懐かしの印度リンゴ
「印度」、インドリンゴは年配の人々にとって懐かしい品種である。特に第2次世界大戦末期の砂糖不足の時代には、廿味資源を「印度」に求めたことが思い出される。
1940年代後半までの生産量をみると、「国光」「紅玉」が圧倒的に多かったものの、酸っぱい「旭」と甘い「印度」が3番手を争っていた。
今では「印度」を見かけることもなく、若い人々はその味さえ知らないであろう。「印度」の特徴は、少し傾いた長い形をしており、廿く香りもよく、果肉がかたく貯蔵力もあるが、ジュースが少なく食後の爽快感に欠ける。
栽培的には紙袋をかけないと色がつかず、夏場の病気に最もかかりやすく、食べる側からも作る側からも敬遠されるようになった。
時節、もう一度あの懐かしい「印度」を食べてみたい人に出会うことがある。その際には少し言い過ぎかもしれないが、「たしかにお気持ちはよくわかりますが、今食べてみても決して美味しくないでしょう。思い出だけを胸にしまっておかれた方が良いでしょう」と答えている。
そう言うものの、気持ちは十分にわかるので、細々と栽培している農家を紹介したりする。
「印度」をインド原産と勘違いしている人もいるが、その由来についてはいろいろな説がある。1874年12月、弘前の東奥義塾に招かれたアメリ力人官教師ジョン・イングが深くかかわっていることは確かである。
イングは翌年のクリスマス・イブに塾頭および生徒14、5名を自宅に招きパーティーを開き、そこでご馳走したものは当時としてはたいへん珍しい西洋リンゴ(アップル)であった。
生徒たちは津軽地方のリンゴ(地リンゴ)と比べてあまりの大きさと美味しさに、これがアップルかと大いに驚いたようであった。
当時イングは食料品、日常雑貨を函館から取り寄せていたことから、このリンゴはアメリカ本土から持ち込まれた「白竜(ホワイト・ウインター・ペアメイン)」という品種とみなされている。
これを食べて塾頭の菊地九郎はその種子を自宅裏の畑にまき、その中から育ったものが「印度」であるというのが「印度」誕生の一般的な説である。
なぜ「印度」になったのかについては、イングが訛ってインドになったというよりも、イングの出身地インディアナ州がインドになったと考えるのが妥当であろう。
いずれにしても「印度」は日本原産の最初の品種である。その父親の血を引いたのが「陸奥」「王林」「北斗」で、世界的な評価を受けている。自らはすっかり姿を消してしまったが、「印度」は立派な子孫を残してくれた。
もうひとつ懐かしのリンゴは「国光」である。収穫期には雪をかぶることもあるので「雪の下」とも呼ばれ、津軽地方で全生産量の60%以上を占める時代があった。
大量のリンゴを腐らせず翌年の夏まで販売できたのは、津軽の冬の風土が天然の冷蔵庫の役割を果たしたからである。
黒石市にあるりんご試験場の一角には、樹齢l06年の「国光」が、今や世界一の生産量を誇る「ふじ」の母親として大切にされながら余生を送っている。
今日の栽培技術の多くは、古い品種によって培われたことを忘れてはならないと思う.
一木 茂「りんごの国から」
懐かしの「印度リンゴ」
大塚薬報 1・2月号
2006/NO. 612
大塚製薬
¥300