すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)読んだ小説などについて、かってにべらべらしゃべってます。基本ネタバレしてますので、注意。異論反論、論理的矛盾、誤った知識などありましたら、コメントにて指摘していただけるとうれしいです。

小説家志望です。

あと、書店員です。

範馬刃牙、闇金ウシジマくんの感想を毎週書いてます。

基本的に読み終えた書籍についてはすべて書評のかたちで記事をあげていっています。

ちなみに、読む速度は非常に遅いです。

その他、気になる小説やマンガ、映画など、いろいろ考察しています。

あと、宝塚歌劇が好きです。


リンクについては、ご自由にしていただいて構いませんが、コメントなどを通して一言ありますとうれしいです。


《オススメ記事》

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バキ感想最新・刃牙道

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ウシジマ感想最新

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※週刊連載の感想は発売日翌日以降の更新です(現在、特に更新期限は定めずにやっていますので、ご了承ください)。



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(闇金ウシジマくん、範馬刃牙は、主に本誌連載の感想を掲載しています)

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■『方丈記』鴨長明/簗瀬一雄 角川ソフィア文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「枕草子・徒然草とともに日本三大随筆に数えられる、中世隠者文学の代表作。人の命もそれを支える住居も無常だという諦観に続き、次々と起こる、大火・辻風・飢饉・地震などの天変地異による惨状を描写。一丈四方の草庵での閑雅な生活を自讃したのち、それも妄執であると自問して終わる、格調高い和漢混淆文による随筆。参考資料として異本や関係文献を翻刻」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

「ゆく河の流れは絶えずして」でおなじみの方丈記である。そろそろ日本三大随筆とかそういうの読んどかないと、くらいの感覚で、なんでなのか記憶はないが、方丈記は前から読みたかったような衝動の残りかすみたいなものだけは感じられて、これにした。加えて、村上春樹や、最近だと田山花袋、あとラッパーのDELIの作品なんかを通して、無常観についてもっと研究しないとだめだなという考えもずっとあった。その点でいうと、たとえば徒然草とかでもよかったわけだけど。

 

 

さてどのバージョンで読もうかという段になっていろいろ調べて、たとえば同じ角川でもビギナーズクラシックとかがあるし、非常に迷ったのだが、アマゾンのレビューなどを参考にしつつ本書にした。特に決め手というものがあったわけではないが、とりあえず方丈記というものを書架に収めたいくらいの感覚で、教養として読みたいということなのであれば、やはり原文、は当然としても、表示されているどこまでが「原文」なのかはっきりわかるようなものが好ましい。その点ではやはり本書で正解だった。時系列を考慮しなければ、方丈記にもたくさんの系列があって、研究者はそのどれが、またどの程度、後世のものの手が加わったものであるか見定めなくてはならない。細かいところまでチェックはしていないが、詳細な註や資料を通して、本書ではやろうとおもえばそういうことを厳密に読み取ることが可能な仕組みになっているのである。本書では基本的に「広本系統」の「大福光寺本」を基本にして、都度、諸本を参考にしている、ということである。学者によってはこの「大福光寺本」を鴨長明の自筆であるとするひともいるようだが、本書編者である簗瀬一雄は断定を避けている。

そして本書のきわめて特徴的な面として、このように編者の意図に基づいて構成されながら、全体としては編者の解釈や創見のようなものは影が薄いということがある。とにかく、事実として「方丈記」という偉大な書物が日本にはあって、さまざまな作品や人物に影響を与え、日本文学の原風景のようなものになっている、それを、ひとまずは教養として受け止め、書架に収めてもらいたいと、そういう願いが感じられるようである。これ一冊があれば、素人レベルなら方丈記研究にはじゅうぶんであるし、ここからどのように飛躍していくことも可能だ。そしてその飛躍は、ニュートラルな立場にあることを神経質に望んだ編者のおかげで、決して歪んだものにはならないだろう。いま、たとえば『風の歌を聴け』という作物を研究しようとしたとき、我々があたるべきなのは講談社文庫の薄い一冊だけである(現代でも青木淳悟のように、版を重ねるたびに文章が新たに生成されていくようなひともいるけど、そういうのは例外といっていいだろう)。これがたとえば明治時代の小説だと、文庫化にあたって歴史的かなづかいがなおされていたりするので、いくつか分岐するが、それでも、原テキストにあたることは別に難しくない。ところが、『方丈記』のような作品はそうではない。なにが原テキストなのか、そもそもそれは、いま手元にあるもののうちのどれかであるのか、それすらわからないのである。書架に当たり前に収められている標準的な『方丈記』をつくろうとしたら、あらゆる研究とその結果による合意形成を踏まえ、またその過程までも開示しつつ、公平にみて(また学問的にみて)もっとも中立的とおもわれるものを提示しなくてはならないのである。だから当然、註や解説は冗長になる。書架に収められているべき教養を司る書物というのは、ふとしたおもいつきで手に取ったそのときの疑問やアイデアに応えるものでなくてはならないからである。

