すっぴんマスター -20ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第95審/生命の値段④

 

 

 

壬生と離れてから伏見組付けになっている久我である。

家を出るときには、やるぞ!と口に出してやる気があるようだが、組でこなす雑務はモチベーションがどうとかいうものではない。いじめられながらトイレ掃除である。敬愛する壬生のことがあるから、がんばることができるというようなところみたいだ。

ときどきでてくる半グレみたいなヤクザふたち組だ。介護施設で働いてたから便所掃除得意なんだろうと、掃除が不徹底であると責める。介護施設で働いてなくても久我はなんとなくていねいに掃除をしそうだが、まあ、ただの言いがかりだ。

久我がちょっと黙ってにらんだだけで、反抗的な目をしたと暴行がはじまる。うーん・・・なんてしょぼい連中なんだ・・・。

そこに宇治がとめにあらわれ、久我に車を出すようにいいつけて去っていく。

同じ部屋にいた鍛冶屋が、どうも宇治は気に食わないとくちにしている。で、金髪のほうの若いヤクザに、久我は壬生と連絡とってるはずだということをいうのだった。とってるのかな。プライベートのスマホでLINEとかじゃ、だめだろうな。どうやってやるんだろう。

 

久我の運転でどこかに向かいながら、宇治は、久我を評価していることを告げる。一歩下がり、周りをよく観察している、役に立ちたいという心意気も感じると。謙遜する久我に、どこと覚えたかと宇治は訊ねる。もちろん、壬生との関係で身につけたものだ。回想のなかで久我は、雨のなか、コンテナに入れた死体を壬生といっしょに運んでいる。溺死体を漁師に処分してもらうんだそうだ。いきなりありえない状況なのが彼ららしいが、久我にはよい思い出のようだ。

 

「久我 “今”と“いざ”を分けるな。

 

人の一生は一瞬が積み重なったものだ。

 

今日死んでもいいように丁寧に生きろ。」

 

 

宇治はわかって聞いているのかもしれない。恩師みたいなひとに教わったと聞いて、久我は少し笑うのだった。

 

白栖医院長は、あんな写真が流出しているというのに、その点について恥ずかしいとかそういう気持ちはないみたいだ。ともかく、相手が未成年で炎上していたことについて、その紹介をした壬生に怒っている。そっか、プレイ写真がしっかり流出していたもんだから、それで炎上しているような気でいたが、相手が未成年だったわけね。まあ、未成年でなくても炎上してたとおもうけど。

白栖は、まず壬生が売ったのではないかというが、秘密を預けている以上、それをいってもはじまらない。誰がネットに売ったか調べてくれと、電話口の向こうの壬生にいう。その壬生は、久我の運転で到着した宇治もいるのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

宇治は壬生と会うために久我の運転で移動していたようだ。なんか、なんだろう、久我は伏見組にばれないように壬生と連絡とっているらしいし、宇治はその久我の壬生に対する敬愛の気持ちを確認した足で壬生に会いにいくし、どろどろの不倫ドラマみたいだな。宇治はなんで壬生に会いにいくのにわざわざ久我を運転手に呼び、しかも久我の壬生への愛を確認したんだよ・・・。

 

今回の描写で、ふたつのことが明らかになった。久我は壬生と宇治の関係を知らない、宇治は壬生が白栖を陥れたことを知らない、この2点だ。じぶんを慕うふたりのヤクザ両方に、かなり重要なことを秘密のままにして「さあね」とかいっちゃう壬生はやっぱり作中最凶かもしれない。

 

しかし、笑い事でもなく、ここには九条もからんでいる。九条は、壬生の居場所を知る宇治以外で唯一の人物である。このようにして、壬生には秘密ごとの層のようなものがあり、そこに届くか届かないかで、彼の交友関係は整理できるようである。久我は、宇治や九条ほどに秘密を共有してはいないことになるが、かといって彼が久我をないがしろにしているかというとそうではないのもポイントだ。また、宇治とは友人関係かもしれないが、九条とはどうだろうという疑問もある。友情とはなにか、というような問いに踏み込むつもりはないが、いま現在、壬生と九条がとても仲良しだったとしても、はじまりは仕事の関係だったわけで、それが難しいところだ。仕事の関係とは、つまりたがいにステークホルダーだったということである。現実には、仕事上のつきあいから友情や愛情が生まれてくることはある。壬生と九条の関係は果たしてそういうものだろうか。どうも、ちがうようにおもわれる。高い次元での信念の共有のようなもの、それが、彼らの関係をあのようにさせているのである。壬生は弁慶と義経の関係に九条とのものを見立てたが、弁慶と義経もいってみれば仕事上のステークホルダーだ。しかしこれが、ある段階を超えたとき、友情、もしくは友情に似たなにかになることがあるのだ。

