すっぴんマスター -21ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第17話/範馬家の評価

 

 

 

ジャック対鎬昂昇が終わり、負けた鎬昂昇のくちを通じて、ジャックの美意識をもたない徹底ぶりについて、ふたたび描写されているところである。これは、前作『バキ道』のおわりのぶぶんで、本部がガイア、加藤と議論していたところから始まっているので、本作『刃牙らへん』のテーマとなっていることといえる。

 

刃牙は光成を訪れている。ジャックは最大トーナメントでバキとたたかったころよりはるかに強くなった。いまでも勝てるか?という問いかけである。バキはそのことには応えないが、清々しさにあふれていたと、独特の表現をする。それを光成が、これまで作中でされてきた表現に言い換える。強くなること、勝つことのみ特化し、他者からの評価には興味なしと。バキ世界では、誰かがそのように評価したことがいつのまにか周囲では一般的に共有されていたりすることがよくあるが、これもそれっぽい。そういうふうにいわれている、ということは、バキも知っていた感じだ。しかし、バキは懐疑的だ。宿禰戦での、歓声をあびて、それを堪能する姿のことをいっているのだ。たしかに、これは引っかかるところである。

バキの解釈としては、「報われたい」ということがあるようだ。とくに勇次郎である。勇次郎から誉められたい。逆にこの件は、勇次郎にフォーカスしないほうがよいかもしれない。ともかく、報われたいのだ。だから、賞賛は喜んで浴びる。そのなかでも、勇次郎からの賞賛が欲しい。それが、他者からの評価を気に留めないという、歪なスタイルを生んでいるのである。

 

次は愚地独歩と克巳だ。独歩が道場でコンビニ袋をつかって遊んでいる。ふわふわ予想のつかない動きをするこれを、独歩がおしゃべりをしながらリフティングでもするみたいにコントロールする。そして、息をふきかけてやや高くあげたところを、飛び蹴りで斬る。着地して、「せいやッ」の気合だ。だが、その「せいや」が余計だというのがジャックなんだろうと、やはり例の本部談話が共有されていることをおもわせる発言だ。いちおう克巳は、「せいや」は必要ですかねと、訊ねる。克巳ってこんなしゃべりかただったっけ。

残心は空手道の「見得」、見せ場だと独歩はいう。現代のファイターが、勝利が決まるなり両手をあげて防御を解き、ゆるんでしまうさまをおもうと、残心はもっと実用的な意味のあるものだとおもうが、それも詭弁かもしれない。ここは、見せ場だと断じるほうが誠実なのだろう。それを、昨日今日立ち上げた嚙道に理解できるのかというはなしだ。なるほどな・・・。

 

 

勇次郎が滞在するホテルにはジャックが訪れている。作中初の光景だ。ふたりが食事をともにしているのである。視力はもどったのかとくちにする勇次郎も前代未聞だ。ジャックはサングラスをしているので、まだ微妙なのかもしれない。そして、ジャックはとてつもなく緊張している。表情が硬いと。その彼に勇次郎は、「たまには柔らかい物も食え」と、粋なことをいうのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

勇次郎は本気でジャックを認める方向に舵を切ったようだ。ジャック、強くなれてよかったね・・・。

 

バキと比べるとジャックのことはネグレクト気味だった勇次郎だが、最近になって評価しはじめているらしいことがわかっている。鎬戦前のお散歩では、骨延長手術による高身長化に身体の機能が追いついていると、ジャックの言を受けて彼の成長を認めていた。そして、大きければいいとするジャックの短絡さを、そう述べながら、できることではないとしていたのだった。勇次郎にできるかどうかはこのセリフだけではわからないが、一般にいってそうであるということをくちにしたのだ。これは、本部からはじまったジャック評価の流れにあるものではある。

 

親子喧嘩時にくりかえし書いていたことだが、勇次郎の強さをひとことでいえば、「既知」ということになる。彼は対戦するものの得意なものをじぶんもやってみせることで、相手のこころを折ってきた。13歳のバキが必死で編み出した胴回し蹴りのカウンターには、胴回し蹴りのカウンターで応じる。中国拳法最強の男、郭海皇が到達した最終奥義・消力には、まねたのかすでにもっていたのか、消力で応じる。襲いかかる最大トーナメントの敗者たちは、各選手が得意とする分野で圧倒する。わざわざそうするのである。勇次郎は、なんでも知っている。なんでもできる。これが範馬勇次郎ということなのである。

このことが浮き彫りになったのは、親子喧嘩でバキが虎王を決めたときだった。虎王はバキ世界の技ではない。『餓狼伝』という、夢枕獏原作の板垣作品の奥義だ。これが、美しく決まったのだ。なぜ決まったのか? それは、虎王が他の作品、他の世界という異次元からやってきた技であり、端的に未知性を備えていたからなのだ。もちろん、オリバのリアクションもあったことだし、虎王はじっさいにはバキ世界にも存在していたらしいことがわかっている。だが、バキが物語作品として読まれるときに、虎王が『餓狼伝』の技として読者に受けたられることは必然である。なぜ虎王があんなにきれいに決まったのか、そしてなぜそれで、絶対者勇次郎の威厳は、依然として損なわれないのか。それはこうした事情によるのである。

