写経屋の覚書-なのは「さっそく、救世軍の活動について『統監府文書』の6・8巻に収録されている憲兵・警察報告を見ていくよ。最初は明治42(隆煕3・1908)年1月27日付『憲機第182号』」

憲機第182号 救世軍参謀長趙重吉の救国のための寄附金募集に関する件

               西大門内 救世軍参謀長 韓人 趙重吉
 右者該参謀長となるには金千円を寄附したる結果現在の位置に撰任せられたりと然るに彼は近来各韓人の家を訪ひ救世軍なるものは将来韓国を独立せしむるの一大目的にて其計画中に付各身分に応し相当費用の補助を仰く旨を訴へ出て出金を促しつゝありとの説あり注意中
               明治四十二年一月二十七日

写経屋の覚書-はやて「趙重吉?獄長日記の『併合前のキリスト教団体状況(二)』に出てきた4月15日付『憲機第785号』で参謀として出てきたやんなぁ」

写経屋の覚書-フェイト「1000円寄付して参謀長になったって…売官みたいだよ…」

写経屋の覚書-なのは「韓国独立のためといって寄付を募ってるんだね…次は2月4日付『憲機第250号』」

憲機第250号 救世軍の近況

一.京城に於ける信者は現今七八百名なりと而して近来は教勢稍不振の状態にありと同教大佐「ホツカード」(許嘉斗)は大に将来を憂慮し一月三十日午後七時より西小門内同軍第一営に於て約二百名の教徒を集め(其他非教徒にして傍聴せしもの約百名ありしと云ふママ「血火員」てふ演題にて約二時間に亘り一場の演説を為せしと云ふ而して其要とする処は仮令其身流血淋漓又は火中に其身を致すの機に遭遇するも毫も其心を屈する勿れ天帝は諸氏の後援となりて其保護を為しつゝあれは飽まて我教軍を信し堅忍不抜の心を持し協力団結し以て大韓国の国権を恢復し世界の一等国を作るに努力すへし若し斯く堅忍不抜の心なく我教を信せさるか如きあれは到底大韓国の国権恢復は不可能なる而已ならす終には亡国となる可し故に極力我教軍を信し益々団隊を拡め一日も早く文明の域に進まんことを期す可し云々と
一.尚演説終了後血火員たらん者には衣服の前部に「血火員」と記せし証票を縫着し一見他の教徒と区別せんことに決せりと(血火員とは極力該教を信する所謂決死の信者なりと云ふ意味なるも同教に若干の寄附金を為したるものにあらされは血火員の証票を附与せさるものなりと)
以上
               明治四十二年二月四日

写経屋の覚書-フェイト「一心不乱の大演説ってやつかな?」

写経屋の覚書-はやて「『血火員』ちゅうのも寄附金次第かいな…韓国の国権恢復とか言うとるけど、まだそんなに過激なことは言うてへんみたいやな」

写経屋の覚書-なのは「少なくともホッカードはそうみたいなんだけどね。趙重吉のほうはこんなことをやってるんだよねぇ」

憲機第309号 救世軍の定期兵士会開催排日講義実施に関する件

 救世軍に於ては毎火曜日に兵士会なるものを開き教徒を集め聖書の講義を為す由なるか近来会集する信者日一日と減し昨今西大門内第一営の如きは七十名内外に過きすと之れか為め同軍参謀長趙重吉は教徒の猛省を促かす為めとて聖書の講義の終に於て左記の如き言辞を弄するを例とすと
 曰く我等は本教軍の力にて我国内に居る日韓の魔鬼を討滅し進て渡日し同地の魔鬼をも自滅せしめ我韓を世界の一等強国とせさる可らす故に各自奮て本教を信し且つ多数の教徒募集に尽力す可し云々と
 (魔鬼とは韓国の現大臣並に日本人を云ふこと)
               明治四十二年二月十二日

写経屋の覚書-フェイト「『魔鬼とは韓国の現大臣並に日本人』ってすごい言い方だね。『我等は本教軍の力にて我国内に居る日韓の魔鬼を討滅し』ってまさか軍事行動とか直接行動とかじゃないよね?!」

