『源氏物語』が完全なフィクションとすれば、物語の中の桂殿の所在地が不明であっても納得ですし、
1615年、その桂殿に憧れた八条宮智仁親王が自分なりに所在地を定めて桂離宮を造ったと言う説もひとまず受け入れましょう。
『源氏物語』のメインの舞台が現在の京都であると万人が認めていますので、
もし桂殿のモデルが実在したとすれば年代的に見てその所在地が蒸発してしまうことはあり得ず、何らかの言い伝えが残っているはずです。
現実は、正確な嘗ての所在地は不明であるけれども、現在の桂離宮が物語の中の桂殿であると見做す人が大多数と思われます。
ガイドブックを開けば、法隆寺を始めとして長谷寺も謎の多い寺として紹介されていますが、桂離宮もそれらに劣らず謎だらけです。
『源氏物語』が執筆されたのは定説より350年古いというのが米田説であり、物語が現実とフィクションのミックスであることから桂殿のモデルは実在していました。
当時の京は大宰府のことであり、桂殿は逢坂の関に隣接していました。
現在の地図で示しますと南福岡自動車学校の南に水城跡があり、
その南のJR線と御笠川に挟まれたエリア(地図上に赤くスプレーした部分)が江戸時代の初めに移築されて現在京都に在る桂離宮の在った所なのです。
九州の地でボロボロになりながらも踏ん張っていた600年代の純日本建築が約1000年後に京都で再生されたのです。
わが国の古代史で“謎”といわれる部分は、ほとんどが九州王朝倭国の存在を隠しているために生じた事象と言えるでしょう。
つまり一般国民は舐められているのです。
今回の記事が全くチンプンカンプンだった方は少し間を空けて読み直して
みて下さい。