すっぴんマスター -21ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

 

大晦日は、開始が遅かったせいで、去年末のまとめ記事がぐだぐだになってしまい、ぎりぎりまでなにか書いているハメに。脳みそだけで書けばいい記事とちがって、読書メーターやX(ツイッター)を使って1年振り返って書かなければならないので、意外と時間かかるのだ。あれを3000文字書くよりステゴロで1万文字書くほうがずっと楽なのである。

考察系記事とちがって、楽しみにしているひとなんていないやつなので、そう一生懸命になることもないのだけど、ずいぶん前からやってることで、本質的には無神経でだらしない人間なのに、そういうときだけへんな完璧主義が発動し、悲壮感とともに「なんとしてもやらなければ・・・」みたいな劇画タッチの表情になるのである。じぶんでもよくわからない。それ以上に「なんとしてもやらなければ」いけないこと無数にあるだろ。財布のなかに無秩序にたまってるレシート捨てるとかさ。あとまず本を処分しろよ。まあ、けっきょく筋トレ記事は間に合わなかったから、これから書くんですけど。

 

 

年越しは毎年のことながら彼女の実家。酒類やアイスを買って20時頃向かい、適当にみんなでテレビみたり、ふたりで映画かWWEをみたりして時間をつぶして、そばを食べて、2355をみながら阿佐ヶ谷姉妹とともに年越し。まあ、いつものことだ。しかし、直前まで書きものでひいひいいっていたせいか、微妙に年越しの空気を堪能できておらず、2023年が終わった感が少ない。年越しの、「いやなことは去年においてきた」っていう大味な雰囲気が好きなんだけど、遅刻しそうで走って、息あがったまま仕事始めちゃったときみたいな感覚で、現実感がない。ジョジョのチープ・トリックのようにぼくの2023年はまだ背中にしがみついてささやきかけてくるのであった。

 

2023年は特に進歩も退歩もなかった感じが強く、それをチープ・トリックのやつがぶちぶちいってくるふうなので、目標もなにもないかなあという気がする。2024年は2023年の言い換えであって、冗談ぬきでまだぼくの2023年は終わっていないのだ。たぶん、日常のささやかな達成感みたいなものが積み重なっていれば、「いやなことは去年においてきた」ができるんだろうけど、なんだろうなこのプラトー感・・・。もっとこう、絶対にぶち倒したい上司とか、誰も解けない難問とか、そういうのがやっぱりぼくは必要なんだろうか・・・。

 

 

まず読書については、「書評を書かない」をしても特に読書数、厳密には読了数は増えないということがわかったので、おもしろかったものについては書いていってもいいのかなというふうにおもう。なにより、九条とバキだけでは腕がなまる。どちらもきっちり週刊連載というふうではないし。ようやく脱出できた「読んだものすべてについてなにか書く」という習慣の肝は、「すべて」というところにある。要するに、特に感銘を受けなかったような、書くことがないようなものについても、とにかくひねりだしてそれなりの読みものにするということ、それが目的だった。だから、おもしろかったからといって書くのは、それとは異なる行動にはなる。でも書かないよりましだろう。

あと最近おもうのは、通勤中に電子や論文を読むことが増えたせいか、読書の単位時間が極端に短くなっているということだ。1時間みっちり本を読むというようなことはもうなくなってきており、同じ1時間でも、5分を12回みたいな感じなのだ。これでは、短い論文や短篇小説は終えても、哲学書や数学の本、長編小説は読めない。やりたいことが増えすぎて、ルーティンがマルチタスク化してきているというのもある。ぜんぶ中途半端なのだ。これは実は去年も書いていることなのだが、克服できていない。トレーニングしながらロシア語のラジオ聴いたって意味ないのである。増えすぎてしまった「目標」をもう少し切り詰めて、なるべく同時に行うことは避け、短い時間でもそれだけを行うと、そういうふうにしていかないと、ぼくの2023年は終わらないだろう・・・。

