保科正之に学ぶ/新たな藤原伝説/ゴルフ途中リタイア/他
・保科正之に学ぶ
~家光の異母兄弟~
~稀有の指導者~
~無私の精神~
・藤原敏男氏の手術経過
~新たな藤原伝説が始まった~
・ゴルフプレー途中リタイア
保科正之に学ぶ
突然ですが保科正之(1511~1672)を知っていますか?恥ずかしながら私もよく知りませんでした。或る日、日本スポーツ出版社時代の先輩加賀屋さんとお茶を飲んだ折り、加賀屋さんから「貴方は福島出身だけども、保科正之という会津藩主は名君だよね」
という話が発端になり触発されて、私は猛烈に保科正之を探究したい射衝動にかられ図書館に通いました。そこで見つけた本は「名君の碑(いしぶみ)~保科正之の生涯~」(中村彰彦著=文藝春秋)と「保科正之言行録~仁心の政治家~」(中村彰彦=中公文庫)です。2冊読了して感じたのは、保科正之という会津藩主は誠に、全ての政治家がお手本とすべき名君であると快い感激を味わいました。
~家光の異母兄弟~
正之は2代将軍秀忠の側室の子として生まれ(3代将軍家光の異母兄弟・四男)、江与の方(秀忠の正室)の激しい嫉妬から、隠し子として育てられやがて信州高遠藩保科家に養子にもらわれ藩主に。その後出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩主となります。
彼は水戸黄門で有名な水戸光圀と同時代の人物だが、家光の遺言で4代将軍家綱の輔弼役(後見人・事実上の副将軍)になる。その善政は現代の混迷する政治に重ね合わせると正之候の偉大さがより鮮明になる。
「名君の碑」の序文に次のような言葉がある。
「公」とは何か?真の指導者とは。
混迷の世におくる清冽なる物語!
将軍家光の異母兄弟として悲運の生を受け
忠勤と民への慈悲に身を尽くしたこの稀有な
会津藩主。
~稀有の指導者~
保科正之に一貫して流れるバックボーンは、忠と仁だが何よりも己に厳しく「足るを知る」の孤高の人物だったことに先ず心動かされる。江戸の水不足を解消するために玉川上水を重臣の反対(川を利用して敵に攻められる惧れ)を押し切って成し遂げたのも正之候だし、火災からの避難場所として上野広小路を作らせたのも彼の功績。
江戸城が大火にあったとき、将軍を安全な他の場所に移すべきだと主張する重臣たちの意見を抑え江戸城に留まらせ、将軍ここにありを天下に示したかとと思えば、大火で消失した天守閣も、無駄な出費だと復元に反対して復興費に回したという。江戸城に大阪城のよな天守閣が無いのはまさしく正候之の英断によるものなのです。
藩主となった会津藩では凶作の折、餓死する人を一人も出さなかったのは倉庫に米を常日頃から来るべきときに備え備蓄したお蔭。また親孝行する者を顕彰したり、90才以上の民には死ぬまで米を与えて労っている。謂わば今日の国民年金制度である。こうした正之の善政によって他藩から流入する人が多く、人口は増えたという。これら数々の功績を正之は自分の手柄にしたことは一度もなかった。まさに無私の精神。
~無私の精神~
保科正之は家光から松平姓の許しを受けたが、保科家の恩を忘れず断っている。何処までも無私の精神は、清々しいものがある。会津藩の藩祖として後世に名を残す天晴れな指導者といえる。保科正之を知る1冊に私は「名君の碑」を挙げる。これで十分。645頁、読み応えありです。
余談。会津に新格闘術五十嵐道場がある。十数年前、私は黒崎健時総帥と同行の僥倖に預かり会津の道場を訪れた。述懐すれば、少年少女の稽古の中に、保科正之候の歴史の息遣いを感じたような気がする。「ダメなのはダメなのです」。ぶれない精神…子供たちの掛け声の響きがいまも我耳にこだましている。会津士魂とは保科正之の魂だったのだ。
そうだ、会津に行こう…。
藤原敏男氏の手術経過
11日午後、頸椎の手術で入院中の藤原敏男氏を秋葉原のM病院に見舞う。5時間を越す大手術だったということだが、術後の経過は良好ですからファンの皆様ご安心ください。
病室を覗いたら待合ルームに行きましょうと、すたすた歩いたのには驚きました。顔色がいい。病院の規則正しい生活で、体内からは溜まりに溜まった酒の残滓が発散したのかも知れません。
冗談にこれを機会に酒を止めたらと私が振ると、ニタッリと笑いました。どうやら止める気はなさそうです。と、病室に頸椎を守るプロテクターを忘れたようで「看護婦さん、首にやるあれ、忘れた~」とナースステーションに向かって叫んでいました。どうやら藤原伝説最終章が始まったような雲行きです。
~新たな藤原伝説が始まった~
問診で医師から、普段どれくら酒は飲むか聞かれて、まあちょっとです、と答えたら医師は「2,3杯ですか」というから、え?まあ、その10倍ですと言ったら目を丸くしてしたとか。
手術後に痛みに耐えかねて、患者は大概麻酔注射を求めるそうです。藤原氏は、どうかといえば、キッパリ断ったらしい。本人曰く「手術のときが痛みのピークでしょう。だったら後は薄らぐだけ、その過程を体で味わいたいのに、麻酔を打ってしまったら、肝心の薄れ行く痛みの感覚を味わい無いもの」
さながら苦行僧のようだ。恐らくこんな患者はそういないだろう。全く人間離れしている。やはり鉄人である。こんな患者ばかりなら医療費
も膨らまないだろうに。藤原敏男、あなたは厚労省表彰ものです。
医師の中にはキックの藤原敏男のファンだという者もいて、忽ち病院内に、藤原入院の噂が広がったようだ。今度うちの試合を見に看護婦さんが3人来ることになりました、この病院は美人の看護婦(今は看護士というらしい)さんが多いね、と入院生活も満更でもなさそうでした。
藤原会長、退院したら「友」でちょっとだけ飲みましょう。ちょっとだけですよ。お祝いに。守れるかな~、これ。
ゴルフプレー途中リタイア
7日、埼玉県鶴ヶ島しにあるJゴルフで、平成会ゴルフコンペがありました。梅雨入り前の上々のお天気で、私も久々のプレーに胸躍らしていましたが、あえなくというか情けなく3ホールでリタイアーを余儀なくされました。
スタート時に急に蒸し暑くなって、体に変調をきたしました。頭がボーとして、クラブの扱いもままならず両足も地に着かない状態になりました。これはまた脳梗塞になったら大変と思いリタイアーを決断しました。
それから全員がプレーが終了するまでクラブハウスで休んでいました。夕方には平常に戻り、気分も良くなりましたが、青々としたフェアーウエーを思い出すとプレー出来なかったことが本当に悔やまれます。
40~50代は月例に出たり、自身のコンペを毎年賑やかに開催したりゴルフ三昧でしたから、いまさらながら衰えを感じます。そで決心しました、今後いかなるコンペにも参加しないと。自分自身の健康の為、他人に迷惑を掛けない為に…です。御理解のほどお願い申し上げます。
DVD 『カンムリワシ具志堅用高』 第1部&第2部 絶賛発売中!!
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松井の劇的な復活/恰好よく老いるということ/他
・松井の劇的な復活
・隣家に98才のお年寄り
・恰好よく老いるということ
・タイ国に思いを馳せる
・サイアム・スポーツとの縁
松井の劇的な復活
松井秀喜選手がメジャーに帰ってきた。レイズとのマイナー契約でスタート、2カ月遅れでメジャーに昇格した。それだけでも松井マニアとしては嬉しいのに、戦列に加わって3試合(6月2日現在)で2ホーマーも打ってくれた。さながらゴジラの雄叫びです。頼もしい復活です。
松井の活躍には元ヤンキース監督トーリさんも「感動した、松井は私の大好きな選手」とエールを送っているという。松井のレイズ入りには
トーリ元監督の盟友ドン・ジマーさん(ヤンキース時代ベンチコーチ)が一役かったようだ。
現在ジマー氏はレイズのシニア・アドバイザーである。松井の復活劇にはこうした人たちの熱い支援があったと、報道で知った。心配された膝も大丈夫のようで、守備でも無難にこなしている。同一リーグのダルビッシュとの対決が楽しみになって、益々私のメジャー熱は高まるばかりです。飛べ!新たな背番号35.
