今週の九条の大罪/第93審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第93審/生命の値段②

 

 

 

白栖医院長がSMのプレイルームみたいなところで楽しんでいるところだ。全裸で椅子に全身を固定させて、おしっこをがまんしている。いや、おしっことは限らないのか・・・

近くにはムチムチの女王様がいて、そこでやれと命令している。が、どこか含みのある表情だ。部屋のドアにはサンダルがはさまっていて、しっかりしまっていないのである。そして、スマホをもった壬生が黙って去っていく。女王さまは前回壬生が白栖にいわれて呼んだ子で、彼女はおそらく壬生の指示を受けていてドアを開けておき、壬生はそのプレイ写真を手に入れたというわけである。

 

白栖総合病院はコロナ禍を受け入れるしながらその実病床使用率ゼロで20億の不正受給をしていたということで炎上しているが、加えて、沈下のために医院長色を辞退し息子の正孝に継がせるとしたことがさらなる炎上を呼んでいるところだ。医院長がバカよばわりするから、なんとなく京極猛みたいなのを想像していたが、意外にも正孝は九条とか烏丸とか戌亥よりのインテリっぽい風貌だ。少なくとも、優しそうではある。

 

白栖が弁護士の相楽に愚痴をいっているところに正孝がやってくる。次期医院長を辞退したいと。正気かと怒鳴られてはいと即答するくらいには落ち着いている。ぜんぜん、白栖のいいぶんからイメージされる人間とはちがうなあ。

世間に叩かれているから辞退するのではなく、それ以前、病院の経営方針が間違っているからやりたくないということらしい。誰のための医療なのか考え直したいと。もう少し若い九条みたいな男だな。

医院長にいわせると、病院は経営者一族のためにある。病院の利益の最大化が最優先だと。自己利益の追求はけっこうだけど、それを、あえて病院でやる意味はどこにあるのか、よくわからない。

正孝は、医師と患者の、情報の非対称性や、過度の延命措置について、長いあいだ違和感を抱えていたようだ。医師は、当然患者より医療にくわしい。専門用語をちらせば、患者はおびえて医師のいわれるがままになる。そこに、過剰医療で延命措置をとる。こういうことのくりかえしで、患者を患者でいさせ続ける。

「生き物は自力で食えなくなったら死を迎えるのが自然」という、少し極端な考えかたがあることを、正孝は示す。点滴と胃ろうでむりに栄養をとらせ、意識も精神もなくただ心臓が動いているだけのものを人間と呼べるのかと、こういう葛藤があるのだ。

医院長は、命は地球より重いと、わりとシリアスな顔でいう。ここのぶぶんはどう受け取るべきなのか判断がつかない。それをお前がいうのかという気もするし、あるいはそれを真剣につきつめた結果いまにたどりついたのかもしれない。

 

正孝が去ったあと、Xかなにかで例のプレイ画像が流出していることを医院長は知るのだった。

そしてまた炎上。炎上というのかこれは、ともかく問題発生。車のなかで九条と烏丸が、どこか愉快そうにこの件について話している。こうやって炎上し続ければ、弁護士は仕事が増えてもうかるわけである。白栖委員長の過剰医療と同じ手法というわけだ。大衆は大岡越前的な勧善懲悪が大好きだ。だから、悪いことをしたものが謝って、叩かれれば満足する。この状況を「腹切り」というらしい。どの状況のことかよくわからないが、すいませんでした!と誤りながら腹を切り、どぼどぼ出てくる血はそのまま弁護士費用となる。相楽は10億は稼ぐだろうというのが九条の見立てなのであった。

 

 

 

つづく

 

 

 

いろいろ考え方が明らかになってきた。

ひとつは、白栖総合病院での親子の対立である。父が雅之で息子が正孝。雅之は、病院経営の目的は一族の繁栄だと考える。白栖病院は雅之が一代で築き上げた病院で、ここのところの「一族」のニュアンスは、伝統のなかにおけるじしんというよりは、ファルス的なものと考えられる。とするならば、患者はただの「手段」にすぎない。どれだけもうけて、どれだけ病院が大きくなるのかは、患者からどれだけお金をしぼりとれるかにかかっているからだ。それが、積極的な情報の非対称性行使と過剰医療につながる。対して正孝は、はっきりとしたじぶんの考え方をまだ確立してはいないものの、これではいけないと感じている。少なくとも、専門知識をふりかざして患者をおどかすのはおかしいだろうと。その先端に、延命措置の否定という極北があらわれつつある。