去年はこれを超回復理論で解釈した。超回復とは筋肉の成長にかんする現象で、トレーニングで破損させた筋肉が24時間~72時間休ませることで大きく、強く成長させるというものだ。これを基本として、トレーニングのメニューというものは構成される。要するに、月曜に胸を鍛えたら、火曜水曜は胸を使わないトレーニングを行う、ということである。これを、もっと複雑に、小さな筋肉まで把握したうえで、メニューは構成される。こういう考え方を学習においても応用しようというはなしである。これは、わるくない考えだとおもうが、いま読み返すまでそう考えたことは忘れていた。まったく意味がない。今年はこの記事を読み返しながら、ルーティンを組み替えていければとおもう・・・。

 

 

 

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他と比べて需要があるわけでもない年末まとめ記事、時間がなさすぎて、漫画と読書を合体、筋トレは最悪来年にまわすということで、とりあえずここまできた。時間がないといっても、忙しいわけではなく、たんに開始が遅かっただけである。通常はクリスマス過ぎくらいからはじめているのだ。ふつうに忘れていた。書評を書かなくなってから、少しこころが離れているのかもしれない。いいのかわるいのかわからないが、書きものじたいはぼくの根幹なので、もしほんとうにこころが離れてしまったら、たぶん別人になってしまうから、それはよくない気がする。

 

去年、2022年の末にはじめてふたりでいってから、3月くらいまでは、月1くらいで鎌倉に出かけていた。はまっていたといっていいだろう。最初に鶴岡八幡宮と大仏にいって、次の1月に長谷寺と大仏、2月にもじゃっかんルートを変えて長谷寺と大仏にいって(1回目にいけなかった長谷寺の観音ミュージアム目当て)、3月には円応寺の閻魔様に会い、ずっと行きたかった建長寺にも行ったのだった。長谷寺と建長寺は、この、ぼくらのなかでの流行りみたいのがくる前から行きたい(懐かしさに似た感覚で「行きたい」とおもっていたので、かつて家族旅行などで行ったことじたいはあるのかもしれない、記憶にない)とおもっていたので、それが達成できたのはよかった。だが、その達成感もあってか、ここで鎌倉探索は休止になっている。いまでもまた行きたいねというはなしはしているので、終了したわけではないのだが、ほかに大量にお金と時間をつかう趣味ができてしまったので・・・。まあ、ディズニーのことなんですけど・・・。

 

 

 

 

 

 

同時期、これも去年末から、左の上の奥歯が欠けて、そこから今年の夏から秋くらいまで歯医者通いをしていた。あれはたいへんだったなあ・・・。いつも歯ぎしりをして痛んでいた箇所で、それとの関係性はよくわからないが、ともかく歯が砕けて、12月28とか29日くらいだったとおもう、ぎりぎりかかりつけの歯医者がまだやっているタイミングに駆け込んだのである。だが、いちどでは治療は終わらない。そのときはとりあえずわるいところを落として詰め物をした感じだったのかな。だが、歯をごっそりととりはらうレベルの治療だったので、詰め物といってもほんとうに詰めているだけだったから、これがすぐとれてしまったのである。それが大晦日とか正月のいまくらいの時期で、歯医者はやっていない。虫歯じたいはとったものの、歯に穴があいたまま、年明けまで放置しておいてよいものかわからず、市のなんとかセンターみたいなところにいって応急的に詰めてもらったりしていたのである。これもまたすぐとれちゃうんだけど。正月にバスや電車を乗り継いでぜんぜん知らない土地にいって歯の応急処置というのは、もちろんたいへんだったけど、でもいまおもうとちょっと楽しかったな・・・。

患部の治療が終わっても、次から次へと(歯医者さんの)気になる箇所が出てくるので、ずっと治療が終わらなかった感じだ。ほんとうはいまも行っていなければおかしいのだが、いちど定期診断を微熱で中止してから行っていない。