このことにはバキもまた気がついていた。その結果が、ゴキブリを師匠とする態度である。なぜゴキブリなのか? ゴキブリが、加速においてじっさい優れているとバキが感じたから、ということはあるだろう。だがそれだけではない。ここに含まれていることは、とうてい「師匠」にはなりえないものからも学ぶという、対勇次郎において必要な格闘哲学だったのである。なぜなら、勇次郎は既知の王者だから。優れた武術があるらしい、では学ぼうと、そこに出かけても、それはすでに勇次郎が修得し、蹂躙したあとである。バキはいつまでも、どこに出かけても、勇次郎のあとを追っていくことしかできなかった。だから、勇次郎に限らず、誰も師匠とは考えないであろうものを拾い、そこから学ぶしかなかったのである。「ゴキブリ」ということが記号的に示すのはそうしたことなのである。

 

そして勇次郎のジャック評価である。そんな既知の王者、オールマイティである勇次郎が、ジャックの行為を「出来ることではない」としたのである。これがどれだけ重い言葉か、以上のことを踏まえるとよくわかる。「お前にできて俺にできないことはない」が勇次郎の基本スタンスなのだ。その彼が、一般論的な口ぶりではあれ、ジャック的ありようを出来ないとしたのだ。絶対者勇次郎にとっては、すべての格闘技者のふるまいは、じぶんの内側に含まれる、復元性に満ちたとるにたらないものである。彼にとってはどんな格闘技者のアイデンティティも意味を失う。勇次郎の前では、「オレはこの分野では絶対に負けない」と、格闘技者が自信をもっているぶぶんすべてが意味を失効するのである。その勇次郎が、ジャック的ふるまいを「出来ない」とした、つまり、じしんの内側には含まれていない他者的なものと認めたということなのである。

これは、たんにジャックが強くなったことそれだけが原因なのではない。勇次郎じしんのほうでも、親子喧嘩を経て、大きな変化をしているということは当然ある。親子喧嘩での決着は、勇次郎に「他者」を与えた。「他者」とは、「思い通りにならないもの」のことである。じぶんに比肩する強さのバキという「他者」が、はじめて眼前にあらわれ、あのような、勇次郎にとっては前代未聞の決着をみたことで、彼は、赤ん坊が痛みを通じてはじめて世界を分節したときのように、「思い通りにならないもの」の存在を知るに至ったのだ。バキ戦があったからこそ、勇次郎は「他者」としてのジャックを受け容れる準備ができたのである。

 

そして、その高評価から、今回は「たまには柔らかい物も食え」という、まるで「親」のようなセリフに至るのである。「たまには柔らかいものを食べたほうがよい」ということのココロは、これだけではわからないが、この言葉に含まれているものは、じぶんと比べるとまだ未成熟である子に対しての、そうしたほうがいいよという導きの感覚である。たとえば、親というものは、子にたいして「勉強しなさい」というものだろう。勉強したほうがいい、それは親には自明である。いざそれをなぜかと聞かれると、意外ととんちんかんな返答をしてしまいがちである。選択肢がとか、こたえるほどに、「勉強しなさい」と指示していたときの自明感は失われ、意味がせばまっていくようにおもわれる。親の説教というのはそういうものだ。ただ、おそらく子はそれを理解していないということはわかる。その、先をいくものの感覚が、愛情と一致したとき、説教が生まれるのだ。親子喧嘩を経験する前の勇次郎の世界認識は、乳児とそうちがわなかった。なにしろ、思い通りにならないことがなかったのだから。ふつう乳児は、母親の乳房がくちもとにない痛みを通じて、生まれて初めて世界を大きく二分する。世の中には「わがままが通るもの」と「通らないもの」があるのだと。この「通らないもの」が、「他者」の原風景である。しかし勇次郎にはそれがなかった。いつか描写があったが、誕生の瞬間から、彼は産婆さんを脅迫するようにして取り出させていた。だから、彼がいかに父親らしいふるまいをとっても、それはまねごとにすぎなかった。彼は世界のなんたるかを知ることのできない強者だったのである。それが、親子喧嘩を通じて、はじめて「人間」になれた。「人間」にならなければ、「親」になることもできない。「人間」だけが、「勉強はしておいたほうがいい」というようなことを実感として知ることもできない。かくして勇次郎は、バキとジャック、ふたりの息子との関係を通じて、はじめてほんとうの「親」になったのだ。そう、今回のこの場面は、なにより勇次郎の成長の描写なのである。

 

ひとの目を気にしないジャックが宿禰戦ではめっちゃ喜んでいた件について、作中で、それもバキから言及があったのは大きい。そして、それが「報われる」ということで解釈可能だと、よもやバキと光成のくちから判明するとは、うれしい驚きである。強くなりたい、そのためにはひとの目なんかどうでもいい。美意識もない。それがジャックなのだが、じっさいの勝利や、歓声などを通じて報われたいという気持ちはある。これが同居するというはなしなのだ。評価よりはじぶんの納得感を優先させる、結果のためならなんだってやる、しかしそのいっぽう、そんなじぶんをすごいとおもってもらいたい、というような気持ちになることは、むしろ一般的な感覚であたったほうがわかりやすいかもしれない。金儲けのためなら古い友人たちから縁を切られたっていい、でも、理解できるひとには理解してもらいたい、こういうような感じだろうか。なかでも勇次郎はもっとも理解してもらいたい人物だった。ただ、この感覚が、ジャックのなかで美意識の意図的な削除とどう折り合いをつけるのかなという感じはする。翻って、ジャックは勇次郎の評価すらどうでもいいとなってしまわないかなという気がするのだ。

