ロックンロール | 月かげの虹

ロックンロール


こんなにおかしくて奇妙な小説、久しぶりに読んだ。不思議な響きを持つ語り口だな、という印象をまず持った。耳慣れない発音の地名や人名が頻出するというのも、理由のひとつにはあるだろう。

ヴイットライェンケ、パヤラ、パルカヨッキ、キットキエヨッキ、ムオドスロンポロ、ペッロ。

異国の言葉というより、昔話に出てくる架空の街の言葉のように聞こえてくる。あるいは魔女が唱えたまじないのような。

小説の舞台は1960年代のスウェーデン、フィンランドの国境にも近い、小さな村だ。本国の経済成長によっていわゆる豊かな生活を手に入れながらも、ラジオ局によっては受信するのに自前のアンテナを張らなければならないような場所だ。

主人公は思春期直前、この地でビートルズに出会い、衝撃を受け、やがて友人とバンドを結成する。

本書はこの村で育った作者の半自伝的小説だという。少年がロックンロールにのめりこみながら成長していく話は世界中どこにでもあるだろうが、この小説は語り口の独特さから、そして登場人物たちの奇人っぷりから、とても現代の話を聞かされているとは思えなくなってくるのだ。

主人公マッティにはニイラという幼なじみがいる。彼は幼いときから、親や兄弟の鉄拳を浴びながら育っていた。彼は口が利けなかった。人のいうことは理解できるし、口を開きもするのだが、なにかが引っかかっていて、ひとことも話すことができない。そんな彼が、ある日、教会にやってきたアフリカ人といきなり言葉を通じ合わせ、周囲をびっくりさせる。

成長したニイラは、死んだおばあさんの姿を見るのだといって恐怖に怯え、なんとかすべく、奇薬を持つという人物のところへ主人公とともに訪れる。ここでマッティも、幽霊となったおばあさんの姿を、あろうことかそのペニスまでも目撃することになる。

シビアな環境におかれると、人はそれに対抗するためか、逃避のためなのか、自分の内側に独自の世界を作ろうとするのかもしれない。

北極圏という、過酷な自然のなかで生きる人たちには、だから夢想家がおおいにちがいない。

主人公の目から見る周囲の人々は、現実の人物というよりもどこかおとぎの国の登場人物めいている。その姿が鮮明に描かれているのが、彼のおじさんの結婚祝いの場面だ。

食卓には、女たちが腕をふるったごちそうがずらりと並ぶ。食欲旺盛な男たちがつぎつぎと皿を空け、酒をおかわりするうちに、新郎の親族は、いかに先祖が力持ちだったかという自慢話をはじめる。

ほとんどホラにしか聞こえない話の数々に、新婦側の親族もだまっちゃおらず、いきおい、力競べがはじまる。一族の名誉をかけて、筋肉のりゅうりゅうと盛り上がる腕と腕がからみあい、おばあさんたちまでが指相撲で競りあい、ついには北国らしくサウナ競争にまで発展する。

なんだか、古代の神話に出てくる、人間くさい神々が催した宴を見ているかのようなのだ。この皆景に、エルヴイスやジミ・ヘンドリックスが流れているというのだから、不思議なおかしみを感じずにはいられない。

昔話や民話には、あまりにも荒唐無稽に思われる逸話がたくさんあるが、あれらは実際にあったものなんだろうなと納得がいった。

成長したマッティたちは、新しく出会った音楽の先生に指導を受けながらギターを練習し、おなじ曲を4回演奏して、2曲目がよかった、といわれるような演奏会を開いたりする。

村のなかで連鎖していく殴りあいや、大人でも手の出せないひどいいじめやら、彼らの環境はあいかわらず生易しくないけれど、それらすら笑い話のように聞こえるのは、主人公の語り口がひょうひょうとした自然なユーモアにあふれているからだ。

その楽しさの源は、厳しい寒さを生き抜いた肉体と精神力だろうか。そしてなによりも彼らのそばには、いつもロックンロールがあったのだ。

栗田有起「ロックンロール」
くりた・ゆき 小説家

ミカエル・ニエミ著/岩本正恵訳『世界の果てのビートルズ』(新潮クレスト・ブックス)

波 2006年2月号
新潮社