 

 

そんなようなわけで、本書は読むことによりなにかを獲得するというより、ことあるごとに手にとって手垢で汚していくタイプの本なので、いまここで解釈をくだしてしまうことはあまり利巧ではないともおもうのだが、せっかくなので少しはおもったことを書いておこうとおもう。

僕は真面目な学生ではなかったし、古文の授業なんかは控えめにいって嫌いだったので(漢文のほうが得意だった)、冒頭で知ったかぶりをしてはみたが、正直言ってどういうはなしだかぜんぜん知らなかった。なので、方丈というのが長明の住んだ庵のことだということにもぜんぜん気づかなかった。要するに1丈四方、畳四畳半ぶんの広さ、ということなのである(ちなみに高さは7尺ということだから2メートルちょっと)。いちばん有名な冒頭の節をまるまる引用しておこう。

 

 

 

 

 

 

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし」15頁

 

 

 

 

 

 

 

水は刻々と移り、もとの場所にあることはなく、あわはあらわれては消え、消えてはあらわれ、ぜんぜんとどまることがない。ひとも、またその住処も同じだと、こういうふうにはじまるのである。そして続く節では、平安京において、立派な家がいっぱいあって、永遠に続きそうなものにおもえるけど、そんなことはない、小さくなったり、なくなったりしてしまって、まったく定まることがない、というふうになる。方丈記は「家」「住処」についての文章だったのである。

といっても建築のはなしであるということではなく、もちろんここにいう「家」というのはひとの生の営みの具体的なあらわれのことだろう。ひとが生きている証明、しるしとでもいうか、その面における具体物として、「家」が語られているのだ。どうしてこんなに荒れた時代になっているのかさっぱりわからないが、大火事やむちゃくちゃな遷都、飢饉や大地震などが相次いで、長明や同時代人たちは末世も末世な「濁悪世」(十七節)を目撃することになるのだが、ここにおいても、やはり「家」が、そのダメージを引き受けることになる。火事や地震では直接崩壊することになるし、飢饉でも、続出する浮浪者と行き倒れるひとびとは失われた家を暗示する。遷都にかんしてもいうまでもない。「すべて、世の中のありにくく、わが身と栖との、はかなく、あだなるさま、また、かくのごとし」(33頁 二十四節)というわけである。そしておもしろいのは続く二十五節で、以上のような災害のたぐいはむろんのこと、生きていれば、環境や境遇によって生じる心労も多い、ということで、権力者の隣人だったらとか、金持ちの隣人だったらとか、まず「家」のある位置によってそのなかに住むひとの環境・境遇が決定するというのである。ひととひととの関係性において「鴨長明」として生きるとき、もっとも表面にあって自己を規定するものが「住処」であるかのようなのだ。

この二十四節あたりまで災害等の描写が続き、二十六節では長明のこれまでが短く語られるが、父の死をきっかけに、これまで住んでいた屋敷にいることができなくなり、オースターのムーン・パレスばりに、ちょっとずつ家が小さくなっていって、最終的に方丈にたどりつくのである。ここまでくるともはや家とはよびがたく、ほとんどテントみたいなものである。だからかんたんに移動できるし、移動にかかる費用も車二台ぶんだけということで、いわゆる鴨長明のイメージが完成する運びとなる。

 

 

くどいようだが、方丈記がというより本書が、何度も読み返す性質の本なので、断定は避けるが、長明においてはやはりたんに俗世から離れて山に引きこもっているということそれじたいよりも、この「家」を、最低限生活を持続させながらどこまでゼロに近づけることができるか、という点が重要であると感じられた。おそらく重要なのは距離ではなく、家のありようなのだ。家がゼロに近づくとき、ひとびとが「鴨長明」と認識するときの、その関係性における自己もまた消失していく。このことが、三十三節の、ほとんど極論ともおもえる、友人なんかいらない的な言説と、じぶんの身体を奴婢とするという思想につながっていると考えられる。家がゼロに近づくほど、長明はなにものでもなくなり、ソウルフルな内部からの衝動に任せた生き方が可能になっていく。ただたんになにものでもなくなっていくことはけっこう難しい。というのは、たとえば急に山奥に引っ込んで人間関係を絶っても、ある意味でそのもとの人間関係は「絶つ」という行為によって外部に保存されているのである。そうではなく、長明はもろもろの無常をつきつける経験から、家を縮小していく方向でこれを進めていった。そうしてたどりついたのが方丈である。これはもう、たんに長さ(というか面積)のことなので、ただの概念である。そこに至ることで、なにが獲得できたのか。おもえば無常観というのは、ある種の客観である。なにごともひとつのところにとどまらず、持続しないという感覚は、少なくともその観察している事物よりはとどまり、持続しているものでなければ得ることができない。ひとの死を通して無常を感じるには、生きている必要があるのである。長明が家を縮小することによって手に入れた、ソウルフルな、身体を奴婢とした生き方は、この客観から解き放たれたものだ。もちろん、長明を客観するものが、その生き方や死にかんして無常を感じることは可能だろう。そのことは、最終部分の三十四節から三十六節あたりに集中的に書かれているが、長明も自覚しているようである。だが、長明じしんはその生き方を愛しており、それを客観する視線は、家をとことん縮小しているために、もはや長明にはあらわれようがない。そうして、いってみればはじけるあわの一瞬のうちに集中して生きるありようを長明は獲得したのではないかとおもわれるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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第173話/消えたね