 

 

独歩のような営利的な格闘組織を運営するものがジャックのスタイルにけんもほろろな態度をとるのはよくわかる。前回に引き続き、武術家がなぜカッコつけがちなのかについては特に説明はないが、事実としてそうである。独歩のような経営者の立場からすると、さきほどの「勉強しなさい」ではないが、自明すぎて、うまく説明ができないかもしれない。毎度くりかえしていることだが、ふつう、格闘の技術体系が確立するということは、一般人にもコミット可能になるということとほとんど同義である。独歩や克巳のような天才でなくても、神心会に入れば、“それなりに”強くなることはできる、それが体系ということだ。そうでなければ、神心会は運営できない。道場の看板を上げ続けることはできないのである。そしてそれが、ある種のマニュアル化を生む。マニュアルは、量的なものと質的なもののバランスをとるために効率的手段だ。ファストフード店のような、非常に大勢の客を相手にするサービスがマニュアル化するのは、非常に大勢の客、そしてそれに対応する非常に大勢の従業員を、一挙にあつかうためだ。ある種の美意識は、マニュアル的なものと近いものがあるのだ。

そして、神心会のような団体では、当然、入門するものは、強くなりたくてそこにいるわけである。そこにロールモデルや理想は当然必要になる。いってみれば、微量の信仰心である。これにこたえるのが、独歩が見せた残心のような記号ではないかとおもわれる。

いずれにせよ、そういう独歩の立場からすると、「嚙道(笑)」みたいな気持ちが出てくるのは、けっこう自然なのだ。結構、ではその嚙道で入門者を増やしてみろ、怪我なく試合をやってみろ、法的落としどころを探してみろと、こういうことなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第16話/美意識の徹底

 

 

 

ジャック・ハンマーと鎬昂昇のたたかいはジャックの勝利で決着した。

嚙みつきのダメージとしては首筋と腕の二箇所、致命的な攻撃を受けてしまったので、当然、昂昇は病院に運ばれた。試合前に約束していたとおり、兄の紅葉が治療することに。

ほかの医師だか看護師だかは、まだ眠ってはいるけどふつうに生還した鎬昂昇をみて、「武術」ってすごいといっている。体力のはなしならともかく、出血に耐えることは武術とあまりかんけいない気がするけど、このひとたちは素人だし、それに、一般人よりは耐性はあるのかもしれない。「武」の天才を「医」の天才が救ったいいはなしだと紅葉がいうが、たぶん、「医」のぶぶんが大きいんじゃないかとおもう。だけど、ふつうなら死んでた、みたいに弟を貧弱っぽく表現するのもなにだから、こういう言いかたになったんじゃないかな。

 

翌日、鎬昂昇はベッドから抜け出して、もう稽古をはじめていた。屋上である。紅葉はすぐ屋上だとわかったようだ。広いからかな。

稽古といっても反復稽古のようなものではなく、状態をたしかめている感じの軽い運動だ。紅葉についてきた医師だか看護師だかはその動きの美しさを讃える。強力なのに、まるで「舞い」のようだと。

そこに、鎬昂昇は、今作のテーマでもあることをくちにする。美しく見えるのは、「カッコつけてるから」だと。ビシッと見栄えをよくしようとする衝動に逆らえない、武道家はその呪縛から逃れられない。“なぜ”かは語られないが、そういうものだと。紅葉はそこに含まれているものを読み取る。ジャックにはそれがないというはなしだ。そんな美意識にとらわれることは、ジャック・ハンマーにはない。むしろその美意識という無駄をどれだけ捨て去れるかという美四季の持ち主だと。なるほど、そういうことであるなら、嚙みつきへのこだわりは「美意識をもたない」という美意識の象徴ととらえることができ、彼が不自然に鎬昂昇への裸締めの戒めをほどき、嚙みつきを実行したことの理由にもなるかもしれない。

 

オンナコドモの技とも、獣と技ともいわれる嚙みつきをわざわざ選択したジャック。それだけに肝はすわっている。鎬昂昇は、範馬勇次郎ですらそこまでは徹しきれないだろうと、本部たちと同じ結論に達するのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

本部も鎬も勇次郎の名前を出すけど、正直勇次郎にかんしてはよくわからないなあ。

勇次郎とジャックは、別人であるから、当然考えかたも異なるのだが、これまで読んできたところで考えてみると、例の「強さ」を求めるものであるか「勝利」を求めるものであるかという点で、大きく異なってはいる。

