手動式タイプライター | 月かげの虹

手動式タイプライター


1974年、3年半の欧州生活を終えてニューヨークに帰ってくるや否や、ポール・オースターは大切なものを失った。スイスの著名なメーカー、ヘルメスの小型タイプライターである。

「カバーはつぶれているし、キーは絡まり、ねじれて、どう見ても修理のしようはなかった」。だが若き翻訳家にして未来の作家の卵に、新品を買う経済力はなかった。

2日ほど経った晩、かつての大学の同級生と夕食を共にして事故の顛末を話すと、その友人が使っていないタイプライターを安く譲ってくれるという。

いまは亡き「西ドイツ」製の、オリンピア・ポータブル。1962年に、中学の卒業祝いにもらったものらしい。以後、ポール・オースターの言葉は、「一言残らずこの機械によって清書されてきた」。

本書は、30年以上にわたって彼の創作を支えてきた、「ほとんど破壊不能と思える」ほど頑丈な相棒との、ごく私的で詩的な物語であり、その物語を引き出すきっかけになった、画家サム・メッサーの絵との、共同作業である。

筆記具としてのタイプライターをめぐっては、数え切れないほどの作家たちが、彼らだけにしかわからない、長く熱く固い信頼と愛情でむすぱれた物語をつづってきた。

ここでのタイプライターは、言うまでもなく手動式に限定される。初期の重厚な据え置き型を脱して、ケースの裏蓋に本体の底が留められる持ち運び型が誕生したとき、それは物書きにとって、鉛筆や万年筆とはべつの筋肉の動きを介してなんとも説明のつかない悦びを与えられる、まったくあたらしい創作機械となった。

私事を言えば、日本語の執筆環境にワープロが導入されるまえ、欧米の詩人や作家の書斎が紹介されている雑誌などを手に取るたびに、彼らがどんなタイプライターを使っているのか、美しい姿かたちを確かめずにいられなかったものだ。

アンダーウッド、レミントン、スミス・コロナ、ロイヤル、オリベッティ、ヘルメス、オリンピア、アドラー。

基本的には単一の機能しかないし、黒いナイロンリボンもほぼ汎用だから、あとは色や外見、素材と重量、そして打ち出されるフォントの相違が好みを分ける。

キータッチは時間とともに育てていくものなので、購入時の硬さはそう問題にならない。手動タイプライターはまた、楽器でもある。鍵盤を叩くと、エスケープメント機構を介して、バーが1本ずつ円筒形のプラトンを打つ。

同時にスプールが移動し、カメラのフィルムみたいにリボンを1文字ぶん送ってキャリッジをがたんと歌わせるのだが、これら梃子の原理と回転による力点移動とラチェットの連繋のすばらしさは、まさしく言葉を生み出す脳髄と呼ぶにふさわしい。

さらにそのひとつひとつの動きにともなう、リズミカルな打鍵音。電動式の派手で均一な音はそこになく、手の大きさ、指の長さ、それぞれの指の力と思考速度に見合った音が奏でられる。

そうするうち、ただ「仕事をするのを可能にしてくれる道具でしかなかった」物体に、命が、血が通いはじめる。

注意すべきは、手動タイプライターがほんとうに日常的な筆記具でありまちがいなく主役であった時代は、すでに遠い過去に属するということだ。

オースターが長年愛用してきた目のまえの機械に「愛情」を抱きはじめ、「好むと好まざるとにかかわらず、我々が同じ過去を共有していることに」思いあたるのは、こうした流れのなかにおいてのことだからである。

その不思議な愛情を共有し、タイプライターにひとつの人格を与えたのが画家のサム・メッサーで、彼はなんと、主人が不在だとわかっている仕事場へ出向いて、タイプライターの肖像を描いたこともあったらしい。

かくてオリンピアは「固有の性格を有し、世界のなかで確固たる場を占める1個の存在」に変わっていった。オースターの感覚も、メッサーの画業に触れることで、決定的な変化を被る。

「タイプライターをひとつのそれとして考えることに私は困難を感じてしまう。ゆっくりと、しかし確実に、それは彼に変わったのだ」。

時にペンで、時に油彩で描かれるオリンピアの表情は、目の下に真っ黒な隈をつくっているオースターにひけをとらないほど豊かである。

白いボディに白いキー。その両端に緑色のキーを配して、同色のロゴプレートをセグメントの中央に置くことで、緑の三角形を形作るこのモデルが、メッサーの筆の下で顔を赤らめたり歪めたり、鎮まったり怒り狂ったりする。

オースターは「彼」の気分に合わせ、なだめすかし、励まし、励まされ、ついには一体化して、今日も言葉を紡いでいるだろう。

堀江敏幸 「彼」と「私」の物語
ほりえ・としゆき 作家

波 2006年2月号
新潮社
¥100


ポール・オースター著/サム・メッサー絵/柴田元幸訳
『わがタイプライターの物語』
4-10-521710-0

http://book.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/521710-0.html