「今回も戦後朝鮮人の集団不法行為について見ていくよ」
「今回はどこの事件なん?」
「1949年4月6日に東京都江東区枝川町で起きた「枝川町事件」なの。警視庁史編さん委員会『警視庁史』第4巻 昭和中編上(警視庁史編さん委員会 1978)のp728~734を見るよ」 三 枝川町事件
(一)事件の発端
昭和二十三年中に都内で発生した強窃盗犯は、十七万一千件余に上ったが、この検挙はわずかに二十七パーセント強という低率であり、これに対する都民の信頼が十分であるとはいえないものがあった。
そこで、警視庁は、翌二十四年三月二十五日から一か月間を「強窃盗検挙月間」として、全管下を挙げて未検挙強窃盗犯の解決に全力を煩けた。
月島警察署では、昭和二十三年十二月二日、同署管内に発生した被害二百六十余万円に上る集団窃盗事件の共犯者二人を検挙し、引き続きその主犯と目されていた成田信次郎こと朝鮮人成世煥の追及を続けていた。
同署刑事係では、この月間中にぜひとも成世煥を検挙しようと必死の捜査を続けた結果、四月六日、同人が江東区深川枝川町一の九朝鮮人朴在魯方に立ち回っていることを突き止め、同日午後六時十分ごろ、須田、斎藤、太斎の三巡査が逮捕状を携えて成の逮捕に向かった。
三巡査は、朴方におもむき、太斎巡査が裏に回って見張り、須田、斎藤の両巡査が内に入ると、数人の朝鮮人に混って、写真で見覚えのある成を現認した。斎藤巡査が逮捕状を示して逮捕しようとすると、成は「おれは成田ではない。中村だ」と言い逃れようとしたが、一応同行を承諾したので、両巡査は他の者を刺激しないようにとの配慮から、手錠をかけず同行することにし、斎藤巡査が先頭に立ち、次に成、それに須田、太斎巡査が続き、屋外に出ようとした。斎藤巡査が靴をはくために前かがみになったとき、成は、斎藤巡査を背後から強く突き飛ばし、素足のまま逃げ出した。
斎藤・須田両巡査も素足のまま表に飛び出し、追跡しながら、斎藤巡査が「逃げると撃つぞ」と威喝したが、成はなおも逃げ続けるので、けん銃を三発威嚇発射した。けれども、成は振り向きもせずあくまで逃走しようとした。斎藤巡査は、第四発目を発射した。成は、いったん転倒したが直ぐに起き上ってなおも逃走しようとした。追いすがった斎藤巡査は、犯人に組み付いてようやく逮捕することができたが、成は左手首と胸部に負傷していた。
斎藤巡査は、成を病院に収容するため、続いて追いついた須田巡査に自動車の手配と本署への報告を依頼し、成の応急手当をしていた。そこへ騒ぎを聞きつけて集まった約四十人の朝鮮人は、成が負傷したのを見て激怒し「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と斎藤巡査に襲い掛かり、股る蹴るの暴行を加え、頭や顔に重傷を負わせたうえ、幹部らしい三人の男が斎藤巡査を在日朝鮮人連盟支部経営の枝川診療所に連行した。その途中、群衆の一人が同巡査のけん銃を強奪した。
更に、午後六時五十分ごろ、斎藤巡査が応急手当を受けていた診療室にまで、群衆が押し掛けてくる気配があったので、危険を感じた同巡査は、午後八時三十分ごろ窓から脱出した。
一方、須田巡査は、付近の民家から電話で、成が逃走を企て、斎藤巡査がけん銃で負傷させたことを本署に報告し、現場に引き返したところ、たちまち約五十人の朝鮮人に包囲され、斎藤巡査同様の暴行を受けて、全治二週間の傷を負わされ、更に、所持していたけん銃を奪取されたうえ、在日朝鮮人連盟支部事務所に連行され、約四十分にわたり監禁され、威圧を加えられた。
また、太斎巡査は、逃走を企てた成を逮捕しようと斎藤・須田両巡査とは反対方向から追跡して、現場近くに来てはじめて事件を目撃し、事態の重大性に驚き、付近の民家から電話で、所轄深川署に通報するとともに月島署へ報告した。
一方、月島署では、午後六時五十分ごろ、須田巡査からの報告で事件を知ったが、たまたま管内に強盗事件が発生して、緊急警戒実施中で手不足のため、とりあえず捜査係鶴見巡査部長ほか制服員六人を現場に急行させた。