雅之が「一族」というとき、それは要するに、「おれの息子たち(からつらなる家族)」というものになる。代々病院を意地してきて伝統があるとか、そうでないのであれば、これはけっきょく肥大化した自我なのだ。若いころは、その「自分という才能ある病院経営者」を表現するすべとして病院経営は行われていた。それが、老いと息子の出現とともに、「一族」の営為として読み換えられつつある状況なのだ。そのように読み換えることで、彼はじぶんが衰え、また死んだあとも、「自分という才能ある病院経営者」のイメージを保持することができる。肥大する病院はそのまま彼のファルス(男根)である。だから、資質部分ではちっとも認めていないのに、正孝という、じぶんを投影できる「一族」の男性に、それを託すのである。このように自己を肥大化させることを日々の仕事としている人間なので、マゾ気質の行き場が失われ、陰ではあの趣味に走っている、ということなのだろう。

正孝は、病院経営にはまだ深くかかわっていないこともあってか、実務より原理に導かれている。根本的には、治療とはなにか、そもそも、人間とはなにか、という葛藤があって、そうした疑問の範疇からそれた医療行為を、父は行っていると、そういう見立てがあるようだ。

 

両者のちがいは、医療行為が「創出」するものなのか「対応」するものなのかというところで区別・整理できる。雅之は、患者を「創出」する。(正孝にいわせれば)ほんらい延命すべきではないものを生きながらえさせ、患者として持続させる。情報の非対称性を利用した不必要な医療行為もあるかもしれない。要するにイノベーティブであるということで、じっさいのところ、これがふつうの企業なら当然の思考法でもある。正孝はそうではなく、患者に「対応」するものとなる。要は、病院が先にあって、患者が出現するのではなく、患者があらわれるから、病院は建設されるのである。そうである以上、患者は第一の存在となる。第一の存在でなければ、病院は建設されていないからである。だから、正孝の論点は、患者が第一だとして、たとえば延命措置についてどうすべきなのか、というところになる。これを吟味しないまま金儲けを行う父はまちがっていると、こういう理屈だ。

 

これについて雅之がどこまで本気なのか命は重いということをいうのは興味深い。これは、前回相楽がいっていた「依頼人ファースト」と重なる発言である。かれらが、まさにそうではないからこそそうくちにするのか、現時点ではまだわからないが、ぼくは、案外ことばのままなのではないかなと感じている。

 

このぶんだと、壬生と相楽が実は通じていて、SMプレイ盗撮の件も相楽がかんでいる、というはなしになりそうだが、それはまああとの楽しみとして、相楽は謝罪会見から雅之をたくみにコントロールして、微妙に鎮火しないようにしているのだ。これが九条のいう彼の才能だ。これは、さきほどの病院経営のはなしとあわせれば、依頼人の「創出」にほかならないわけである。依頼人が、ずっとなにかで困っていてくれれば、依頼は絶えず、お金がどんどん入ってくる。どうせ、病床使用率ゼロの件も、洗脳くんの神道ばりに、決定的なことはいわず、なんならじぶんはそれをやめるようくちにしつつ、そうするようコントロールしたんじゃないのかな。雅之と相楽は医療と法律という別のジャンルで、同じことをやっているわけだ。

ほんらいであれば、病院も弁護士も「対応」するものであるから、「患者ファースト」「依頼人ファースト」であることはできない。原理的にそうなる。散歩していた医術の知識のあるギリシャ人が、「あっちでひとが倒れています!」と聞かされて駆けつけ、「対応」する状況で、彼は散歩中、その患者のことはまったく知らないのである。こうした「対応」の状況における医術の質を担保するものは、経営理念的な「××ファースト」というものではなく、たんなる誠実さなのである。もちろん、通常この言葉遣いが用いられるとき、このような理路は有効ではないだろう。ふつうは、誠実だから、この言葉が出てくる。しかし雅之や相楽はそうではない。だが同時に、この言葉は嘘でもないわけである。彼らが患者や依頼人を第一に考えるのは、それが金だからだ。値段をつけることのできる商品だからなのである。「依頼人ファースト」「命は地球より重い」という言い方は、じぶんの仕事観を否定しないままに相手を納得させる魔法のことばなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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