民営文化センター -87ページ目

民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

 

 

勝手に送ってくる雑誌で見つけた画像です。

 

 

今の時代なら医者の値段はこんなものでしょうか。

 

 

昼夜を厭わず血まみれになって格闘している勤務医には頭が下がります。

 

 

ぬるま湯ムードでも、これくらいの収入の方たちがいることも確かなようですが・・・・ 

 

 

医療関係者は“人の不幸”でメシを食っていることを忘れてはなりません。

 

 

この事実を意識すれば自分の値打ちがどの程度のものかが分かります。

 

 

自分がその患者を少しでも幸せにすることが出来たかどうかが問われるのです。

 

 

この考え方がハッキリ理解できたのはつい最近のことです。

 

 

我ながら遅過ぎました。

 

 

 

今年も医学部進学に特化した5校ほどの予備校のパンフレットが勝手に送られて来ました。

 

 

ある全寮制の予備校のパンフレットによれば“昼寝タイム”があるようです(写真)。

 

 

幼稚園の日課でなら聞いたことがあります。

 

 

この他、寮生にはインフルエンザ・ワクチン接種のサービスもある、等々 思わず目を剥きます。

 

 

れだけ幸せな青春時代を送ってしまったら、他人の不幸を感じ取れる人間に育つのでしょうか?

 

 

従来型のお医者様天国がいつまで続くか興味シンシンです。

 

 

冒頭の年収統計は犬あっちイケー職員のそれに近い値のようです。御参考までに・・・

 

 

 

 

前回の続きです。

 

長谷寺の本堂が国宝に指定されたのは13年前のことですので、テレビ番組を観なければ気付かないままでした。

 

 

強烈な長谷寺マニアとしてみれば、今回の件は何かしら発表出来ない秘密が隠されているように感じられます。

 

 

あるホームページの文章の行間を読むことで、その秘密を解いてみようと思います。

 

 

コピペした文章(青文字)に勝手に茶々(赤文字)を入れますので、まずは リンクしたページ を先に読んでいただきましょう。

 

 

結論を言ってしまえば、「材木の年代測定を行った結果、500年代初めに伐採した事実が判明した」と睨んでいます。

 

 

法隆寺より古いということが明らかになってはならないのです。

 

 

 

 

豊山派の主張

 

Vol.6 真言宗豊山派総本山長谷寺本堂の国宝指定に思う

 

真言宗豊山派総合研究院 院長 加藤精一

 

  

【本堂が国宝に】

  

 

平成1610に文化審議会より、わが宗派の総本山長谷寺の本堂(観音堂)を国宝に指定するべきであるとの答申がなされた。

 

長谷寺の本堂が国宝になるのだ。まことに喜ばしいことである。

 

これまでも重要文化財であったのだから日本の宝物であったことに代わりはないが、国宝となると、その価値が一段と高まるのである。

 

 国宝指定のきっかけは、平成153月の強風による倒木のために本堂の屋根の一部がこわれ、その修理のために文化庁がおこなった調査の結果であるという。

 

 

≪本堂の北側の斜面には、まだ何本もの大木が聳えており、似たような災害をこうむる可能性が心配です。滅多にないことと思いますが・・・・≫

 

 

屋根の修理は文化庁、奈良県、そして地元桜井市など各方面の手篤いご協力により、さらに加えて多くの豊山派所属寺院そして檀信徒各位の協力によって、平成163月には完成し、奉告法要も無事に成満したところに、この朗報である。

 

 

時あたかも、新管長として鳥居愼譽猊下が平成16119日に晴れの晋山式を控えてのことであるから、宗派の喜びはひとしおである。

 


  台風の被害がもとで調査が進み、国宝へというのであるから、

 

 

≪被害を受けなくても、その気になればもっと早くから様々な観点からの調査できたはずです。研究者の間では、法隆寺ほどではないのですが、謎の多い寺と言われているのですから・・・≫

 

まさに禍転じて福となるとはこのことで、さらに深く考えてみると、木が倒れたのも観音様のお心だったのかも知れない、とも思えるほどである。

 

 

≪はしゃぎぶりが尋常でないことから、何か特別なデータが示されたと思われます。≫

 

 