弁慶と義経、壬生と九条のような関係を成立させるのに必要な条件とはなにか。それは、仕事とプライベートの差がないということだ。仕事と、たとえば家庭が、収入という点以外で文脈を断っているとき、これを連続させたものとしての友情は成立しない。一般に、仕事のつきあいのひとと友人になるというときは、プライベートでのつきあいもするようになるということを指すのだ。だが、壬生と九条がそうではないことは自明といっていいだろう。彼らは、プライベートふうに食事をともにしたりもするが、それはどこかおままごとのようである。自他に向けてそういうふりをしているという感じが否めないのだ。彼らには仕事とプライベートのあいだに差がない。だから、九条は職場に住む。壬生にかんしてそのような指標があったかどうか思いつかないが、ひょっとすると今回のような人間関係の階層化がそういうことなのかもしれない。たとえば、久我は壬生を、文字通り命をかけるほど(菅原、京極の件では死んでもおかしくなかった)慕っており、壬生も久我を買っている。こころから信頼している感じが伝わってくる。こういうものと友人関係になったとしても不思議はない。けれども、壬生では仕事とプライベートに差がない。仕事にかんするつきあいについて、冷静にその価値を計量するように、関係性に段階を設けることに、壬生は抵抗がないのだ(もちろんこれはひとつのわかりやすい例としてのことであって、壬生はおそらく久我を守るためにも秘密をつくるのである)。

 

九条は、職場の屋上で暮らし、事件の死者が残した犬を飼い、まったく異なる倫理観の師匠をふたりもつ。どうしてそういうことをするのか、またどうすればそんなことが可能なのか、それは、九条のスタンスが、つねに「本人」であることを要請するものだからである。彼は、依頼人を選ばない。はためには機械のように、やってくるもののはなしをとにかくよく聞くことで仕事を開始する。それは「手続きを守る」ためだ。弁護士の任務というものが、弱かろうが強かろうが、ともかくやってきたもののはなしを聞くことから開始すると、そういう信念があるから、それを貫徹するのである。そのために、ひとがひととして生きていく過程で必ず帯びてしまう認知バイアスを、可能な限り排除しなければならない。それが、彼に感情を捨てさせた。父や母の墓参りの際には、必ず雨がふる。感情は両親の墓においてきたのだ。依頼人を選ぶものは、それに応じたペルソナを装着することになる。貧乏人をすすんで救済する流木は、人権派弁護士としてのふるまいを自然選び取るだろうし、金持ちばかりを相手にする山城は成金ふうになる。そういう、後天的な、社会が規定する価値のようなものを、九条はまとわない。もしくは、そうならないよう努めている。それが彼に常に「本人」であることを求めるのだ。こうして、「本人」でありながら「感情」を欠くというあの独特の「自然体なのに空虚」な雰囲気をもたらす。

こうしたありようを、彼は物理的にプライベートを排除することで成り立たせる。究極は娘と離れていることだ。もちろん、丑嶋社長がうさぎを愛していたように、九条も娘をおもうことはあるだろう。しかしそれもわずかな時間である。娘が九条と離れていることは、原因でもあり、結果でもある。そんな生きかたをしているものに家庭など維持できるわけがないのである。

 

壬生と宇治も同じように友情以上のものを感じる仲だが、九条とは逆っぽいのがおもしろい。どうも、壬生にとっての宇治は、いまの「壬生」が成立する以前からの仲のようなのだ。つまり、いってみればプライベートの関係から仕事とプライベートの差がなくなった現在においての超・友人に昇格したわけである。宇治と壬生は9条破棄の信念において交わる。憲法9条と九条がじっさいに今後の作中において交差することがあるのか、その名前は偶然の一致か、わからないが、壬生の人間関係という点でみると、九条と宇治は逆方向から壬生と親しくしているのであり(ここまで書いておいてあれだが、たぶん九条はいうほど壬生に友情の感情をもってはいなそうだが)、9条破棄の信念は、信念ではなくあくまで利害関係の延長で親密な関係を築く九条を否定する感情の比喩となっていくかもしれない。いずれ登場する、壬生が九条に顧問弁護士になってもらいたいという人物も登場すれば、このあたりはわかってくるだろう。その際には、久我の役割も重要になってくるはずだ。ポイントは「仕事」と「プライベート」なのである。

 

 

 

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第12話/あの頃より

 

 

 

