入墨と刺青
明治40年代、日本は軍国主義が台頭し、いれずみどころではない時代であった。国家の体面にこだわり、政府は明治41年9月、「警察犯処罰令」を発布した。
その第二条二十四号で「自己又ハ他人ノ躰二刺文シタル者」を罰するとした。それは何よりこの時代、いれずみが盛んであった証拠に他ならなかった。
事実、明治45年には神田の彫宇之のいれずみを背負った者が参集して「神田彫勇会」を立ち上げている。谷崎の『刺青』はこのような時勢の下で書かれた。
「馬道を通ふお客は、見事な刺青のある駕籠舁(かごかき)を択(えら)んで乗った。吉原、辰巳の女も美しい刺青の男に惚れた。博徒、鳶の者はもとより、町人から稀には侍までも入墨をした」とある。
ここで谷崎は何故「入墨」と「刺青」を使い分けたのか。「刺青」をいわゆる「いれずみ」の意として用いたのは、実は明治からである。
先の「警察犯処罰令」では「刺文」となっている。その前の明治13年制定の刑法にも「刺文」とある。谷崎の『刺青』が世に出るまで「刺青」の用例は見当たらないので、谷崎の独創になる文字と見なされている。
しかし、中国では古く「刺青」の文字があり、それはいれずみのことを指している。現在の中国では「文身」あるいは「紋身」が汎用されていると聞くが、以前は「刺青」も用いられていたという。おそらく中国から入った「刺青」を谷崎が用いたと考えるのが自然であろう。
玉林晴朗は『文身百姿』の冒頭で、「<いれずみ>と云ふ事は墨を入れる。即ち墨を皮膚に刺すと云ふ意味であって、最近は専ら<刺青>と云ふ文字が用ひられて居るがこれでは青い色素でも刺すかの様にも取れる。これは理屈から云へば刺墨と云ふべきだが、結果から見て墨を刺して青い色素を刺したかの様に見えるので左様に云ったものであろう」といささか「刺青」に批判的である。
さらに「現在では刺青と文身と両方の文字が用いられ、称呼としては一般に"いれずみ"と"ほりもの" の両様が用いられている。が然し江戸から発達した処の、あの背中一面に彫る大きな絵図の文身は矢張り<ほりもの>と云ふ方がそれらしくていい」としている。
それで、彼の著作の題名は『文身百姿』である。なお谷崎は初版本において、その箱の書名と中扉の題名には「しせい」とルビしているものの、その他、そして初出以降はすべて「ほりもの」とルビしている。
ところで、前述のように谷崎は一方で、「入墨」も使っている。何故か。「入墨」は江戸時代、専ら刑罰として用いられる用語であった。
谷崎は「すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者である」ことを強調したいがために、町人や侍の貧弱ないれずみを醜い弱者として登場させ、そんなもの「刺青」とは言わせないと啖呵をきったのではないか。
それで女の惚れる見事な強者の刺青が浮き立った。そのような見事な刺青を「時々両国で催される刺青会では参会者おのおの肌を叩いて、互いに奇抜な意匠を誇り合ひ、評しあった」のである。
「アッ」といわせた者が1等となる「文身会」が天保の頃に両国などで催されたという。その1等について玉林が披露している。
その一つ、「肩から背に蜘蛛の巣があり、楓の紅葉したのか二枚ひっかかって居り、其の巣から一本の糸がスツーと下って居て、右足の踝(かかと)の処で止まり、其処に大きな蜘蛛が一つ彫ってあった者が優勝」した。その他、思いもかけない奇抜な例がいくつも紹介されている。(つづく)
小野 知道「いれずみ物語」
谷崎の『刺青』<皮膚から肌への一瞬>
大塚薬報 2006年1・2月号
No.612
大塚製薬