長谷寺学芸員の甲田弘明氏によれば、このたびの調査で本堂が、徳川幕府による大規模かつ代表的な寺院建築で、

 

 

≪別に災害がなくとも、外観を見ただけで分かる話であり、今更の感じです。≫

 

 

同時にわが国の観音信仰の中心的な役割を果たしているという点で、

 

 

≪始めから分かっている話であり、わざわざこの点を強調するのは、やはり特別な知見が明らかになったからでしょう。≫

 

 

建築学史的、文化史的意義においても特別に高い価値をもっていることが判明したのだ、という。

 

 

≪米田史学の結論は、日本最古の木造建築は長谷寺であり、まさしく“特別に高い価値”とはこのことです。≫

 

 

 

また、徳川三代将軍家光の寄進で、御所や江戸城など重要な建物を造営している中井大和守の建築で、

 

 

≪米田氏がいつも言っていた、中井家は今で言うゼネコンです。≫

 

 

当時の最高の技術者たちによって正保2年(1645)から5年の歳月をかけての大造営事業であったそうだ。

 

 

≪語られる火災の歴史は嘘であり、傷んだ移築された建築の大改修だったと思われます。≫

 

 

このたび「本堂棟札」「伽藍総絵図」「平瓦」等の五件も重要文化財の附指定に追加された。

 

 

この「豊山派の主張」を読んでどう思われたでしょうか? 

 

 

文面だけでは国宝指定というには根拠が希薄と言わざるを得ません。

 

 

もう国宝指定から13年経っているのですから調査結果を包み隠さず公表して欲しいものです。

 

 

以前から近鉄に言っているように「特急を長谷寺駅に停車」させるべきです、国宝なんだから。

 

 

もし、本当に調査の結果が理解できなかったら『長谷寺考』を差し上げますので、読んでみて下さい。

 

 

総てが氷解すること請け合いです。

 

 

 

2月14日の民放BS番組で長谷寺の本堂が最近国宝に昇格したことを知りました。

 

 

米田説では現在の本堂も観音様(517年)も倭国時代のオリジナルですから、やっと国も本当のことを認めたのか、といったところです。

 

 

そのきっかけは2003年の災害で本堂の北西の屋根が壊れたことのようです(冒頭の新聞記事)。

 

 

長谷寺の登り廊を上がり始めてすぐ右にある宗宝蔵には、その災害の折に取り替えられた屋根を支える巨大な部材が展示されています。

 

 

それを見た時、部材の年代測定が(検体が充分すぎるほどあるので)心置きなく出来るのではないかと思っていましたが、その結果、今回の国宝昇格に繋がったのでしょう。

 

 

問題はそのデータが正直に発表されているかどうかです。

 

 

投票率や世論調査のデータも嘘がまかり通る昨今ですので、情報は注意深く吟味しなくてはなりません。

 

 

米田氏は新泉社発行の第4書『逆賊磐井は国父倭薈だ』で

 

 

科学的に正しい標準年輪変動パターンが出来上がれば、私の説いてきた移築説が正しいか否かを決定することになろう。

 

 

年輪年代法は日本の歴史をひっくり返す力を持った研究である。もちろん放射性炭素C14年代測定法による年代測定とも相関し、広範な年代を正しく知ることになろう」と述べています。

 

 

 

どこかで聞いた名前の人が亡くなったニュース記事を見つけました。

 

 

何年も前に見つけたブログの主の原田治さんです。

 

 

都会的で、品があって、“ユーミン・ワールド”とでも言うのでしょうか、おしゃれな雰囲気が漂っていました。

 

 

そのブログにたどり着いたのは、「法隆寺移築説」について彼が コメント していたからでした。

 

 

引用

 

<ぼくは法隆寺の参道を歩き進んでいった時に、眼前の奇妙な風景に驚いた。

 

 

五重塔も、右の金堂も、手前中心にある大きな中門の背後に重なって見える。

 

 

さらに中門前まで前進して見上げると、塔も金堂の屋根も中門と一体化して醜悪な景色となって見えるので気分が悪くなった。

 

 

建物がくっつき過ぎなんだよな。

 

 

建築デザインにセンスのある人なら、誰だってこんな醜いレイアウトは美的に変だぞと思うでしょ。

 