 

 

 

 

去年の夏はコロナにかかって自宅療養とかあったけど、今年は無事だった。かわりに、11月頃、原因不明の吐き気と下痢、そのあとに39度近い熱に襲われるという事態に陥って、仕事を休んでしまった。たぶん、食中毒的なやつだとおもうけど、1日で快癒したので、休んだのは1日だけ。毎年11月頃体調崩すことが多くて、数日前、職場のひとに「毎年11月になると体調崩すんですよ笑」みたいなはなしをしたところでもあったので、伏線を張っていたみたいで恥ずかしかった。なんか、すぐ体調崩すんだよなあ最近。仕事休むとか、以前ならありえなかったというか、休むことが物理的に不可能だったからかもしれないが(出勤しないと店が開かない)、なんか最近、かんたんに休みよる・・・。

 

 

今年特筆すべきは、ディズニーである。7月10月12月にディズニーランド、8月の地獄の暑さのときにディズニーシーに、それぞれ行ってきた。

ぼくらはどちらももともとディズニーは好きだった。だが、書店の仕事が忙しくて、休みもろくにとれない状況が10年以上続いて、まったくいけなくなっていたのだ。それに、舞浜が決して近所とはいえなかったということもある。仮に1日同じ休みがとれたとしても、前日深夜2時まで働いてて、翌日は朝からみたいな状況で、ちょっと舞浜まで、という気持ちには、とてもなれなかったのである。そういうわけで、ランドは2010年11月、シーは2009年11月を最後に行っていなかったのだ。それが、いまの職場環境になって、放っておいても同じ休みの日や連休が自然発生するようになり(これまでは意図的にそうならないようにされていた)、これは、ディズニーにいけるのではないかと気がついたわけである。

 

 

 

 

 

ディズニーに行くのが日常になってからは、生活認識が根本的に変わってしまった感じがある。仕事が終わったあと、ほぼ毎日、ネットフリックスかアマゾンプライム、ディズニープラスからなにか映画を拾って観るのが習慣になっているが、ディズニー熱が高まり出してからはその半分がディズニーになった。マーベルを含めずに、である。たんに渇きとともにそれを求めているということもあるけど、もうひとつ、勉強ということもあった。パレードやグッズ売り場なんかにいくと、知らない作品やキャラクターがまだたくさんあることに気付かないわけにはいかなかったのである。だから、特にぼくのほうで、ディズニー的な教養の底上げをする必要があったのだ。特に、アラジンとか王道ものは観てないないのけっこうあったので、徹底的に流し込んでいった。なんでかな、「男らしさという呪縛」かな、とりわけプリンセスものにはなんとなく苦手感があったんだけど、冷静に考えるとぼくはもともと物心つく前から宝塚とともに育ってきた人間だし、苦手なはずがあるわけもなく、親しみの感覚とともに吸収することができたのだった。

 

筋トレについては、別で書くけど、しっかりプルアップできる場所を確保できるようになったのは大きかったかな。まだ計ってないけど、サイズどうなってるかな・・・。

 

この職場にきてから気になっているぼくの「ものを知らない」問題だが、いいのか悪いのか、最近は、それほど気にならなくなってきている。気にならなくても、ものを知らないままではいけないので、勉強は続けているが、正直かなり雑になってきてしまっていて、いけないなあとおもう。去年から読んでる行政学の本とか、半分くらいで止まってしまっている、コロナのときにはじめて習慣になりかけた数学も、最近はやってない。かわりに、共立出版から『証明の読み方・考え方』というものすごいおもしろい本が復刊されたので、それを読んで気をまぎらわせている。

 

 

 

 

