに丁寧に曲の説明をし、「では、何々を演奏いたします」と言い、マレットを手にする。声にこそ出さないが、「ハッ」という相撲の間合いのような瞬間の後、華麗なる演奏が始まる。

入場料を払って聴きに来るお客様でなくても、一点一画をゆるがせにしない演奏は、まさしく「芸」であったのだ、と思う。

不思議なことに、館内放送をするわけではないのに、リサイタルの時間になると、ホールや周りの階段に多くの買い物客が集まり、演奏を待っている。週末のことで、家族連れが多い。

「懐かしいわねえ」というお年を召したご婦人の声もあれば、小さな子供を抱いて熱心に聞き入っている若いお母さんの姿もあった。私は、学校が終わると昼食も取らずに三越へ駆けつけ、2回のステージを食い付くように聴いていた。

詰襟姿で毎週現れる中学生に眼を留めた彼が、私に声をかけてくれたことから、個人的なお付き合いが始まった。「来週はここでリサイタルをするから、都合がよければいらっしゃい」とメモを渡してくれたり、1回目と2回目の演奏の合間に話を聞かせてくれたりした。

音楽家を目指しているわけでもない子供に、何を感じてくれたのだろうか。神様のお引き合わせとしか思えない。平岡養一と三越百貨店の付き合いは深く、他にTBSラジオでも、毎週土曜日に15分間の演奏番組を持っていた。

番組の編成によって「三越朝のメロディ」「三越夕べの音楽」と放送時間帯は変わったが、この番組は平岡が亡くなるまで続いた。

病を得てからは過去の録音の再放送が多かったが、延べで500曲ぐらいを私も録音し、大切な宝物になっている。

15分番組だからせいぜい3曲か4曲だったが、バラエティに富んだレパートリーは毎週耳を楽しませてくれた。平岡没後も、熱心なファンに応えるべく、しばらくの間過去の録音を再放送してくれていた。

多くの篤志家が芸術家を育てた古き良き時代があった。この当時、平岡養一の評価はすでに揺るぎのないものだったが、デパートの店内に劇場を持つ百貨店として、物を売るだけではなく、文化を提供する、という心構えは三越ならではのものだろう。

「メセナ」などという言葉が登場する遥か以前から少年音楽隊を持ち、劇場を持っていた三越の見識である。

中村 義裕「小伝・平岡養一」
大塚薬報 2005年12月号
No.611

大塚製薬
¥300

ときに身が震えた


近代日本(とくに昭和史)の史実を検証してきて、結局3つの心構えを私なりに見いだした。大まかにいえば、

(1)人は生きる時代を選べない
(2)戦争は非人間的な政治行為だが、それを日本人の国民的性格にすりかえてはならない
(3)ある時代の国策が不適当だからといって、日本の歴史総体を否定する権利は私たちにはない

ということなのだが、この心構えを土台に据えなければ歴史を肌身で実感することはできないのではないかと思う。

私なりに見いだしたこの心構えをさらに補完したり、より深い教示を与えてくれる書がないかとこの何年か探し求めていた。とうとう出会ったと実感したのが、この書である。

手にとり頁を開いていくにつれ、著者の思いがすぐに伝わってきた。私の心構えが見事なまでに解説されていて、ときに身の震えも感じられたほどである。

この書は編集者の質問に著者が答える形になっているが、要は著者の歴史観、人生観、そしてなによりも人間分析の濃密さがわかりやすく説明されている。

さまざまな分野の知識や歴史上のエピソードなどで著者の見方が説得力をもって迫ってくると同時に、日本人の陥りやすい思考の罠に警告を発していることに気づく。

印象にのこる指摘が幾つもあるのだが、例えば、日本にはなぜ世界征覇の野望に燃える英雄が生まれなかったのか。

風土条件もよく地政学的にも恵まれていたからだが、こうした条件をよく精密に考えていくと、日本人のもともとの発想や考え方は、きわめて穏和でバランスもとれていて、文化的な奥行きは深かったという理解をしてもおかしくはない。

本書に刺激されての私なりの理解になるが、なぜ日本は近代にあってそうした文化や道徳をなし崩しにゆがめる方向にむかったのかが誠実に検証されなけれぱならない。

著者は、「この世界にはわれわれ日本人とは、かなり基本的なところで大きく異なっている世界観・人間観を持って生きている人々が実際にいるのだ、ということを改めてはっきりと認識すること」が大事だという。

昭和前期の軍事指導者のなかにはこのあたりまえのことを忘却している者が多いことにも気づかされる。

本書は、「日本という国は建国以来明治後期までの1300年という長い間に、わずか7年あまりしか外国に出かけていって戦争をしていない」という事実。

その間ヨーロッパから中国までのユーラシア大陸では戦争に明け暮れていたとの事実をあげつつ、ただ日清戦争から敗戦までの50年だけ戦いに終始した異常な空間となるわけだが、ここに各国の日本批判のポイントがあると指摘する。