まず、そもそも勇次郎では、「求める」という述語じたいがあらわれてこないだろう。求めるからには、その瞬間に手元にそれはないのである。そういうことは、勇次郎の人生にはなかった。求めるということは、餓えるということだ。わがままを腕力で押し通す人生の勇次郎には、究極レベルの敗北を求めるということ以外、そんな事態はなかったはずだ。だがそれでも、ファイターを大別するこの「強さ」と「勝利」のどちらを彼が求めるのかとしたら、「強さ」であろうとおもわれる。「勝利」が手元にないという事態こそ、勇次郎にはなかっただろうからだ。だが「勝利」が相対的なものであるいっぽう、「強さ」は絶対的な表現が可能だ。誰にも負けることのない「強さ」をもつ人間がさらに「強さ」を求めることは可能なのである。

たほうでジャックは、以前みたように、やはり「勝利」を求めるものである。そのために「強さ」が必要になることはあっても、逆はないのだ。だからこそ、鎬昂昇にかけた裸締めを解いたり、たがいにじぶんのからだを的にしたようなたたかいかたができるのである。「強さ」を求めるものは、明日をみる。明日、筋肉が成長していることを夢見ずして、今日の筋トレで筋繊維を破壊することは理屈からいってもできないのだ。だがジャックはそうではない。だから、平気で両目の視力を失うことができるのだ。

 

加えて、ジャックの物語的要素として「勝利」を求める気持ちには、哀しみもつきまとっている。その出自にかんしてもそうだし、負け続きの最大トーナメント以降も、彼に強く勝利を求めさせただろう。「勝利」とは、強く願えば手に入るというものではなかった。誰よりも努力すれば手に入るというものでもなかった。血統さえ場合によっては関係ない。そのように、不明確でつかみどころのないもの、これをしっかりとつかみとろうとするのがジャックなのである。こう書けば、彼が一般にいわれる美意識などというものを切り捨てる理由も見えてくる。

 

鎬昂昇は武道家が逃れられない呪縛について語ったが、なぜそうなのかは語らなかった。それは、一般化できないからかもしれない。そうかもしれないが、みんながみんなそうなら、それぞれに個別の理由はありながらも、そういう傾向になってしまう原因はあるはずである。それはなにか。本部は様式美のことをいっていた。それは、格闘技が技術体系として普遍的なものになっていくことと無関係ではない。要するに、空手とか柔道が、その流派において道場を開くとき、原則的には、「誰でも強くなれます」ということが示されているのである。それが「技術体系」ということだ。最強にはなれないかもしれないが、強くなれます、そういう体系のもと、ひとは腕を磨くのである。それが当たり前としてある世界では、自然と様式美が発生していく。その様式美に、美意識、「エエカッコしい」が宿るのである。

ただ、バキや勇次郎など例外的な人物もいる。彼らは、どこかの道場の門下生として強くなっていったタイプではない。バキはさまざまな師匠に学んだはずだが、どの流派ということはない。だから、様式美からは遠い。その究極がピクルということになるわけだが、そのバキと勇次郎ですらも、本部では、「刃牙らへん」、すなわち「エエカッコしい」の連中に含まれてしまっていた。これは、いまみた武道家全般にいえる様式美とはまた別に、個別で考えなければならないだろう。本部もこのふたりは特別扱いしている。では、彼らが「エエカッコしい」になる理由はなにかというと、「範馬」ということなのだろう。バキは宿禰戦で、たぶん眠いわけではないのに、わざわざ試合前に横になって、眠そうに普段着でたたかいに臨んでいた。たぶん、そういうことを本部はいっている。ほんとうに、あそこで寝る必要はあったのか、試合前に眠るくらいの普段着感覚でファイトをするということを演出するためではなかったかと。それは、たぶんそのとおりなのだ。バキも、意識してか無意識にか、最強の少年、勇次郎の息子という属性、もっといえば「流派」を意識して、それにふさわしい行動をとろうと、彼にしかない美意識においてふるまいを律しているのである。この意味で、勇次郎もまた「範馬勇次郎」という「流派」から逃れられないのだ。

 

流派が、彼が属するものが美意識を醸成する。では、それこそ新しく「嚙道」を確立したジャックはどうなるというはなしだが、これも少し前に考えた。ふつう技術体系を確立したというと、さきほど述べたように、「誰でも強くなれます」という看板を出すことを意味する。「誰でも」という点に広さのちがいはあれど、おおざっぱにそういうことはいえるだろう。しかし、必要なときに視力をさしだすようなたたかいかたが普遍的であるとはとてもいえない。ここには、ジャック的な個性が必ず必要になるのである。嚙道は、体系として確立しながら、つまり動画や文章で解説できるレベルに技術の輪郭がはっきりしながら、ジャック以外のものには修得できないのである。もっといいかたをあまくすれば、「ジャックみたいなもの」にしか修得できない、ということになるだろうか。そして、鎬兄弟が看破したように、ジャックにおいては美意識をもたないことが美意識となる。その象徴が「嚙む」ということなのだ。そこにだけジャックのこだわりは生じるだろう。「勝利」のためならどんなにかっこわるくなってしまってもいい。だから嚙む。そうして、嚙むことは、勝利を求める気持ちの記号になる。こういう、すこしいびつな状況だからこそ、勝てそうなタイミングで裸締めをほどき、わざわざ嚙みつきに移行する、というようなことが起こるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第97審/生命の値段⑥

 

 

 

 