写経屋の覚書-はやて「『進て渡日し同地の魔鬼をも自滅せしめ』って日本侵略する気かいなwww」

写経屋の覚書-なのは「漢城だけじゃなくて、地方でも布教活動してるんだよ」

憲機第423号 忠北報恩郡に救世軍支営設置件

 救世軍本営隊長「ホツカード」は同軍正校前陸軍正尉班禹巨なる者を忠清北道報恩郡に派遣し救世軍支営設置を命したる由なるか同人は去る一月下旬頃同地方に往き同郡邑内前郷校たりし家屋を占領し同月三十日支営を設置し教徒募集に努めつゝあり其成績良好にして目下五六百名の教徒あり而して募集に関しては大要左の如き遊説を為しつゝありと
   左記
我々同胞は方今米国に頼らされは将来皆日本人の奴隷扱をせらるゝ而已ならす圧制を免れさる可し米国政府は我等の境遇を憐み特に保護せむとの目的にて救世軍隊長「ホツカード」を渡韓せしめ我同胞を総て救世軍とし日本人の指揮圧制を受けさる様に為さんとす而して「ホ」氏か既に渡韓し現今我同胞を多数保護しつゝあり故に公等も一日も早く加入し日本人の圧迫を受けさる様にせられよ云々と
               明治四十二年二月二十四日

写経屋の覚書-はやて「『我同胞を総て救世軍とし日本人の指揮圧制を受けさる様に為さんとす』ってだんだん煽ってきよったなぁ。ま、班禹巨が言うとるだけで、ホッカードは関知してへんのかもしれへんけど」

写経屋の覚書-なのは「多分ね。ただ次の『憲機第361号』も、1月・2月の忠北報恩郡での布教活動について報告してるんだけど、ここで出てくる『パンウコウ』が班禹巨のことだったら、少し事情は違ってくるかもしれないね」

憲機第361号 報恩郡救世軍大尉「パンウコウ」演説要旨報告件

一.一月十日報恩郡邑内に来着の救世軍将校大尉「パンウコウ」は目下同邑内郭武鍾方に滞在中にて両三回の演説を試みたるか其要旨は「吾は決して政治上の目的にて渡韓したるに非す唯当国の人民を救はん為めなり」と
一.右救世軍は同邑南端の丘上に教会堂を建築する計画なりとの説あり
一.救世軍に対しては邑内及附近の人民は非常なる歓迎をなしつゝあり
以上                 明治四十二年二月十六日

写経屋の覚書-フェイト「班禹巨の朝鮮語読みは반우거だから、パンウコウとかなり近いけど…でも正校と大尉の違いもあるし言動も違うよね。違う人だったら、韓国人幹部は煽り、外国人幹部は穏健っていうことになるかな?」

写経屋の覚書-はやて「まぁ、同一人物やったかて、1月10日に報恩郡に来た当初は憲機第361号のような穏便なことを演説しといて、1月下旬には憲機第423号のように『公等も一日も早く加入し日本人の圧迫を受けさる様にせられよ』って言うようになったんかもしれへんなぁ」

写経屋の覚書-なのは「とりあえず今回はここまで。次回は1909(明治42・隆煕3)年3月・4月の活動についてみていくね」

救世軍(1)
写経屋の覚書-なのは「今回からはね、救世軍について見ていくよ」

写経屋の覚書-はやて「救世軍?なんかどっかで聞いたような…」

写経屋の覚書-フェイト「うーん、何だったかなぁ…」

写経屋の覚書-なのは「明治43年7月の俵学部次官の演説要領を見てる時に2回出てきてるよ。こんなふうに私が言ったんだけどね」


俵学部次官演説要領(明治43年7月)(4)

写経屋の覚書-なのは「天主教と救世軍については、参考エントリー2の併合前のキリスト教団体状況(二)に詳しく書かれているから見ておいてね」

俵学部次官演説要領(明治43年7月)(10)

写経屋の覚書-なのは「救世軍に関してはまとめてみるとかなりおもしろくなるんだよ。また別のエントリーで紹介するね」


写経屋の覚書-フェイト「あっ、この話なんだ。ってことはまとめて見る用意ができたんだね」

写経屋の覚書-なのは「うん。そうなんだよ。じゃ、さっそく参考エントリーとして獄長日記の『併合前のキリスト教団体状況(二)』をあげるね」

救世軍
救世軍大佐「ホツガード」、韓国救世軍司令として京城に在り。
初め救世軍の地方に布教せらるるや、韓人布教師の妄言と救世軍の名称は、地方韓人の誤解を招き、則ち之を以て韓国軍隊の復活なりとし、軍人たるときは相当の俸給手当を給せらるるものと信じ、地方労働者は鍬を抛ち軍に投じ、日夜兵式操練に余念なく、其勢頗る盛なりし。
然るに、其真相判明すると共に脱教するもの相継ぎ、大に勢力を失墜せり。

