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民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

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「中日新聞」に掲載された愛子様の卒業作文を読みました。

 

 

その文章は理路整然、逞しさがあって、何よりも世界の平和を望む気持ちが強く伝わってきます。

 

 

恐らく、お父様が目を通されているので、次の天皇様も同様な考えであると分かり、国民は勇気づけられたことと思います。

 

 

立派な卒論です。

 

 

世界に発信され反響を呼ぶことでしょう。

 

 

“拒食症がどうのこうの”といった、昔ではありえない週刊誌等のバッシング記事をぶっ飛ばす勢いがあります。

 

 

2大女性週刊誌が皇太子派と秋篠派に別れ、一人の中学生のプライバシーに絡む記事を競って載せるのは日本人のやることではありません。

 

 

私には前者は文壇系、後者は芸能界系のイメージが感じられますが、お互いの特長を生かし日本や世界の人々が幸せな気持ちになれるよう活躍されることを願っています。

 

 

 

 

 

 

 

法隆寺の金堂の天蓋に関する研究成果を約10年前の新聞誌上に見つけました。

 

 

金堂には3基の天蓋がぶら下がっているのですが、その中のひとつに創建時頃の古材が使われている、という ニュース です。

 

 

再建時に半世紀以上前の創建時の頃に伐採された材木をわざわざ探して用いるのでしょうか? 

 

 

その理由が、聖徳太子を追慕する思いのなせるわざと言うのですから、おとぎ噺みたいです。

 

 

因みに奈文研は法隆寺再建説のようです。

 

 

この「天蓋材伐採創建頃説」は「法隆寺五重塔芯柱材伐採594年説」を馬鹿正直に発表したトラウマが、まだ尾を引いていることの現れのようです。

 

 

起死回生を図るための記事だと思いますが、結果は“恥の上塗り”ですね。

 

 

西院と東院の間にある東大門が移築であることは公式に認められているのに、金堂、五重塔は、その件について一言も触れられることはありません。

 

 

移築説なら天蓋は元あったところから運んだだけのことなのに、やれ“聖徳太子を追慕”などと苦しい言い訳をしているようにしか思えません。

 

 

米田良三氏は金堂の壁画もエンタシスの柱から壁ごと剥がした上で大宰府から運ばれたことを証明しています。

 

 

天蓋なら天井から、はずして持ってくるだけの話ですから創建時頃の材木で作られているのは当たり前です。

 

 

高校生の頃は憧れていた研究者たちの実力(保身?)を知るにつけ、このままでは日本の歴史学は今後何も進化しないだろう、と思うようになりました。

 

 

若い研究者諸君! 悔しくないのか!?

 

 

 

高校時代の同級生を訪ねた時に撮った写真です。

 

 

 

2枚の写真を繋いでいます。

 

 

 

再開発で変貌してしまったエリアだと思いますが、懐かしく思い出す人もいるかもしれません。

 

 

 

ミラノボウル 」の表示が左手にあり、右端には映画「13階段への道」の看板が読み取れます。

 

 

 

現在、『長谷寺本堂調査報告書』を読んでいる最中ですが、奈文研の研究者たちの真面目な仕事のお陰で歴史の真実に近づくことが出来、楽しい限りです。

 

 

普段は絶対に見ることの出来ない観音様の頭の周りを囲む空間のカラー写真に感動しましたので紹介します。

 

 

現物は公開を憚られますので、スケッチで・・・(上図)

 

 

まず驚くのは太く丸い柱、それに連なる板壁に描かれた絵です。

 

 

どう見ても江戸時代の絵ではありません。

 

 

その太い柱の上方で突如、絵が寸断されており、よくよく見ればそこでは柱が継ぎ足されているのです。

 

 

足(た)された柱からは部材が横に走り、そこが小屋根の基点となっているようです。

 

 

多くを語る必要はないと思いますが、このような構造は素人が見ても新築ではありえないですね。

 

 

継ぎ足された部材は比較的新しく、江戸時代のものでしょう。

 

 

絵が描かれた柱は創建時(500年代初め)のものと思われます。

 

 

長谷寺の大悲閣の度重なる火災の記録は米田良三氏の言う通り総て虚偽であり、実際はその都度改修工事がなされたと考えます。

 

 

最後の工事は江戸時代の初期に当時のゼネコンである中井家が担当しました。

 

 

あのような部分の柱を継ぎ足したとすると、改修前の本堂全体は相当傷んでいたと思われます。

 