 

 

 

 

 

 

 

 

武蔵との激闘の末、出血多量のためか気絶した花山は救急車で運ばれた。一命はとりとめ、治療は鎬紅葉が行ったようである。なら安心。バキ界の仙豆みたいなひとだから。

バスタブ一杯分にもなろうかという輸血量、10箇所の創傷は1000針にもなったという。花山のばあいは傷がクロスしまくっていたのがまたたいへんだったろう。漫画などに登場するむかしの不良はカッターナイフの刃2枚の間に十円玉をはさんで切りつけたが、これはそうすることで狭い距離にふたつの切り口をつくって、傷口を縫合しにくくするためである。あれだけぐちゃぐちゃに斬られたら、そりゃもうたいへんだったろう。ちなみに、念のため書いておくと、バスタブ一杯の輸血というのは鎬の用いた比喩です。

 

 

 

光成は鎬相手にはなしを続ける。バキが武蔵戦に名乗りをあげたというはなしだ。なるほど、あれはそういうことなのか。いや、光成はそう受け取ったけど、バキはそんなつもりではないかもしれない。ともかく、光成は、目の前でバキが宣戦布告して、しかもいまはやらないといったから、じぶんのところでやるという意味だととらえたようだ。

鎬はピクル戦など観戦していたが、やっぱり最前線にはいなかっただけ、なんかリアクションがずれている。ルールは武器解禁なのかと尋ね、剣をもってはじめて武蔵だ、などと光成が応えている。いや、バキじゃなくても、武蔵相手にボクシングとか、あるいは将棋とかオセロやってもしょうがないだろ。刀をもった武蔵を相手に、素手か、あるいは本部のように武器をもって対するか、あるいはたたかわないか、そのどちらかしかない。

とはいえ、刀をもった武蔵が強いということはもうじゅうぶん証明された、という鎬の言い分は、じゃっかん外野なぶん、いかにも正論である。もうわかった、強いよ、素手じゃ勝てない、そんな状況でやる意味はあるのかと。

しかしバキは、立ち向かうばかりか「葬り去る」と述べたのであった。鎬はこれをバキらしくないという。ハッタリと受け取ったか、あるいはそういう好戦的なセリフをバキらしくないと受け取ったか、それはよくわからない。なぜならバキはハッタリもかますし好戦的でもあるからだ。つまり「葬り去る」はじゅうぶんバキらしいセリフかとおもえるのだが、鎬の考えはちがうらしい。たぶん、かつてはけっこう悪人だったじぶんがバキに叩きのめされたという固有の経験が、バキに多少の聖性をほどこしているのだろう。鎬のなかでバキは誠実な正義のひとなのかもしれない。

しかし光成の見立てはちがう。たしかに、これがハッタリならバキらしくない。つまり、バキにハッタリはないというのである。まあ、ハッタリでじぶんを鼓舞して真実にしてしまう、という意味では、そうともいえるかもしれない。

 

 

 

物思いにふけりながらバキが街を行く。以前、武蔵とたたかうなら準備をするのはフェアじゃない、としていた通りに、もうずいぶんトレーニングをしていないらしい。剣豪武蔵は特訓の日々を送っているわけではない、普段通り生きているだけ、だからこちらも特訓はしない、それで対等だと。バキのこの理路については先週も考えたが、ややこしいので、あとでまた触れます。

バキのうしろを歩くカップルの男のほうが、バキのほうを見てなにかに気づく。なにか異様なものを見たような雰囲気だ。バキは考えを続ける。特訓はしていない。なのに、からだがどんどんでかくなっていく。肉体が備えを解かないのだ。

バキは突然襲われたときのことを考えている。殴りかかられたら、蹴りこまれたら、つかみかかられたら、斬りかかられたら・・・。その相手は、特に武蔵ということではないようである。なにか邪悪な誰かである。とにかく、それを想像したときには、もうからだが勝手に動いている。これは、動いているにちがいないということではなく、じっさいに、いまこの瞬間のバキのからだが動いているのである。バキは、想像上の相手の攻撃をかわして、上体をすばやく動かしているのだ。その瞬間、速すぎる動きのせいでバキの上半身が消えているのである。それを見て、後ろのカップルが驚愕しているのだ。こんなことを街中でやったら不審者あつかいされるに決まっている。しかしこれは、やろうとしてやっていることではない。ただ、あたまにそういう危険を思い浮かべているだけで、次の瞬間にはかってにからだが動いているのだ。ピクル戦にも似たような描写があったが、やっかいな体質になったものである。眠りについて、たたかいの夢でもみたら最後、起きたときには家が崩壊しているのではないか。