救世軍の信徒は、調査表によれば信徒3,549名。

救世軍の布教といえば、11月28日のエントリーでも若干ではあるが触れりますが、更に丁度該当しそうな記述のある史料があるので、それを見てみましょう。
『統監府文書6』から、1909年(明治42年)4月15日付『憲機第785号』。

(4月13日附 平壌分隊長報)
4月13日午前10時より、元鎮衛隊前広場に於て救世軍演説会を開けり。
状況左の如し。

一.演説者は、救世軍大佐英国人「ホツカード」、同参謀韓国人趙重吉、同事務員韓国人李南周の3名。

二.会衆は約500余名。
種別は多くは耶蘇教信者及田舍より来りたる百姓風の志願者にして、志願者は殆んど半数なりし。

三.「ホカード」は演壇に立ち、今日の諸君に御目に掛るは、実に私の喜ぶ処である。
然るに、救世軍の制度始まりてより未だ40年位なるが、万国到る処賛成を受け、非常に盛大になれり。
此韓国には昨年10月に渡来し、本部を京城に定め、布教に従事せり。
然るに、忠清道方面の同胞は非常に賛成し、加入者甚だ多し。
此平壌は、韓国にては第一枢要の場所なるが故に、諸君は先導者となり、熱心に真実なる耶蘇教を信じ、而して一の団体となり、耶蘇が十字架に於て我れ我れの為死したる恩を報じ、一方は霊魂を救ひ、一方は各自の生命財産を保持する様努められん事を望む。
世界人類を始め、草木禽獣に至る迄、皆天帝によりて作られたる故に、此本元を忘るべからず。
此耶蘇教の心理を研究し、天の戒を守れば天国に昇るの賞を受け、同胞相救ひ相保つ事を得。
之れ乃ち救世軍を組織する目的なり。
救世軍、兵服を着し、武器を携帯し、不慮の時に他の国と戦争するものには決して之れあらず。
武器も何れも持たず、只口と精神を以て悪魔を排し、天国に上る道理を研究するものなり。
されば諸君は救世軍に加はらず、既往の罪悪を改め、善良なる救世軍人とならざるべからず。
而して、救世軍に加入せりとて高官大爵を求めるものにあらず。
善く行ひ、前の罪を赦して貰へば、夫れ乃ち善良事にはあらずや。
印度の人民は、非常に困難を嘗めつつありしが、此救世軍起りしより、非常に喜び、大鼓を叩き、勇躍歓迎せり。
之は何故なるやと云ふに、従来団結心に乏しかりし為め困苦の境遇に陥りたる処、救世軍により団結と信仰とを見出せし故なり云々。
次に、事務員李南周(京城人)演説して曰く、自分は昨年京城に救世軍始めて布教されたる当時、最初に加入したるものなり。
自分も前には天の恩沢を知らず罪を作りし事多かりしが、昨年より大に悟る処あり。
耶蘇の、我々の為めに成されたる高恩の万分一を報ずる決心にて、救世軍本部に於て事務を為しつつあり。
然るに、世界に救世軍起りしより40余年なるが、此韓国にて55ケの国に布教し、到る処政府も人民も非常に歓迎せり。
我韓国同胞も之に加入し、益々盛大ならん事を望むとて、終りに賛美歌を唱ひ、耶蘇教信者等は皆之に和せり。