 

超貴重な写真の掲載に感謝の念がこみ上げてまいります。

 

 

このテーマに初めて接した人は、何故、観光案内より由緒のある、もうひとつの歴史が存在するのか理解できないと思います。

 

 

世界に向けて胸が張れる内容なのに何故?と思われることでしょう。

 

 

まさに、この点が米田建築史学の醍醐味なのです。

 

 

 

クラシック音楽愛好家の“プロのオーケストラを相手に棒を振ってみたい”という夢の実現の現場に立ち会うことが出来ました。

 

 

名古屋に本店のある 中北薬品 という会社の創立290周年イベントに招待され愛知県芸術劇場に出掛けました。

 

 

指揮をしたのは会長の中北智久氏、演奏は名フィル。

 

 

内容はタイトル通り「ヒヤリハット」プラス「ドキドキ」の連続で、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ではソロまでやってのけ、その時、場内は一瞬凍りついたのですが、ノド自慢の鐘二つに会場の雰囲気は一気に和やかになりました。

 

 

古きよき時代の家族的雰囲気の会社の伝統は今も息づいているな、と安心しました。

 

 

私の曽祖父・小川小三郎は明治20年代、この江戸時代開業の薬屋さんで番頭を務めており、その娘である祖母からは“中北さん”についての昔話を子供の頃よく聞かされました。

 

 

極めて名古屋的な会社で、無借金経営は当たり前、社是に「信用・誠実・質素」とあるように、戦前は「うどんのおかずで御飯を食べる」のは当たり前「中北さんは石橋を叩いても渡らない、叩き過ぎて割ってしまう」等の笑い話も残っているほどです。

 

 

この方針の正しさは、バブルの頃も株式上場せず“吸収合併なんてどこ吹く風”と涼しい顔でグローバリズムの企みを回避したことでも証明されています。

 

 

社員にとっては恐れ多い会長でも、私にとっては昔から“智(とも)さんです。

 

 

「うみゃーことやりゃーたなも、智さん!」

 

娘時代の祖母(明治30年代)

 

 

 

 

 

 

メートル法は別として、日本で用いられる(た)物差しは2種類に大別されます。

 

 

大和朝廷以前(倭国の時代)は1尺が281mmのィ尺、そして大和朝廷以後は1尺が303mmの曲尺(かねじゃく)です。

 

 

『重要文化財 長谷寺本堂調査報告書』の設計図上の絶好の計測ポイントを見つけました。

 

 

図の赤く塗りつぶした部分は畳一枚を表します。

 

 

実際の寸法は柱の中心間を測定(上図では10.5尺)しますので、畳そのものを計測しても無意味です。

 

 

測定は写真の赤く太い帯の長さを図ります。

 

 

さて、予想される長さは、10.5×3033181.5(約3メートル20センチ)または10.5×2812950.(約2メートル95センチ)のいずれでしょうか?

 

 

奈良のN先生、御足労ですが、ついでの折にでも計測お願い出来ませんでしょうか。

 

 

メジャーを用いるとマークされますので、予め2.95メートルの長さの紙テープを用意して、瞬時にチェックする方法など如何でしょうか? 

 

 

万一、3.18メートルでしたら、私はホームページ、ブログを閉鎖する覚悟です。

 

 

即ち、それは移築説の敗北を意味します。

 

 

 

 

 

 

所々で述べてまいりましたが『法隆寺は移築された』という米田良三氏の著書が総ての発端です。

 

 

以前、長谷寺についての本のタイトルをどうするか相談中、私が提案したのが「長谷寺移築された」でした。

 

 

さすがにこのタイトルは実現しませんでしたが、今回『重要文化財 長谷寺本堂調査報告書』に目を通してみると、まさしく「長谷寺移築された」の感を強くしました。

 

 

色々突っ込むポイントはありますが、いきなり本丸を攻めることにします。

 

 

『報告書』には本堂の精緻な図面が載っていて、詳しく算用数字で寸法も表示されています。

 

 

本堂の北東の角(写真)には畳の間があり、その1.5間の幅の部分が10.5尺と記入されており1間=7ということが分かります。

 

 

この長さのメートル法で表される絶対値の話はひとまず置きます。

 

 

ここで以前の 桂離宮 の件を振り返ります。

 

 

桂離宮の報告書に載っている図面上、寸法は総てメートル法が用いられています。

 

 