また更新が遅くなり、月曜になってしまった。すみません。駆け足でいきます。

 

ジャック対鎬昂昇の試合がはじまり、開始早々、鎬の斬撃拳が炸裂、ジャックは上半身の全体にわたってあちこち切られてしまう。とはいえ、傷じたいは浅そうだ。筋肉の厚さのせいなのか、頭蓋骨ごと切ってるんじゃないかというほど深く猪狩の顔を裂いたシコルスキーの斬撃も、ジャックではせいぜい切り傷程度のものになっていた。皮膚の下の肉がかたすぎて弾かれてしまうのかもしれない。

 

観戦しているバキの評価では、鎬昂昇の拳は以前対戦したときより鋭利になっているということである。あれって最大トーナメントよりも前のことだもんね。ドイル戦であれだけ強かったんだから、そりゃそうだろう。

鎬の構えはこれ、紐きりかな。視神経に指をひっかけて切り、視力を奪うというおそろしい技だ。

ジャックからすればたいした傷でもない。脱力をきかせながら構える。そうして、試合っぽい攻防がはじまる。ジャックの猛烈なジャブをかわし、風圧で試合場の土が舞うようなローキックも飛んでかわす。その足で、鎬はジャックの顎を打ちぬく。少し効いたっぽいが、ジャックの攻撃は止まらない。攻撃の嵐のすきまを狙い、鎬の親指一本拳がジャックの眉間をうがつが、特にダメージはなさそう。するとジャックは、あいている鎬の左手をしたから握手の要領でつかみとる。サイズはけたちがいだが、とことん指を鍛えている鎬は握力もそうとうあるはずだ。部位鍛錬もずいぶんしているだろう。だがジャックはその手をやわらかいという。

 

次の瞬間、鎬の貫手が閃き、ジャックの左目から光が失せる。紐きりが決まったようだ。とほぼ同時に、それを待っていたように、ジャックの嚙みつきが鎬の左肩に入るのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

やはり嚙みつきはカウンターの技術だな。これをカウンターとは呼ばないかもしれないが。

 

ジャックの考え方は計画的なものではない。この試合に勝てれば、今夜を乗り切ればそれでいいという刹那的なぶぶんがかなりあるのだ。

よく似ているしジャックじしんあまりちがいを区別していないようなのだが、「勝利」を求めることと「強さ」を求めることは異なっている。両者の様態が異なるからだ。極端なことをいえば、常時強くなくても、その瞬間だけ強さを引き出せれば、勝つことはできる。また、勝利数が少なくても、本部のように、じつはとても強いファイターというのは存在する。「勝利」は、観測可能な事実の説明であるのに対し、「強さ」は、通時的であり、観測したり手に取ったりするものではない、物事の形容文句なのだ。

試合前の御手洗さんとのやりとりでは、ジャックはやはり今夜を乗り切ること、つまり「勝利」を求めているようだった。その意味で、紐を切らせて嚙みつきを敢行するというのは、理にかなっている。おそらく、切られた紐はもとにもどるのだろうけど、しかしこの戦略は、「強さ」という点においては、疑問が残るものとなる。かつて大山倍達は、日本刀とのたたかいにかんして、片腕を捨てろといっていた。だが、大山総裁自身は、無傷で完勝したのである。つまり、「片腕を捨てろ」というのは、気の持ちようのはなしであって、戦略ではない。片腕を切らせているあいだ、相手は無防備であるのだから、そのとき必殺の打撃を加えろと、こういうはなしなのだが、じっさいには「片腕を切っているつもりにさせているあいだ」でじゅうぶんなわけである。そして、もしじっさいに片腕を差し出せば、その勝負に勝つことはできても、次の勝負には負けてしまうだろう。「勝利」のために「強さ」を手放す、それが今回ジャックが実行したことなのである。

 

ジャックが確立した嚙道は、「勝利」のための技術なのか、それとも「強さ」のための技術なのかというと、くりかえし体系という言葉が使われていることばから分かるとおり、「強さ」を導くものである。「体系」とは、その確立に関与していないものもなんらかのかたちでコミット可能な、またなんらかのかたちで読み取ることができるデータで表現可能な全体をいう。「勝利」のための技術、つまり、じっさいに片腕を切らせる技術というのは、普遍化不可能である。誰もが片腕を切らせるほどの胆力をもっているわけではない、というはなしだけではなく、そうした状況が、想定としてはふたしかすぎるからだ。しかし、むしろはなしを具体的なところから遠ざけ、淡くすることで、これは「体系」に組み込むことが可能になる。つまり、「片腕を切らせるつもりで立ち向かえ」というようなことだ。もちろん、これだけでは精神論かもしれない。だが、そうして新しい回路を開くことで、技術的な明度があがり、道は拓かれるのである。