相楽と九条が駐車場で遭遇したところだ。烏丸との会話で法曹界の恥さらしと謗られ、それを九条が近くで聞いていたという状況である。

九条は、「守銭奴弁護士」という相楽の噂についていう。ものを食べながら不敵な態度である。

相楽としては、まず無礼だということもあるが、利益をあげるののなにが悪いというはなしだ。しかし九条は感想を述べたわけではない。世間の噂を教えてあげただけだ。

相楽は九条が高級車に乗っていることをいう。ヤクザの金でそうして潤って、よくいえたなと。だが、この車は依頼人のものだという。「長い旅」に出ていて、他の人間には気持ち悪くて預けられないと。相楽は「長い旅」を懲役と理解したようだが、たぶん壬生なのだろう。でも、いま九条と壬生は関係を絶っているという設定なので、乗っていて平気なのかなという気もする。

相楽も会長との会食で忙しいが、九条だって窃盗犯や売人の接見で忙しい。九条は、相楽のそういう言動でマウントをとられたというふうには感じないのだ。そんな彼に、相楽が忠告する。弁護士は、他人の人生のために自分の人生を切り売りしている。だから時間はとても貴重だ。単価の高い案件を選べと。会話もタイムチャージなのかと九条はひとを食った態度だ。口は災いのもと、後悔は先に立たぬぞと、相楽はいうが、むしろ九条は、後悔しなように、いまのスタイルを選んでいるのである。

 

 

これは、釈放された九条がブラサンと烏丸を迎えて、薬師前らがビールを持ってくるのを待っていたときの描写だ。週刊連載ではなかったものだが、11巻にはその場面が挿入されている。それが、今回まるまる入っている感じだ。ということは、今回のはなしが単行本に収録されるときにはこの場面がカットされることになるのかな。

九条は父より先に母を亡くした。それまでは父のいうことをきいてストレスをためながら勉強していたが、母の死でなにかがかわり、歯止めがきかなくなった。家出して補導されたり、父を怒鳴り声で罵倒したこともあるらしい。もうあんたからは何も言われたくないと。その後、嚙んでぼろぼろになった鉛筆で「後悔先に立たず」と一筆入れたら、もう何も言わないといわれたという。そして、縁を切られたのだ。相楽に後悔のことをいわれ、そのことを思い出したのである。

 

 

 

白栖家長男・正孝が手術前の、看護師とのおセックスを済ませたところだ。この件は内密にというが、ナースセンターで世間話レベルで話題になっていることである、ナースは、バレバレだというのだった。

手術はうまくいった。そこへ、たぶんさっき相手をしたナースが顔色をかえてやってくる。医院長が検察に逮捕されたというのである。

白栖は取調べ室みたいなところでしきりに椅子を動かして座ろうとしているが、固定されている。担当をするのは鞍馬蔵人なのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

不正受給については起訴を待つところだったので、この件には関係ないらしい。別件だと蔵人はいう。

 

「後悔先に立たず」のくだりは、何度読んでもよくわからない。

たぶん、ぼくの読解力が致命的に役立たずか、考えすぎなんだろうけど、その先に父から縁を切られるという流れも不可思議におもえる。

流れからすると、九条は相楽に「後悔先に立たず」だといわれ、そんなことは百も承知であり、むしろ後悔しないためにじぶんは依頼人と真摯に向き合っていると、こういうはなしだ。

「後悔先に立たず」の辞書的な意味は、あとで悔いてもとりかえしがつきませんよということだ。

これを、荒れていた九条じしんが書いたというのが、謎なのである。なぜならこのことわざは、未来をある程度予測できる年長者やその務めに長じたものが、そうではないものに向けて説教のニュアンスとともに伝えるものだからだ。いま、あることをしないと、あるいはすると、後悔することになる。そのときに悔やんでも遅い。だから慎重にふるまいなさいと、こういうふうに、ふつうはつかわれる。

これを、若輩者である九条じしんが書くのである。

つまり、九条は、父がいうべきこと、これからいうであろうことを、先取りしていっているのである。

九条の将来を、もしくは鞍馬一族の未来を憂えてしたものであっても、父が九条に勉強を強いるのは、未来を勝ち取るためだ。そうするために、後悔のないふるまいをとらなければならない。つまり、父の説教は、大雑把にいってこのひとことに集約されるものだった。

これを、九条じしんが、九条と、父に向けて書く。それは、あとで悔やんでも取り返しがつかないのだという自明のことを、じぶんは理解しているのだということを示すものなのだ。ただ「理解」しているだけではない。そこには、引責の響きも見て取れる。荒れていたことも、父を罵ったことも、すべて起きてしまったことだ。そのことの責任を引き受ける。この語は、おそらくそういう意味なのである。

じっさい、この「一筆」は、「誰」に向けて書かれたものか不明瞭である。もはや、これは誰かに意思を伝えるためのメッセージではない。まるで真理を表現した箴言のように、空中に放たれているのだ。そう、あなたがこれからいおうとしているそのままに、後悔は先に立ちませんよ、そういうものですよねと、北の反対は南ですよねというような調子で、自明のことであるように、ものの道理として打ち立ててしまっているのだ。そのことによって、父は何も言えなくなった。言うことがなくなったのである。父が、息子の理解していないものとして指し示そうとする老獪な智慧を、九条は標語のように取り出して壁に貼ってしまったのだ。

