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民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

 

「あの頃は良かった!」と言う人が結構多いのは“過去は余程のことがない限り美化される”からで、あの映画のヒットの理由もそのあたりにあるのでしょう。

 

 

  当時の生活を振り返ってみると、本当に良い時代と言える理由はただ一つ、未だ二交代勤務(主に製造業に於ける1週ごとに昼夜が入れ替わる方式)が始まっていなかったから、と思うのです。

 

 

  人生の大半を時差ぼけ状態で過ごす働き手の存在が、この国全体の心からの幸せを奪っているのです。

 

 

  このような非人道的な仕組みはどのように始まったのでしょうか。

 

 

  高度経済成長期以前、トコク(常苦)自動車は傘下の下請け企業の社長に招集をかけ、二交代勤務の実施を迫り、下請けはその考えに同意したのです。

 

 

「やります」と尻尾を振ったのがウンのつき、古今東西稀に見る“ありえない働き蜂神話”が始まったのです。

 

 

トコク自動車を良く知る昭和14年生まれの人が教えてくれたお話です。

 

 

to be continued

 

 

 

 

 

 

法隆寺金堂壁画について“突飛”と言われる米田説を離れ、定説(一例として『二万年の日本絵画史』宮島新一 著)を見てみましょう。

 

まず、法隆寺の建造物は「670年焼失した後の再建」であり、「再建なった後の金堂壁画」は「708710年頃の制作」としています。

 

そして、「則天武后期の美術をいち早く取り入れたのが法隆寺の壁画と五重塔の塑像群であった。」と述べているのですが、実際は100年弱遡る創建・観世音寺時代のものでありますので、則天武后とは無関係です。

 

著者は「天蓋部分の文様が装飾古墳の鋸歯・円文に類似する点」を指摘していますので、「法隆寺の壁画には倭薈に始まり、延喜・天慶・天暦の4人の帝という実在した人物が描かれている」ことに気付くまであと一歩というところです

 

“実在の人物”と気付かれないようにするのが歴史研究者の役目ですので、本当の歴史を話題にしたいのなら、プロになってはならないのです。

 

 

 

 

 2009年、NHK TV「古代日本のハイウェー」で、現在の日本の高速道路の総延長距離とほぼ同じ、幅が13m、直線が特徴の道路網が整備されていた、と放映され大いに話題になりました。

 

 道は軍事利用が主な目的で、建設を命じたのは天智・天武天皇(?)、しかし建設後100年で農地を求める国民の支持が得られなくなり道路は破壊されてしまった、という解説でした。

 

 

  高い租税を課すような朝廷が、すんなり国民の言うことを聞くとは、にわかに信じ難いのですが・・・ 。

 

 

 もともと倭国時代に造られた素晴しい道路網を占領唐軍が破壊させた、と言えますが“徹底的に倭国の存在を消す”という大和朝廷に与えられた課題を実行に移すには、全国民が絶対に忘れられない文化遺産“全土に広がる高速道路網”が存在し続けてはマズイのでした。

 

 倭国の諸々を奪って“悠久の大和朝廷のもの”と大半は偽ることが出来たのですが、さすがにハイウェーには難儀したようです。

 

 道路を埋めるという発想は、事故を起こした新幹線を車両丸ごと地中に埋めようとしたことを報じたニュースを連想します。

 

 今も昔もあの国の考えることと言ったら同じなんですね。

 

 番組を製作した者たちの意図はわかりませんが、倭国の凄さを現代の我々に教えてくれるという皮肉な結果となりました。

 

 皮肉な結果とは“自慢したい内容を、真相がバレないように公表するのだが、結局見破られてしまう”の意味です。

 

 「清明上河図」の場合も同じです。

 

 

 

 

 

 

 「BRUTUS」2月1日号 「建築を楽しむ教科書

伝統建築編」を書店で見て驚きました。

 

 “ここまでやるか ! ”ですね。

 

 法隆寺に関してコメントする藤森照信氏は伽藍のプロポーションの良さ、その独自の美意識を強調しているのですが“伽藍が醜悪な造形である”と述べる多摩美術大出身の故原田治氏と同様の意見の人は他にも居ます。

 

 各自意見が異なることをひとまず認めたとしても、本誌では伽藍を南側から見たスケッチを改竄した上「美しい」旨述べているのは問題だと思うのです。

 