バキの想像はよりハードになっていく。刃物をもった複数の人間に囲まれたらと、想像した瞬間、バキのからだは足先だけを残して完全に消失してしまうのである。バキじしんがあとから「こう動くのか」と自覚するようなレベルで。

 

 

怪現象を目撃したカップルは、たぶん誰も信じてくれないということでか、これを見なかったことにするのであった。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

カップルは目にもとまらぬ速さで動くバキを捕捉できなかかったわけであが、ここではもうひとつ、見なかったことにするということもポイントになっているようだ。

 

 

このバキの準備しない理論については先週も触れたが、これは、そうすることで対等になるということである。だが、武蔵は特訓していない、なのでじぶんもしない、そうすれば対等だ、というのは、このぶぶんだけを読むと、まるで「特訓すると有利になってしまう、だからやらない」というふうにとれる。しかし鎬がいうように、刀をもった武蔵の強さは比類がない。特訓してもバキに勝ち目がないことは変わりない。それなら、特訓しなければもっと不利になってしまうのではないかと、ふつうはこうなる。しかし、バキが自覚していっているのかどうかは不明だが、武蔵の武術的観点からすると、そうではない。特訓とは、そのまま特別な訓練のことである。ことに及んで特別に時間を設け、特別なメニューで行われる訓練のことなのだ。ここでいうと、対武蔵を想定して、またその対決の日にちを意識して行われる調整も含めたトレーニングのことだ。特訓はいけない、というような、だからつまり、対武蔵のために特別なことをしてはならない、ということなのだ。

武蔵に挑むにあたっては特別なことはなにもしてはいけない、なにもしないことで対等になると、バキはいっている。たびたびふつうの感性を持ち出すと、現時点でバキは武蔵に負けているのだから、特別になにか対策をしないと、もっと勝ち目はなくなることになる。しかしバキは、そうすることでむしろ対等になると考える。ここから導かれる結論はひとつしかない。こと武蔵を相手にするということに限っては、特訓をすることは不利しか呼ばないのである。

対武蔵ということにかんして特別に時間をとり、訓練するほど、バキは武蔵戦について不利になる。その理由としては、まず武蔵じしんがそうやって生きているということがある。武蔵じしんが、次の相手のことを想定してい生きているわけではなく、ただじぶんのなすべきことをしているだけである。その意味では例の青竹を振り回していたトレーニングは、特訓ではない。やってくる勇次郎戦や本部、ピクル、花山戦を意識して、普段やっていないことを取り入れている、などということではないのである。そういう生き方のなかには、そもそもフェアであるかどうかという発想じたいが生まれてこない。フェアであるか否かを検証するためには、条件が一致していることを示すために、相手の生活やそこに至る道筋を想像する必要がある。たとえば、強い相手とたたかった直後で、疲れているから今日はやめておこう、というフェアネスの発想は、相手がじぶんとたたかう以前に疲労している、という推測がもたらすものだ。ところが武蔵は、おそらくそういう視点を採用しない。というのは、その「相手」というのは、向かい合った瞬間にはじめて誕生しているものだからである。もっといえば、たたかっているあいだだけ、武蔵にとっての「相手」は存在しているのである。

現状では武蔵はほとんど無敵である。バキたちの前にはその事実が厳然としてある。そして、バキたちにとってはそれだけが重要ともいえる。武蔵はそういう生き方をして、そのうえで強いのである。だからじぶんもそれを採用する、これで対等だと、このように読めるわけである。

もう少し具体的なことをいうと、じっさい特訓というのは、たとえば一ヶ月後に試合があるとわかっていて、そこに向けて調整をしていく限りにおいて有効なのであり、いまこの瞬間襲われるかもしれないというような状況においては、やはり不利しか呼ばない。たとえば筋トレひとつとっても、ベンチプレスを上げた翌日は筋繊維が破壊され、じぶんがとりうるベストなパフォーマンスをみせることは難しくなる。身体を酷使しつくし、その回復の過程において強くなる、そういう「特訓」の理念からすると、その回復の最中において、彼はほとんど無防備になるわけである。もっといえば、じしんにおける最重量のバーベルを挙げているその瞬間を襲われたら、もうどうしようもない。正しく特訓というのは特別な訓練であり、目標となる試合を除くすべてのファイトをあきらめなければ、行うことはできないのである。

 

 