 

そうして、九条は父を遮断した。それを感じ取った父は、縁を切った。と同時に、これは九条じしんの指針にもなった。「後悔先に立たず」ということわざが指針になったということではない。彼は、これをメッセージではなくものの道理をしめした方程式のようなものとして空中に放り出してしまうことで、それがことわざとして出現する以前の地点に立ったのである。それが、責任を引き受けるという態度に繋がるのだ。「後悔先に立たず」は、そこに連続するものとして「だから慎重に行動しよう」という教訓が連想される。そういうふうには九条はこの語をあつかわない。ただ、この世の摂理として受け取るだけだ。慎重さを欠いたり、あるいは真摯さを欠いたりしたときに生じる後悔と、その責任を、彼は引き受けるだろう。それは、そうした後悔が生じることをよしとするということではない。これは父がいうべきことを代理で九条がいったというようなものではないからだ。ただ、時間は過去から未来にすすみます、みたいな当たり前のことを、当たり前のこととして、前景化しているだけなのだ。しかしそうすることで、彼は強い責任感をもつことになったのだろう。生じた後悔はすべてじぶんのもの、それにともなうもろもろの不具合について、じぶんはすべて責任をとらなければならない。その覚悟が、彼に依頼人に対するあのまっすぐな態度をとらせるのである。

 

 

 

相楽がいう人生の切り売りというところは、まさしくこれまで論じてきたことだ。白栖家の雅之、正孝、幸孝、それに弁護士の九条、相楽、それに壬生は、すべて、「仕事」と「プライベート」のかかわりにおいて、ふたつのグループにわけることができた。白栖家については、患者を「創出」するのか、患者に「対応」するのかという点で、二分される。原理的にいって、病院は患者がいなければ誕生していない。だが、病院経営はそれだけでは立ち行かない。それが、彼らの医業観を衝突させる。原理のレベルでの医師は、ただ患者に「対応」するものである。だが、それはいつあらわれるかわからない。だから、正孝のように、プライベートを犠牲にしなければならなくなる。だが、そもそもそれでは病院経営が成り立たないとなったとき、雅之や幸孝は、情報の非対称性を利用して、不必要な治療や入院を「創出」して、儲けを出す。彼らはプライベートを重視する。弁護士サイドでいうと、相楽はかぎかっこつきのものではあるにしても、プライベートでの権力者との関係性も重視している。幸孝と同じく、相楽も婿養子であり、これは、政略的なものとしてのプライベートのありかたを端的にあらわした状況だ。でも、ともあれ彼らはそれをプライベートだと考えている。そして、相楽も、雅之や幸孝と同じく、依頼人を炎上させ続けて、依頼を「創出」するのであり、今回九条に忠告したように、時間を大切にすべきであると、単価の高い案件を選ぶのである。

これらに対するのが正孝の「対応」にあたるスタイルである九条と壬生である。九条は、職場にそのまま住むような人間であり、プライベートを司るところの家族とは別れてしまっている。いつヤクザにさらわれるかわからない壬生の生きかたもまたそうだ。彼らは、安定的な「経営」を求めているのではない。求めても、そういうものは手に入らない。ひたすら目前の困難に対応するのである。

こういう生きかたで、「後悔するような行動は慎もう」というような臆病な慎重さは邪魔なだけだろう。かといって、後悔をしてもよいということでもない。そのあいだに、責任感が宿るのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第15話/噛み合い

 

 

 

首筋を噛み切られ、うえから首を踏まれ、さらに腕の太い血管まで切られた鎬昂昇。

血の軌道からして、ジャックは本気で噛み切りにいっているようだ。両目の視力を奪われた直後、まだ脳裏に残像として残っていたであろう腕を嚙んだ感じだったので、じっさい余裕はなかったのだろう。ここでとらなければ終わりだった。

独歩と克巳が腕のダメージの大きさを語る。最初の首筋のやつももちろん大きいが、ナイフ戦闘術では四肢の付け根をねらうのは当たり前のようだ。

 

ジャックが目をおさえて視力がないことを確認している。これで相手が倒れなければまずい状況だ。しかし、特に警戒しているようでもないので、確信もあるようだ。

じっさい、鎬昂昇は倒れてしまう。勝負ありだ。特に意外なこともなく終わってしまったな・・・。

 

すぐに担架が持ち込まれ、鎬昂昇が運ばれる。ジャックのところには光成がきて噛道を讃える。そして、視力がないことも指摘する。が、運ばれつつある鎬が意識を取り戻し、ジャックに声をかける。視力がじきつながると。1週間もあればもどるのだそうだ。そうなの!?初めて聞いたんだけど・・・。

ジャックの手を、鎬昂昇が握る。ジャックは、見えないのもあって当惑しているようだ。握手は、ファイト中にも見られた動作だが、今回のこれは、相手を幻惑するものではなく、こころからの敬意を含んだものだ。鎬は、嚙道を「天下一」の「史上最高の武術」だというのだ。