四.右了りて正午散会し、尚ほ午後3時西門内武烈祠に志願者のみを集め、趙重吉は救世軍人には給料なき事を語り、平壌にも救世軍の兵営なかるべからず。
希くは、相当の寄附ありたしと談じたり。
本日迄の志願者は総計170名にして、他地方は大邱500名、忠清道300名、全羅道400名、其他南韓各郡にも若干の志願ありたりと云へり。
状況以上の如くなるが、之を要するに、救世軍に付ては平壌及各郡至る処韓人間に宣伝せられ、其名称の救世軍と称するを以て、米国人来りて軍隊を組織するかの如く思ひ、軍帽服及銃剣等を支給せられ、月給又高額なりとの事を甲伝へ乙和し、徒食の青年競ふて加入せんと志し、頃日来志願書を出したるもの60余名と聞へ、本日に至りては500余名中、半数は志願者なりと目されしも、「ホツカ一ド」の演説は志願者の意思と全然相反し、従来の耶蘇主義を拡張布教するに過ぎず、然も最も明瞭に軍人を募集するにあらずと明言せしを以て、彼等は其予期に及せるに落胆し、最初の意思を飜したるもの多く、田舍よりの志願者は半数以上志願を止め帰りたりと。
一般人民亦、救世軍とは耶蘇布教の事なりしかと云ひ、先きの熱心は冷淡と変じたるの傾向あり。
盖し新奇と誇大を好む韓人思想は事毎に現はるるも、救世軍に対する彼等の思想態度は、遺憾なく韓人気質を表はしたるを見る。

以上。

「新奇と誇大を好む韓人思想」
的確過ぎ!(笑)

ってな事で、毎度の如くバカな噂が広まり、救世軍をアメリカ人が組織した軍隊だと思い、軍服や武器の支給や高額の月給が貰えると思って集まってきたのに、何だ、布教か、と。(笑)
ここまで来ると、ある意味様式美ですな。>噂


写経屋の覚書-はやて「…この参考エントリーの記述と突っ込みだけでオチがついとるような気もするんけど…」

写経屋の覚書-なのは「あははは。たしかにオチはついてるんだけどね。あと『合邦問題(二十六)』でも出てくるんだよ」

1909(明治42年)12月14日付『機密統発第2061号』

○ 別紙六 憲機第2447号

昨日午前11時より.西大門内夜珠峴救世軍営に於ける日曜福音会には.従来に比し参詣者頗る多数なりし由にて.同軍参謀長趙重吉は大要左記意味の説明を為せしに.聴衆者等は尠少ならざる感慨を懐きしものの如く.競ふて即座に同軍に入らむことを申出たる者.其数百名を下らざりしと。
現時の状况より観察するも.日韓両国の合併は早晩行はるる而已ならず.合併の暁には我同胞は何れも日人の奴隷扱ひを受くる是又予見するに難からず。
是等の侮辱を免れむとせば.須らく我教軍に籍を存せらる可し云々。
以上。
明治42年12月13日


救世軍。
軍とは名が付いているものの、キリスト教プロテスタント系の団体であり、組織を軍隊に模しているだけで軍事組織ではない。
で、ご多分に漏れず、こういう形での信者獲得を行っているわけで。(笑)


写経屋の覚書-フェイト「あれ?4月の時点では普通に布教演説して、勝手な期待をする韓国人に失望されてるのに、12月の時点では『日韓併合後は韓国人は奴隷扱いされる。それを避けるには入信しろ』って逆に韓国人を煽ってるよ」

写経屋の覚書-はやて「8ヶ月の間にいったい何があったんやろ?」

写経屋の覚書-なのは「というわけで、今回はここまでにして、次回から、1909(明治42・隆煕3)年1月からの救世軍の活動を『統監府文書』の6・8巻に収録されている憲兵や警察の報告を通して見ていくね」

写経屋の覚書-なのは「今回も戦後朝鮮人の集団不法行為について見ていくよ」

写経屋の覚書-はやて「今回はどこの事件なん?」

写経屋の覚書-なのは「1949年4月6日に東京都江東区枝川町で起きた「枝川町事件」なの。警視庁史編さん委員会『警視庁史』第4巻 昭和中編上(警視庁史編さん委員会 1978)のp728~734を見るよ」

写経屋の覚書-警視庁史728
写経屋の覚書-警視庁史729
写経屋の覚書-警視庁史730
写経屋の覚書-警視庁史731
写経屋の覚書-警視庁史732
写経屋の覚書-警視庁史733
写経屋の覚書-警視庁史734