法律は、いま優先的にやらないといけないのはプライバシー権と著作権だが、ぐだぐだだなあ・・・。それよりいまは九条の大罪の影響もあって刑法のほうがおもしろくて、団藤重光の『法学の基礎』をいつ買おうかという感じである。あと通勤時にも刑法の論文ばっかり読んでて、増田豊先生の本をなにか手に入れたいのだけど、ものすごい高いのしかなく、増田門下のかたたちが書いた、法律文化社の『刑法総論』を読めばよいのかなあ、などと思案している段階だ。

 

というようなところです。来年もぐだぐだなりにがんばっていきます。みなさま、2023年もお疲れさまでした。よいお年をお迎えくださいませ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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通常、漫画と小説等の読書はわけて記事を立てるが、マジで時間がないので、まとめてざっと書きます。

 

【漫画】

今年は『チェンソーマン』13巻から『妻観察日記』4巻まで、ぜんぶで64冊の漫画を読んだ。電子やアプリでもかなり読んでいるので実数はもはや不明だが、まあたいしてちがわないとおもう。月5,6冊くらいのペースということで、順調に減ってきて安定してきた感じである。年400冊とか読んでたころのペースがまったく思い出せないし、このくらいまでに落としても信じられないくらいのスピードで本は増え続けている。細胞分裂しているのかもしれない。

今年もいくつか新発売のものに手を出してもいた。しかし定着したものはひとつもなかったな。たぶんもう、感覚がおじさんになってきて、要するに鈍ってきてるんですよね。それが本に携わるものとしてはこわくて、なるべく新しいものを摂取しようとこころがけてはいるんだけど、いま書店にはいないということが後押しするかたちで、最新の感受性を身につけている必要性はあまりないので、なまけている感じだ。感受性がおじさんになってしまうことじたいは、ものごとの摂理なのでしかたないとしても、楽しいものが減っていってしまうことは悲しい。なるべくがんばっていきたいが、チャンピオンやスピリッツを電子で読むようになっちゃったのも原因のひとつかもしれない。もう、ぜんぜんパラ読みみたいなことしなくなってしまった。じかにバキと九条を探し出して、感想書いたら終わり、みたいな。ふつうにもったいないわけなんだけど、なにしろ読みにくくて・・・。コミック誌の電子は、目次から該当ページに飛べるようにならないかな。

それでもなにか書くとすれば、年始に出た板垣先生の自衛隊漫画と、夢枕獏原作のバキ外伝『ゆうえんち』、そしてジョジョ新連載『ジョジョランズ』あたりになる。自衛隊漫画は、ものすごいおもしろいのにどこでも読めない状態になっていたから、新作とともに1冊にまとまったのはほんとうにうれしかった。おすすめです。『ゆうえんち』も、はじめてバキを読んだときの、荒唐無稽なのにリアルに感じられて読む手がとまらないあの感覚を想起させるもので、とてもいい。『ジョジョランズ』もめちゃめちゃおもしろいぞ!

それから、最近友人のすすめもあってマガポケという講談社のアプリをいれて、1話2話単位で読むみたいなこともはじめた。ログインボーナス等で読めるのである。いま読んでいるのは岩明均の『ヒストリエ』。もちろんもとコミック担当として存在は知っていたが、この手のアフタヌーン系のコミックにはほとんど触れずに生きてきたので、とても新鮮だ。こんなにおもしろいとはおもわなかったな・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【読書】

漫画以外の本となると、これは、なんと9冊ということになった。こちらは減らすつもりはぜんぜんないのだけど、なんか、減っていた。去年が17冊、その前が22冊、病みすぎてまったく本が読めなかった2019年が15冊ということで、おそらく人生でもっとも本を読まなかった1年となった。

どうしてこういうことになったか、厳密にいうと、本は読んでいる。それも、大量に読んでいる。50冊くらい並行して読んでいる。ただ、そのせいでぜんぜん読み終わらない。電子もたくさん読んでいる。さらに、通勤時には仕事に関係する論文をたくさん読んでいる。論文だけなら短いものも含めて30本くらいは読んでいるはずだ。いまの仕事は書店時代より厳密さの要求されるものなので、なにかのテーマで本を集めようとしたら、おそらくはそこまでやらなくてもいいのだろうけど、論文を読んで背景を熟知しておきたくなるのだ。

