【特集】プロレス博士・竹内宏介死す | 舟木昭太郎の日々つれづれ

【特集】プロレス博士・竹内宏介死す

 ・プロレス博士竹内宏介死す

 
 ・霊壇にプロレスラーの献花溢れ

 
 ・弔辞は菊池孝さんが切々と
 

 ・マルチのプロレス編集人
  

 ・週刊化での竹内氏との軋轢
 

 ・退職してから絆が深まる
 

 ・スカイハイの曲に乗り天国へ 

 

  

 
プロレス博士・竹内宏介死す
  
 私の上司であり戦友であった竹内宏介さんが5月3日逝去なされました。

 享年65歳、死因は腸閉塞。

 生涯をプロレスに捧げた、惜しまれる短い命に言葉もありません。

 プロレス博士を偲び心からの叫びを綴ります。
 
 平成18年に中央線高円寺車中で、突然脳溢血で倒れて以来5年半意識を失ったまま、あなたは病床にありました。

私が脳梗塞を患って、3カ月後のことでした。皮肉なもんです。
 
 私が病院に駆けつけた時に、繁子夫人は涙ながらに語りました。「舟木さんの病気のことを随分心配していたのに、今度は自分が倒れてしまいました。」
 
 去年自宅で療養する彼を見舞ったとき、夫人が耳元で声高に話かけていました。「あなた、舟木さんですよ!」の声に、彼は吃驚したかのように、微かに目を動かしました。
 
 ほら、舟木さんの事分かるんですよ、他の人とは反応が違うんです。夫人はその違いを強調しました。5年半の間、夫人の想像を絶する介護のお蔭で、故人は生き延びたといえるのです。
  
 
霊壇にプロレスラーの献花溢れ
 
 3日に亡くなって翌日のお通夜と慌ただしい中、会場となった調布市柴崎メモリアル・ホールには200人を超える参列者が詰めかけた。中央霊壇には、各プロレス団体やレスラーの献花で埋まり、遺影が参列者に向かって、にっこり微笑んでいました。
 
 贈られた生花は十分故人の50年に亘るプロレス界への功績を物語り、改めて彼の偉大さを認識させられました。アントニオ猪木、ジャイアント馬場元子未亡人、坂口征二、百田家、藤波辰巳、長州力、前田日明、タイガーマスク、武藤敬司、天竜源一郎、新間寿等々…昭和プロレスのビックネームが押し合うように彩っていました。
  
 彼らは文字通り故人と共に歩んできた仲間たちである。その中でもミル・マスカラスからの生花は目を引きました。ゴングのマスカラスか、マスカラスのゴングかと謳われた如く、マスカラスの存在は故人無くては語れないものです。それは誰もが認めるところです。
  
 通夜の客には坂口征二(新日本相談役)藤波辰巳、百田光一さん等が駆けつけました。私は坂口さんと隣り合わせに座り導師の読経を拝聴し、一緒に焼香しました。私は遺影に一言、お世話になりました、有難うございましたと呟きました。
  
  
弔辞は菊池孝さんが切々と
 
 弔辞は菊池孝さん(プロレス評論家)が週刊ゴングの名物企画「三者三様」の思い出と、早すぎる死を悔やむ切々たるもので涙を誘いました。所謂竹内チルドレンといわれる月刊ゴング及び週刊ゴングに携わった編集者&カメラマン、スタッフがほぼ全員顔を揃えたのも圧巻でした。
 
 竹内氏を師と仰ぎ成長してきた彼等は、いま各方面で活躍しています。中でも清水勉、小佐野景浩、金沢克彦の各歴代週刊ゴング編集長は低迷するプロレス界を支えるマスメデイアの中軸を担っているいます。
 
 さぞ泉下の故人も喜んでいる事だろう。告別式にはゴング格闘技の元編集長熊久保、副編福島、編集亀池君等も駆けつけてくれました。彼等の参列は、私にとって法外の喜びでした。竹内氏を忘れなかったことが嬉しいのです。
 