         三 枝川町事件
(一)事件の発端
 昭和二十三年中に都内で発生した強窃盗犯は、十七万一千件余に上ったが、この検挙はわずかに二十七パーセント強という低率であり、これに対する都民の信頼が十分であるとはいえないものがあった。
 そこで、警視庁は、翌二十四年三月二十五日から一か月間を「強窃盗検挙月間」として、全管下を挙げて未検挙強窃盗犯の解決に全力を煩けた。
 月島警察署では、昭和二十三年十二月二日、同署管内に発生した被害二百六十余万円に上る集団窃盗事件の共犯者二人を検挙し、引き続きその主犯と目されていた成田信次郎こと朝鮮人成世煥の追及を続けていた。
 同署刑事係では、この月間中にぜひとも成世煥を検挙しようと必死の捜査を続けた結果、四月六日、同人が江東区深川枝川町一の九朝鮮人朴在魯方に立ち回っていることを突き止め、同日午後六時十分ごろ、須田、斎藤、太斎の三巡査が逮捕状を携えて成の逮捕に向かった。
 三巡査は、朴方におもむき、太斎巡査が裏に回って見張り、須田、斎藤の両巡査が内に入ると、数人の朝鮮人に混って、写真で見覚えのある成を現認した。斎藤巡査が逮捕状を示して逮捕しようとすると、成は「おれは成田ではない。中村だ」と言い逃れようとしたが、一応同行を承諾したので、両巡査は他の者を刺激しないようにとの配慮から、手錠をかけず同行することにし、斎藤巡査が先頭に立ち、次に成、それに須田、太斎巡査が続き、屋外に出ようとした。斎藤巡査が靴をはくために前かがみになったとき、成は、斎藤巡査を背後から強く突き飛ばし、素足のまま逃げ出した。
 斎藤・須田両巡査も素足のまま表に飛び出し、追跡しながら、斎藤巡査が「逃げると撃つぞ」と威喝したが、成はなおも逃げ続けるので、けん銃を三発威嚇発射した。けれども、成は振り向きもせずあくまで逃走しようとした。斎藤巡査は、第四発目を発射した。成は、いったん転倒したが直ぐに起き上ってなおも逃走しようとした。追いすがった斎藤巡査は、犯人に組み付いてようやく逮捕することができたが、成は左手首と胸部に負傷していた。
 斎藤巡査は、成を病院に収容するため、続いて追いついた須田巡査に自動車の手配と本署への報告を依頼し、成の応急手当をしていた。そこへ騒ぎを聞きつけて集まった約四十人の朝鮮人は、成が負傷したのを見て激怒し「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と斎藤巡査に襲い掛かり、股る蹴るの暴行を加え、頭や顔に重傷を負わせたうえ、幹部らしい三人の男が斎藤巡査を在日朝鮮人連盟支部経営の枝川診療所に連行した。その途中、群衆の一人が同巡査のけん銃を強奪した。
 更に、午後六時五十分ごろ、斎藤巡査が応急手当を受けていた診療室にまで、群衆が押し掛けてくる気配があったので、危険を感じた同巡査は、午後八時三十分ごろ窓から脱出した。
 一方、須田巡査は、付近の民家から電話で、成が逃走を企て、斎藤巡査がけん銃で負傷させたことを本署に報告し、現場に引き返したところ、たちまち約五十人の朝鮮人に包囲され、斎藤巡査同様の暴行を受けて、全治二週間の傷を負わされ、更に、所持していたけん銃を奪取されたうえ、在日朝鮮人連盟支部事務所に連行され、約四十分にわたり監禁され、威圧を加えられた。
 また、太斎巡査は、逃走を企てた成を逮捕しようと斎藤・須田両巡査とは反対方向から追跡して、現場近くに来てはじめて事件を目撃し、事態の重大性に驚き、付近の民家から電話で、所轄深川署に通報するとともに月島署へ報告した。
 一方、月島署では、午後六時五十分ごろ、須田巡査からの報告で事件を知ったが、たまたま管内に強盗事件が発生して、緊急警戒実施中で手不足のため、とりあえず捜査係鶴見巡査部長ほか制服員六人を現場に急行させた。
 鶴見巡査部長は、途中、現場近くで太斎巡査に会い、その状況を聞いた結果、斎藤、須田の両巡査が拉致されていると判断し、折から救援に駆け付けた深川署の奈良警部補以下十人及び月島署飯田巡査部長以下十人と合流、待機し、鶴見巡査部長、奈良警部補等五人が、両巡査の解放要求のため、在日朝鮮人連盟支部に向かった。ところが、付近に集まっていた朝鮮人は五人を包囲して襲い掛かり、鶴見巡査部長には頭部、顔面に全治三週間の重傷、奈良警部補と月島署借上げのトラック運転者天野潤には全治十日の打撲傷を負わせたうえ、天野の自動車運転免許証を奪取するなど暴行の限りを尽くした。
 奈良警部補らは、やむなく、いったん隊員の待機地点まで引き返し、本署に対し警察官の増派と米軍憲兵の派遣手配方を要請し、群衆とにらみ合いのまま応援部隊の到着を待った。
 午後七時四十分ごろ、月島警察署の園部警部補以下三十二名が到着したので、総勢五十八名をもって実力救出の態勢を整えた。これに対し、朝鮮人約六十人が再びわめきながら押し寄せ、今にも暴行を加える態度を示したが、園部警部補は、隊員に「命令あるまで手出しをするな。現場を離れるな」と命じ「貴様は責任者か。何のために来たのだ。また人殺しに来たか」などとどなりながら、襲い掛かろうとする彼らに対し、同警部補はあくまで冷静に「話せばわかる。責任者を出してくれ」と要求したが、全くこれに応じようとしなかった。しかし、米軍憲兵の来援で彼らは急に鳴りをひそめた。そこで、園部警部補は、朝鮮人代表に対し、二巡査と鶴見巡査部長等に対する暴行者を差し出すことを要求したが、朝鮮人連盟側は「おれのほうでも一人死んでいる」と偽り、応じようとしなかった。