そして、耳をもう少し寄せるようにいう。見えないのもあって気持ちの面でも無防備なジャックがいわれるがままにするので、鎬はジャックの耳を甘嚙みしてからかうのだった。驚いたジャックはファイト中にも見せたことのない反射的な動きで叫んで離れる。恥ずかしかったようで、ばつの悪い感じのうなり声をあげている。恥ずかしいけど、悪い気持ちはしないジャックなのであった。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

鎬はけっきょくなんの対策もしてこなかったのか。親切にもジャックは「嚙みつきます」ということを示してくれているというのに・・・。これと、例のウォーミングアップとを矛盾なく同居させるのは「準備」以外なかったのだが。それとも、これでもいちおう準備してきたのかな。嚙まれつつも紐を切る動作には、たしかに覚悟が感じられた。そういう意味では、こころの準備はしてきたのかもしれない。

 

「刃牙らへん」の意味するところは、『バキ道』最終部からのつなぎにあった本部らの発言を拾うと、ポジティブな響きのものではない。それは、ジャックと比較したとき、バキたちはけっきょく「エエカッコしい」だ、という文脈で使われていたのである。

 

同時に、バキ作品を『グラップラー刃牙』から続く物語としてとらえたとき、この語は中心の不在もしくは遍在を暗示するものでもあった。バキがいて、勇次郎がいる。絶対者・勇次郎に、それに告ぐバキが追いつこうとする物語。これが『範馬刃牙』で結ばれたとき、中心は失われた。その結果が、『刃牙道』冒頭にみられた作中人物たちのあくびである。物語世界は中心を失った。そこに、宮本武蔵、そして宿禰という、もはや神仏のたぐいであるような中心が仮に据えられもしたが、現在、こうしてどこにも中心はな状態になっているのである。だが、これはあくまで物語目線のはなしだ。この世が野球の漫画なら、この世界の主人公は大谷かもしれない。しかし、ぼくの人生はぼくのものだし、あなたの人生はあなたのものだ。誰にとっても、世界の主人公はじぶんである。そういうことが、中心を欠いた世界ではあぶりだされてくる。しかし、物語は紡がれる。作者を超越しつつ、物理的にはモノローグ的なところに収束していくものとしての物語が、紙のうえを、もしくはスマホやタブレットのうえを、直線的にすべっていく。するとどうなるかというと、中心がどこにでもありうるような世界になっていくのである。それが群像劇というものだ。

そして、バキではたたかいというコミュニケーションが描かれる。バキ世界に魅力的な人物たちがたくさんいることは明らかだったが、その描かれかたが変わってきており、それは、彼らが闘争を通じてコミュニケーションをとるさまが、これまでとはちがった角度で触れられるということなのだ。今回の謎にほのぼのとしたふれあいはそういうことの帰結だろう。「刃牙らへん」が描かれるということは、そういうことなのだ。

 

そして、直観的には、おそらくこのことと、もとの意味、「エエカッコしい」を意味するものとしての「刃牙らへん」は、そう遠い意味ではないのである。もっといえば、これは「刃牙らへん」ではなく、「ジャックらへん」の可能性があるのだ。なぜなら、エエカッコしいばかりのこの世界で人目を気にしない唯一無二の存在がジャックだからだ。と、そのいっぽうで、本部たちの見立てとは別に、ジャックはけっこう観客の反応を堪能しているし、鎬昂昇のからかいにも人間らしい反応を見せている。つまり、なんというか、ジャック的ありようが、ファイターどうしの止揚によって到達すべき「至高」として描かれてはいないのである。本部たちの口調はむろん「ジャックすげー」だったが、それは、それが最善である、というようなはなしではなかったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第14話/大出血

 

 

 

 

わざわざ裸締めをほどいてまでして、ジャックは鎬昂昇の首筋にかみついたわけだが、試合前の武道家らしからぬウォーミングアップからして、ひょっとしたら鎬はなんらかの準備をしているのではないかとおもわれた。本部がしたように、強化繊維の服を着てくる・・・というようなことはできないが、なにか技術的な備えをしてくるのではないかと。

しかし、なんの準備もないのだった。少なくとも、嚙みつきが完了する時点まで、それは見られないのだった。

 

崩れ落ちた鎬の首から勢いよく血が噴き出る。これは死ぬやつじゃないか・・・。スーパードクターの兄が会場にいるから、ひとつやふたつ噛みつかれて死にかけるのも勘定のうち、ということなのだろうか?まあ、それもまた、試合前に睡眠さえとる「エエカッコしい」のバキを批判するものとしての、新しい武道家の姿として、ありといえばありなのかもしれないが。

このままでは死ぬかよくて敗北だ。鎬は立ち上がらなければならない。そこへ、容赦なくジャックの蹴りが襲いかかる。まだからだが低い位置にあるところへ、顔面へのローキックだ。すさまじい威力だろう。痛いとか意識がとぶとかそんな次元じゃなさそう。一般人ならまちがいなく一撃で死んでいる蹴りだ。

さらにすくいあげるようにアッパーのだめおし。鎬の意識がまだあるのが不思議なくらいの打撃だ。背中を向け、這って距離をとろうとする鎬の真上に、跳躍したジャックが浮かぶ。そして、うしろから首に向けてかかとをふりおろすのだった。