 

これら世界最古の木造建築はそれぞれ素晴らしいのだけれど、なのに何でまた広い敷地に寄り添って建つ必要があるんだろ?と怪しむ感性を持っていただきたい。>

 

 

美大出身の方だけに言葉に重みがあります。

 

 

彼のブログは20161119日で途絶えています。

 

 

闘病生活に入ったのでしょうか。

 

 

最後の記事は トランプ氏の当選 についてでした。

 

 

如何にアメリカに憧れた世代であってもクールに日本のことも観察している点は好感が持てます。

 

 

アメリカ様の時代は終わっているのですから。

 

本作りはゲームに似ています。

 

 

レイアウトを如何に美しくまとめるか、写真のカラー・コントラスト調整をベストに持っていくのが腕の見せ所です。

 

 

写真・図表・関連資料の保管場所を思い出すことは頭の体操になります。

 

 

集中している時は本当に良いことも悪いことも総て忘れています。

 

 

頭の中で何かホルモンが分泌されているようです(ランナーズ・ハイに似ている?)。

 

 

柿本人麿の真実』B5版はお陰様で一定の評価(本作りの技についてですが)は得られたと思います。

 

 

大判は扱いにくく人気がないため、A5・カラー・ハードカバー版の編集に取り掛かります。

 

 

現在の版をそのまま縮小すると、図表によっては読めなくなってしまいますので一工夫凝らします。

 

 

印刷屋さんとのディスカッションも楽しいですね。

 

 

そんな訳でブログは二日に1回のペースは守れなくなっています。

 

 

 

今回は米田良三氏の 遺稿 を巻末に掲載することにしました。

 

 

残念ながら、私の予想通りその後半年で死去されたのですが、氏には歴史一本の人生を送らせてあげたかった。

 

 

開発した免震装置の売れ行きがもっと伸びれば、思い切り歴史研究に没頭できたと思います。

 

 

「桂別業図」と呼ばれる古図は現在の桂離宮とマッチしない(特に庭の形態)ことから、米田氏は移築前の姿を表していると睨んでおりました。

 

 

氏の遺品の中からこの件に関する資料を見つけ、既にこの ブログ 紹介 しました。

 

 

その資料とは、JR水城駅周辺の住宅地図の上に自著から採った桂別業図の写しを貼り付けた物です。

 

 

図の周辺が妙に現在の道路にフィットしており、氏の眼力は流石です。

 

 

この場所は「 清明上河図 」・“逢坂の関”の奥の雲に隠れた部分に一致します。

 

 

現在、『柿本人麿の真実』のA5改訂版に取り掛かっており、正確な倭国時代の桂殿の見取り図を載せたくなりました。

 

 

冒頭の写真がその見取り図で、建物と地図の実測値を元に合成して作りました。

 

 

何気なく貼ってあるように見える米田氏の手作業と、苦戦して作り上げた小生のパソコン上の作画の概要が一致した時の嬉しさは例えようもありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

小学校の低学年の教室で「けんか」をテーマに作文を書かせると冒頭のようなものが時にあるそうです。

 

 

昭和50年代のある冊子からの引用ですが、現在はどうでしょうか。

 

 

小学校5・6年の時の担任の先生は作文教育に熱心で、2ヶ月に1冊は「学級文集」が作られていたことを思い出します。

 

 

頻回の作文で随分鍛えられたことは、今になってみれば感謝です。

 

 

加えて、編集委員としてレイアウト、ガリ版切りや謄写版印刷の楽しさに目覚めたことが現在の趣味である本作りに繋がっています。

 

 

“作業中、全てのことを忘れている”ことが、その人にとって本当の趣味であることの証しですね。

 

小学校の卒業文集(昭和32年)

 名古屋教育ママ物語 』より

 

 

 

 

 

 王塚古墳

 

 

 五郎山古墳

 

 

 

王塚古墳へは米田良三氏と出かけ、色々教えていただいたことがあります。

 

 

その時の予備知識があったため、友人たちと行った五郎山古墳では、米田説と公式見解とのギャップが鮮明に理解出来、一味違って楽しめました。

 

 