 

だが、ジャックは「勝利」を望むものである。そう考えると、嚙道はいうほど普遍的ではないのかもしれない(当たり前だが)。試合開始前に、両者は規範意識から逸脱するという点で似ていると書いた。武術家でありながらかまわずウォーミングアップをする鎬昂昇と、オンナコドモの技術である嚙みつきを真顔で駆使するジャック・ハンマーなのだ。ひょっとすると「体系」の意味も、ジャックでは微妙に異なってくるものなのかもしれない。

 

 

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第94審/生命の値段③

 

 

 

初登場の平川幸孝がおそらく不必要な入院をお年寄りに迫っているところだ。

幸孝は白栖総合病院の医院長、雅之の次男で、正孝の弟である。名字がちがうのは、ちがう病院の平川に婿養子に入ったからだ。

父が相楽弁護士のところに相談にいっているところで、兄弟が話し合う。次期医院長については、正孝が辞退したいとしているのを受けて、幸孝にはなしがいっているらしい。だが、彼は平川委員の婿養子、そうかんたんに首肯できることではない。そもそもなんで辞退したのかというところで、弟は兄の理想論にうんざりした様子をみせる。理想で飯は食えない、というのが弟の考えだ。診療報酬が下がったせいで、病院は薄利多売でやっていくしかない状況なのだと。善人ぶってたってしょうがない。それが病院経営のセオリーなのだ。

でも、だとした病院の存在理由とはなんなのか? 正孝は拝金主義という。幸孝はそれを否定しない。なぜなら、患者の意識が低いからだ。保険で安くなっているぶん、じっさい高齢者はちょっとしたことですぐ病院にくる。高額医療を受けている自覚など誰にもない。そうやって、満員電車の現役サラリーマンからしぼりとったお金を湯水のように使っていると。その恩恵を医者は受けているのだ。

 

少し考え、正孝はある患者のはなしを始める。事故で足を失った少年である。これは、第1審に登場したあの子どもだ。彼は左足を失ったが、その前に、病床がうまっているという理由で白栖総合病院を拒否されていたのだ。その後もたらいまわしされ、けっきょくどうにもならなくなってしまったのである。じぶんなら切除せずに済ませることができたと。

正孝は少年のことが気がかりで、裁判にまで出かけていた。あの事件の運転手・森田を弁護したのが九条である。正孝は、悪徳弁護士として、九条の名前まではっきり覚えているのだった。

 

 

正孝の妻・早苗は、夫が次期医院長を辞退するのを撤回してくれと電話でいっている。恵理子にマウントをとられるからと。恵理子とは、幸孝の妻、つまり平川のところの娘なのである。ああ名前がややこしい・・・。早苗と恵理子は以前からの友人らしい。恵理子がミス柏に選ばれたらじぶんはミス我孫子に、タワマンに引っ越したらその下の階に、という具合に、恵理子に遅れるかたちで、早苗はずっと張り合ってきているらしい。最後には恵理子が結婚した夫の兄と結婚までしたわけである。まあ、これは恵理子の言い分なので、どこまでほんとうかわからないが、医院長の件をみると、だいたいあっているのだろう。早苗からしたら長男である夫が医院長になるかもしれないということは切り札だったはずだ。

 

 

SMプレイ写真の謝罪会見ということだろう、また白栖雅之が記者達を呼んでなにかしている。その後、相楽から請求書を預かる。額は10億となっているのだった。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

弁護士とのつきあいはないので、ぜんぜん相場はわからないが、相楽は相応の相場だといっている(相が3回も続いちゃった)。10億って・・・。

 

幸孝と父の雅之の考えかたはほぼ同じとみてよさそうである。しかし、幸孝は当然雅之よりあとにこの世に生まれたもので、父のふるまいをみているものであるから、その発想は選択的なものとなる。つまり、ほかにももののとらえようはあったろうに、自発的にそれを選び取っているのだ。兄の正孝が父の経営に違和感を抱えていることがそれを示す。しかも、それほど年は離れていないようだが、幸孝は兄のふるまいさえみているのである。そのうえで、自明のもののように、父の経営思想を引き継ぐのである。

 