そういうわけで、読書じたいはしている。しているが、それにしても年間9冊とは、馬鹿じゃないかという数字である。しかも、今年は書評をまったく書かなかった。これは去年から実行してきたことである。書くとながくなるが、ぼくはブログを訓練のひとつとして開始した。読んだ本について必ずなにか書くということを決めて、それを15年くらい実行し続けてきたのである。その規律は、ぼくに大きな実りをもたらしたとおもう。いまふつうにバキや九条でしているような読解は、そうした訓練ぬきには不可能だった。だが同時に、ぼくはそれを開始したときから、本を読むのがとても遅くなってしまった。作者や関係者が読むかもしれない公開記事で、適当なことは書けない、だとしたらちゃんと読まなければならないと、当然なったのである。これが、読書量という一点においては大きな障害となっていたわけである。じゃあ書くのを減らそうとしても、なかなか難しかった。もう、書かないと気持ち悪くなってしまう体質になっていたのだ。それが、去年から、ふとした拍子に、書かないでいられるようになった。そして今年はついに、ぜんぜん書かないでも平気でいられるからだになったのである。というわけで、理論的には読書スピードはあがるはずなのだが、あがらなかったということである。ぼくの遅読は精読とは無関係だったということか、芯までしみついた精読癖がぬけていないということか、それはよくわからないが、ともかく読書量は伸びなかった、どころか激減してしまったのである。どうすればいいのかは、わからん。わからんが、影響ないんだったら、もう少し書評を書いてもいいのかもしれない。このままだとせっかく身についたものが鈍ってしまうかもしれない・・・。

 

たった9冊なので書いていくと、出久根達郎『東京歳時記』、ドブロリューボフ『オブローモフ主義とは何か?』、大澤真幸『私たちの想像力は資本主義を超えるか』、鈴木隆美『恋愛制度』、倉田百三『出家とその弟子』、法制執務・法令用語研究会『条文の読み方』、白井智之『おやすみ人面瘡』、山下純司ほか『法解釈入門』、エマニュエル・ボーヴ『ぼくのともだち』、以上である。この読書状況で読みきっただけあって、どれもすばらしかった。特に『法解釈入門』はおそらく今後もお世話になるだろう。批評的創造性については、大澤真幸を読んでおいてよかったかなという感じがある。『ぼくのともだち』もおすすめで、ボーヴのほかの本も読んでみようかと考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

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今年もたくさん映画館にいった。去年ほどではないけど、以前までのことを考えたらこれでじゅうぶんであるともおもえる。それに、今年はディズニーに行くようになってしまって、休日の消化とお金がかなりそちらにまわってしまっているので、やっぱり少しは影響しているっぽい。

映画は映画館で観るようにつくられている・・・という原理的な理由に加えて、やはり「出かける」ということの付加価値も、これが日常になってみてよく感じられる。基本的には同じ地区の映画館にいくわけなんだけど、だんだん、決まったパターンみたいのができていくわけで、そうなってみてそれははじめて日常に組み込まれていく感覚がある。つまり、いま「日常」となっているその時間運用も、最初は非日常だったということなのだ。人生とは、体感的には当たり前のようにそこに存在しているようにおもえて、じっさいはそういう非日常の堆積なんだなということがよくわかる。

 