隣家に98才のお年寄り
拙宅の隣家にKさんという98才のお年寄りがいます。奥さんも92才で共にお元気で、おしどりのような夫婦です。天気の良い日は二人揃って散歩に出掛けます。散歩の時でも奥さんはスーツ姿でとてもお洒落です。公衆の面前に出るときはかくあるべし、というお年寄りの見本を御二人には垣間見る気がします。
先日は御主人独りの散歩でした。白い半袖シャツに折り目の付いたズボン、足元はスニーカーという装い。背筋をピンとはって颯爽と拙宅の前を通りかかりました。顏色も瑞々しく長身の体躯は、無駄肉を削ぎ落としたかのように見事なプロポーションです。とても98才とは思えません。
私が植木鉢の土を入れ替えていると、覗きこんでアドバイスしてくれました。元は植木職人だったので、教えに間違いありません。その通り施すと、必ず次の年には立派に花を咲かせます。
で、Kさんに長生きの秘訣を尋ねたところ、その答えは次のようなものでした。いつも自然に触れ、土いじりを欠かさないこと、味噌汁はタップリ野菜入りで、中に細切れ肉を少々加えて毎日食べる、何よりもよく歩くこと等々…ざっと日常生活のありようを語ってくれました。
散歩の途中では必ず寄る馴染みの喫茶店があり、一杯のコーヒーをゆっくりと味わい、支払いのときは100円のチップを必ず置いてくるのです。お店のマスターから聞きました。何と恰好いいお年寄りでしょう。
恰好よく老いるということ
恰好いい老後は私の憧れですが、あと2年で100才を迎えるK老人を見るにつけとてもまねの出来ない事と諦めています。30分後、K老人が散歩から帰ってくるのが前方に見えました。5段ほどの階段を何とステッキを肩に担ぎ、鼻歌混じりに上がってくるのです。
人間の可能性を教えてくれるK老人には、驚きの連続です。長男夫婦と同居する屋上には、沢山の植木や花々が咲き乱れているそうです。何とも羨ましい悠々たる人生です。恰好よく老いる術…難しい課題ですが諦めずに私も努力したいと思うのであります。老人よ紳士たれです。
タイ国に思いを馳せる
前回のブログで藤原敏男会長の軌跡を綴りました。藤原敏男というキックボクサーは、いかに強かったのかをタイの国技ムエタイを通して延べました。永遠不滅のキックボクサーだと…。
現在頸椎の手術でM病院に入院中ですが、手術の経過は良好のようで安心しました。何せ鉄人なのですから、彼はいかなる困難も克服してくれるはずです。
タイでの試合を追憶するうちに、グンティープ(バンコク)には4年余りも行っていないことに気づきました。多い時は年に4~5回も行ったのに。タイ国は私の第二の故郷。恋しさつのります。
当地には無二の親友、多くの知己がいて私が訪問するといつも歓迎してくれます。故に故郷に帰ったような穏やかな気持ちになれます。中でもサイアム・スポーツシンジケート出版社の重役マニット氏とはかれこれ35年のお付き合いになる間柄です。
’77年10月、具志堅用高選手が3度目の防衛戦をタイのモンシャム・マハチャイと戦うことになり、当時デイリーニュース記者として来日。私はその頃ムエタイ情報を何とかゴング誌に載せたいと腐心しておりました。
そこでタイ側の通訳兼コーデネーターと随行してきたマノロム新野さん(日系タイ人=歯科医師)に相談した。そして適任者としてマニット
氏を紹介してくれた。以来今日まで家族ぐるみのお付き合いしている。
サイアム・スポーツとの縁
今は鬼籍に入られたが新野さんの推薦は間違いなかった。原稿も写真も締切日までは届き毎月ゴング誌に掲載できた。また藤原選手の試合でタイに行くと会社のカメラマンに指示して私が最高の位置で撮影できるように図らってくれた。写真には素人の私が藤原選手の数々のベストショットが撮れたのもこういう陰の協力があったからこそのです。
有名ジム会長との取材の許諾を労力を惜しまずに取ってくれたのもマニット氏。で、モンシアムの試合に同行した記者に元タイラッドのラウイー・ロートン氏がいた。マニット氏と気の合ったラウイー氏は、帰国後間もなく勤めを辞めて、二人で漫画出版の会社を立ち上げた。
それが今日のサイアムスポーツシンジケイト出版社の前身である。いまやタイ最大のスポーツ紙に成長させ、放送局、サッカーリーグも主宰するグループの会長。タイスポーツ界のボス的存在である。
御曹司ウイラック氏(通称ポク)はいずれ社長の座に座る。弊社の設立パーティーには発起人として、遠路来日してくれた。かように非力な私を側面から支援してくれ今日の私をたらしめてた。かように、有難い友人知己の多いタイ…脳梗塞から完全に恢復した今年こそは御礼の挨拶に行かねばと心に決めているのだが。
久しぶりにルンピーニーで試合も観戦したい、本場のタイ料理も飽きるほど食べたい、SHARK FIN CUISINEのフカヒレおじやも食べたい、マニットとゴルフもしたい。あれやこれや夢馳せるこの頃です。
"鉄人"藤原敏男とはなんぞや/破格のファイトマネーと打倒ムエタイへの地獄の稽古/他
・"鉄人"藤原敏男とはなんぞや
~7年ぶり馴染みの「友」で飲む~
~現役時代の全てを密着取材~
~破格のファイトマネー~
~打倒ムエタイへの地獄の稽古~
・ビージーズの永遠の歌声
~"First of May"のメロディー~
・死について考える
"鉄人"藤原敏男とはなんぞや
17日、藤原敏男会長と痛飲した。実に7年ぶりである。私が脳梗塞を患ったのを機に疎遠になっていた。お土産に弊社発売のDVD「キックの鉄人 藤原敏男」を5枚持参して藤原敏男スポーツジムに赴いた。
ジムで待っていた会長は何と首に"輪っぱ"(※頸椎保護のプロテクター)を嵌めていた。吃驚して『どうしたの??』と顔を覗くと、5月31日に頸椎の手術をするという。それじゃ飲めないよねと念を押したら「手術まではまだ間があるので大丈夫」の返事。
で、おもむろに「これ頸椎のレントゲン写真ですよ」と差し出した。見て驚く、椎間板が地震で崩れたかのように乱れている…これでよくぞ平気で立っているもんだ、神経に触れて痛くないのか他人事ながら背筋が凍ったのに、剛毅なもんです。
タクシーを拾って入谷の馴染みの「友」へ向かう。、藤原会長お気に入りのお店。何を隠そう私も大好きだ。友遠方より来る、である。「友」は母と娘二人で営む小体な店で、手作りの家庭料理がすこぶる旨い。7年前まではよく通った、地元の常連さんに愛されている。
7年ぶり馴染みの「友」で飲む
今月15周年を迎えて記念パーティーをしたばかりだという。菊正の酒樽がカウンターに鎮座している。私が藤原会長に次いで暖簾を潜ると娘さんが、舟木さ~ん!と歓喜で迎えてくれた。嬉しい。
藤原会長がママに「珍しいイケメンを連れて行くから」と電話したらしく7時頃ママが参上して、私の顔を見て心底喜んでくれた。お互いに元気で何よりと再会を祝す。ママも変わらない。
いつの間にか藤原会長は輪っぱを首から外し「これをしていると飲むのが苦しいから」。後はガチンコの飲み会、樽酒から始まり焼酎、持ち込みのワインと、私も負けずに飲んだ。今夜は特別、ここに藤原会長の刎頚の友、佐山聡氏(初代タイガーマスク)がいたら最高だけど。途中から、STJ代表山本智(ショウタイムジャパン役員役員)加わりさらに盛り上がる。
どの客も会長の顔を見ると、先生こんばんはと挨拶する。下町の太陽のように誰からも愛される藤原会長、一緒に酒を酌み交わして無性に幸せな気分に浸る。
現役時代の全てを密着取材
藤原会長の現役時代、私は日本国内はもとより海外、とりわけバンコクの試合は殆ど取材していて、かつ解説までやらして頂いた。そんなことで、酒が進んみ、やや酩酊状態で「あなたとは盟友だね」と藤原会長にふと漏らす。
すると返ってきた言葉は「いや、舟木さんとは戦友でしょう」だった。そうだ、戦友だ!ジムの稽古から、合宿、試合、オフの生活までとことん密着した。キックボクシング全日本ライト級初代チャンプ(5度防衛)、外国人初のタイ国王室系ラジャダムナン・スタジアム同級チャンプ、花も嵐も踏み越えた藤原敏男の全ての軌跡を見てきた。運よく当時は黒崎会長から信頼され何かと便利を図ってくれた、そのお蔭である。
タイでいまも昔も最も有名な日本の格闘家は藤原敏男。”74年~79年にかけ本場ムエタイのリングを震撼させた男として名を馳せる。戦った相手はムンチョン、シリモンコン、シープレー、プッパートノイ、そしてナロンノイと国宝級のトップランカーばかり。どの試合もスタジアムを超満員にした。賭けが行われる試合は莫大な金が動いた。藤原人気は天を衝く勢いだった。
破格のファイトマネー
当時藤原選手のファイトマネーは日本円で約300万、その頃ホテルのウェイトレスの給料が4000円だったのだから、いかに破格だったかわかろうというもの。試合が済むと師匠黒崎健時会長の宿泊先には、プロモーターが札束を持って次の試合の権利を買いにきた。