父・雅之と長男の正孝の病院像は、患者を「創出」するものか「対応」するものかという視点で整理することができると前回考えた。原理的には病院や医者というものは、病気や怪我で困っている患者がまず存在して、しかるのちに出現するものである。ここに誠実に「対応」していく限りでは、正孝の考えは正しいものとなる。ところが、今回細かく次男の幸孝が示したように、そればかりでは経営が成り立たない。だから、情報の非対称性を利用して不必要に入院をすすめたり、過剰な延命措置をしたりして、患者を「創出」するのである。これはじっさい、ふつうの会社なら、当然の発想だ。どんな良心的な販売店も、ただ頼まれたものを売るだけでは成り立っていかない。顧客のニーズにこたえるだけでは大きくもならないし持続もしない。そこから先にいくためには、顧客の欲望を創りだし、また顧客を開拓することが必要になってくるのである。だから、両者の相違は、福祉や自治体に近い目線で患者をみるのか、本人さえまだ気がついていない欲望を抱えた客として患者をみるのかという点にあることになる。

さらには、父の雅之には病院をファルス(男根)的にとらえているふしがある。一代で築き上げたじぶんの病院をおおげさにも「一族」のものとし、長男が拒否したら次男という具合に、息子に継がせようとしていることからもそれはわかる。このとき、息子たちはただじぶんの代理人である。

 

こうしてみたとき、その立場、つまり、父の男根としての病院を引き継ぐ立場を喜んで引き受けるものとしての幸孝は、自画像をそこに託していることになる。ここではじめて、雅之が語るぶんにはいまいち内実をともなわなかった「一族」という語が質量をもったものになる。幸孝は、「一族」のものであればこそ、父が膨張させた病院を、その経営理念に則ったしかたで受け継ぐのである。だから、幸孝はどことなくカラッポな印象があるのだ。妻の恵理子も、どことなくトロフィー的であり、恵理子じしん、その役割を喜んで引き受けているようである。心の底からわきでてくるような欲望や自尊心が、どこか欠けているのだ。早苗もまたそういう人物のようだが、その早苗を馬鹿にしつつ、恵理子は、彼女を馬鹿にするという行為によって、じしんも相対化している。早苗が張り合ってくることを馬鹿にすることによって、じつは恵理子もその土俵にのっているのである。

 

今回のはなしでおもしろいところは、この白栖家の標準形である患者の「創出」ということが、顧問弁護士の相楽にもあてはまるということだ。相楽もまた、依頼人を、というか厳密には依頼を「創出」する。雅之が炎上しても、それが微妙に鎮火しないよう努め、依頼人が困る状況にたくみに誘導するのである。

 

今回は、正孝の脳裡に焼きついて離れない足を失った少年の記憶を象徴として、ここに九条もからんでくることとなった。正孝には九条が悪徳弁護士にみえているようだが、ここまでの考えをみるとどうだろう。九条は依頼人を創出したりはしない。徹底的に「対応」するものである。だから、むしろ正孝とは気が会いそうなにおもうのだが、そうもいかないらしい。だが、冷静にみると、彼が九条を悪徳弁護士とするのは、かなりのぶぶん感情的なものだ。病院が満床を理由に少年を拒否したことと、九条が手続きにしたがって森田を釈放に導いたことは、なんの関係もない。もっといえば、法律上の事件の経緯と少年の足の行方も、関係がない。少年が足を失うかどうかということは、森田が有罪になっても無罪になっても、別の文脈で起こっていたことだからだ。したがって、この正孝の反応は、白栖総合病院をはじめとした医療業界へのうらみをのせかえたものだ。正孝も事件のほんとうのところはテレビなどみている一般人と同程度の知識でしか見えていないはずであり、さらにいえば法律は素人のはずである。それなら、ほんとうは、九条を悪徳であるかどうか、彼は判定できないのだ。しかしそうする。それは、じしんが救えなかったという罪の意識の反転で、少年は救われるべきものだったという信憑が強くあるからである。とすれば、ここにはまったき「善」が想定されていることになる。あの事件にかんして、少年は絶対に救われるべきだった。足にかんしていえば、じぶんなら切除させずに済ませることができた。同様に、犯人は有罪になり、少年は報われるべきだった。このようにして、彼は「善」なるものを想定しているのである。

だが、これはいわゆる二元論的な善とは異なるもののようである。おそらく、根底にあるのは罪の意識だ。二元論的な善は、目の前に広がる景色をホワイトボードに油性ペンでくっきり区切るようにしてわかつものだ。だが彼のばあいは、父の系譜において、悪をなしているという自覚がまずあった。である以上、父のふるまいの外側にあるものは、悪ではないことになる。それはたとえば、患者の創出の向こう側にみえる、誠実な対応である。このようにして、正孝は罪の意識から、疑う余地のない完全な善を予感しているのである。じしんの否定ののちにあらわれるにちがいない善、それをはばむものが九条であるというわけである。こうみれば、それは正しいだろう。九条は、前提された善悪というものに与する兄の蔵人や過去の烏丸とは対立するものだからだ。九条の前にあるのは、ただ法律の文章であり、手続きなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第11話/久方ぶりの闘技場