武蔵という存在をつねに意識して、特訓をやめ、ただ生きることをするうちに、バキには日常生きることがそのまま備えになるような緊張感が生まれることになる。こういうはなしは、これまでも何度もやってきた。教室でのんびり授業受けていたところ急にドイルが襲い掛かってきて、なんとか逃げた裏庭で存在感ゼロの作業着姿で仕事していた柳が鎌を投げてくる、そんな日常を、バキもこれまで送ってきた。これらの、以前のありかたと今回のもので、どこかちがうところがあるだろうか。死刑囚篇などにおける緊張感は、暴力がどこにひそんでいるかわからないという強いられたものである。いつどこから攻撃がきても対応できるように、身体をリラックスさせ、感度を上げて、よく観察する。こういう意味では、いまのところ武蔵はそういう攻撃のしかたはしてこない。バキはあくまで待っている武蔵に挑む立場であり、武蔵としてはすでに何度かやりこめているバキをわざわざ襲おうというような気持ちはないはずだ。ここでのポイントは、日常の緊張感もさることながら、やはりトレーニングをしないというその動作そのものではないかと考えられる。書いたように、トレーニングという発想は、ある程度の安全がなければ成り立たないものである。それを解除することで、バキはむしろ強くなっている。いってみれば、回復を要するトレーニングを、特別な訓練をやめることで、彼は生きることそれじたいがトレーニングになるような境地を獲得しつつあるのである。

ただ、心配なのは依然としてバキが「対等」というような表現をつかっていることだ。くどいようだが、武蔵にはそんな発想はない。フェアもアンフェアもない、ただその瞬間のたたかいがあるだけだ。その点でバキは武蔵に遅れをとっている。だが、バキが武蔵より遅れていることはたしかに事実なのであるから、それもしかたないのかもしれない。武蔵は特訓を行わないことで現に強い、だとしたらじぶんもその境地に達しないと、圧倒的な実力差がある以上、五分にはならない。特訓をしては不利になる、これをやめて、生きることがそのままトレーニングになるようなありかたに達しなければ、「武蔵の生き方には公平性という概念じたいがない」と語る域に達することさえできないのである。

 

 

バキはあたまのなかに攻撃をイメージしただけで、じっさいにからだが反応して動いてしまう。からだを動かすことが可能になる、というようなはなしではなく、じっさいに動いてしまう。ここからは言語的な思考がいっさい除かれている。相手の攻撃を目撃→脳が受信→適切な行動を脳が指示→身体が動く、というような流れで動きというものが構築されているとしたとき、まんなかの二つを除いて、見るなり身体が動いているのである。これは、たんじゅんに出遅れないという実用的な要素も感じられる。ふたつの脳を介した過程を省いているのだから、そのぶん動きは速くなるし、回避のスピードという点で武蔵に負けない反応力になっている可能性がある。しかしここでは、こんな街中で、おもっただけでからだが動いてしまうという、一種の病徴としてこれを受け取りたい。ふつう、あたまのなかで攻撃をイメージしても、多くのひとがいる街中では動かない。ゾンビファンはショッピングモールにいくと立てこもった場合の行動を想像してしまうものだが、だからといって立て看板をバリケードがわりに組み立てはじめたり、武器になりそうなものをパクりはじめたりはしないわけである。おもうことと行動することのあいだには、脳が介在するので、すべきかどうか、判定する猶予が設けられるのである。しかしバキはじっさいやってしまう。バキがゾンビファンなら、ショッピングモールに到着するなりスポーツ用品店にいってバットやゴルフクラブをかきあつめはじめ、料理店の厨房にのりこんで刃物を調達、じょうぶな看板やテーブルを倒して壁をつくり、非常口をすべて封鎖してしまうにちがいないのである。ふつうのひとはそんなことをしない。なぜなら、そんなことをしたら警備員を呼ばれるにちがいないからである。このいっさいの思考が除かれているという点で、バキの「日常がすでに備え」というありかたは達成されているとみることができる。攻撃に対してどう動くか脳が判定するにあたって、もう「相手」以外の必要な情報がすべて失われている。いってみれば全世界を相手に臨戦体制でいるようなものだから、すべきかどうかを判定する必要など、武蔵のような人間にはないのであって、バキも正しくそこにたどりつきつつあるのだ。

 

 

そしてそれを目撃したカップルは、これを見なかったことにする。もちろんこれは、上半身が急に消失するという怪現象を目撃したということを、おそらく誰も信じないという理由で、見なかったことにする、ということである。もし彼らが、バキがなにをしているのか、つまりひとり攻撃をイメージして上半身を動かしているということを理解していたなら、ちょっとあぶない感じのへんなひとがいる、という理由で、見なかったことにするかもしれないが、彼らはバキになにが起こったのかを理解してはいない。速くて消えているだけなのだ。そしてこれが示唆的なのは、バキが武蔵の領域にたどりつきつつある、少なくともそうしようとしている、という点においてである。武蔵はあるレベルにおいて国家を転覆させた。依然として日本国は平和に機能しているようだが、もう彼をとめるものは誰もいない状況で、彼の存在を認めないと宣言できるものはひとりもいなくなってしまった。もはや武蔵の殺人は違法ではない。違法であると告げる機関、また違法であることを体現する象徴的人物である花山、この両方が敗北してしまったのだ。少なくとも武蔵の存在する範囲では、日本国の法律はもう機能していない。今後この世界の日本がどうなっていくかわからないが、かといって、武蔵が総理大臣にとってかわって国を支配する、なんてことにはならないだろう。武蔵は別に国を支配するために国家権力とたたかっていたのではない。ただ、じしんの存在する権利を獲得するために、それを否定する国家とたたかってきたのだ。この後国家のとりうる行動というのは、じつはひとつしかないのだ。勇次郎に対するのと同じく、「見なかったことにする」、これしかないのである。バキの奇妙な行動に対してカップルがそういう結論に至ったことは、彼が武蔵の領域にたどりつきつつあることを示唆しているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ウェザーリポート時代からのつきあいであった写真家の内山繁によるジャコ・パストリアスの写真集が発売された。