日本円の300万という数字は、当時タイでは10倍の価値があったといわれる。だから今でもルンピニー・スタジアム前にたむろするタクシーの運ちゃんは、我々日本人観光客を見るとこう話しかける。「俺はフジワラの試合をみたことがあるぜ」と。藤原の試合を見たことは、運ちゃんの一生モノの勲章なのだ。
いざ決戦ともなれば、メーンストリートには巨大な藤原の肖像画(ファイティングポーズの)が対戦者と向かい合って飾られ、試合を煽った。あれには日本人として、誇らしくて痺れたね、実際。
敵地での数々の死闘を経て遂に’78年3月、後楽園ホールで絶対に勝てないと言われたムエタイ500年の歴史を破る時が来た。時のラジャダムナン・スタジアムライト級王者モンサワンを4RKOしたのである。因みにこの歴史的なバウトは不肖私が解説した。興奮して声が出なかったことを覚えている。
恩師・黒崎健時は自らも’64年ムエタイ選手とルンピーニーで空手(大山道場=極真空手の前身)VSムエタイの異種格闘技戦で闘いKO負けした。その雪辱、打倒ムエタイを時空を超えて愛弟子が果たした。
打倒ムエタイへの地獄の稽古
打倒ムエタイの道程は生易しいものではなくて、連日12時間を越す地獄の稽古に明け暮れた。気温40度を超す敵地のスタジアムで勝つスタミナを養い、ムエタイのリズムを崩すべくトリッキーなフトワークを駆使するために技を磨いた…鬼の黒崎の地獄の特訓に耐えたからこその栄冠だったのです。余談ですが、日本の女子バレーが東京スカイツリーのようなロシアに勝つためには、現役時代の藤原敏男の変則キックをモディリングにすることが最適と考えるのですが。
そんな事を回顧しながらの久しぶりに飲む酒は格別であった。沢村忠がキックの元祖(キックボクシングは沢村によって爆発的に広まった)なら、ムエタイ500年の門を抉じ開けその頂点に立った藤原敏男は此の世に二度と出ないであろう永遠のスーパースターである。石原慎太郎都知事は、忘れ得ぬ格闘家として藤原敏男を挙げ賞賛を惜しまない。
「友」から石焼きビビンバの美味しい店に移動。そこでまた生マッコリを飲み、最終電車に滑り込み辛うじて帰宅した。お蔭で私は急性アルコールで丸2日間生きた心地がしなかった。鉄人相手の無謀な飲酒であったと懺悔しまた。
で、あんなに酒飲んで、果たして頸椎の方は大丈夫だったのだろうか?その後お礼の電話もしていないので危惧している。兎も角、手術が無事に終わることを祈るのみである。藤原会長、退院したら「友」で快気祝いをやりましょう。
久しぶりに会って気分が高揚しました。話が長くなって申し訳ありません。藤原会長に纏わる話題は汲めど尽くせぬ程あります。またの機会に取って置きの”武勇伝”など綴りたいと今回はこれまで。
ビージーズの永遠の歌声
ビージーズ(BeeGees=英国人3兄弟中心のボーカル)の一人ロビン・ギブがこの5月20日、癌のため62歳の生涯を閉じた。二卵性双生児の弟モーリスが2003年1月に亡くなっているので、残されたのは長男ビリーだけとなってしまった。
彼らのマイルドにハーモナイズされた歌声は特に「マサチューセッツ」が昔から好きだが、最近は映画”小さな恋のメロディー”の挿入歌「
firstofmay(若葉の頃)」「melodyfair」が私のコレクション加わった。
特に若葉の頃はこの季節にぴったりで、朝のウォーキングの折には欠かさず聴いている。何度聴いても飽くことがないのです。心を限りなく慰めてくれる、メロディーなのです。是非ネットで検索して試聴してみてください。
"First of May"のメロディー
この曲を聴きながら歩いていると代々幡斎場の正門に差し掛かりました。桜の木はすっかり新緑の葉に覆われて初夏の装いです。案内板には本日の葬儀家名が列記され、若葉の頃のメロディーがさも葬送曲のように思いました。
どんなたが逝去されたのか、死は今日、明日の我身。斎場の前を通る度に私は死に付いて思いを巡らす。私の主義は葬儀は密葬、供花、香典は一切受けとらない。お墓は小さいもので、郊外の静かな墓地。
一人で生まれ、一人で静かに死す。また、予め文面を作って置き、後日お世話になった人に便りを出してもらう。延命装置は絶対施さない…これは常日頃妻と語り合っていることです。死を確認し合う事は決してタブーじゃありませんよ。重要な事です。
死について考える
私が一番好きな作家・吉村昭(故人)さんが死んだ折の見本です。高村光太郎は死について次のように述べています。「死ねば死に切り、自然は水際立っている」
その意味するとこは、死ねば浄土も天国もない、全て終わる、自然には勝てないのだ…ということか。哲学者で評論家でもある吉本隆明さんは、この一節を絶賛しています。
私もこの死生観には共鳴するところがあります。と、まあ、心に響く音楽は、ときに人生の終わりまで感慨が及ぶことがあります。謂わば優れた音楽は人生のグル(導師)にもなります。たかが音楽というなかれです。御終いにギブさんのご冥福をお祈り致します。
19日はカラオケ仲間の皆さんと旧古河庭園のバラを見に出掛けた。咲き誇るバラ…。
藤原敏男スポーツジムで、首にプロテクターを嵌めて選手を指導する会長。
~以下写真は藤原会長との飲み会のスナップ!~
(1)先ずは樽酒で藤原会長と乾杯!
(3)再会を祝して「友」の前でパチリ。左より馴染みのお客さん、ママ、藤原会長(何故か私のバックを下げている)、私の隣は山本代表、友の娘さん。
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三社祭と"アリゾナ"の料理/井岡一翔の可能性/他
・三社祭と"アリゾナ"の料理
~名物のビーフシチュー~
・神輿とスカイツリー
・歯茎は歯の一部です
・健康は自ら養うもの
・ボクシングの現況
三社祭と"アリゾナ"の料理
18日(土曜)は浅草の三社祭を見に独りぶらりと出かけた。代々木上原駅から浅草は東京メトロを乗り継ぐと凡そ45分かかる。最近はこの乗車時間が心に重くのしかかりなかなか脚を向けられずにいた。
ところがこの日は無性に浅草に行ってみたくなって、思いを巡らせた。早朝からお天気もよく、気分も高揚してきて、そうだ、アリゾナで昼食をとろうと決断。ラジオ体操から帰ると手早く畑仕事も済まして駅に急いだ。
アリゾナに着いたのは13時半頃、お店は三社祭もあって混んでいたが運よく座れた。私は注文したのは永井荷風も好きだったというビーフシチューに生ビール。アリゾナは墨東奇談などで知られる文豪・永井荷風が愛してやまなかったレストランとして名を馳せている。
~名物のビーフシチュー~
店内も当時の面影を偲ばせるようなレトロな雰囲気にビールも美味い。テーブルは重厚ない英国制、何となく落ち着く。ほどなく料理が出てきた。卵ほどの小さいパンが二つ、別皿に端座している。肉は舌に優しくじんわりと広がった。ソースは淡泊でお年寄にやさしい。
パンに付けて食べる。パンをもう少し食べたかったが、少量なのには何か訳があるのだろうか。荷風老が愛したのはもしかして、胃にもたれないソースのさっぱり味だったかもしれない。
レジで支払えを済ましたあとで、お店のことはかねがね親しくさせて頂いている坂井さん(店の常連、藤原敏男会長&佐山聡氏の友人)から
いつもお誘いをうけているのですが、約束を果たせずにいます、と店主夫人に話した。とても美人の奥さんである。御子息も試合会場でよく会っている。当日は祭りに出ていて留守だった。
あら、お名前は?と問われたので我が名を名乗ると、今日5時に坂井さん、佐山さんたちが来ますからまたいらっしゃたらいいですよ、といってくれたが、三社祭を見て帰った。
神輿とスカイツリー
神輿が仲見世から出てくる処を雷門の迎え側に立って待つこと1時時間、神輿は次々に門をくぐり勇ましく現れた。日差しの強い中、群衆は押し合い圧し合いしての見物だった。
僅か3時間の浅草散策だったが、歴史を肌で感じてほのかな満足。神輿と東京スカイツリーが重なる風景は、伝統と近代建築が違和感もなく溶け込んでいるのを改めていいなと思って地下鉄駅を降りた。
車中は「保科正之言行録~仁心無私の政治家~」(中村彰彦著=中公新書)をず~と読んで来たら上原駅にたちまち着いてしまった。読書は長い車中も実りあるものしてくれる。
歯茎は歯の一部です
私の健康法にまた一つ新たに加わったのは、歯磨きが終わると歯茎を左右の一指指でで交合にマッサージすることです。ある歯科医師夫人から言われたことを急に思い出して、1カ月前から始めました。
件の夫人曰く「舟木さん、歯茎も歯の一部なのですよ。歯ブラシでよくマッサージすと歯が丈夫になります」と。老いると歯と目が極端によわってくるのが実感される。