バキも克巳も渋川も、首が折れたと感じたようだ。ということは、折れたのだろう。首が折れても人間は動けるのか? 脊椎をやるのとはちょっとちがう意味なのか、よくわからないが、まだ鎬は動いている。そして、観客や実況が止めるなか、手をついてまだ立ち上がろうとする鎬の前にジャックがしゃがみこむ。実況のいうとおり、ここまでだ、生きてるうちに幕を下ろせと。

 

しかし試合は終わっていない。観客が拍手をはじめ、なんとなく終わりそうな雰囲気になったところで、鎬の左拳が閃く。残ったジャックの右の視力を、紐切りで奪ったのである。ジャックの眼前は完全に暗闇となった。だが、そこからの行動も早かった。まだ近くに残っている鎬の左手をつかみ、二の腕に噛みついたのである。

 

 

 

つづく。

 

 

 

最大トーナメントでバキも腕の血管を切られて死にかけていた。鎬は首筋だけでなく、首の骨折と腕の出血、三つも致命的なダメージを抱えることになるのだった。

 

 

ちょっと前に、ジャックや鎬のありようは、「強さ」を求めるものなのか「勝利」を求めるものなのか、ということを書いた。現実問題、強ければたいがい勝てるし、勝ちの多いものは強いので、両者はあまり区別されずに用いられがちだが、厳密には異なる。たとえば猪狩は、もちろん弱くはないが、「強さ」においてまず名前があがるようなファイターではない。だが、「勝利」ということにかんする執念はすさまじかった。そういうことである。

ジャックも鎬も、まるでじぶんのからだを差し出すようにして相手の必殺技を引き出し、同時にじぶんの技を決めるということをくりかえしている。このやりかたで勝ったとして、ジャックは、また鎬は、「強い」といえるのだろうか。もしこのまま出血多量で鎬が死んでしまったら、あるいはなにかの加減で鎬紅葉でも治せないような紐の切れかたをしていたら、強いもなにもない、鎬は死ぬか再起不能になり、ジャックは両目の見えないファイターになってしまうのである。勝ちはするかもしれないが、そこに持続性や、技術体系の普遍性はないのだ。これを「強い」といえるのかという問題が、このファイトの要諦なのである。

ジャックは、もっとはやくから、そのときその瞬間強ければ、勝てればよいということをいって、そのための行動をとってきた人物だ。明日を見ないドーピング、効率無視のトレーニング、そして規範を逸脱した「オンナコドモ」の技術としての嚙みつき、すべては、いま・この瞬間勝利するためである。じゃあ論点になるようなことでもないのでは、というはなしだが、ぼくが引っかかったのは、彼が嚙道という技術体系を確立したというからなのだ。

 

ふつう、技術体系というと、誰もがコミット可能な普遍的なものを指す。ぼくもその意味で受け取ってきた。「誰もが」の意味が極端にせまいとしても、たとえば、文章や動画に起こしたりすることが可能な技術の束として、嚙みつきのセオリーを確立したと、そういう意味に受け取ったのである。たぶん、ほぼそういう意味なんだろう。だが、そこにはやはりジャックの個性というものが宿っているのである。ジャックの個性、ジャック的なものに突き動かされることで稼動する体系、それが嚙道なのだ。

それはいったいどういうものか。「ジャック的なもの」とはなにか、それが、「強さ」より「勝利」を求める態度なのだ。いわば、明日ありえた「強いじぶん」を捨てて、具体的には視力を捨てて、今日の勝利をとる、それがジャックの道であり、その哲学によってはじめて成立する技術体系が、嚙道なのである。


 

この点で、鎬昂昇もやはり規範から逸脱した人物としてあらわれた。くりかえすが、いくどもバキのあの、試合前のわざとらしいほどの睡眠、つまり「エエカッコしい」が触れられたあとの、鎬のウォーミングアップ、もっといえば本部道場を訪れるなどの準備期間である。武道家は、いつでも臨戦態勢でなければならない。だから、ウォーミングアップをしない。いつでも自然な状態でたたかわなければならないし、それで得た勝利以外に意味はない。バキ的なエエカッコしいの哲学を大雑把にまとめるとそういうことになるだろう。だがそれは、「ウォーミングアップをしてはいけない」ということを導きはしなかったはずだ。してもいい。明日通り魔に襲われることと今日の試合とはなんの関係もないからだ。ここに、体操からも学ぶ鎬の新しさがあったようにおもう。同様の流れで、おそらく鎬のなかには、そうした「エエカッコしい」への拒否反応もあったのである。いつかあらわれる通り魔に対応できることと今日の試合は関係ない、にもかかわらず、今日の試合を、それが行われると知りながら、偶然のトラブルのように受け取る必要はあるのか、それは怠慢ではないかと。それを「怠慢」と認識するところで、彼が「強さ」を求めるものか「勝利」を求めるものか分岐するわけである。

 

こうみると、雑なようでもあるが、要するに今回のはなしは、ジャック的なものの再評価ということになるようである。しかも、それを特殊なものとしないのだ。いったん、武術的な思考法を通過したうえでなお勝利を求めるというのがどういうことか、それが、両者の異なるスタイルによって描かれているのである。


 

 

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