記事にしていないのがほとんどだし、それならX(ツイッター)で、鑑賞したことだけタグつきでつぶやいて管理しようとしたけど、いま調べてみたらどうも正確に出てこないようで、ほんとうのことはよくわからないのだが、それでもまあ、ブログとXの投稿をあわせて考えると、12作品ということになりそう。2月のアントマン、5月のガーディアンズ・オブ・ギャラクシー、それから7月の『パール』以前までについては以下の記事で。『パール』は傑作だったなあ・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8月22日はピクサー作品『マイ・エレメント』。川口春奈の声がすごくよかった。ピクサーは若いころから好きで、ディズニーと完全合体するトイストーリー3まではほぼすべてDVDをもっている。英語が苦手で、英語の接客がある仕事をしていたころは、そんなことをしたところでたいした効果はないのに、出勤前に『ファインディング・ニモ』や『バグズライフ』のDVDを英語で流していたものである・・・。

ディズニーは基本的には世界の子どもたちのものなので、原則的に最前線の倫理観をとりいれようと、少なくとも企業としてそう努力しているようにみえるよう努力してきた。虫の居所がわるいとそれが鼻につくときも、それはあるだろうけど、基本的には「さすがディズニー」としかおもわされない日々である。「マイエレメント」は多様性の物語。だが、「世の中いろいろなひとがいる」ということは、ディズニーに限らずさまざまな作品が描いてきたところであるし、現状こころある場所ではもはや自明である。さらに、そこから導かれる「私らしく生きる」といった物語も、なんならディズニーは合意形成のトップランナーだった。そういう倫理観が生まれたから企業として対応してきたのではなく、運命に立ち向かうプリンセスを通じてむしろそういう価値観を作り出してきたのがディズニーなのである。本作はそこからさらにもう一歩進んで、では、立ち向かうことで打ち倒された運命はどうなってしまうのかということに集中したようにおもう。もちろん、これまでの作品でもそこのフォローはないではなかったが、「ヴィラン」という語が現在定着しつつあることが示すように、物語の鮮明さを優先させたとき、どうしてもそこには二元論的単純さが生じてしまうもので、そのとき同時に、「ヴィラン」というほどには悪ではないような「運命」もまた、捨象されがちであったようにおもう。本作主人公のエンバーは、それじたい愛している「運命」から逃れるが、そこへの敬意を欠かすことはなかった。その場面で、ぼくはこれまでのディズニー映画経験でいちばん泣いてしまったようにおもう。

 

 

 

 

 

 

続けて25日、鳥山明原作『サンドランド』。サンドランドはもともとコミックももっていたが、どんな内容だか忘れていた。鳥山明は多分にもれずぼくも少年時代から大好きだが、なにがいちばん好きかというと、扉絵の一枚絵だった。人物の表情や衣装、メカなどがただ描かれているだけの一枚の絵に、世界が宿っている感覚がたまらなかったのだ。その絵に首をつっこむことができれば、左右や反対方向にも、世界が連続しているにちがいないとおもわせるちからがあるのである。サンドランドはこうした鳥山先生のデザインのパワーを感じさせる作品だった。まず、人物やメカが直感的に描かれ、しかるのち、それを自然なものとする世界が構成されていく感覚である。

 

 

 

 

 

 

10月11日には『コカイン・ベア』。いまどき熊一匹でどこまでのものになるのか・・・などとおもっていたけど、めちゃめちゃおもしろかった。脚本的には主人公らしい主人公がなくて、コカインに狂った熊にふりまわされるひとたちが個別に、等価に描かれていく感じで、ブレットトレインとかデッドドントダイとかを思い出した。

 

 

 

 

 

 