で私の場合は軽く歯ブラシで、歯茎を撫でた後指で入念に表面上下、それから裏側も同じように右手と左手を入れ替え擦る。これをすると何となく歯の血液が活発になるような気がする。
ウォーキング&ラジオ体操から帰宅して上半身乾布摩擦(実際にはタオルを冷水に浸し絞ったもの)に、歯茎マッサージが加わり目下風邪も引かず冬を乗り切りました。
健康は自ら養うもの
前にも述べましたが人間の体は80%は筋肉から成っているということですから、己が自ら育くみ、鍛えずば衰退する…そう思うとマスコミを彩るサプリメントの類に、安易に身を委ねることはできません。
その他、腕立て伏せ40回、腹筋15回ワンセット、後ろ歩き15メーター
3往復、さらに植木を囲むコンクリートの23㌢程の高さに片足で15~20回上り下り体操前に行い、体操が終わるとジャングルジムに行き靴を脱ぎ足踏み5分、ぶら下がり2~3分、お蔭でパンとコーヒーの朝食が待ちきれません。
お金がかからず健康を保てる、これって最高だと自画自賛しているのですが。
ボクシングの現況
現在日本のジム所属で世界チャンピオンは8人もいる。ザッと揚げてみよう。WBC(以下C)ミニマム級井岡一翔、WBA(以下A)同級八重樫東
C=S・フライ級佐藤洋太、C=バンタム級山中慎介、A=同級亀田興毅C=S・バンタム級西岡利晃、A=S・フェザー級内山高志、C=同級粟生隆寛。
これだけ世界チャンプがいるのだからさぞやボクシング界は賑わっていることだろうとおもったら、さにあらず会場は盛り上がっていないという。危惧した通りだ、チャンプが多いからといって、喜べないがファン気質というものか。
私も経験がある、ゴングの編集記者で、世界戦を取材編集していた60年代~’70年初頭にかけて同時期に世界チャンプが5人いたのに、雑誌の方は思うように売れなかった。人数が多いことは王者の価値が低下するものなのか、個々の王者は素晴らしかったのに…。
逆に具志堅用高が活躍した’76年10月~’81年3月にかけてははボクシング関連の記事は反響がよく具志堅増刊3冊、日本&世界名ボクサー2冊は、どれも売れゆきが良く会社を喜ばせた。具志堅のファイトはそれだけ大衆を魅了して止まなかった。
井岡一翔の可能性
数よりも質、一人のずば抜けたヒーローこそ業界を救う、はけだし名言である。そこで現在私が最も期待を寄せているのが井岡一翔(いおか・かずと)である。アマチュアでしっかりと技を磨き大学(東京農大)を中退して、プロの世界に飛び込んだ。身長165㌢、リーチ153㌢、23歳、マイルドなルックスは貴公子然としている。
7戦目にオレードン(タイ)を5RTKOに破り世界初挑戦で王座を奪取、そのファイテングはスピード感あふれて、パンチはインサイドから切れ味鋭く決める。具志堅程のダイナミックさはないが、攻防の技術は目を見張らせるものがあり、彼の世界戦は注意深く観察しながら見ている。
叔父が2階級制覇の井岡弘樹(井岡ジム会長)父親井岡一法(弘樹の兄)は元ボクサーでトレーナー兼プロモーターというサラブレットの血が流れる。彼こそは日本ボクシング界を救う可能性を持つ選手だと私は睨んでいる。
6月20日には、WBA同級王者八重樫東(大橋)と統一戦チャンピオンの座を賭けて戦う。真価を問われる試合である。まさに日本のボクシングの興廃この一戦にありだ。両選手の健闘祈り、かつスパーヒロー、具志堅2世が降臨することを願うものです。
"アリゾナ"の名物料理ビーフシチュー
浅草三社祭の神輿(18日)
19日の日曜は気温24度の中、地域のシルバー施設の「せせらぎ祭り」でモチ焼きを手伝う。
小沢一郎という政治家/浪江町の我が同級生医師/他
・小沢一郎という政治家
~政治家の義務と責任~
・浪江町の我が同級生医師
~患者が殺到した診療所~
・スカイツリーの職人達
・露地栽培日記
小沢一郎という政治家
民主党小沢一郎衆議院議員は、なお国会を跋扈している。政治資金規正法違反罪で強制起訴され、一審で無罪を獲得するも検察官役の指定弁護士から、控訴された。
控訴理由は「一審判決には見逃せない事実誤認があり、控訴審で十分修正が可能だと判断した」とあります。小沢一郎と政治&金の問題は、依然晴れていないのです。小沢一郎議員には、いつだって胡散臭が付きまとう、まさに疑惑のデパートといったところです。これで日本国をリードできるとお思いでしたらとんだ勘違いです。
同氏は民主党内で最大のグループを擁するボスである。数を武器に国家・国民の運命を左右しかねない力を持っている。党員資格処分の拙速な解除(一審の無罪で)を果たしたのも、彼を担ぐ恥知らずの輩らがいるからです。だから困るのです。田中角栄の金権政治をまた、復活させるようなことが有ってはなりません。
限りなくダークなあなたに、国家・国民のため頑張る、なんていわれたくないものです。一日も早く政界を引退して、出身地岩手に帰り、大震災からの復興に手を貸してはどうですか。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある、の箴言もあるでしょう。小沢さん、引退すべき時です。
~政治家の義務と責任~
ノーブレス・オブリージュという言葉知っていますか。「高貴な者には義務がある」との意味で、つまり、財産、権力、地位のある者は、それに伴った責任と義務がるということです。
あなたはまったく以てその義務を果たしていません。国会議員なのだから、野党が要求する国会の証人喚問にも、堂々と応じて身の潔白を主張してしかるべきなのに、何かと逃げていますね。だから益々疑われるのです。自業自得ですよ。
女優・高峰秀子さんが著書の中で含蓄ある言葉を残していますよ。「自分の好むと好まざるに関わらず、人に名前や顔を知られれるようになった人間は、社会に対して責任があります」
信なくば起たず、です。この人に引導を渡す憂国の政治家が、現れる事を切に私は願って止みません。
浪江町の我が同級生医師
大震災の罹災者たちはいまも先行きの見えない不安の日々を送っています。瓦礫の山は依然累々と地を覆い、原発事故で退去を余儀なくされた人々は、30万人以上、今日も見知らぬ土地で暮らしています。
そんな国民の苦しみを政治家は顧みもせず、国会は法案一つ通らず、やれ解散だ、やれ問責決議だとダッチローロル状態です。日本という国は一体どうなるのでしょう。
ギリシャに端を発した欧州の経済危機は他所(よそ)事ではないのです。与党も野党も党利党略でしか動かないとしか、国民には映りません。情けないことです。
こういう暗い世相の中で、地域に密着して被災地の人を助ける医師のニュースに、私はこの国を支えているのは、実は名も無い人々なのだとの思いを新たに致しました。
朝日新聞朝刊に連載している「プロメテウスの罠」(注:プロメテウス=人類に火を与えたギリシャ神話の神族)で原発事故の強制避難区域にあった、福島県浪江町下津島の国民健康保険津島診療所の事故当時の生々しい状況が載っていました。
~患者が殺到した診療所~
事故当時、当の診療所はさながら野戦病院で、放射能から避難した約1万人が津島地区に逃れてきて、患者が殺到したという。この診療所の医師・関根俊二は、なにを申そう私の高校(学法石川)の同級生なのでです。
余りにも身近な友達の記事に驚きました。そして一心不乱に診療し続けたであろう友の姿を想像して、頭が下がいました、いまは二本松市の仮設住宅の一角に在る仮設診療所で、診療に当たっているそうです。
彼は定年後は、郡山市にある自宅に帰り、好きな川釣でもしてのんびり過ごそうと考えていたらしいが、事故に遭遇して「このまま住民を見捨てるわけにはいかない」と白衣を脱ぐことを思い止まったというのです。
スカイツリーの職人達
医は仁なり…ホロリとする話題であります。政争に明け暮れる政治家達に聞かせたい話です。関連してスカイツリーの秘話をもう一つ。NHKテレビの特集で見ました。
地震当日同時刻、スカイツリーでは完成ま間近の最後の安定機材を職人達が塔のてっぺんに据え付けようとしていました。まさにその時に大地震が起こったのです。
地上600㍍の天空の揺れである。職人達も人の子、恐れ慄いただろうに。私なら一目散に逃げて何処かに身を寄せるていることだろう。ところが、まだ余震が続く中で、彼らは敢然と、しかも淡々と作業を再開したというのである。
祈りの塔である
この機材を収めないと、スカイツリーの安定は保てないですからと職人達は当たり前のように動いたと…天女のように美しく世界一高い東京スカイツリーの建物は、こうした名も無い職人達の命懸の努力によって完成をみたのです。我々はこういう事をに忘れずに記憶に留めたいものです。
スカイツリーのデザインに当たった方が最後に、スカイツリーを一言で表現すと?と問われ、「祈りの塔です」と答えていました。なるほど、大震災の年に出来上がり、人々の幸せを祈りながら見守る観音菩薩…まことに、震災から立ち上がる日本のシンボルタワーに相応しいものです。