そこで長谷寺の場合と同様に畳の間に注目してみるに、1間は1970mmで、これを303㎜(曲尺の1尺)で割ると6.5尺となります(1970÷3036.5)。

 

 

この半分、即ち畳の短い縁が3.25尺となり、流石にこの数字は不自然です。

 

 

ところが米田氏が唱える倭(ィ)尺(1尺=281mm)に換算すると1間は7尺となり(1970÷2817)、長谷寺の1間=7と同じ値になります。

 

 

つまり、これらのことから、二つの建築物は共通の物差し(ィ尺)で建てられたという結論に限りなく近づきます。

 

 

メジャーを持って長谷寺に出掛け、北西の角の柱間を実測すれば答えはおのずと出ることでしょう。

 

 

「また 長谷寺か!」等と言わないで興味を持っていただきたいと思います。

 

 

法隆寺より80年ほど古いお寺のお話です。

 

 

受験勉強で付いてしまった悪い癖を捨て、大人の歴史を勉強しましょう。

 

 

相手がどのような手を使って騙しに来るのかを学ぶほうが楽しいじゃないですか。

 

 

冊子「あかい奈良(2004年春号)」の「奈文研だより」にS..という日本建築史の専門家が長谷寺について「長谷寺本堂は、近世初期の代表的な大規模仏堂として知られています。

 

 

しかしその建立沿革など不明な点が少なくなかったことから、初めての本格的な調査に取り組んでいます。」と述べています。

 

 

そしてその集大成が『重要文化財 長谷寺本堂調査報告書』です。

 

 

ネット社会の素晴らしさと言えますが、通常入手することが出来ないはずのこの報告書が大阪の 天牛書店 という古本屋経由で手に入りました。

 

 

今のところ、ざっと目を通しただけですが、メチャ面白い事実が所々に見受けられます。

 

 

長谷寺本堂が九州から移築されたオリジナルの建物であると言う米田氏の自信あふれる見解は、この報告書によっても裏打ちされていると思われます。

 

 

本書で「長谷寺移築説」は確信となりました。

 

 

少しずつこのブログで紹介していきますので期待していてください。

 

 

 

 

 

 

 

2003年3月3日の倒木で破損した屋根の修理を契機におこなわれた調査は、『重要文化財 長谷寺本堂調査報告書』として公表されているのですが、ネット上(奈文研ニュース )でそのサマリー(長谷寺本堂の調査)を読むことが出来ます。

 

 

世の中には私と同様“国宝指定”の基準の曖昧さに 憤っている人 がいるようで、長谷寺を含め複数の案件に対してイチャモンを付けています。

 

 

読めば総て納得できる意見ばかりで、文化審議会には何らかの内部事情があると思われます。

 

 

他の案件はさて置き、この人は移築説がらみの長谷寺創建の秘密についてはまだ御存じないようです。

 

 

「奈文研ニュース」の記事を読んでも、年輪年代法、放射性炭素C14年代測定法を実施した痕跡は見当たりません。

 

 

やらなかった場合、一見して怠慢と思えますが、確信犯的真相隠蔽との区別は不可能です。

 

 

一方、やったのにデータを公表しなければ国民を欺いていることになります。

 

 

あれだけ巨大で、もう使われない古木がありながら、年輪、炭素C14の調査を省くことは絶対にありえません。

 

 

法隆寺五重塔の芯柱の伐採年については 正直に公表 したため、その後の古代史論争に不自由をきたしたアカデミズム側は相当神経質になっているはずです。

 

 

米田氏は新泉社発行の第4書『逆賊磐井は国父倭薈だ』で「研究者に問う」という一章を設けて、彼らの真実を追求しない姿勢に憤っています。

 

 

 

 

 

 

 

ネットで偶然見つけた長谷寺の写真です。

 

 

中央の三門は明治18新築と言われていますが、たとえ朱塗りであろうと、白木のままであろうと、モノクロ写真上これ程まっ黒に描写されるとは思えません。

 

 

これも数ある「長谷寺の嘘」の中の一つです。

 

 ここをクリック

 

  • 今回ご紹介する一連の写真は、ドイツ生まれのアメリカ人写真家、
    アーノルド・ジェンスが、1908年(
    明治41)に半年間日本に滞在した際に、
    当時の日本の町の風景や市井の人々の日常を撮影したものです。



  • 上記の写真も含め、ジェンスが残した写真は米議会図書館に引き取られ、
    ジェンス・コレクションとして、約2万枚に及ぶ写真が、
    インターネット上で無料で閲覧可能になっています。