 平面配置図では中門と五重塔、金堂と五重塔がともに南側から見るとオーバーラップしている部分があるのですが、

 

 見取り図では意図的に中門を縮小して描き、全体の印象が良くなるように書き換えられています。

 

 

 米田良三氏の 『法隆寺は移築された』 に見るように、五重塔、金堂、中門が重なり合って“気分が悪くなるような醜悪な景色”が本当の姿なのです。

 

 フェイク・ニュースに気をとられているうちに、他の分野でもフェイクがはびこりだしたようです。

 

 法隆寺が移築される前の美しい姿を知らない人は現在の姿に満足しているのでしょう。『続 法隆寺は移築されたYONEDA’S 建築士学入門』を読んだほうが“ためになる”と保証します。

 

 藤森氏は以下のように言いますが、“最古の木造建築は法隆寺ではなく大和長谷寺の大悲閣”なのです。国民的レベルでの謎解きはこれから始まります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学生時代、関西の主だった地域に亘る人たちと接する機会があり、関西弁のエリアごとの微妙な違いが興味深かったですね。

 

 

とりわけ、大阪弁が他と大いに異なる点は、何となく ふて腐れているように響く事と 話に「落ち」がつくことでした。

 

 

「米田建築史学」を知って、本家「難波津」から新たに設定された「難波」に強制移住させられた者たちの心理状態を考えてみました。

 

 

恐らく「どうせ俺たちは・・・ 」といった気分で会話が交わされ、終いに「落ち」を加えて鬱憤を晴らしていたのでありましょう。

 

 

「九州でのことは絶対に口外するな!」と強制された上での新造言語が大阪弁の起源、というのが私の新説であります。

 

 

それでは、抜け殻となった その後の博多エリアの人口はどう変化し、博多弁は如何にして今日の形になったのでしょうか。

 

 

もう少し両者に類似点があってもよさそうなものですが・・・・

 

 

 

 

  米田説では東大寺南大門は定説より700年古く宇佐で創建され、三十三間堂は600年代初め大宰府にあった移築前の法隆寺である観世音寺の一部でありました。

 

 

各々に所属する仁王像、1000体の千手観音立像等は当然その時代のものと考えられます。

 

 

それらを主に手がけたのは運慶、快慶、湛慶等、慶派と呼ばれる仏師集団と言われます。

 

 

しかし、定説では南大門は鎌倉時代、三十三間堂は平安末期に建てられたことになっているので “これらの仏師たちは一体何者か?”ということになります。

 

 

倭国時代、鞍作止利と同じ工房に所属していた慶派の仏師集団の成りすましが、平安~鎌倉時代に居たのではないでしょうか?

 

 

文学作品の世界でも平安時代の紫式部、清少納言ら多数が成りすましである、と既に証明されているように・・・ 。

 

 

国立博物館で特別展「運慶」なるものが開催され、全国民が“運慶=鎌倉時代”と刷り込まれてしまうので、九州王朝説はますます遠のいてしまう。

 

 

まさか それを狙ってイベントを企画したとは思いたくありませんが・・・ 。

 

 

 

米田良三氏の原稿を書籍化するようになって10年になります。

 

かなり上達したのですが、パーフェクトな作りは永遠に達成できそうもありません。

 

『続 法隆寺は移築された YONEDA`S 建築史学入門』を今までの愛読者にお送りしたのですが、まだまだ不満足な所があって、完全版の制作を現在進めています。

 

今回は、A5版・カラー・ハードカバー・上紙質とし、米田氏のオリジナル原稿を初心者向けに注、コラム、写真、図でバックアップします。

 

旅行ガイドブック的な役割も果たします。

 

本書によって、『続 法隆寺は移築された』(初版)以降の3冊も理解しやすくなります。

 

世界が大きく変わろうとしている、このタイミングに相応しい内容ですので、影のベストセラーとしてブレイクすることを密かに夢見ています。

 

返本で潰されることは我慢なりませんので、ネット販売を貫きます。

 

 

 

 

 

 

先日、高島礼子のBSTV歴史番組のタイトルが「消えた幻の都」とあり、太宰府が話題になっていたので注視していたが、案の定、従来通りの説であった。

 

解説の有識者は、熱弁を振っていたが、見る者に感動を与えない。

 

有識者なら「九州王朝説」を識っていなくっちゃ! 