粋と雅、高さを誇るでもなく天女の如く静かに佇む姿には、手を合せたくなります。これからは心して仰ぎ見たいと私は誓うのです。
露地栽培日
13日の日曜日の午前中は、じゃが芋の芽かきと土寄せ、追肥(鶏糞)の作業。風が少し強かったが、よく晴れた日で気持ちよくできた。ミニトマトには、雨避けのビニールを張った。
予算がないので、大きなゴミ袋を裂いて代用とした。子供だましだが後でまた善い方法を考える事にした。これから雨が多い季節になり、雨を吸い過ぎるとトマトは、割れたり、甘さが出なくなる。
そういえばトマトの原産地は南米アンデス山脈、雨はほとんど降らないし、寒暖の差が激しい。高原じゃないから、寒暖の差は望むべくない
が、なんとか今年は美味しい、甘いトマトを収穫したい。まさにその一心です。アマチュアの執念です。
ビニールで覆ったミニトマト
手前から胡瓜、次に茄子、土寄せしたじゃが芋、一番奥がミニトマト。
故郷の福島県鮫川村の実家から送られてきた山の幸
山菜を早速天ぷらに揚げて夕食(14日)。
B級ワインとウイスキーで味わう。
ウドの皮のキンピラはピリリと味付けして美味だった。
【特集】プロレス博士・竹内宏介死す
・プロレス博士竹内宏介死す
・霊壇にプロレスラーの献花溢れ
・弔辞は菊池孝さんが切々と
・マルチのプロレス編集人
・週刊化での竹内氏との軋轢
・退職してから絆が深まる
・スカイハイの曲に乗り天国へ
プロレス博士・竹内宏介死す
私の上司であり戦友であった竹内宏介さんが5月3日逝去なされました。
享年65歳、死因は腸閉塞。
生涯をプロレスに捧げた、惜しまれる短い命に言葉もありません。
プロレス博士を偲び心からの叫びを綴ります。
平成18年に中央線高円寺車中で、突然脳溢血で倒れて以来5年半意識を失ったまま、あなたは病床にありました。
私が脳梗塞を患って、3カ月後のことでした。皮肉なもんです。
私が病院に駆けつけた時に、繁子夫人は涙ながらに語りました。「舟木さんの病気のことを随分心配していたのに、今度は自分が倒れてしまいました。」
去年自宅で療養する彼を見舞ったとき、夫人が耳元で声高に話かけていました。「あなた、舟木さんですよ!」の声に、彼は吃驚したかのように、微かに目を動かしました。
ほら、舟木さんの事分かるんですよ、他の人とは反応が違うんです。夫人はその違いを強調しました。5年半の間、夫人の想像を絶する介護のお蔭で、故人は生き延びたといえるのです。
霊壇にプロレスラーの献花溢れ
3日に亡くなって翌日のお通夜と慌ただしい中、会場となった調布市柴崎メモリアル・ホールには200人を超える参列者が詰めかけた。中央霊壇には、各プロレス団体やレスラーの献花で埋まり、遺影が参列者に向かって、にっこり微笑んでいました。
贈られた生花は十分故人の50年に亘るプロレス界への功績を物語り、改めて彼の偉大さを認識させられました。アントニオ猪木、ジャイアント馬場元子未亡人、坂口征二、百田家、藤波辰巳、長州力、前田日明、タイガーマスク、武藤敬司、天竜源一郎、新間寿等々…昭和プロレスのビックネームが押し合うように彩っていました。
彼らは文字通り故人と共に歩んできた仲間たちである。その中でもミル・マスカラスからの生花は目を引きました。ゴングのマスカラスか、マスカラスのゴングかと謳われた如く、マスカラスの存在は故人無くては語れないものです。それは誰もが認めるところです。
通夜の客には坂口征二(新日本相談役)藤波辰巳、百田光一さん等が駆けつけました。私は坂口さんと隣り合わせに座り導師の読経を拝聴し、一緒に焼香しました。私は遺影に一言、お世話になりました、有難うございましたと呟きました。
弔辞は菊池孝さんが切々と
弔辞は菊池孝さん(プロレス評論家)が週刊ゴングの名物企画「三者三様」の思い出と、早すぎる死を悔やむ切々たるもので涙を誘いました。所謂竹内チルドレンといわれる月刊ゴング及び週刊ゴングに携わった編集者&カメラマン、スタッフがほぼ全員顔を揃えたのも圧巻でした。
竹内氏を師と仰ぎ成長してきた彼等は、いま各方面で活躍しています。中でも清水勉、小佐野景浩、金沢克彦の各歴代週刊ゴング編集長は低迷するプロレス界を支えるマスメデイアの中軸を担っているいます。
さぞ泉下の故人も喜んでいる事だろう。告別式にはゴング格闘技の元編集長熊久保、副編福島、編集亀池君等も駆けつけてくれました。彼等の参列は、私にとって法外の喜びでした。竹内氏を忘れなかったことが嬉しいのです。
マルチのプロレス編集人
竹内氏はプロレスコレクターとしても知られ、古い貴重なポスター&パンフやビデオ、写真、内外のプロレス誌などを数えきれないほど保有して、自宅はさながらプロレス博物館の趣をなしています。
その豊富な知識とゴング編集長としてのキャリアで、長年にわたり全日本プロレス中継の解説も務め、故ジャイアント馬場の信頼も厚く同団体のポスター&パンフレットのデザイン編集は全て彼の手になるものでした。まことにマルチのプロレス編集人でした。こんな人、類を見ません。
そう彼には編集取材記者としての表向きの顏の他に、レイアウターとしての顔もあり、一冊丸ごとデザインするという離れ業を持っていていました。とても到底私が足元にも及ぶべくない才能人でした。
週刊化での竹内氏との軋轢
純粋なプロレスを愛した彼と私が軋轢を生んだのは、私が月刊ゴングから週刊ゴングに切り替えを断行した時のことです。週刊になれば、どうしても、スキャンダラスな記事も扱わなければなりません。彼はそれを嫌がりました。あくまでも月刊に固守し、明るいプロレス誌に拘りました。
それに対し週刊化を推進しなければ会社の展望は開けないと、軋轢が覚悟の上で、私は必死で前進しました。だが私は悩みました。彼の協力を得られなければ、週刊化しても成功はおぼつかないのは自明の理からです。彼とは、しばし冷戦の時が続きました。
しかし時代が、週刊のサイクルになって、月刊では抗し切れないとをやがて知ると彼は納得してくれました。お陰で徐々に協力してくれて、スタッフも付いてきてくれて、半年後には週刊ゴングは軌道に乗り、社のドル箱に成長して行きました。
結果、私は3年に及ぶ初代編集長を全うできて、次の清水編集長にバトンタッチできました。創刊時の思い出は尽きません。走馬灯の如く甦ります。週刊の成功は一重に竹さんとそのスタッフの尽力の賜物です。私の功績といえば週刊化を推進しただけのことです。
退職してから絆が深まる
やがて竹内宏介氏は社長になると、私が専務取締役に就任して二人三脚で、社の舵取りを任されました。以来私が平成14年退職するまで、公私共に良き相談相手として、私を支えてくれました。ゴング格闘技も社長のたっての依頼で、私が創立したアッパーが制作をお引き受けした訳です。
アッパーを運営してからは彼との絆は以前にも増して強くなりお互いに仕事を紹介し合いしました。2005年12月発売の「伝説の国際プロレス」3巻DVD-BOX(TBS)は竹内宏介監修で、話題を集めましたが、私が故人とTBS&販社(ポニーキャニオン)の橋渡しをしました。結果的に最適の人を紹介してくれたと双方から感謝されました。また作品の出来もよく後世に残るプロレス・アーカイヴになりました。
ささやかな恩返しができたのかなぁと自己満足しております。19歳でベースボール社「プロレス&ボクシング」の編集長に抜擢され、日本スポーツ出版社に移ってからは、創刊まもない月刊ゴングを社の中心雑誌に育て上げ、その功績で代表取締役まで登り詰めた姿…それはまさに編集者の今太閤のような感じを受けます。天晴れな人生でした。
スカイ・ハイの曲に乗り天国へ
今頃、天国で大好きな馬場さんに再会して、週刊ゴングの復刊を話し合っているかも知れません。
落花寂々、切ないお別れです。
心から哀悼の意を表します。
竹さん、安らかにお眠り下さい。
愛飲してやまないコーラも存分に飲んでください。
葬儀会場から斎場に棺が運び出されるときに、静かに且つ厳かに”スカイ・ハイ”のメロディーが流れました。
きっとこの音楽に乗って稀代のプロレス編集人・竹内宏介は、颯爽と天国に旅立って行かれたことでしょう…。
舟木 昭太郎
具志堅用高とはなんぞや/ダルビッシュの快投/他
・ダルビッシュの快投
・具志堅用高とはなんぞや
~何事も一生懸命~
~天然ボケの意味は?~
~叱責するときも同じ~
・黄金週間を如何お過ごしで
・渋田川の土手に咲く芝桜
・花のスライドショー
・惜春譜のとき
ダルビッシュのヤンキース戦の快投は胸のすく思いでした。黒田との投げ合いは、日本のプロ野球の水準の高さを証明してくれました。ニューヨークタイムスは黒田とダルを称え「一人はGOOD、一人はGREAT!」と報じました。日本人として誇らしい気持ちです。