鶴見巡査部長は、途中、現場近くで太斎巡査に会い、その状況を聞いた結果、斎藤、須田の両巡査が拉致されていると判断し、折から救援に駆け付けた深川署の奈良警部補以下十人及び月島署飯田巡査部長以下十人と合流、待機し、鶴見巡査部長、奈良警部補等五人が、両巡査の解放要求のため、在日朝鮮人連盟支部に向かった。ところが、付近に集まっていた朝鮮人は五人を包囲して襲い掛かり、鶴見巡査部長には頭部、顔面に全治三週間の重傷、奈良警部補と月島署借上げのトラック運転者天野潤には全治十日の打撲傷を負わせたうえ、天野の自動車運転免許証を奪取するなど暴行の限りを尽くした。
奈良警部補らは、やむなく、いったん隊員の待機地点まで引き返し、本署に対し警察官の増派と米軍憲兵の派遣手配方を要請し、群衆とにらみ合いのまま応援部隊の到着を待った。
午後七時四十分ごろ、月島警察署の園部警部補以下三十二名が到着したので、総勢五十八名をもって実力救出の態勢を整えた。これに対し、朝鮮人約六十人が再びわめきながら押し寄せ、今にも暴行を加える態度を示したが、園部警部補は、隊員に「命令あるまで手出しをするな。現場を離れるな」と命じ「貴様は責任者か。何のために来たのだ。また人殺しに来たか」などとどなりながら、襲い掛かろうとする彼らに対し、同警部補はあくまで冷静に「話せばわかる。責任者を出してくれ」と要求したが、全くこれに応じようとしなかった。しかし、米軍憲兵の来援で彼らは急に鳴りをひそめた。そこで、園部警部補は、朝鮮人代表に対し、二巡査と鶴見巡査部長等に対する暴行者を差し出すことを要求したが、朝鮮人連盟側は「おれのほうでも一人死んでいる」と偽り、応じようとしなかった。
(二)容疑者引渡交渉
午後八時三十分ごろ、社藤深川署長、出来月島署長及び予備隊中央区隊二百名が到着し、両署長が朝鮮人代表李煕庚らに対し、鶴見巡査部長らに対する暴行者の引渡しを要求したが、彼らはかえって警察の不当弾圧を主張して要求を拒否し続けた。
交渉のむだなことを知った警察は、午後九時三十分実力をもって、暴行容疑者を捜索することを決意し、枝川町一帯の交通を示断したところ、朝鮮人側は「明七日暴行者を調査のうえ、午後一時に月島署に出頭する」旨申し出て、再三これを確約したので、午後十一時五十分態勢を解除した。
ところが、翌七日、彼らは、奪ったけん銃二丁は深川署に差し出したが、朝鮮人代表李熙庚ほか八人が月島署に出頭して、月島・深川両署長並びに東京地方検察庁大沢検事らと面会したが、前言をひるがえし「けん銃を発射した警察官は殺人未遂だ」と主張し、その処分と暴行傷害犯人を検挙しないことを強引に要求した。しかし、警察の断固たる拒否に屈し、結局、朝鮮人側で暴行犯人を調査し、明八日正午までに判明した者を出頭させることを約して引き揚げた。
翌八日午後三時、李ら七人が月島警察署に来署し、辻監察官、出来月島署長、社藤深川署長と面会した。しかし、彼らは「だれがやったか判然としないので、連れて来ることができなかった」と言葉を濁し、更に「けん銃発射当時警察官のとった態度が問題である。この本質が解決されなければ話を進める訳にはいかない」と、前日同様、けん銃発射警察官の処分と暴行傷害犯人を不問にすることの要求を繰り返し、犯人の引渡しを拒否する態度を固執した。
(四)容疑者の検挙
警察は、午後八時、これまでの交渉による解決方針を捨て、断固実力行使によって検挙することを決定し、翌九日午前五時、枝川町一丁目所在の東京消毒所に現場本部を設け、同日から十三日までの五日間、午前五時から午後十一時まで、朝凪、枝川、姶、白鷺の各橋に検問所を設置し、各五人の制服警成員を配置、東京水上警察署も加えて、水陸両面から枝川町の出入者全員の検問と検索を実施する一方、三十余名の私服部隊を編成して、暴行容疑者の内偵を行った。
これに対し、朝鮮人側は、検問所の設置は住民の生活権侵害であり、警察の弾圧だと抗議し、検問の即時中止を中し人れ、また町内の各所に、警察非難の宣伝ビラを大量に掲示するなどした。
