格差社会と心の貧しさ
昨年から「格差」や「階層」といった言葉が、やたら飛び交っている。私のところにも取材や解説の依頼が舞い込んできて、落ち着かない日々をすごしている。
落ち着かないのは、忙しいからだけではない。「格差」の語られ方が気になるのだ。例えば厚生労働省の調査では、世帯あたりの所得で、ジニ係数という貧富の差を示す数値が少しずつ上昇している。
先月の国会でも、小泉純一郎首相と民主党の前原誠司代表が「格差が拡大した」「いや見かけだけだ」と議論を戦わせていた。
たしかにこれはむずかしい問題で、世帯で測った場合、世帯の姿が変わると、貧富の差の数値も変わってしまう。
例えば、おばあさんやおじいさんと一緒に住んでいたのが、あばあさんたちだけで住んだり、家計を分けたりして、別々の世帯になれば、1つの世帯当たりの収入や資産は減る。それは数字の上では、貧しい世帯がふえたことになる。
貧富の差が広がった主な原因はそれだ、というのが政府の公式見解である。実際、年齢や世帯の大きさが以前と同じになるよう、数字の上で切りはりすれば、貧富の差は以前と変わらない。
しかし、私はこの説明にあまり納得していない。すごく気持ち悪い。
世帯が別々になる理由はいろいろある。ゆとりができたから別々にした人もいるだろうが、一緒に暮らせない事情ができた人もいる。家族を失った人だっている。一人一人、理由はことなる。
だから本当は、貧富の差を世帯単位で測ること自体、あまり良くないのだが、それはおいておこう。
厚労省の調査は世帯ごとに所得を調べているが、世帯が分かれたり、一緒になったりする理由まで調べたわけではない。
だから、世帯の姿が以前と変わったためだから、貧富の差が広がっても問題ない、とはかぎらない。変わったからこそ、貧富の差の数値が上昇するのはまずい、ともいえる。
一人暮らしやお年寄りだけの世帯がふえれば、何か困った場合、すぐ立ち行かなくなったり、立ち直れなくなる可能性もますからだ。
実際の世帯は、統計の数字のように、切りはりできるわけではない。困ったら家族や他の誰かと一緒に住めばいいのであれば、地方の過疎や高齢化が問題になることもないはずだ。世帯の姿を昔に戻せない以上、今の姿のままで貧富の差を考えるしかないと私は思う。
正直いって、この辺はややこしい。専門家の間でも、見方が一致しているわけではない。私も自分の見方が唯一の正解だというつもりはない。
いや本当は、だからこそ、私は気持ち悪さを感じているのだろう。格差そのものというより、一つの数字をはさんで、「拡大だ」「見せかけだ」と決めつけあうことに対して。
その向こうにある現実を見て、考えてほしいのだ。理想論だろうとなんだろうと、ジニ係数をいじり回すより、そちらの方がずっと大切だと思う。
例えば、格差を是認する人は、「成功者の足をひっぱるな」という。だが、親の職業によって、現在の収入がかなりちがうことは、別の調査でわかっている。
親の職業という、本人にはどうしようもないことが、貧富の差に影響しているのだ。それをどう考えるのか。
さらにいえば、ホームレスになったり、自殺に追い込まれたりする人が、厚労省の所得の調査で調べられることはまずない。一番貧しい人たちは、こうした調査には出てこない。それも忘れたくない。
「格差」にはいろんな見方や考え方がある。だから、自分に都合のいい見方だけでなく、都合が悪い見方も真剣にとりあげてほしい。
格差を批判するにせよ、是認するにせよ、妙な決めつけに走らない。それが「格差をおろそかにしない」ことだと思うが、今の格差談義では、そこが一番おろそかになっているのではなかろうか。
数字の向こうにある現実の生活を想像できない貧しさ。自分に都合の悪い話を聞けない貧しさ。そんな「心の貧しさ」の方が、数字が表す「モノの貧しさ」より、本当は深刻なのかもしれない。
佐藤 俊樹「数字の向こうの現実を」
(東大助教授・社会学)
2006年2月17日付け
高知新聞朝刊
論考 06
月1回掲載