勝ったダルも、敗れた黒田も長いレギュラーシーズンは始まったばかり。いずれまた対決する機会もあるでしょう。9回途中で降板して失点ゼロ。やはりダルは只者ではないと判明した次第です。
左バッターに弱いと酷評のあったピッチングも、4~7番まで左を並べたヤンキースの策を見事封じ込みました。スイッシャーはいう「体の正面でボールが左右に切れるんだ。こんな投手初めてだよ」
過去の失敗から早速学び修正してきたダル。次回登板は1日(現地時間30日)のカナダ、トロント・ブルージィェズ戦。環境にも少し慣れ本来の投球ができるようになった。もうテレビの前から離れられぬ。
とはいえダルのメジャーの挑戦、大航海は船出したばかり。前途には穏やかな海ばかりでない、嵐の日も、風雪の日も待ち受けていよう。そうした困難を若いダルが立ち向かい、如何に乗り切って行くか、それもまた私の見たいものなのです。
具志堅用高とはなんぞや
中学時代の同級生で主婦緑川洋子さん(埼玉在住)からA5サイズの封筒が届きました。中身は「具志堅用高 我が道」というスポニチに連載された切り抜きでした。
全31回にわたる長期連載を1回の漏れも無くスクラップして送ってくれたものです。私がスポーツ関係の仕事に携わっていて、具志堅会長とは旧知の仲と知って何か役に立てばと、したためてありました。鶴瓶の「家族に乾杯」流なら、さしずめ「♪幸~せをあ~りが~とう、ぬくもり届きました~♪」です。
有難いことです。31日間まいにち丁寧に切り取って下さったその行為に頭が下がります。じっくり読みたいと思います。記事の内容は現役時代のことから、現在の芸能活動に至るまでまでを記者のインタビューに応えて構成されています。で、ちょっちゅね、具志堅さんの話をします。
~何事も一生懸命~
ザッと拾い読みしただけですが「ボクシングも芸能活動も一生懸命やっています」との言葉がすぐに目につきました。彼は「一生拳命」と色紙にサインをするのだけれど。私にはその深遠な意味は、多分他人より少しは分かるのです。
グスマンという選手から7回KOでタイトルを奪ってから、4年にわたりタイトルを防衛して、13度。私はず~と密着取材してきました。キャンプも練習も試合も、そしてオフの日々も。だからちょっち偉そうに語れるのです。
で、連続13度の防衛は普段の稽古を一生懸命ベストを尽くした。栄冠はその賜物に他有りません。とてもシンプルな答えです。トレーナーの言う事をよく聞き、一旦ジムに入れば一心不乱に没頭する。隙がない、無駄がない…研ぎ澄まされた稽古の積み重ねが、無敵のカンムリワシを作ったと。決して特別な事をした訳ではありませんよ。努力が天才を生んだんです。後に続く者へのメッセージですよ、これは。
そのボクシング王、具志堅さんが芸能活動でも人気者になっている。ジャンルが変わってもあの時と同じように、一生懸命やっていると自らを語る。そこに芸能界での成功があるんじゃないか、そう私は得心するのです。
~天然ボケの意味は?~
「テレビで見る具志堅さんは、あれは天然ボケですか?」なんてよく聞かれますが、お笑いだから適当にとは具志堅さんの性格は許さないのです。場違いなシーンに、真剣であれば有る程、逆にお笑いを誘うのではないでしょうか。具志堅さんの天然ボケは、つまりは純粋無垢な心の発露なのです。
私はかつて「舟木昭太郎杯ゴルフコンペ」を10年以上にわたり主催していました。代表幹事を引き受けてくれたのが具志堅さんでした。多い時は12組、48人が集まりました。
常に変わらず盛大でした。格闘家、芸能人、マスコミ関係、友人、知人…こうした多種多彩な人たちが集うコンペが、毎回混乱もなく続けられたのは、勿論彼の名声と人柄のお蔭でした。
~叱責するときも同じ~
会場に着くのも誰よりも早い徹底ぶりは驚くべきものでした。或るとき後輩の渡嘉敷勝男さんが、プレイ開始ぎりぎりにゴルフ場に車で乗り付けました。それを見つけた具志堅さんが、大声で怒鳴りました。
「渡嘉敷!芸能人のマネするな!」それはタイトルマッチを戦う具志堅さんの形相でした。芸能人が押しなべて、遅刻するとは思いませんが、後輩を叱るその姿勢にある種畏敬の念を私は抱きました。そうなんです、彼は叱責するときも一生懸命なのです。後輩への愛情です、これ。
いま皮肉にも芸能界に身を置く具志堅さん。勿論本業はボクシングジムの経営ですが、このように己に厳しい人だからこそ、芸能界でも生きて行けるのだと感じるのですが。因みに元中日ドラゴンズ坂東英二さんが、タレントとしての目標だそうです。
ちょっちゅね、長い話ですみません。また機会があれば「具志堅用高とはなんぞや」を綴りたいと考えますが…。
黄金週間を如何お過ごしで
黄金週間、皆さんは如何お過ごしですか。私は特に予定がないので例によって、畠と読書で過ごし、気が向けば近郊の行楽地にぶらり旅をしようかなと思っております。
早速ネットを見ていたら、神奈川県伊勢原の芝桜とあったので妻と30日朝10時に小田急線で出掛けました。明日は知らぬ命、思い立ったらすぐ実行。
駅に着き市の案内所を尋ねたら、何のことはない、知らないのでバスの運転手に聞いてくれ、という。これが市の役人か。バスの運ちゃんも「芝桜はこちらで降りると便利です」とかひと言云ってくれればいいものを。なんて伊勢原の人は薄情なんだ。リック背負った叔父さん、叔母さんが 不安げに降りて私たちもその背に付いて行った。
渋田川の土手に咲く芝桜
芝桜は渋田川の土手に600㍍の距離に咲いていた。見頃はすぎたが川沿いを散策するのも牧歌的で、気に入りました。本腰をいれて市が開発して長い土手を全面的に芝桜にしたら、さぞ一大観光の目玉になるのはと想像しました。
3㍍位の川幅だが水草が水中でなびき、いまが繁殖期の鯉が群れを成して雌鯉に体当たりする思えもよらぬ勇壮なバトルも見た。東京から1時間ちょっと、伊勢原市よ、もったいないぜ。川をもっと綺麗にして、秩父のように本腰を入れて取り組んで下さい。川にタイヤが浮いていたのには幻滅でしたが。
花のスライドショー
それにしても一足飛びに春が来て、5月1日は夏も近づく八十八夜。自然界の目まぐるしさは、まるでスライドショーを見るようです。まだ草木が目覚めぬ頃に、こぶしが街路に春を囁き出したと思ったら梅が咲き、桜に受け継がれ、さらに木蓮が大きな花弁でワルツを踊り出しました。
こぶしは別名「さくら引き」というのだそうで、確かに春の先駆けの花に相応しい感じがします。で、気が付けば何とハナミズキが女学生のい帽子のように、微風に眩いばかりに揺れています。これでもかと存在感を放つ躑躅とは対照的です。楚々たる美しさ、だから私はハナミズキが愛おしいのです。
惜春譜のとき
あっという間に春は通り過ぎて初夏の装いに早変わりです。29日朝日朝刊の高橋睦郎「季をひろう 惜春譜」の欄に、行く春を惜しむうた(俳句)を採り上げていました。
その中でも最もポピュラーなものは芭蕉の詠んだ「行く春を近江の人と惜しみけり」は、味が有って、心に沁みます。めくるめく花たちのフアッションショーは、こうして色を変え形を変え、匂いを変えて弛むことなく続きます。
4月から5月にかけは、まさに神々の季節です。艶やかな菖蒲、5月の女王薔薇、彼女たちは今や遅しとスタンバイしています。花は咲き乱れ木々は一斉に輝きを増し、自然はさっと一筆緑色に染め、萌える若葉に覆われます。生命の躍動、歓喜を体感します。それだけで私は、十分に幸せです。
渋田川土手のシバザクラ
ハナミズキの白い花
DVD 『カンムリワシ具志堅用高』 第1部&第2部 絶賛発売中!!
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ダルビッシュの好投/大リーグ解説について/益軒が教える食事/他
・ダルビッシュの好投
・匠の技
・球場には夢がある
・大リーグ解説について
・益軒が教える食事
~腹八分目の勧め~
・露地栽培日誌
ダルビッシュの好投
ダルビッシュ有がメジャー3戦目のタイガース戦で2勝目を上げた。7回途中降板で2安打1失点。グレート・ジョブ(大仕事)である。タイガースといえば、中地区首位を走る強豪チーム。
カブレラ、フィルダーというメジャーを代表するスランガーがいる。これらをノーヒットに抑えての勝利は、敵地のファンも驚いたはずだ。次回登板は25日(現地時間24日)の名門ヤンキース戦。ジーター、A・ロドリゲス相手にどんな投球を見せてくれるか、顔合わせを想像するだけでも、私の脳は踊躍歓喜状態です。
力対力の対決、スランガーたちを切り切り舞いさせる力の投球でなくとも、多彩な変化球を駆使したダルビッシュの投法がヤンキース相手に通用するのか。う~ん、千両役者との競演、堪らない!