 

 

 

鎬昂昇とジャック・ハンマーの対決がはじまる。

鎬のセコンドは花田である。花田は、今さら言うと前置きして、ジャックは嚙みつきだけに特化したファイターじゃないと、なんか当たり前のことをいう。ジャックのことを知っているふうだが、花田は、たたかってもいないし、なんならジャックに視認すらされてないよね・・・。鎬は最大トーナメント出場者だしピクルのときも顔出してたからジャックもぎりぎり知ってたけど。なに言ってんだコイツ。

 

鎬昂昇は優しいので、今さらだねとしつつも、噛みつくだけの猛獣がいないように、地下闘技場には単純なファイターなどいないと一般化する。この前フリは、たぶんたたかいの様相を暗示するものとおもうが、とすると、嚙みつきがなんらかの方法で封じられるような状況がくるのだろうか。

 

地下闘技場のお客からすると鎬は久々みたいだ。通常、拳を鈍器と化す空手を斬撃術へと進化させた逸材である。拳や手刀で「切る」ということは、独歩もやる。つまり、ある段階をこえたところで、鈍器はやがて刃物になるということだ。この煽りは、逆に直前のジャック評にかかるものかもしれない。つまり、鎬は鈍器としての拳も当然もっているはずなのだ。

 

なんのつもりだか、鎬は右足を前蹴上げのように垂直にあげる。柔軟性とバランス感覚を見せているようだ。とはいえ、まあ、これもたぶんみんなできる。

 

そこへジャック登場。鎬のほうに視線をやっている。こういうことは、意外と珍しい感じがする。ジャックは、じぶんの強さに興味があるのであって、相手はどうでもいいからだ。興味があるのか、それとも、鎬昂昇という記憶のあいまいな人物がじぶんのおもっているものにちがいないことを確認しているか、どちらかだろう。

 

両者が向かい合う。鎬昂昇177センチ84キロ。ジャック243センチ211キロ。身長差70センチ近く、体重は倍以上ちがう。見下ろしている、と実況は騒ぐ。それは、身長差があるのだから当たり前のことだが、ジャックはひざに手をおいて身を屈め、大人が子どもにするように視線をあわせる。正しく見下ろしたわけである。

 

 

開始とともに仕掛けるのは鎬。両手足が閃く。空中からの連撃が、ガードしたジャックの腕や肩を、まだ浅く、裂くのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

なぜか渋川剛気が声をあげて感心している。渋川はかつてジャックと対戦した人間だが、なんだろう、ガードをしているのが珍しいのかな?

 

 

ジャックが嚙みつきだけに特化したファイターではないというのは、そんなの当たり前だろうというはなしなんだけど、これは宿禰戦でも言及されていたことで、ポイントのひとつなのかもしれない。で、当然鎬昂昇も、斬撃拳だけの空手家ではないというはなしになって、たとえば眼底砕きみたいな打突系の秘技も彼にはある。そういうはなしだろうか。

 

じっさい、嚙みつきだけに特化したのでは、嚙道は成立しない。宿禰はねりこむという上手い表現をしていたが、まずジャックならではのフィジカルと格闘技術があって、そこに自然に、強力な攻撃技術としての嚙みつきが馴染んでいる状態を作り出す、それが嚙道なのだった。決め技が嚙みつきである必要も、最終的にはない。もっとも強力な技は嚙道では嚙みつきだから、自然とそうなる場合が多いだろうが、そうでなくてもよい。そして、いかにそのたたかいの流れの内に、嚙みつきを自然にのせるか、そこに相手を誘導するかということが要諦ということになる。だから、おおざっぱにいって嚙道はカウンターの技術になる。象徴的に肉食獣のポージングがとられることも多いが、肉食獣のかまえは、「これから噛みにいきます」ということを相手にわかりやすく伝えるものだ。それは、技術ではない。そうなったら、相手はまわれ右して逃げたり、バキみたいに顎を打ちぬいたり、いろいろ、対策できるようにもなる。そうではないのが嚙道の特長なのである。

 