  
マルチのプロレス編集人
 
 竹内氏はプロレスコレクターとしても知られ、古い貴重なポスター&パンフやビデオ、写真、内外のプロレス誌などを数えきれないほど保有して、自宅はさながらプロレス博物館の趣をなしています。
 
 その豊富な知識とゴング編集長としてのキャリアで、長年にわたり全日本プロレス中継の解説も務め、故ジャイアント馬場の信頼も厚く同団体のポスター&パンフレットのデザイン編集は全て彼の手になるものでした。まことにマルチのプロレス編集人でした。こんな人、類を見ません。
 
 そう彼には編集取材記者としての表向きの顏の他に、レイアウターとしての顔もあり、一冊丸ごとデザインするという離れ業を持っていていました。とても到底私が足元にも及ぶべくない才能人でした。
 
 
週刊化での竹内氏との軋轢
 
 純粋なプロレスを愛した彼と私が軋轢を生んだのは、私が月刊ゴングから週刊ゴングに切り替えを断行した時のことです。週刊になれば、どうしても、スキャンダラスな記事も扱わなければなりません。彼はそれを嫌がりました。あくまでも月刊に固守し、明るいプロレス誌に拘りました。
 
 それに対し週刊化を推進しなければ会社の展望は開けないと、軋轢が覚悟の上で、私は必死で前進しました。だが私は悩みました。彼の協力を得られなければ、週刊化しても成功はおぼつかないのは自明の理からです。彼とは、しばし冷戦の時が続きました。
 
 しかし時代が、週刊のサイクルになって、月刊では抗し切れないとをやがて知ると彼は納得してくれました。お陰で徐々に協力してくれて、スタッフも付いてきてくれて、半年後には週刊ゴングは軌道に乗り、社のドル箱に成長して行きました。
 
 結果、私は3年に及ぶ初代編集長を全うできて、次の清水編集長にバトンタッチできました。創刊時の思い出は尽きません。走馬灯の如く甦ります。週刊の成功は一重に竹さんとそのスタッフの尽力の賜物です。私の功績といえば週刊化を推進しただけのことです。
 
 
退職してから絆が深まる
 
 やがて竹内宏介氏は社長になると、私が専務取締役に就任して二人三脚で、社の舵取りを任されました。以来私が平成14年退職するまで、公私共に良き相談相手として、私を支えてくれました。ゴング格闘技も社長のたっての依頼で、私が創立したアッパーが制作をお引き受けした訳です。
 
 アッパーを運営してからは彼との絆は以前にも増して強くなりお互いに仕事を紹介し合いしました。2005年12月発売の「伝説の国際プロレス」3巻DVD-BOX(TBS)は竹内宏介監修で、話題を集めましたが、私が故人とTBS&販社(ポニーキャニオン)の橋渡しをしました。結果的に最適の人を紹介してくれたと双方から感謝されました。また作品の出来もよく後世に残るプロレス・アーカイヴになりました。
  
 ささやかな恩返しができたのかなぁと自己満足しております。19歳でベースボール社「プロレス&ボクシング」の編集長に抜擢され、日本スポーツ出版社に移ってからは、創刊まもない月刊ゴングを社の中心雑誌に育て上げ、その功績で代表取締役まで登り詰めた姿…それはまさに編集者の今太閤のような感じを受けます。天晴れな人生でした。
 
 
スカイ・ハイの曲に乗り天国へ
 
今頃、天国で大好きな馬場さんに再会して、週刊ゴングの復刊を話し合っているかも知れません。

 
 

落花寂々、切ないお別れです。
 

心から哀悼の意を表します。
 

竹さん、安らかにお眠り下さい。
 

愛飲してやまないコーラも存分に飲んでください。
 

   
葬儀会場から斎場に棺が運び出されるときに、静かに且つ厳かに”スカイ・ハイ”のメロディーが流れました。

 

きっとこの音楽に乗って稀代のプロレス編集人・竹内宏介は、颯爽と天国に旅立って行かれたことでしょう…。

 


 

舟木 昭太郎