(二)容疑者引渡交渉
 午後八時三十分ごろ、社藤深川署長、出来月島署長及び予備隊中央区隊二百名が到着し、両署長が朝鮮人代表李煕庚らに対し、鶴見巡査部長らに対する暴行者の引渡しを要求したが、彼らはかえって警察の不当弾圧を主張して要求を拒否し続けた。
 交渉のむだなことを知った警察は、午後九時三十分実力をもって、暴行容疑者を捜索することを決意し、枝川町一帯の交通を示断したところ、朝鮮人側は「明七日暴行者を調査のうえ、午後一時に月島署に出頭する」旨申し出て、再三これを確約したので、午後十一時五十分態勢を解除した。
 ところが、翌七日、彼らは、奪ったけん銃二丁は深川署に差し出したが、朝鮮人代表李熙庚ほか八人が月島署に出頭して、月島・深川両署長並びに東京地方検察庁大沢検事らと面会したが、前言をひるがえし「けん銃を発射した警察官は殺人未遂だ」と主張し、その処分と暴行傷害犯人を検挙しないことを強引に要求した。しかし、警察の断固たる拒否に屈し、結局、朝鮮人側で暴行犯人を調査し、明八日正午までに判明した者を出頭させることを約して引き揚げた。
 翌八日午後三時、李ら七人が月島警察署に来署し、辻監察官、出来月島署長、社藤深川署長と面会した。しかし、彼らは「だれがやったか判然としないので、連れて来ることができなかった」と言葉を濁し、更に「けん銃発射当時警察官のとった態度が問題である。この本質が解決されなければ話を進める訳にはいかない」と、前日同様、けん銃発射警察官の処分と暴行傷害犯人を不問にすることの要求を繰り返し、犯人の引渡しを拒否する態度を固執した。

(四)容疑者の検挙
 警察は、午後八時、これまでの交渉による解決方針を捨て、断固実力行使によって検挙することを決定し、翌九日午前五時、枝川町一丁目所在の東京消毒所に現場本部を設け、同日から十三日までの五日間、午前五時から午後十一時まで、朝凪、枝川、姶、白鷺の各橋に検問所を設置し、各五人の制服警成員を配置、東京水上警察署も加えて、水陸両面から枝川町の出入者全員の検問と検索を実施する一方、三十余名の私服部隊を編成して、暴行容疑者の内偵を行った。
 これに対し、朝鮮人側は、検問所の設置は住民の生活権侵害であり、警察の弾圧だと抗議し、検問の即時中止を中し人れ、また町内の各所に、警察非難の宣伝ビラを大量に掲示するなどした。
 こうして、五日間にわたる検問、内偵の結果、枝川町一丁目居住の朝鮮人金八奉ほか八人が暴行容疑者であることを確認し、四月十三日午前五時三十分、捜査第二課長指揮の下に、検挙班として同課員百一名、月島・深川両署員二十一名で八個班を編成し、他に予備隊中央、東部、南部、西部の各区隊から、計四百五十四名の警察官を出動させ、各要所を固めて約一時間にわたって枝川町一丁目内の一斉検索を行い、人夫許且中ほか五人を逮捕し、九日以来続行していた検問を中止した。
 更に、検挙者の取調べから、暴行容疑者として、無職裵洙錫ら十人を同月十九日までに逮捕した。