とはいえ、実はこの写真家のことは知らなかった。松下佳男の著書などで名前を目にしたこともあったのかもしれないが、とりあえず覚えてはいない。しかしじっさいこうして写真を見てみると、いくつも見覚えのあるものがある。見覚えどころか、日本でのライブ盤である『インヴィテイション』のジャケットの原型とおもわれる、番傘をさした写真なんかもあって、要するにただ名前を認識していなかっただけで、お世話にはなっていたようだ。

 

 

1969年から1970年くらいのころだろうか、ジャズ界の帝王マイルス・デイヴィスが『ビッチェズ・ブリュー』などの作品を通してエレキ楽器を大胆に導入し、フュージョンと呼ばれる一大潮流がジャズ界に巻き起こった。即興演奏を肝とするモダンジャズの流れからすると、エレキ楽器とともに緻密な構成やリズムのどぎつさ、解釈の多様さなども持ち込まれることになったこのころの音楽を嫌うジャズ愛好家は多いだろうし、当のミュージシャンからして、この展開は一種の時代的必然であり、こうした呼称を好まないという当事者もいるとはおもうが、一般的にはそういうことになっている。そこで、マイルスバンドに所属していたピアノ/キーボード奏者を中心に、いまでも語り草になっているような伝説的なバンドが多数誕生したのである。チック・コリアは1972年に、スタンリー・クラークらとともに、のちにそのままバンド名となる『リターン・トゥ・フォーエバー』を発表(僕が人生でいちばん最初に買ったCD)、ハービー・ハンコックは同じころヘッドハンターズを結成、という具合である。キャノンボール・アダレイのもとでキャリアを積み、マイルスバンドでも名曲を生んできたジョー・ザビヌルは、テナー/ソプラノ・サックスのウェイン・ショーターとともにウェザーリポートを結成した。ウェザーはこのふたりを根幹としつつ、時期によってかなりメンバーを入れ替えていて、公平にみて全盛期とおもわれる時期にベーシストだったのがジャコ・パストリアスであると、こういうおはなしである。僕はチック・コリアやハービー・ハンコックを聴いて幼少期の感性をみがいていたので、気持ちとして複雑なところはあるが、やはりジャコ、そして本書に寄稿もしているドラムスのピーター・アースキンがいたときのウェザーは、ほんとうにすごい。すばらしい音楽家集団であった。(ウェザーに出会ったのはチック・コリアとかよりはちょっとあと、中学生くらいだった。)

 

 

ちょうどつい最近、メタリカのロバート・トゥルージロというひとが製作総指揮を務めた『JACO』というドキュメンタリー映画も発表されたところである。興味のあるかたはレンタルなりなんなりで見てもらうといいが(レンタルとかがあればだけど)、生命力のかたまりのようだったジャコは、周囲からのプレッシャーからか、あるいはじぶんじしんに課した重荷のためか、次第にうつの症状を見せるようになっていき、シーンから遠ざかっていく。ドラッグやアルコールの影響もあるのかもしれないが、それらすべてが複合的に影響するかたちで、ジャコの人生と音楽を損なっていき、ついにジャコは悲劇的な最期を迎える。サンタナのライブへの入場をどうした事情からか断られたジャコとクラブの用心棒が乱闘になり、脳の血管が切れてしまったのである。映画『JACO』には非常に胸の痛む証言が数多くある。なかでも、パリだったかどこかでライブを終えたピーター・アースキンに話しかけてきた若者である。ピーター・アースキンはウェザー時代からのジャコの親友だった。それなのに、なぜ彼を止めなかったのか、なぜ助けてあげなかったのかと、このようなことをいわれたのである。もちろん、その場その場の事情というものがある。ともに、同年代で、なおかつじぶんをジョー・ザビヌルたちに推薦してくれた仲であったピーター・アースキンが、ただ黙ってぼうっと稀代の天才ジャコが落ちぶれていくさまを見ているはずはない。にもかかわらずそうなった。そんなふうに彼を責めてみたところでしかたないのだ。けれども、その若者の気持ちは痛いほどわかる。たぶん、ピーター・アースキンじしんが、そういうことを何度も自問して、苦しんできたぶぶんもあるだろう。

 

 