11月16日『マーベルズ』。三本目のマーベル作品。ぼくはふつうに楽しんで鑑賞したが、興行的にはインクレディブルハルクを下回ったそうである。キャプテン・マーベルの強さは全マーベルファンの熟知するところで、単独でサノスの軍艦を墜落させるところに狂喜しなかったファンはいないとおもわれるが、なぜそうなってしまったのだろう。ツイッターで見かけた見解としては、初見では理解不能の描写が多すぎた、というものがあり、なるほどとおもった。「初見では理解できない」は、チケットを買って、鑑賞しないと出てこない感想であるから、これは要するに、見る前に「初見では理解できなそう」と感じてしまうひとが多かったということである。その原因としては、エンドゲームのあと、コロナがやってきて、もともと動き出していたドラマ製作が、自宅で見れるものとしてより活発に行われるようになり、それでいてそれはしっかりストーリーに組み込まれている、という複雑さがもたらしたものとおもわれる。ガーディアンズのように作家色を出したり、あるいはスパイダーマンくらいヒーローにパンチがあったりという状況でなければ、マーベルはもはやそういう印象をぬぐえなくなっているのではないかなとおもう。ぼくは引き続きぜんぶ観ているから問題ないけど、興行がふるわないと、製作も難しくなっていくはずなので、どうかみんなあきらめないでついてきてほしい・・・。というところで、カーン役のジョナサン・メジャースが逮捕され、またもや不明確な状況になりつつある感じである。ストーリーからカーンを退場させるか、別のひとがやるか・・・。ともかく、エンドゲームで映画史上最高のものを作り出して以降、マーベルにはなにか「ついてない」という感じがつきまとっている。

 

 

今年の映画納めは12月21日ディズニー作品『ウィッシュ』。非ピクサーのストレートなディズニー作品を劇場でみるのは、少年時代を除けば初めてのような気がする。といっても、本作はぜんぜんストレートなプリンセスものではない。まず、本作はディズニー創立100周年を迎えるにあたってつくられた記念作である。そのため、随処に、「ディズニー100周年」を意識させるメタ的な仕掛けがほどこされているのだ。ふつう、物語というものは、単独で成立するようにできている。それこそマーベルのようなものはそう見えないかもしれないが、それは、たんに物語がものすごくでかいというだけのことで、究極的には、あれらの作品すべてが集まってひとつの物語となっているわけである。だが本作は、物語の外部情報をもった状態ではじめて理解できるようなちょっとした小ネタやなんかが豊富に仕込まれているのだ。物語としても、アーシャがプリンセスではなく、また最終的には魔法をかけられるものではなくかけるものになることなど、冒頭に述べた倫理観の最前線を踏まえつつ挑戦的でもあって、すばらしいものとなっている。そして、ぼくでは今年、久しぶりにディズニーランドに行くようになったという背景もあった。そのため、駆け足気味ではあったが、これまで観ていなかったディズニー作品をけっこう流し込んでいたのである。あとで調べて出てきた小ネタらしき小ネタはほとんど見つけられなかったが、本質的なぶぶんで、製作者のディズニーへの愛は共有できた。ほんとう、ディズニーが好きでよかったとおもう・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

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第10話/キケン度高まる

 

 

 

 

鎬昂昇とジャック・ハンマーの試合がはじまる!

出血は不可避の危険なたたかいだ。バキ戦前のアライジュニアみたいな気持ちで臨んではいけない感じの試合である。

 

試合前のジャックの異様な補給風景だ。バキも試合前に大量の食事を摂るという異様な人間だが、ジャックではそれが食料ではない。なんだかわからないが、大量の錠剤と注射である。錠剤はばりばり噛み砕いて液体で流し込む。液体はただの水なのかな・・・。注射は腕にさして、なにやら心地よさげだ。

その光景を、選手の見送りをしている御手洗さんが笑顔で眺めている。水分でも補給するように堂々と、悪びれることなく薬物を摂取するジャックに、嫌味ではなく感心してしまっているのだ。御手洗さんは、選手がいってほしいとおもっていることをいってくれるよね。

ジャックは、加えて誇るものでもないという。強くなるために必要だからとっている、野菜や肉と同じだと。もちろん、ふつうの視点では同じではない。御手洗さんは、肉体が蝕まれるとしてもかと、要点をつく。ジャックのこたえは、今夜もちこたえれば、というものだ。このあたりの考え方は基本的に変わっていないらしい。もたなければ、それは「肉体」が弱かっただけだと。ジャックはバキ戦で過剰摂取による身体異常を克服した。克服はしたけど、それは健康体になったということではない。ジャックによればそれは、肉体の強さがもたらしたものだったのだ。

