ドガと踊り子
印象派の画家は光を描いたといわれる。たしかにそのとおりだが、印象派の画家のなかでも、エドガー・ドガは、室内の光を描くのを得意とした。
戸外の太陽の光を描いたモネやルノワールと違って、ドガは舞台を照らす照明や、カフェの店内の明かりといった、人工的な光を好んで描いたのである。自然光を描く場合も、多くは窓から入る室内の光であった。
そういうドガの作品のなかで、もっとも人気があったのは、バレエの踊り子を描いたものである。舞台の踊り子たちの動きを、ライトに照らされる衣装も美しく、ドガは繰り返し絵にし、甘の稽古場での踊り子も描いた。
バレエの踊り子の絵がなぜ人気があったのか。バレエそのものが当時ヨーロッパで人気があり、ドガがその舞台を独自の美しい画法で描いたからである。
だが、それだけではなかった。バレエの世界には、とくにフランスで、隠された一面があったのである。
画家のマネはパリの街を散歩する趣味があった。ときによっては、一日中でも歩き回ったようである。そのことについて、友人のひとりから、こんなことをいわれる。
「どこかに踊り子を囲っておくより、よっぽどいい趣味だよ」
この時代、踊り子を愛人として密かに住まわせることが、ブルジョワの金持ちたちの間で流行した。だから、悪くいえば、バレエの世界はブルジョワたちのための愛人の供給源になっていたのである。
マネはブルジョワ階級の画家であったから、友人との会話にも、そんな話が出たのであった。ドガもマネと同じブルジョワ階級の画家だったから、ブルジョワたちの踊り子漁りの事実は、熟知していたに違いない。
踊り子たちの側からみれば、バレエの舞台出演だけで生活できるバレリーナは一握りで、スポンサーがいなければ生活できない踊り子が多かった、という事情があったのだろう。
オルセー美術館にあるドガの有名な作品「スター」は、左手前景で踊るひとりの踊り子を、左手の隅でひとりの男が他の踊り子たちとともに見つめている絵だ。
専門家の解説によると、この男は、踊っているバレリーナのスポンサーか、踊り子たちを物色しに来ている紳士なのである。
のっけからバレエ界の裏話をもち出したのは、ここでは、バレエの踊り子やバレエの教師を、生活をかけた仕事としてみようとするためである。
ここに取り上げた「ダンス教室」は、昼間の、踊り子たちの勉強風景である。教室に柔らかく満ちているのは、窓から入る昼の光だ。
威嚇的に杖を構えた老ダンス教師は、子どものような踊り子たちを前に、なにやらきびしいことをいっているに違いない。ここでの踊り子たちは、舞台で踊っているときとは違って、思い思いの姿勢で教師の話を聞いている。
左手の踊り子は、背中でもかゆいのか、手を背中にまわしているし、奥のほうでは脚を投げ出している子もいる、といった具合だ。
バレエのレッスンは非常にきびしいもので、一流のバレリーナでも、何日か稽占を怠けると、たちまち力が落ちるといわれる。
ところで、ドガがこの絵を描いた1870年代は、フランスのバレエの衰退期であった。フランス・バレエの全盛期は、1820年代から1850年代までの30年余り、ロマンティック・バレエが一世を風靡した時期である。
文学、絵画、あらゆる分野を巻き込んだロマン主義の波に乗って、マリー・タリオー二という天才的なバレリーナが主演した「ラ・シルフィード」が、パリのバレエ・ファンを魅了した。
ロマンティック・バレエの幕開けである。ロマンティック・バレエはいずれも、異国的な背景に、妖精などが登場するファンタジックな舞踊劇だった。
タリオーニのライバルとして、ファニー・エルスラーが登場し、さらに「ジゼル」の名演で知られるカルロッタ・グリジーが現れて、パリのバレエ界は黄金期を迎えることになる。
だが、この3大スターが競ったのも1840年代までで終わり、1858年にデビューしたエンマ・リプリーが、将来を嘱望されながら、21歳の若さで死亡したころから、パリのバレエは急速に衰退してしまった。
パリに取って代わったのがロシア・バレエの人気で、フランスの優秀なダンス教師、振付師などは高額でどんどんロシアに引き抜かれていったという。
そして、20世紀初頭には、ロシアのデアギレフ・バレエが、ヨーロッパを席巻することになる。ドガが踊り子を描いていたのは、パリのバレエ界が落日を迎えていた日々だった。
それでも、彼があれだけバレエの世界に情熱を燃やしたのは、なぜだろうか。おそらく、ドガのなかには、少年時代のバレエ体験が刻み込まれていたのではないだろうか。
ドガは1834年の生まれだから、彼が20歳ころまでは、パリのバレエは盛んだった。富裕な銀行家の息子だったドガが、子どものころ、両親に連れられて3大スターの舞台を見たことも十分に考えられる。
まして彼の父親オーギュスト・ドガは、自宅にギターの演奏家などを招くほど、音楽好きだった。思い出のなかのバレエのすばらしい舞台が忘れられず、ドガはバレエを描き続けたのではないかと考えられる。
しかし、一面冷徹なリアリストであったドガは、思い出に合わせて現実を美化しようとはしなかった。彼が描いたのは、斜陽のなかでも、バレエを仕事として生きるパリの踊り子やダンス教師である。
黄金時代が去ったとはいえ、人工照明のなかでバレリーナが踊れば、バレエの舞台はやっぱり華やかだった。踊り子をデッサンするために劇場や稽古場に通ったドガは、踊り子たちとも親しかった。
こんなエピソードがある。あるとき、ドガは、訪ねてきた2人の踊り子の1人から、オペラ座との契約更新に際して、給料をもう少し上げてほしいのだがどうしたらいいか、という相談を受ける。
来年の契約で示されている金額は2,400フランだが、2,700フランはないとどうにもならないし、自分にはそれだけもらう資格がある、と踊り子はいうのだ。
そこでドガはさっそく友人でもあるオペラ座の作者で演出家のリュドヴィク・アレヴィに手紙を書き、彼女の要求どおりにしてくれるよう、強く頼んでいる。
ドガはよく冷たい人間のようにいわれているが、決してそんなことはなかった。踊り子たちは絵の材料になりさえすればよかったのではなく、ドガはやはり彼女たちの生きる姿を愛してもいたのである。
磯辺 勝「バレエ」
名画の扉を開く
大塚薬報 2006/No.612
大塚製薬