こうして、五日間にわたる検問、内偵の結果、枝川町一丁目居住の朝鮮人金八奉ほか八人が暴行容疑者であることを確認し、四月十三日午前五時三十分、捜査第二課長指揮の下に、検挙班として同課員百一名、月島・深川両署員二十一名で八個班を編成し、他に予備隊中央、東部、南部、西部の各区隊から、計四百五十四名の警察官を出動させ、各要所を固めて約一時間にわたって枝川町一丁目内の一斉検索を行い、人夫許且中ほか五人を逮捕し、九日以来続行していた検問を中止した。
更に、検挙者の取調べから、暴行容疑者として、無職裵洙錫ら十人を同月十九日までに逮捕した。
(四)判決
裵洙錫ら九人が公務執行妨害及び傷害罪で起訴され、東京地方裁判所で審理の結果、昭和二十六年一月二十六日、次の判決を受け、趙、朴、尹、裵は控訴したが、いずれも棄却された。
判決
裵洙錫(二九) 懲役 七年
金徹河(二九) 〃 七年
趙[金+康]浩(三七)〃 二年
加藤春吉(五一) 〃 十月 執行猶予三年
尹正根(二九) 〃 十月 〃
黄永祐(三八) 〃 六月 〃
許且中(四〇) 〃 六月 〃
朴同守(五四) 〃 六月 〃
鄭竜徳(一九) 〃 一年 (少年法適用)
なお、この事件の発端となった窃盗犯成世煥(二六)は、二十四年五月十六日起訴、同年十一月東京地方裁判所において懲役四年を言い渡されて服罪した。
「朝鮮人連盟が容疑者を奪還、隠匿したうえに、警官を監禁したり暴行したりしたって事件なんだね」
「明らかな公務執行妨害と傷害だよね。実力行使体制を整えながらも、まずは警官の返還交渉から始めているのは、弱腰というわけじゃなくて順当な手続だと思うよ」
「せやなぁ。応援警官隊や米軍憲兵の力を背景にして、まずは穏やかに「交渉」し、穏便な解決を図るのは理にかなっとるよね。ぶっとばしてから話を聞く「高町式交渉術」はこの場合不穏ちゅうか性急やろしねw」
「警察は悪魔じゃないからねw 結果的に交渉での解決は失敗したから実力行使による解決が行なわれたんだけど、枝川町そのものを包囲しての検問実施など、かなり大がかりなものになったみたいだね」
「枝川町には朝鮮人がぎょうさん住んどる集落になってたんやねぇ」
「戦前に東京府がバラックを建設して深川の朝鮮人たちを住まわせたのが発端みたいだよ。で、この事件にも『朝鮮進駐軍』は一切登場しないよね」
「うん。在日本朝鮮人連盟支部院も加担しての警察の逮捕に対する抵抗、反撃ってとこだね。任意同行に同意しながらも逃走を図った容疑者を幇助したわけだし、不当弾圧という非難は厚かましいよね」
「警察官が容疑者のメンツに配慮して手錠をかけなかったんが裏目に出たいうんもあるんやね。実際には、周囲に朝鮮人たちが群がっているから手錠をかけることができる雰囲気やなかったんかもしれへんけど」
「この事件については、坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』(法務研究所 1959)のp243にも以下のように書かれてるよ」
(三)東京深川枝川町の犯人検挙妨害事件
四月六日枝川町朝鮮人部落で、刑事三名が窃盗犯人を逮捕同行中、逃亡したので威嚇射撃をおこなつた。そこで部落の朝鮮人約五〇名は、刑事に殴打暴行を加え頓死の重傷を負わせ、拳銃二丁を奪取した。さらに朝連支部に交渉に行つた警部補ら五名に暴行し、トラツク運転手の免許証をとりあげた。そこで七、八日にわたつて、警察と朝連との交渉がおこなわれたが決裂し、警視庁は
「内容は同じだね。そういえば、ウィキは警視庁史の方を引用してたんだっけ?」
「えーっと…せやね。警視庁史と李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』(洋々社 1980年)をあげとるね」
「李瑜煥のほうも別に変わった内容じゃなかったし、ここでとりあげる必要はないと判断したの。じゃ、今回はここまでにするね」
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