 

 

たほうの鎬は汗をびっしょりかきながら柔軟をしている。汗をかいているということはアップをしたということだとおもうのだけど、従前からの武術家はウォーミングアップをするのかしないのか問題については、彼はどう考えているのだろう。

立位の前屈ではあたまが足のあいだに入るくらい屈むことができる。そして続けて、今度は後方に向けてからだを折りたたみはじめる。サーカスかヨガの達人でしかみたことのない柔軟さで、鎬は後方からも足のあいだにあたまを挿しいれるのだった。そばには花田がひかえていて、感心している。

 

観客席には帽子をかぶって変装しているバキ、光成の横には花山、そしていつもの最後列の立ち見席みたいなところに独歩、渋川、克巳が待機するのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

柔軟もそうだが、鎬はウォーミングアップを行っていたようで、これは、バキのいう武術の自然な姿には反するものになる。

しかし、おそらく今回鎬昂昇が示しつつあることは、新しい武術家像みたいなものではないかとも感じられる。というのは、彼自身、直前に武術家の怠慢を批判していたからだ。それが、体操からも学ぶものがあるとして、今回のありえないからだのやわらかさにも通じる身体操作のはなしにつながっていったのだが、あのはなしはおもったより重要なのかもしれない。武術家は、行住座臥、日常すべてが「たたかい」の前段階でなければならない。いつおそわれるか、いつファイトがはじまるか予測ができない、こういう意識でいることが、真の武術家には求められる。その帰結が、ウォーミングアップをしないというバキのふるまいにつながる。だが、こうして書いてみるとわかるが、ここには少し違和感が残る。というのは、要するに、これは「ウォーミングアップをしてはいけない」ではないのである。してもいいはずだ。武術家は、いつでもたたかえるようでなければならない。それはいい。だがそれであるなら、その条件を満たす限りで、ウォーミングアップをするしないは、たんに試合にかんする自己満足の問題ということになる。ウォーミングアップをしてしまったら、たしかに「行住座臥臨戦態勢」の武術家とはちがう姿になってしまうだろう。しかし、そのときにちがう姿になってしまうからといって、その人物が「行住座臥臨戦態勢」ではなくなるということはないのである。

ある試験が、その人物の「能力」を測定するものだとして、当然出題者は、入学・入社後の活躍を期待して作問をしている。「能力」をはかられる受験者は、その後もその「能力」を維持することを求められるのであり、一夜漬けや直前に呼んだ単語帳などで得た知識や「能力」で合格すべきではない。誠実な受験者はそのように考えて、直前に受験対策に通じるいっさいの行動を封じるかもしれない。しかしそれは、あとになってみないと結果としては判定できないことである。直前にたまたま覚えた単語が未来永劫忘れられない知識となるかもしれない、塾の先生にいわれたなにかおまじないみたいなのが効いてたまたま受かった人物は、その会社にイノベーションをもたらす変人かもしれない。ある規範を最上位の価値観と信じる範囲では、この誠実さは有効だろう。ここでは、それは会社や学校である。誠実な受験者は、会社や学校の求める「能力」のありようを鮮明に見て取って、そこに馴染もうと努力するものである。鎬昂昇はこの規範意識のことをいっている可能性がある。ウォーミングアップは、してもいい。していけないということはない。そして多くの武術家は、誠実さゆえ、ウォーミングアップをしない。しかし、からだをあたためることで臨戦態勢が解かれるわけではないという前提が覆う限りにおいて、むしろその「ちがう姿」になった彼は、イノベーティブな存在になる可能性すらあるのだ。

 

こういう点においても、鎬昂昇とジャック・ハンマーはやはり少し似ている。どちらも、規範意識から逸脱することで勝利を得ようとするものなのだ。規範は、真理ではない。ただのコードなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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