砂漠感覚 | 月かげの虹

砂漠感覚


電車が代々木上原駅を通るとき、窓から東京ジャーミイ(イスラム寺院)の建物を見かけると、ときどきサウジアラビアを思いだす。

もう四半世紀も昔のことだが、私は出版社を脱サラし、現地に留学したことがあるのだ。私はなぜ砂漠に魅せられたのか。

その留学をなぜ短期間で打ちきって帰ってきたのか。いまだに私にはよくわからない。そのせいか、いまも中東やイスラム関連の本をしばしば手にとる。

近年面白かったのは四方田犬彦の『モロッコ流謫(るたく)』。著者はモロッコのタンジェに長年住んでいたニューヨーク生まれの作家ポール・ボウルズ(1910~99年)を何度も訪ねている。

ボウルズの作品は〈徹底した達観〉に貫かれ、〈自分を世界の外側に置いて語ろうとしている〉と書く著者は、ある日、砂漠を歩いて、こう記す。

〈戻ろうとしても、もはや方向がわからない。(中略)世界でもっとも困難な迷路は砂漠にあるという逆説は、あながち文学的修辞であるばかりではない〉

この砂漠感覚は実にリアル。私もまったく同感だ。もしかしたら、人間は、あの広大な砂漠で味わう孤独や無力感に、現代社会ではおきざりにされている自らの一個の生の感覚を呼びさまされる気がするのかもしれない。

実際、産業革命以降、西欧社会からオリエントに足を踏みいれた "知の冒険者" は少なくない。その代表的なひとりは詩人のアルチュール・ランボー(1854~91年)である。

紅海の出入口にあたるアデンを根拠地に、アフリカ内陸部との貿易に従事した日々を、彼の書簡から読みとく鈴村和成の『ランボー、砂漠を行く」は労作だ。

あの "見者" と呼ばれる天才少年詩人が、亡くなるまぎわまで、母国フランスでの兵役の義務を気にしていたという論証がせつない。

もう一冊は、ずっと昔に私がアラビアヘ行く前に読んでいた本である。やはり若き日、アデンヘの旅に幻滅してフランスに帰国したポール・ニザン(1905~40年)の『アデン アラビア』。

冒頭の文章は、何だか引用するのもためらわれるほど、有名で鮮烈な告白だ。〈ぼくは20歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい〉

アデンから北に進めば、アラビア半島南部にひろがるルブアルハリ砂漠。ちなみにルブアルハリとはアラビア語で「空白の四分の一」といった意味である。

田澤 拓也「世界一の迷路」
ノンフィクション作家
1952年青森県生まれ。

SKYWARD 2006年2月号
JAL機内誌