こういうふうにみると、鎬昂昇はどうなのだろうということになる。同じように単純ではない地下闘技場ファイターなら、斬撃拳ではない拳を彼はもっていることになる。じっさい、もっている。だが、もし彼が、あまりにも斬ることにこだわりすぎてしまえば、ジャックにおくれをとるかもしれない。ジャックのスタイルは、嚙みつきが決め技である必要がない。なんなら、使わなくてもいい。しかし鎬昂昇はどうだろうか。そこで、彼は後手にまわってしまうのではないか。板垣作品でよく描かれる、凶器をもってしまうと、それ以外の行動をみずから制限してしまうという、人間の心理なのである。

 

 

 

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第93審/生命の値段②

 

 

 

白栖医院長がSMのプレイルームみたいなところで楽しんでいるところだ。全裸で椅子に全身を固定させて、おしっこをがまんしている。いや、おしっことは限らないのか・・・

近くにはムチムチの女王様がいて、そこでやれと命令している。が、どこか含みのある表情だ。部屋のドアにはサンダルがはさまっていて、しっかりしまっていないのである。そして、スマホをもった壬生が黙って去っていく。女王さまは前回壬生が白栖にいわれて呼んだ子で、彼女はおそらく壬生の指示を受けていてドアを開けておき、壬生はそのプレイ写真を手に入れたというわけである。

 

白栖総合病院はコロナ禍を受け入れるしながらその実病床使用率ゼロで20億の不正受給をしていたということで炎上しているが、加えて、沈下のために医院長色を辞退し息子の正孝に継がせるとしたことがさらなる炎上を呼んでいるところだ。医院長がバカよばわりするから、なんとなく京極猛みたいなのを想像していたが、意外にも正孝は九条とか烏丸とか戌亥よりのインテリっぽい風貌だ。少なくとも、優しそうではある。

 

白栖が弁護士の相楽に愚痴をいっているところに正孝がやってくる。次期医院長を辞退したいと。正気かと怒鳴られてはいと即答するくらいには落ち着いている。ぜんぜん、白栖のいいぶんからイメージされる人間とはちがうなあ。

世間に叩かれているから辞退するのではなく、それ以前、病院の経営方針が間違っているからやりたくないということらしい。誰のための医療なのか考え直したいと。もう少し若い九条みたいな男だな。

医院長にいわせると、病院は経営者一族のためにある。病院の利益の最大化が最優先だと。自己利益の追求はけっこうだけど、それを、あえて病院でやる意味はどこにあるのか、よくわからない。

正孝は、医師と患者の、情報の非対称性や、過度の延命措置について、長いあいだ違和感を抱えていたようだ。医師は、当然患者より医療にくわしい。専門用語をちらせば、患者はおびえて医師のいわれるがままになる。そこに、過剰医療で延命措置をとる。こういうことのくりかえしで、患者を患者でいさせ続ける。

「生き物は自力で食えなくなったら死を迎えるのが自然」という、少し極端な考えかたがあることを、正孝は示す。点滴と胃ろうでむりに栄養をとらせ、意識も精神もなくただ心臓が動いているだけのものを人間と呼べるのかと、こういう葛藤があるのだ。

医院長は、命は地球より重いと、わりとシリアスな顔でいう。ここのぶぶんはどう受け取るべきなのか判断がつかない。それをお前がいうのかという気もするし、あるいはそれを真剣につきつめた結果いまにたどりついたのかもしれない。

 

正孝が去ったあと、Xかなにかで例のプレイ画像が流出していることを医院長は知るのだった。

そしてまた炎上。炎上というのかこれは、ともかく問題発生。車のなかで九条と烏丸が、どこか愉快そうにこの件について話している。こうやって炎上し続ければ、弁護士は仕事が増えてもうかるわけである。白栖委員長の過剰医療と同じ手法というわけだ。大衆は大岡越前的な勧善懲悪が大好きだ。だから、悪いことをしたものが謝って、叩かれれば満足する。この状況を「腹切り」というらしい。どの状況のことかよくわからないが、すいませんでした!と誤りながら腹を切り、どぼどぼ出てくる血はそのまま弁護士費用となる。相楽は10億は稼ぐだろうというのが九条の見立てなのであった。

 

 

 

つづく

 

 

 

いろいろ考え方が明らかになってきた。

ひとつは、白栖総合病院での親子の対立である。父が雅之で息子が正孝。雅之は、病院経営の目的は一族の繁栄だと考える。白栖病院は雅之が一代で築き上げた病院で、ここのところの「一族」のニュアンスは、伝統のなかにおけるじしんというよりは、ファルス的なものと考えられる。とするならば、患者はただの「手段」にすぎない。どれだけもうけて、どれだけ病院が大きくなるのかは、患者からどれだけお金をしぼりとれるかにかかっているからだ。それが、積極的な情報の非対称性行使と過剰医療につながる。対して正孝は、はっきりとしたじぶんの考え方をまだ確立してはいないものの、これではいけないと感じている。少なくとも、専門知識をふりかざして患者をおどかすのはおかしいだろうと。その先端に、延命措置の否定という極北があらわれつつある。