地元フロリダで研鑽を重ねてきたジャコは、すでにスーパーバンドとなっていたウェザーリポートのライブ会場でジョー・ザビヌルを呼びとめ、デモテープを渡し、世界一のベース奏者だと自己紹介した、というのは有名なはなしである。ウェザー加入後、ジャコはまず『ブラック・マーケット』という作品でいくつか演奏し、作曲も任される。その後、ウェザー史上最大のヒット作であるバードランドを擁した『ヘヴィ・ウェザー』で専属ベーシストとなり、クレジットではコー・プロデューサーということにもなっている。本書はさらにそのあと、パーカッション陣がバンドを去った直後の日本ツアーで、ピーター・アースキンが試用期間的につかわれていたころの写真から始まっている。というのも、内山繁とジャコやピーターとの関係が、そのときにはじまったものだからだ。バンドもそうだが、とりわけジャコやピーターとは同年代ということで気があったようで、その後、撮影のお膳立ては整っているのにカメラマンが内山繁ではないということを知り、「シゲルじゃないと撮らない」とジャコがわがままを発揮するような事態まで発生したようである。当時の関係者はたいへんだったろうけど、いま聞くと非常にほほえましいエピソードである。

 

 

ジャコファンにはよく知られた写真もたくさんあるが、僕が感動したのはやはりその、ウェザーが伝説的カルテットの状態で日本に到着した直後の写真、そしてジャコが丸の内線や銀座の街でベースを裸でもったままうろうろしている写真である。あとがきによると、後者の地下鉄や銀座の写真はジャコのアイデアのようで、ジャコがふつうに地下鉄に座っているのもシュールだけど、なにより自然な表情が撮影されているのがうれしい。路線図を指しながらなにやらしゃべっている写真など、じつに自然体である。

 

 

ジャコは客演も非常に多くて、音源じたいはけっこうあるのだけど、ジャコ個人名義の作品、それもスタジオ録音となるとじつはあまりない。多くのひとは衝撃のデビュー作『ジャコ・パストリアスの肖像』を推すだろうし、彼が構想したワードオブマウスというビッグバンド編成の作品もたくさん残されていて、どれもこれもすばらしい。個人的にはビレリ・ラグレーンとのトリオ作品3つがどれも傑作だとおもうし、天才的なアイデアのひらめきはおさえられているものの、晩年のブライアン・メルヴィンとの作品も、ジャコのやわらかい音色が生かされたアレンジなのか、リラックスしていて心地よい。しかし僕がいちばん聴いたジャコの演奏はというと、やはりウェザーリポートで、それもライブ盤2枚組の『8:30』である。これのティーン・タウンという曲を、僕は何回聴いたかわからない。そのときその瞬間にしかない即興演奏が、語り継ぎたくなるような輝きを放つことはよくある。しかしここでのジャコのプレイは厳密には完全即興ではない。細部にかんしてはそういえても、じっさいにはジャコ独自のストックフレーズのようなもので構築されている。にもかかわらず、信じ難い緊張感とスリル。こんな演奏はあとにもさきにも聴いたことがない、そういうプレイである。なんでもないことのようだけど、演奏開始直後にくりかえしているパターンがまずちょっと信じられない。ほんとになんでもないことのようにやっていて、メンバーも一流だからふつうについていってるけど、小節を16分音符で割ったとき、一拍のうちいちばん最後、4つ目の16分音符にアクセントを置いて、一つ目の音を弾いていないのである。上手く説明できないのだが、こう、足でトントンと、小節内で4回リズムをとるとしたとき、この「トン」と「トン」のあいだを4つにわけると16分音符になる。で、ジャコはこの「トン」と踏んでいるところで音をはずしているのである。だから、もしこの演奏を途中から急に聴くようなことになったら、たぶんどこが小節のあたまだかわからなくて、つまりどこで「トン」と踏むべきなのかわからなくて混乱し、しばらく音楽をつかみそこねてしまうにちがいないのである。

『8:30』にはジャコのソロ演奏である「スラング」も入っているし、名曲ブラックマーケットやバードランドなどは、オリジナルより僕はこっちのほうが好きだ。バディア/ブギウギワルツの3拍子の曲のメドレーにおけるものすごい速弾きも目がまわる。マスターピース。

 

 

 

 

 

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第172話/一興

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

背中をずたずたに斬られ、腹を裂かれ、膝を撃ちぬかれても立ち上がる花山がついに地面にあぐらをかいてしまった。まだ意識はあったが、さすがにもう動けなかったようである。そこにあらわれた内海は、感謝を示して土下座する。とどめをさそうとする武蔵はバキがとめる。武蔵の、サムライの時代ではともかく、現世ではこれが決着であると。

そうして救急車で花山が運ばれたのだが、残ったバキはどうしたか。現世では命をとることまではしない。しかしそのくちで、武蔵を葬り去るというのである。

 

 

ただ、これはどうも複雑な言い回しのようで、たんに「殺す」ということだけを意味しているわけではないようだ。バキは言いにくいとしながら、「現世(ここ)にいるべきじゃない」という。武蔵はなにもじぶんの意志で復活したわけではない。光成がよみがえらせた、ある意味では悲劇の主人公である。だから言いにくい。でもそれは事実で、しかもたくさんの命が奪われ、武蔵にはそれを正すつもりはない。となれば、いうしかないと、そんなところだろう。