先日、NHKの歴史番組で両古墳を取り上げていましたが、まるで覇気のないピンボケな解説を聞かされウンザリしました。

 

 

一番大切な装飾古墳の意義は、“磐井の乱”(本当は“継体の乱”)の戦後処理の一環であることなのに、その点に指一本触れないことです。

 

 

放送は勿論、現地のミュージアムの解説も同じです。

 

 

壁に描かれている馬上の人物は倭薈、馬の口をとるのは安曇の君である、と実在したスト-リーが描かれているのです。

 

 

ミュージアムの再現古墳の出来は素晴らしいのに、内容が伴わないのはいかにも勿体ない印象です。

 

 

五郎山古墳のある原田(はるだ)の住宅地は綺麗に宅地開発がなされ、定住したくなるような美しい環境です。

 

 

塗装の状態から判断すると、ごく最近の鳳凰堂の映像と思われそうですが、なんだか古い色調だし樹木もあまり密に茂ってないし・・・・

 

 

これは小学校の3年生の時、父親が買ってくれた学習研究社(現在の学研)1951年発行の少年少女学習百科大事典「日本の歩み」の中の写真です。

 

 

モノクロ写真に巧みに着色してあるようです。

 

 

この本は高校入試、大学入試の時も参考にしました。当時、幕末維新のところがどうしても理解できなくて、つい小学校時代のこの本に立ち返ったのでした。

 

 

それでも解らないのは長州は尊王であったのに征伐を受け、挙句に錦の御旗(もうひとつの尊王?)を掲げて天下を取ってしまったことです。

 

 

“それを言っちゃおしまいよ”と寅さんに教えられたり、ヴァーべックについて学んだりしたお陰で、すっかり霧が晴れました。

 

 

鳳凰堂も建っている方角が変だと思っていたところ、倭国時代に九州の俗名院(二日市の南)にあったものを平安時代に現在地に 移築 したという事実を米田良三氏が解明しました。

 

 

このようなワクワク感を味わうことの出来る(受験から解放された)大人の歴史の勉強法が評価される時代がもうすぐそこに来ていますし、教養の概念も大きく変わることと思います。

 

 

 

〈引用〉無名草子』や『今鏡』、『源氏一品経』、『光源氏物語本事』のように、古い時代の資料に『源氏物語』を60巻であるとする文献がいくつか存在する。

 

一般的には、この60巻という数字は仏教経典天台60巻になぞらえた抽象的な巻数であると考えられているが、

 

この推測はあくまで「60巻という数字が事実でなかった場合、なぜ(あるいはどこから)60巻という数字が出てきたのか」の説明に過ぎず、

 

60巻という数字が事実でないという根拠が存在するわけではない。

 

この「『源氏物語』が全部で60巻からなる」という伝承は、「源氏物語は実は60帖からなり、

 

一般に流布している54帖の他に秘伝として伝えられ、許された者のみが読むことが出来る6帖が存在する」といった形で一部の古注釈に伝えられた。

 

源氏物語の注釈書においても、一般的な注釈を記した「水原抄」に対して秘伝を記した「原中最秘抄」が別に存在するなど、

 

この時代にはこのようなことはよくあることであったため、「源氏物語本文そのものに付いてもそのようなことがあったのだろう」と考えられたらしく、

 

秘伝としての源氏物語60巻説は広く普及することになり、後に、多くの影響を与えた。

 

 

 

ネットからの引用です。

 

 

「火のないところに煙は立たない」云々(コレを“でんでん”と発音するのが最近流行っているようですが・・・)と言われますが、“秘伝”の方が寧ろ“本物”・ “元祖”である可能性が高いと思われます。

 

 

米田良三氏は『源氏物語』の原典(倭国時代のオリジナル)は宮内庁が持っている可能性が高い、と言っておりました。

 

 

それを裏づけるものとして「源氏物語絵巻」「源氏物語画帖」には、近畿地方での出来事としては説明の付かないシーンが散見されます。

 

 

とすれば、後は芋づる式に『枕草子』等の原典も存在すると期待できます。激変する世界情勢を前にして、そろそろ日本の秘密をオープンにしてもよいタイミングだと思うのですが・・・・・

 

 ここをクリック