雅之が「一族」というとき、それは要するに、「おれの息子たち(からつらなる家族)」というものになる。代々病院を意地してきて伝統があるとか、そうでないのであれば、これはけっきょく肥大化した自我なのだ。若いころは、その「自分という才能ある病院経営者」を表現するすべとして病院経営は行われていた。それが、老いと息子の出現とともに、「一族」の営為として読み換えられつつある状況なのだ。そのように読み換えることで、彼はじぶんが衰え、また死んだあとも、「自分という才能ある病院経営者」のイメージを保持することができる。肥大する病院はそのまま彼のファルス(男根)である。だから、資質部分ではちっとも認めていないのに、正孝という、じぶんを投影できる「一族」の男性に、それを託すのである。このように自己を肥大化させることを日々の仕事としている人間なので、マゾ気質の行き場が失われ、陰ではあの趣味に走っている、ということなのだろう。

正孝は、病院経営にはまだ深くかかわっていないこともあってか、実務より原理に導かれている。根本的には、治療とはなにか、そもそも、人間とはなにか、という葛藤があって、そうした疑問の範疇からそれた医療行為を、父は行っていると、そういう見立てがあるようだ。

 

両者のちがいは、医療行為が「創出」するものなのか「対応」するものなのかというところで区別・整理できる。雅之は、患者を「創出」する。(正孝にいわせれば)ほんらい延命すべきではないものを生きながらえさせ、患者として持続させる。情報の非対称性を利用した不必要な医療行為もあるかもしれない。要するにイノベーティブであるということで、じっさいのところ、これがふつうの企業なら当然の思考法でもある。正孝はそうではなく、患者に「対応」するものとなる。要は、病院が先にあって、患者が出現するのではなく、患者があらわれるから、病院は建設されるのである。そうである以上、患者は第一の存在となる。第一の存在でなければ、病院は建設されていないからである。だから、正孝の論点は、患者が第一だとして、たとえば延命措置についてどうすべきなのか、というところになる。これを吟味しないまま金儲けを行う父はまちがっていると、こういう理屈だ。

 

これについて雅之がどこまで本気なのか命は重いということをいうのは興味深い。これは、前回相楽がいっていた「依頼人ファースト」と重なる発言である。かれらが、まさにそうではないからこそそうくちにするのか、現時点ではまだわからないが、ぼくは、案外ことばのままなのではないかなと感じている。

 

このぶんだと、壬生と相楽が実は通じていて、SMプレイ盗撮の件も相楽がかんでいる、というはなしになりそうだが、それはまああとの楽しみとして、相楽は謝罪会見から雅之をたくみにコントロールして、微妙に鎮火しないようにしているのだ。これが九条のいう彼の才能だ。これは、さきほどの病院経営のはなしとあわせれば、依頼人の「創出」にほかならないわけである。依頼人が、ずっとなにかで困っていてくれれば、依頼は絶えず、お金がどんどん入ってくる。どうせ、病床使用率ゼロの件も、洗脳くんの神道ばりに、決定的なことはいわず、なんならじぶんはそれをやめるようくちにしつつ、そうするようコントロールしたんじゃないのかな。雅之と相楽は医療と法律という別のジャンルで、同じことをやっているわけだ。

ほんらいであれば、病院も弁護士も「対応」するものであるから、「患者ファースト」「依頼人ファースト」であることはできない。原理的にそうなる。散歩していた医術の知識のあるギリシャ人が、「あっちでひとが倒れています!」と聞かされて駆けつけ、「対応」する状況で、彼は散歩中、その患者のことはまったく知らないのである。こうした「対応」の状況における医術の質を担保するものは、経営理念的な「××ファースト」というものではなく、たんなる誠実さなのである。もちろん、通常この言葉遣いが用いられるとき、このような理路は有効ではないだろう。ふつうは、誠実だから、この言葉が出てくる。しかし雅之や相楽はそうではない。だが同時に、この言葉は嘘でもないわけである。彼らが患者や依頼人を第一に考えるのは、それが金だからだ。値段をつけることのできる商品だからなのである。「依頼人ファースト」「命は地球より重い」という言い方は、じぶんの仕事観を否定しないままに相手を納得させる魔法のことばなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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