匠の技
過去メジャーで成功した日本人投手が二人存在する。一人は野茂茂雄。ドジャースやレドソックスで活躍した。トルネード投法からのフォークを駆使して三振の山を築き元祖ドクターK。
もう一人佐々木主浩投手はマリナーズでクローザーで試合を締め括った。野茂と同じくフォークを連投して、勝利に貢献、大魔神と呼ばれました。
彼等成功者に共通するものは「匠の技」と称して良いでしょう。手先の器用な日本人が編み出した精密な投球術は、さながら那智の滝のように激しくも美しく落下するフォークボールでした。ダルの7色の変化球もまた、メジャーリーガーを驚かす繊細な匠の技なのです。
ダルの匠の技がヤンキース戦で、どうか冴え渡りますように私は祈ります。只、最新ニュースによると25日の試合は元広島黒田博樹投手の投げ合いになる模様で、ダルだけ応援するわけにいかなくなりました。大いに悩むところです。
で、テレビを見ていつも感激する。どの球場も絵のように美しいことです。多分日本選手が大リーグに憧れるものの一つに「あんな美しい球場でプレーしたい」の願望があるのではないかな。
球場には夢がある
翻って日本のプロ野球、球場からして大部分が人工芝。日本は雨が多いのでドーム球場も仕方がないが、せめて開閉式を義務付けるべきです。晴れた日には、青空の下で見られる解放感…天然芝に陽光が射す。
ピーヒャラドンドンもない、こんな球場なら私も足を運びます。真夏の野球観戦、パナマ帽に短パン、素足のスニカーにサングラスで、手には好きなギネスビール。
カーン!ホームランの音、ボールのゆくへを追えば限りない青空。外野席のしびれるような快感、そんな球場を日本の野球に望むのは無理だろうから、せめて私は大リーグをテレビで楽しむのです。
大リーグ解説について
幸いかなタイガース×レンジャーズ戦の解説は小宮山悟さんだった。彼の解説は非常に明解である。元ロッテ投手、大リーグメッツにも在籍した経験を生かした、はなしにはなるほどと納得がいきます。
投手交代のベンチの様子が手に取るように分かり、野球のもう一つの面白みが伝わった。ベンチとブルペンのやりとりの作業、およびエピソードなど、いまでの解説者に見られなかったものだ。言葉少なく的を得る解説も耳に心地よい。
そうかといえば、ボソボソと何を喋っているのか分からない元投手、かと思えばやたらどうでもいい薀蓄を傾ける元監督など、せっかく海の向こうの雰囲気に浸っている時に、興醒めもいい処です。
NHKBSも野球解説者の選定を厳しくするべきときだ。大リーグ放送ならせめてそれに見合った知識を備えてもらいたい。日本プロ野球の延長線上の、おおぶりな解説はもう御免蒙りたいのです。
益軒が教える食事
貝原益軒「養生訓」は凡そ300年前に書記したものだが、今に通じる名著である。読む程に敬服する。「凡(すべて)の食、淡薄(たんぱく)なる物を好むべし。肥濃(ひのう)・油膩(ゆに)の物多食ふべからず。生冷・堅硬なる物を禁ずべし。あつ物、只一によろし。肉も一品なるべし。さい(野菜=おかず)は一二品に止まるべし」
要は淡泊な物を食べ、脂っこい物、冷たい物、硬い物は避けること。あつ物(お吸い物)は一椀でよく、おかずも一二品でいい…体に優しい食事を勧める。
また「食少なければ、脾胃(ひい)の中に空処ありて、元気めぐりやすく、食消化しやすくして、飲食する物、皆身の養いとなる。是を以て病少なくなくして身つよくする」
腹八分目の勧め
これなどは正しく小食の勧めで、いかに小食は体に良いかを説いている。「満意を慎むべし」と満腹を戒めている。ズバリこれは腹八分目の
教えで、300年前にこのようなすぐれた著書を表した益軒には、驚くばかり。
江戸時代にあっては平均寿命が40才台、その中で益軒は83才まで生きている。養生の賜物といってよい。筑前(現在の福岡県)で生まれ、福岡藩士で、儒学者、本草学者、蘭医として多くの著書があり、そのなかでも「養生訓」は不朽の作品として今に伝わる。
酒についてもこう述べている。「酒は天の美禄なり」(酒は天が与えた美味し贈り物である)と益軒は愛でていたが、それでも微酔程度だったようだ。健康で楽しい人生を送るためのまさに「養生訓」は虎の巻です。(参考文献/井上 忠「人物業書・貝原益軒」)
露地栽培日誌
ゴールデンウィークも今週末、いよいよ一斉に畠に苗を植える。トマト、茄子、胡瓜、ピーマン…植えつけ前の土作りを22日午前に完了。トマトには溝施肥にして、今年は完熟牛ふんを多目に入れた。
1週間後に苗を植えマルチで覆い、今年は裂果や病気を防ぐためにシートをかぶせ屋根を張るつもりでいる。とにかく甘いミニトマトを沢山作りたい。
畑も今年で4年目、いつまでもアマチュアではいられないのです。
拙宅の通りのアスファルトに健気に咲くシクラメン。
生命の力強さを見せてくれる。
DVD 『カンムリワシ具志堅用高』 第1部&第2部 絶賛発売中!!
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ダルビッシュ有の苦悶/貝原益軒の老いの生き方/他
・ダルビッシュ有の苦悶
・桜の花弁の「水葬」
・花の貴婦人モクレン
・貝原益軒の老いの生き方
・白山神社に参拝
ダルビッシュ有の苦悶
華々しくメジャーリーグでデビューしたダルビッシュ有が、苦悶している。初登板のマリナーズ戦では先発して、初回に4点、2回1点奪われて敗戦濃厚だった。
それが見方の強力打線の援護で、奇跡的に勝投手となった。2戦目の敵地ミネソタでのツインズ戦でも、制球が定まらず2点を取られ同点の6回途中で降板した。前回と全く同じイニング数である。どちらもノックアウトに等しい。
ツインズ戦は結果的にダルの所属するテキサスレンジャーズが勝利をものにしたが、ダルに勝ち負けは付かなかった。新天地は想像以上に厳しい事を感じさせた。
しかし私はむしろダルの非凡な才能を目にして、やはり只者ではないと感心した。5点取られても、パニックに陥る事がなく己を修正していく精神力。これがあるからこそバックも援護する気になって逆転に結び付いた。
ツインズ戦で見せた、ワイルドピッチ→捕手後逸→リカバリーで三塁ランナーを本塁でタッチアウトした、一連の機敏な動作、プレィーはダルの潜在能力の高さを表したもので、ピンチに強いダルを印象付けた。
ピンチに立たされた時に、いかに忍耐強くしのぐか、これもまた投手には欠かせない要素。従って2試合の試練は、ダルの今後に必ずや役立つはずだ。だからして大いに悩み、苦しめ!やがてそれが勲章となろう。
焦ることなし、自分を信頼して一歩一歩前進して欲しい。MLBの人生はまだ始まったばかり。道程は果てしない。25才の若い君は、失敗を恐れるなかれ。目先の勝利に、小さく纏らないで欲しい。
私はダルが、MLBでも大投手になれると確信する。
桜の花弁の「水葬」
14日終日降った春の雨は容赦なく名残の桜を散らした。翌日早朝ラジオ体操に出向いたら、公園の水たまりには、花弁(はなびら)の塊がそこかしこに風に揺れて漂っていた。それは恰も雨が捧げた厳粛な「花弁の水葬」であったような気がした。
梢を仰げば既に幼葉が勢いよく芽吹いている。もう初夏の気配に自然の移ろいのダイナミックさに驚く。やがて燃えるような新緑に公園も包まれる。日新、日日新、又日新…(司馬遼太郎著より)。万物は日々生まれ変わる。
間を置かず八重桜が豊満な装衣で登場するが私の桜狂いは、染井吉野の類の終わりをもって、今年はひとまず終焉となる。目黒川、隅田川河畔、大山公園、そして代々木公園の桜と今年も十分愉しんだ。
花の貴婦人モクレン
桜が散ったその脇でモクレンが、白や紫のく大きな花弁を広げているのが目に入る。中国四川省が原産だというこの花は、かつては蘭の花に似ていることから「木蘭」と呼ばれていたそうな。
いまはハスに形が近いので正式に「木蓮」と命名され、紫木蓮、白木蓮…いずれもそのふくよかな花姿は、のびやかで大らか、春の柔らかい陽光に映えて美しい。白木蓮はまるでシルクのようで、さしずめ”花の貴婦人”である。
私はどちらかというと紫木蓮が好きで、これを見つけると所構わずカメラを向けてしまうが、白木蓮の花弁には、武士(サムライ)の貞淑な妻の趣を連想してしまう。かくの如く春は、花の連鎖の季節で飽くことがない。
貝原益軒の老いの生き方
手元にいま貝原益軒の一冊の本がある。図書館で借りてきた。これが面白くて、止められない。丁度、60才以上の年配者にはためになるので
唐突ですが、綴ってみました。