この批判にどう答えるべきかも著者は整理して明かしている。含蓄に富む考え方である。

保阪正康「ときに身が震えた」
ほさか・まさやす 
ノンフィクション作家
波 2006年2月号
新潮社
¥100

鈴木孝夫『日本人はなぜ日本を愛せないのか』4-10-603559-6

ひとり旅のすすめ


騒々しい時代に「静かに暮らす」、と本の帯にある。川本三郎の近刊『旅先でビール』。ここ数年間に発表された著者の小旅行記やエッセイを1冊にまとめたものだが、どの頁にも、気ままな「ひとり旅」にはずむ幸福感が満ちあふれている。

週末に鎌倉を散策しては夕暮れの江の島を眺めつつビールを飲み、東北の小さな駅前の大衆食堂では、ラーメンを食べる女学生たちの横で、カツ丼のカツを肴にまたビール。

そんな何気ない場面に「旅をしていていいなあと思うのは、名所旧蹟を訪れるより、こんな駅前食堂でビールを飲む時だ」と著者は書く。

それにしても、いまやこの種の小旅行記の第一人者といってよい著者は、自分の足で実によく歩く。私はこれほど歩きもしないし、ビールも飲まない。けれどこうした"近所旅行"で日頃の憂さや緊張をときほぐす気分はまったく同感。

歩くといっても健康増進や足腰鍛練が主目的ではない。見知らぬ秘境を踏破したり、未知の体験をしたいのでもない。避暑地や温泉地めぐりの旅でもない。著者は、この旅を肴に原稿を書くのではあるけれど、随所に目的のない旅の楽しさが横溢している。

こうした"無目的の旅"になぜ人はいざなわれるのだろうか。私がこうした旅行に目ざめたのは、大学生のとき太宰治の小説『八十八夜』を読んだのがきっかけだった。

北国から上京してきた私は、それまで中央線の三鷹より西に足を踏みいれたことがなかった。この作品をなぞって、初めて甲斐駒ヶ岳と八ヶ岳を知り、太宰同様、上諏訪が目的地なのに、わざわざ下諏訪で下車して逆もどりしたりした。

いま思えば滑稽な文学青年風だが、これが私のひとり旅の筆おろし。翌年、今度は私は堀辰雄になっていた。『大和路・信濃路」の中の『辛夷(こぶし)の花』。戦時中の小旅行。

こちらはひとりではなく夫婦の旅だが、列車の窓から辛夷の花を見つけることのできなかった「僕」は、心の中で、その花を思いうかべる。結びが美しい。

〈そのまっしろい花からは、いましがたの雪が解けながら、その花の雫(しずく)のようにぽたぽたと落ちているにちがいなかった。……〉

川本の前掲書も、春の辛夷の花にふれ、〈ひっそりと咲く花で心を休めたい〉とある。満開の桜見物におとらない小旅行の醍醐味。行楽地や仲間はいらない。「ひとり」と「自由」があればよし。

田澤 拓也 「ひとり旅」のすすめ
たざわ たくや
ノンフィクション作家
1952年青森県生まれ。
早稲田大学法学部、第1文学部卒業後、出版社勤務を経て執筆活動に入る。97年『ムスリン・ニッポン』(小学館)で21世紀国際ノンフィクション大賞優秀賞、99年『空と山のあいだ』(角川文庫)で開高健賞受賞。著名人から市井の人々まで、さまざまな人物伝を週刊誌や書籍に数多く発表している。『虚人 寺山修司伝』(文春文庫)が最近文庫化。

スカイワード
2006年1月号

JALグループ機内誌

西洋わさび


北海道に行く度に、なつかしい気分と解放感に満たされる。きっと、父の故郷であるうえに、広大な牧場に大好きな馬がいるからなのだろう。

牧場銀座と呼ばれる235号線をレンタカーで走っていると草を食(は)む馬の姿が見える。鯨飲馬食とはよく言ったもので、どの馬もみんな地面に口をつけてモゴモゴ。

あれは、もう20年近く前の出来事だった。訪ねた牧場で「ご飯食べてったらいいっしょ」と言われて、馬のように喜んで食卓に座った。テーブルいっぱいに、心づくしのお料理。

その中に、大根おろしに長ネギと鰹節を混ぜたようなものがドンブリに山盛りになっていた。大根おろしにしては、パサパサしている感じだけど、「遠慮しないでね」と言うからお言葉に甘えてドバッと小皿に取った瞬間、「あーっ ! そんなに一遍にたくさん食べちゃダメッ !」という叫び声が響いた。

「お醤油かけてちょびっとずつ食べねば。それ西洋ワサビだよ。大根でないよ」

たまげて慎重にちょびっと口に入れた。辛い ! でも止まらない。刻んだネギの風味で辛みの方向が複雑になり、鰹節の旨みが加わって、もうお酒に相性ぴったり。

別名ホースラディッシュと聞いて、馬好きの私には、名前までいとおしく感じられた。私がドンブリを放さないものだから「したら、持って帰れば」と旦那が牧場の片隅からドカンと引っこ抜いてきてくれた。