 

識っているなら話さなくっちゃ!

 

 

鯨に関する和歌が万葉集に歌われており、我が国では古代から捕鯨が行われていたことが知られます。

 

しかし『むかし琵琶湖で鯨が捕れた』という本の内容については吟味されねばなりません。

 

 即ち、毎年、全国の高等学校の古文の授業で繰り返される「“琵琶湖の鯨”問題 」のことです。

 

 ポイントは『万葉集』の柿本人麿の歌「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば 心もしのにいにしへ思ほゆ」における“淡海の海”が琵琶湖なのか、

 

 そして同じく太后(おほきさき)の御歌「鯨魚取り近江の海を沖放けて 漕ぎ来る船辺付きて漕ぎ来る船・・・・ 」における“鯨魚取り”が海にかかる単なる枕詞なのか、実際の捕鯨なのか、の二点です。

 

 生徒が「琵琶湖は淡水湖なのに何故鯨が生息していたのですか」と質問すると、教師はお茶を濁し、ウヤムヤで終わってしまいます。

 

 “淡海の海”(近江の海)とは現在の天神を中心とする博多市街が古代、玄界灘に繋がる内海だったのです。

 

 この事実を認めれば、すべての謎が氷解します。

 

 全国の高等学校の古文の教師諸君に告ぐ! 

 

 嘘まみれの授業はもう辞めよう。

 

 大和朝廷以前にあった九州王朝(倭国)について学びなさい。

 

 万葉、古今、新古今、源氏、枕、土佐 等々 オリジナルは九州王朝の作品で、あなた方が教室で教えている内容は改変された関西バージョンなのです。                  

「“琵琶湖の鯨”問題 」とは幾多ある歴史改変の内の隠しきれない“ほころび”のひとつなのです。

 

 

2010年に公開された映画「ザ・コーブ」はその風評から、全く観る気にならなかったのですが

 

 「おクジラさま・・・」は何となく胸のつかえが降りる予感がしましたので観てきました。

 

 ネット情報によれば、作品は“ふたつの正義”のぶつかり合いを淡々と撮り集めたドキュメンタリーであり、

 

  批評の書き込みも“観た人に考えさせる良い映画”といった意見が多数のようです。

 

 確かにそのような作品ですが、佐々木芽生監督のたくらみが私には見えるような気がします。

 

 日本人がこの作品を見た場合、その通りの解釈となるのですが、

 

  白人たちは立ち直れない程強い衝撃を受け落ち込むのではないか、と想像します。

 

 

 どのシーンがそう思わせるかといえば・・・・・

 

 単なる鄙びた漁村と思い乗り込んできた町の景色のなんと神々しいことか。

 

 ここに住む人たち、ここで行われている行為を野蛮呼ばわりできるのか?

 

 文明の利器をフルに活用して、一方的な解釈で“野蛮な行為”を世界に発信し続けるも、

 

  対する町民たちの発信力は微々たるもの。

 

 言語のハンディーを考慮しない横暴さ。

 

 昔の白人の捕鯨を映した挿入動画では“彼らは油を利用するしか能がない”ことが分かる一方、

 

 地元の古文書では何艘もの小船で大きなクジラを命がけで取り囲み捕らえるシーンがあり、

 

  大きな刃物で繊細に解体する技術があることも分かります。

 

 町の小学校の教室での給食時間、当番の子供たちが帽子、エプロンを素早くまとい、

 

  仲間の分をスムーズによそおっていくシーン。

 

 「いただきます」と唱和・合掌、終われば、先生・生徒が一丸となって教室の掃除。

 

 10年以上、この町 太地(たいじ)に住みついていたアメリカ人ジェイ・アラスターは総て理解していただろう。

 

 エンディングのキャプションで太地でのリーダーを務めていた父娘がシー・シェパードを退会した、と述べています。

 

 

 我々日本人にとっては、当り前な何気ない日常のシーンでも、 

 

 その一つ一つに遭遇するにつれ“真に野蛮なのは自分たち白人の側だ”と気付いたのでしょう。

 

 

 オーストラリアでは昭和時代の初め頃までアボリジニー・ハンティングが行われていたそうです。

 

 Oリビア・Nュートン・Jョンのイルカ事件も有名ですが、日本人がイルカ以下の存在かどうか、

 

 3.11の真相解明が待たれます。