「清福といふ事あり。楽(たのしみ)をこのめる人、必(かならず)これを知るべし」(清福ということがある。楽しみを好むひとは必ずこれを知っていなければならない)貝原益軒『楽訓』「巻之上」
「清福は、いとまありて身やすく、貧賎にしてうれひ無きを云う」(清福とはゆったりとした時間が持てて、金銭的に貧しくとも心配事がない状態をいう)
以上は山崎光男著「老いてますます楽し 貝原益軒の極意」より引用したもので、幕末に来日したシーボルトが益軒を「日本のアリストテレスだ」と評したという。
益軒の「養生訓」は老いたる我身には大いにためになる。「自ら楽み、人を楽まして、人の道を行はんこそ、人と生れたるかひ(甲斐)有りて」 益軒の人生哲学は「楽しむ」こととズバリ。私はいま貝原益軒に傾注してる。今後時々、益軒を論じてみたい。
白山神社に参拝
三か月に1度、白山神社に御参りに詣でる。勤めていた会社が白山にあってサラリーマン時代からの慣習になっている。何をお願いするわけでなし。御参りすると何故か心が澄んだ気持ちになる。
16日は晴れ間の覗く暖かい日で、境内には枝垂桜が満開に咲き誇っていた。人影もまばらで、思いがけず絶景を独り占めするような気分に浸った。もう一つ、珍しい桜にも会えた。「白旗の桜」という名の、純白の花弁は、とても神社に相応しい趣だった。
やはり御利益はあったのだ。
のびやかに咲く紫木蓮の華
白山神社の枝垂桜はいまが満開(16日午後)
神社境内の「白旗の桜」
北島康介恐るべし/マスターズとウッズ/静かな誕生日に満足/他
・北島康介恐るべし
・マスターズとウッズ
・さくら、サクラ、桜
・静かな誕生日に満足
・年寄になり知るもの
北島康介恐るべし
北島康介の4連続五輪出場を決めた。彼は鉄人技である。2000年高3の年に初めてシドニー五輪に出場して、’04年アテネで100、200㍍平泳ぎで金メダル。’08年北京でも100、200平泳ぎで同金メダル、連覇した。そしてロンドンへ。当年29歳、只々驚くばかり。
ロンドンでは3連覇がかかる。一時スランプに陥り苦悶したようが、彼の精神はまるで鋼(はがね)のようだ。人間どうしたらかくも強い肉体と精神を兼ね備えることができるのだろうか。
あらゆる誘惑に打ち克ったからこそ北島の現在の姿がある。彼には一種修行僧の風貌がある。スポーツも極限まで突き詰めた人は、宗教家の顏になるようだ。
私の尊敬する黒崎健時さん(新格闘術総帥)が言った。
「目標に何処まで集中できるか、その執念が才能である。」
北島にぴったり当てはまる言葉である。
彼は全ての日本人の鑑である。
ロンドンではどんな名文句が飛び出すか。
マスターズとウッズ
アスターズが終わってバブ・ワトソン(33=米国)がPO(プレーオフ)の末初優勝した。 今年も名勝負・名場面が随所に見られた。最終日ルイ・ウェストへーゼンの2番ホール(パー5)でのダブルイーグルには驚いた。残り235yd、4番Iの2打目がグリーンを転がりカップイン!史上初めての快挙を目撃した。
勝負はPO2ホール目、両者ティーショットを林の中に入れたたが、ワトソンは奇跡的なリカバリーショットでグリーに乗せた。結局パーでウエストへーゼンを下した。レフティー(左打ち)のマスターズ勝者はM・ウエアー、F・ミケルソンに次ぐ3人目だそうな。
タイガー・ウッズは5オーバーの40位。ドライバーもアイアンも乱れて、昔日の面影無。全盛時のタイガーがいまさらながら懐かしい。
ショートレンジでの球が右へふけてしまうような光景を目の当たりにして、私は彼の私生活の乱れが、いまゴルフに表れていると感じた。あの無敵の男が断末魔の苦しみを味わっているのだ。
不倫騒動で妻や子供とも離別。12年連れ添ったキャディー、スティーブ・ウイリアムスからも見放されれた。いま改めて彼は失ったものの大きさを後悔しているはずだ。何事も一人の力では為し得ない事がが分かったはずだ。
ちょっとした慢心が致命傷となる。私生活の自己管理が如何に大事であるか、北島と比べるとより鮮明である。タイガーマニアの私としては、兎に角失敗から学んで、真の再起をして欲しい。茨の道は当然の代償である。
さくら、サクラ、桜
今年の都心の桜は寒い冬を耐えて見事に弾けた。3月31日に開花宣言されるや堰を切ったように競い4月7日には満開となった。こんな濃密な一週間は私も経験がない。お蔭で大いに桜を楽しんだ。
7日は妻と都立大駅まで出掛けP&S社に勤務する奥川正治さんの個展を鑑賞す。繊細なタッチの水彩画で私が特に気に入ったのは、四谷橋から上智大を望む風景画。淡い桃色の桜’が何とも言えない情感を誘う。もはや趣味の域を超えて立派なマエストロで、恐れ入る。
駅前の桜も咲き誇りしばし魅入る。都立大駅から中目黒駅まで戻って、目黒川の桜を散策。噂には聞いていたがこれは圧巻だった。川の両側から折り重なるように伸ばす枝は、まさに桜の錦絵。
ごった返す人だかりで、草々に引き上げた。お天気は良かったが少々底冷えのする気候は、花を長持ちさせるので幸いなのかも知れない。中目黒から六本木へ出て大江戸線で森下まで行く。
田舎より甥たちが桜を見に私の長姉の家に来るというので、合流する。車で到着する間もなく今度は、車で押上を回りスカイツリーを垂直に仰ぎ見て、そのまま隅田川河畔へ。桜を車中から眺めた。
遊歩道には屋台が所せましと並び、5時ごろだというのにもう人の群れは続いていた。何処へ行っても、花見客で溢れている。日本人ほとなる。ど桜が好きな国民もいまい。ヒマラヤにも米国にも桜はあるが…。花見から帰った後は、長姉宅で大宴会となった。
8日、日曜は地元西原町の桜祭りで、たこ焼きを手伝う。こちらも大勢の花見客が押し寄せて、大いに賑わう。すっぽん「田吾作」夫妻や従業員も見いた。カラオケ仲間も7時頃来たので加わって飲んだ。花より団子、それもよし。桜はあとニ三日は見頃で、何となく気ぜわしい。今年も「世に桜のなかりせば」のモード、我ながら呆れる。
静かな誕生日に満足
2日は誕生日、最近は外で特別なお祝い事をしないのが我流儀。我家で妻手作りの料理で細やかに祝ってもらうのが一番だ。自分から申し出た。外出は面倒だから。
妻が鯛めしを拵えてくれた。その他ホタル烏賊の刺身、大根サラダ、豚ステーキ。最初はぬる燗の日本酒。次いでワインに移る。幸いワインは極上のものをワインセラーに保管していた。
2年前、薬師神芳夫さん(元ミズノ)の還暦祝いの旅行で具志堅用高さんらと日立市に行った折、フランス料理店「デュ・パブレン」のオーナーシェフ石橋さんから頂いたものである。因みに弟・淳さん(元ミズノ社員)と共同経営のお店である。日立へお出での節は是非利用してください。
頂いて在ったワインは、2004年 SaintEmilion ”Virginie de Valandraud”私好みのどっしとした力強い味で、本来ならば鴨料理などこってりした料理に合うのだが、それでも十分に堪能した。この日のために取って置いて正解。
倅が急に帰宅が遅れて今年は妻と二人の誕生会となったが、静かな誕生日を過ごすのもまた年寄に相応しい。翌朝、倅にはブレックファスト用のマグカップをプレゼントされた。気に入って、毎朝愛用している。
年寄になり知るもの
3日はお祝いに葉加瀬太郎のコンサート(サントリホール)へ誘ってくれた。テレビで「情熱大陸」を見てすっかりファンなっていたので、妻が心がけていたようだ。コンサートは1部がクラッシック音楽で2部が情熱大陸バージョン。
やっぱり2部が圧倒的にお客の反応がよかった。彼は話術が爽やかで垢抜けているので、心地よい。朝ドラの「ひまわり」が演奏されるとウキウキした。嵐の中を行った甲斐があった。
1日はオペラシティの「八っかく庵」という豆腐専門の料理屋さんにカラオケ仲間が誕生夕食会を開いてくれた。53階からの薄暮から夜に映りゆく景色を眼下に見て、豆腐懐石を味わった。
4日は「花にし会」の催しが幡ヶ谷区民会館でありカラオケで、「おとこの涙雨」(北山こうじ)と「男ごころ」(鏡五郎)を唄い日頃の練習の成果を披露した。飲んで唄って、年寄は楽しんでいるのだ。
人は独りじゃ生きられない。人なる字は、なるほどよくできていると感心。支え(つっかえ)棒がなければ、立っていられないのである。年寄になってシミジミ分かる人の(肉親&他人)情け、有難さ哉。
「さくら、サクラ、桜のみだれ咲き」
~隅田川河畔の桜~
~目黒川の桜~
~奥川正治さん個展「四谷橋風景」~
~大山公園の桜~
~朝の体操のあとでJica脇の空き地で~
姉宅での甥たちとの宴会




