暖かい関東で育つのか不安だったが、家の庭に植えておいたら、元気に根付いた。こうなると愛着が深まるから、とりわけおいしいような気がする。

当時は、ホース・ラディッシュといえば、クレソンとともにローストビーフの添え物的扱いで、しかも「生姜みたいなもの」という曖昧な認識のされ方だった。

完全に牛上位である。もっと馬を! の勢いで、ホースラディッシュをお客さんに無理やり食べさせたものだ。

庭から引っこ抜いて、根の部分を卸し金で卸し、たっぷりの刻みネギと削り節。醤油を回
しかけて出す。

胃袋の頑丈そうな人にはちょっと意地悪して黙っていると、たいがい大根おろしと勘違いして一気に口に放り込み、悶絶する。「何なんだよこれは ?」と聞いたら、おもむろに北海道での出会いから説明してあげる。

お酒にもいいけれど、あたたかいご飯に載せたら、これまた最高。何たって北海道から連れてきたんだから。広々した牧場のイメージが浮かび、口中にスカッと青空が広がる気分まで味わえるのである。

吉永 みち子「馬好きには妙に身にしみる辛さ」
よしなが みちこ
ノンフィクション作家。
1950年生まれ。
東京外国語大学卒業後、日刊ゲンダイなどの記者を経て78年よりフリーで活動。85年『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。自らの体験を軸に子どもや母親の家族問題、社会問題を取り上げ、出版のほかTVなどでも活躍。現在は障害者のための乗馬を推進するRDA Japanの副理事長も務める。最新刊は『変な子と呼ばれて』(ちくまブリマー新書)

スカイワード
2006年1月号

フランス音楽留学


きっとこれからも忘れることはないだろう、1997年。私がこれからフランスはパリに留学しようとしていた直前、現在日本に限らず世界を縦横無尽に飛び回っているクラシック・ギター界のフロンティア的存在で、私のギターの師匠でもある福田進一氏から1枚のCDを渡された。

ミシェル・コルボ指揮のガブリエル・フォーレの『レクイエム』。CDをオーデイオに入れてから最初の音が鳴るまでの「間」が劇的で、それからあとの物語を想像させる。

留学中2年間はマレ地区にあるブロン・モントー教会へ、聖歌隊員のひとりとして週に1度通っていた。ある日、フランスにおいてバリトンの名手として知られるカミーユ・モラーヌ氏をソリスト(独唱者)に迎え、同じ舞台上で共演(ギタリストではなくコーラスとして!)させていただいた。

それまでにない、今となっては夢のような、貴重な体験だった。もともと聖歌隊に入ったのも友人の紹介があってのこと。歌うことは好きだったので、やってみようかなという趣味の感覚でいたものだから、レクイエムを歌うことが決まった時は驚きと歓喜、同時に白分なんかがいてよいのだろうか ? という不安……、すべての感情が一気に襲ってきた。

こういった珍しい環境だとしても、素晴らしい音楽家と共演できることはめったにないことだから、このチャンスは生かそう!……とふたつ返事で決断。

コンサートは自分も同じ舞台に立ちながら、モラーヌ氏が詠(うた)う『リベラ・メ』に聴き入り、涙が出るほど感動していた。

そもそも、なぜ音楽で留学しようと思ったのか ? 日本ではギターをアカデミックな音楽教育で受けられるシステムが不十分であったこと、そしてその頃、「クラシック音楽って一体どこが面白いといわれるんだろう ?」という素人的な疑問が自分のなかに湧いており、それを探りたかった。

また、長い歴史のなかで、その「面白い」といわれる音楽を表現できる演奏家を育ててきた場所に、自らを置いて磨きたいと切に願ったからである。

実際、留学生活では前記で書き足りないほどの学ぶこと、遊ぶこと、それぞれに充実できる環境があった。自分に必要だと思うこと、例えば、素晴らしい演奏家(クラシックに限らずすべての音楽)のコンサートを聴きに行くことや、楽譜やCDなどにお金は惜しめないが、そのお陰(?)で食費を削った分、体脂肪率は当時7パーセント。

アスリート並みだが、実際はただの骨と皮のガリガリ。挙げ句の果てには貧血で倒れたり……(苦笑)。

音楽を面白い、面白くない、などと決めてもよいけれど、そんなに単純な感情だけでは表しきれない。自然のように複雑な均衡があるのかも。

でも自然のように一刻一刻表情を変えて、一回一回のコンサートで演奏も変わってゆくからこそ、何百年という時間が経過しても、音楽は新鮮なのかもしれない。

大萩 康司「試行錯誤のフランス留学」
おおはぎ やすし
ギタリスト
1978年宮崎県生まれ。
高校卒業後渡仏。パリエコールノルマルに留学後、パリ国立高等音楽院に入学。約6年間パリに滞在。98年、ギターの国際コンクールとして世界最高峰とされる「ハバナ国際ギターコンクール」にて、第2位入賞。同時に審査員特別賞(レオ・ブローウェル賞)を獲得。2005年5月にはキューバ政府より招聘され、キューバ最大の音楽祭「クバディスコ2005」に出演。6月にはアルバム「ハバナ」、10月にはDVD「鐘のなるキューバの風景」をリリース。

スカイワード
2006年1月号

JALグループ機内誌