木琴奏者・平岡養一
「お江戸日本橋七つだち♪」という曲を知らない人はいないだろう。この「お江戸日本橋」をみずからのテーマ曲とし、生涯にわたって「木琴」という珍しい楽器でその調べを奏で続けた音楽家、平岡養一。
明治40年に生まれ、東京育ちの彼は、昭和56年、アメリカでその生涯を閉じた。享年72歳。西暦2000年のお正月を木琴の演奏で迎える、という夢はかなわなかった。多少お年を召した方ならば、彼の名をご存じの方も多いだろう。
小さな身体で大きな木琴を前に飛び跳ねるように演奏する姿は印象的だったし、レパートリーも大衆の耳に馴染んだ曲が多かった。その数、3,OOOを超えるとも言われ、クラシックは言うに及ばず、ジャズ、ラテン、シャンソン、童謡、歌謡曲と驚異的な幅広さで聴衆の耳を楽しませた。
平岡養一という音楽家の功績はいくつもあるが、その大きなものの一つが「オーケストラの打楽器の一部」としてしか認識されていなかった木琴の地位を、ソロでリサイタルができる楽器まで引き上げたことがあげられる。
慶應ボーイだった彼は、卒業後すぐにアメリカヘ渡り、辛苦を重ねた結果、朝の生放送のラジオ番組を獲得し、11年半にわたって続けた。
最初の3年間は同じ曲を弾かない、という熱意で勉強した結果、大きな人気を博し、「アメリカ全土の少年少女は、ヨーイチ・ヒラオカの木琴で目を覚ます」とまで言われた。
第2次世界大戦で帰国を余儀なくされ、終戦後は日本とアメリカを往復し、活発な演奏活動を行った。円比谷公会堂での「木琴人生50年記念リサイタル」をはじめ、民音主催の「全国縦断リサイタル」などでは全国100カ所で演奏し、観客動員もlO万人を超えた。
晩年も旺盛な活躍を遂げ、胃がんに倒れた後も、驚異的な復活を見せて再び演奏活動に復帰したが、死期を悟った彼は、市民権を得ていた第二の祖国・アメリカヘ帰り、息を引き取った。それから24年が経つ。
なぜ、彼は「木琴」という、珍しい楽器を選んだのだろうか? 本当は、ピアニストになりたくて、レッスンを重ねていた平岡少年は、ある日、外国人の教師から、衝撃的な通告を受けた。「ヨーイチ、残念だが君はピアニストには向かない。なぜならば、手が小さすぎるからだ」と。
落ち込む少年に母が与えた言葉。「養一、神様はね、誰にでも必ず人よりも優れたものを必ず一つ授けてくださっているんですよ。でも、それを探すのはあなたの仕事です」これこそ、立派な教育、だろう。
当時、銀座に金春館という映画館があった。今もその名は路地の名前で残っている。金春館では、映画の合間にアトラクションとして楽団の演奏があり、そこで平岡少年は木琴の演奏を耳にした。
「パラパラとアクロバティックなものだった」とその感想を語っているが、その演奏に魅了された少年は、「これだっ!」と天啓を受けたのだろう。当時のサラリーマンの初任給にも相当する金5円という大枚で、小さな木琴を手に入れ、独学するところから50年を超える木琴人生が始まったのだ。
そのかみ、「今日は三越、明日は帝劇」と言われた三越。今でも老舗の風格は褪せないが、中でも日本橋本店の趣は格別だ。5階の天井まで吹き抜けの構造になったゆったりした空間で、「中央ロビー」と呼ばれる広場には巨大な天女像が鎮座している。
その裏に、かつて東洋一と謳われたパイプオルガンがある。今でも週末には演奏されているが、平岡養一もこのステージに立って、週末の午後2回、約30分程度のミニ・リサイタルを行っていた。
これは、デパートからお客様へのサービスだが、生の演奏を聴かせる、という賛沢は、やはり三越ならではの矜持だったのだろう。1回の公演での演奏は5、6曲だったが、「チャルダッシュ」や「雷神」などのテンポの良い曲を多く聴いていたような気がする。
その時も一曲ごとに丁寧に曲の説明をし、「では、何々を演奏いたします」と言い、マレットを手にする。声にこそ出さないが、「ハッ」という相撲の間合いのような瞬間の後、華麗なる演奏が始まる。
入場料を払って聴きに来るお客様でなくても、一点一画をゆるがせにしない演奏は、まさしく「芸」であったのだ、と思う。
不思議なことに、館内放送をするわけではないのに、リサイタルの時間になると、ホールや周りの階段に多くの買い物客が集まり、演奏を待っている。週末のことで、家族連れが多い。
「懐かしいわねえ」というお年を召したご婦人の声もあれば、小さな子供を抱いて熱心に聞き入っている若いお母さんの姿もあった。私は、学校が終わると昼食も取らずに三越へ駆けつけ、2回のステージを食い付くように聴いていた。
詰襟姿で毎週現れる中学生に眼を留めた彼が、私に声をかけてくれたことから、個人的なお付き合いが始まった。「来週はここでリサイタルをするから、都合がよければいらっしゃい」とメモを渡してくれたり、1回目と2回目の演奏の合間に話を聞かせてくれたりした。
音楽家を目指しているわけでもない子供に、何を感じてくれたのだろうか。神様のお引き合わせとしか思えない。平岡養一と三越百貨店の付き合いは深く、他にTBSラジオでも、毎週土曜日に15分間の演奏番組を持っていた。
番組の編成によって「三越朝のメロディ」「三越夕べの音楽」と放送時間帯は変わったが、この番組は平岡が亡くなるまで続いた。
病を得てからは過去の録音の再放送が多かったが、延べで500曲ぐらいを私も録音し、大切な宝物になっている。
15分番組だからせいぜい3曲か4曲だったが、バラエティに富んだレパートリーは毎週耳を楽しませてくれた。平岡没後も、熱心なファンに応えるべく、しばらくの間過去の録音を再放送してくれていた。
多くの篤志家が芸術家を育てた古き良き時代があった。この当時、平岡養一の評価はすでに揺るぎのないものだったが、デパートの店内に劇場を持つ百貨店として、物を売るだけではなく、文化を提供する、という心構えは三越ならではのものだろう。
「メセナ」などという言葉が登場する遥か以前から少年音楽隊を持ち、劇場を持っていた三越の見識である。
中村 義裕「小伝・平岡養一」
大塚薬報 2005年12月号
No.611
大塚製薬
¥300