法隆寺の金堂の天蓋に関する研究成果を約10年前の新聞誌上に見つけました。
金堂には3基の天蓋がぶら下がっているのですが、その中のひとつに創建時頃の古材が使われている、という ニュース です。
再建時に半世紀以上前の創建時の頃に伐採された材木をわざわざ探して用いるのでしょうか?
その理由が、聖徳太子を追慕する思いのなせるわざと言うのですから、おとぎ噺みたいです。
因みに奈文研は法隆寺再建説のようです。
この「天蓋材伐採創建頃説」は「法隆寺五重塔芯柱材伐採594年説」を馬鹿正直に発表したトラウマが、まだ尾を引いていることの現れのようです。
起死回生を図るための記事だと思いますが、結果は“恥の上塗り”ですね。
西院と東院の間にある東大門が移築であることは公式に認められているのに、金堂、五重塔は、その件について一言も触れられることはありません。
移築説なら天蓋は元あったところから運んだだけのことなのに、やれ“聖徳太子を追慕”などと苦しい言い訳をしているようにしか思えません。
米田良三氏は金堂の壁画もエンタシスの柱から壁ごと剥がした上で大宰府から運ばれたことを証明しています。
天蓋なら天井から、はずして持ってくるだけの話ですから創建時頃の材木で作られているのは当たり前です。
高校生の頃は憧れていた研究者たちの実力(保身?)を知るにつけ、このままでは日本の歴史学は今後何も進化しないだろう、と思うようになりました。
若い研究者諸君! 悔しくないのかっ!?