(四)判決
 裵洙錫ら九人が公務執行妨害及び傷害罪で起訴され、東京地方裁判所で審理の結果、昭和二十六年一月二十六日、次の判決を受け、趙、朴、尹、裵は控訴したが、いずれも棄却された。
     判決
    裵洙錫(二九)   懲役  七年
    金徹河(二九)   〃   七年
    趙[金+康]浩(三七)〃   二年
    加藤春吉(五一)  〃   十月  執行猶予三年
    尹正根(二九)   〃   十月  〃
    黄永祐(三八)   〃   六月  〃
    許且中(四〇)   〃   六月  〃
    朴同守(五四)   〃   六月  〃
    鄭竜徳(一九)   〃   一年  (少年法適用)
 なお、この事件の発端となった窃盗犯成世煥(二六)は、二十四年五月十六日起訴、同年十一月東京地方裁判所において懲役四年を言い渡されて服罪した。

写経屋の覚書-フェイト「朝鮮人連盟が容疑者を奪還、隠匿したうえに、警官を監禁したり暴行したりしたって事件なんだね」

写経屋の覚書-なのは「明らかな公務執行妨害と傷害だよね。実力行使体制を整えながらも、まずは警官の返還交渉から始めているのは、弱腰というわけじゃなくて順当な手続だと思うよ」

写経屋の覚書-はやて「せやなぁ。応援警官隊や米軍憲兵の力を背景にして、まずは穏やかに「交渉」し、穏便な解決を図るのは理にかなっとるよね。ぶっとばしてから話を聞く「高町式交渉術」はこの場合不穏ちゅうか性急やろしねw」

写経屋の覚書-なのは「警察は悪魔じゃないからねw 結果的に交渉での解決は失敗したから実力行使による解決が行なわれたんだけど、枝川町そのものを包囲しての検問実施など、かなり大がかりなものになったみたいだね」

写経屋の覚書-はやて「枝川町には朝鮮人がぎょうさん住んどる集落になってたんやねぇ」

写経屋の覚書-フェイト「戦前に東京府がバラックを建設して深川の朝鮮人たちを住まわせたのが発端みたいだよ。で、この事件にも『朝鮮進駐軍』は一切登場しないよね」

写経屋の覚書-なのは「うん。在日本朝鮮人連盟支部院も加担しての警察の逮捕に対する抵抗、反撃ってとこだね。任意同行に同意しながらも逃走を図った容疑者を幇助したわけだし、不当弾圧という非難は厚かましいよね」

写経屋の覚書-はやて「警察官が容疑者のメンツに配慮して手錠をかけなかったんが裏目に出たいうんもあるんやね。実際には、周囲に朝鮮人たちが群がっているから手錠をかけることができる雰囲気やなかったんかもしれへんけど」

写経屋の覚書-なのは「この事件については、坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』(法務研究所 1959)のp243にも以下のように書かれてるよ」

(三)東京深川枝川町の犯人検挙妨害事件

 四月六日枝川町朝鮮人部落で、刑事三名が窃盗犯人を逮捕同行中、逃亡したので威嚇射撃をおこなつた。そこで部落の朝鮮人約五〇名は、刑事に殴打暴行を加え頓死の重傷を負わせ、拳銃二丁を奪取した。さらに朝連支部に交渉に行つた警部補ら五名に暴行し、トラツク運転手の免許証をとりあげた。そこで七、八日にわたつて、警察と朝連との交渉がおこなわれたが決裂し、警視庁は一三―九日(ママ)にわたつて容疑者一七名を検挙、一〇名が懲役刑となつた。

写経屋の覚書-フェイト「内容は同じだね。そういえば、ウィキは警視庁史の方を引用してたんだっけ?」

写経屋の覚書-はやて「えーっと…せやね。警視庁史と李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』(洋々社 1980年)をあげとるね」

写経屋の覚書-なのは「李瑜煥のほうも別に変わった内容じゃなかったし、ここでとりあげる必要はないと判断したの。じゃ、今回はここまでにするね」

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