それを、武蔵は「さすがに俺でも理解(わか)る」と、なにか気安い調子でいう。じぶんのようなやりかた、つまり、ひとを斬って、武勇を示してなりあがるような世の中ではないということを、武蔵は理解していたのである。この「さすがに俺でも」ということばには、異邦人としての武蔵の孤独が感じられないでもない。この言い方は、その話題になっている件にかんしてじぶんが疎いときに用いられるものだろう。音楽に疎いひとに、「この曲はけっこうテンポが速いから・・・」などと解説を始めて、「さすがにテンポが速いことくらい俺でもわかるよ」と返すような感じだ。ここで話題になっていることはむろん現世のありようである。今のこの世がどういうものか、武蔵はとても疎い。そして、そのことを武蔵は自覚している。そんな俺でも、このありかたがダメだということくらいはわかると。バキは、それにしては斬りすぎじゃないかという。警察のことをいっているのか、あるいは烈や、死んではいないけれど斬られていった花山のようなひとたちのことをいっているのか、よくわからないが、その仇をとるのかといわれて、バキはあいまいに肯定する。武蔵は笑って、この場でとりにこいと誘う。斬っても成り上がれないのかもしれないけど、じぶんにはそれしかないから、斬る。動機としては難しいはなしではないのだ。武蔵にはそれしかすること、できることがないのである。

それを、バキは「やらねぇよ」と断る。バキの診断によれば、武蔵はあと一発でも花山のパンチをもらえば倒せるというところまで消耗しているようだった。あれからそんなに時間がたっているわけでもないだろう。そもそも武蔵は打撃格闘技の人間ではないので、攻撃を的確に当てることさえできれば、こちらはかなり有利になっていく。この疲れにかんして重要なのは、ダメージの蓄積より、消耗により鈍っているかもしれない剣のほうだろう。

それを証明しようとするかのように、両者が動く。まだしゃべっているバキを武蔵が横向きに斬ったのだが、武蔵がそう動くことを予想していたのか、それとも純粋に見切ったのか、紙一重(厳密にはかすっている)でバキはかわしたのである。「このザマだ」とバキはいう。性格の問題だろうか、いまやる気がないのになんでそんなに挑発するのか、よくわからないが、もう宮本武蔵じゃないとまでいうのである。

武蔵の髪の毛が勇次郎みたいに浮かび上がる。だが、少年(ボン)ではなく童(わっぱ)と呼びかけたのをうけて、バキは素早く、そのわっぱすら斬れないのがいまのアンタだ、とやりこめる。武蔵の髪がなぜかちからを失い、洗った直後みたいにぺったりとつぶれてしまう。武蔵は納刀しつつ、ときにはボンに言われ放題もまた一興か、などといっているが、納めた刀を次の瞬間にまた抜いて振り下ろす。今度のバキはこれに反応できなかった。だが武蔵にも斬る気はなかったようである。ちょうど服の前が十字に切れて開いてしまったような状態だ。一瞬の硬直ののち、バキの全身から汗が噴き出す。いま、じぶんは反応できていなかった。もし武蔵がその気でいて、もう数センチ踏み込むなり腕を伸ばすなりしていたら、死んでいたのである。

武蔵は「この場で奪()りに来い」とくりかえす。バキは黙っているが、どういうつもりなのだろう。このままでは主人公パワーをもってしても勝てそうもない。花山のような生き様と勝負が直結しているようなタイプのファイターでもない。かといって勝てない勝負はしないというタイプでもないが(わりと無策につっこんで自爆しているイメージがある)、これはふつうにどうすべきか判断できずに迷っているのかもしれない。

と、ついさっきまでビルの屋上にいたはずの光成が瞬間移動してくる。彼は「そうイジめるな」という。続くセリフからすると、どうやら武蔵に語りかけているようである。つまり、いじめられているのはバキである。

武蔵はたんじゅんに再会を喜んでいるみたいだが、おそらくこの場をどうにかおさめるつもりもあってか、光成が妙なことを言い出す。風呂がわいてるから今夜は帰るぞ、というのである。

にっこり笑って武蔵はこれに納得、バキをおいて去っていくのだが、ここで驚くべきことが起こる。内海の号令で、彼らを囲んでいた警官たちが武蔵を「お送り」するのである・・・!武蔵、光成を先頭に、100人くらいの警官集団が歌舞伎町を闊歩するのであった。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

なんという難解な展開だろう・・・!謎が多すぎて見落としそうなので、考察に入るまえに列挙しておこう。前回の「葬り去る」発言と今回のバキの行動はどのように関係するか。なぜ武蔵はやたらとこの場でたたかうことにこだわるのか。そしてなぜバキはその喧嘩を買わないのか。一回目はかわせたのに二回目はかわせなかったのはなぜか。光成はどういうつもりでいるのか。対国家戦に臨むために光成の屋敷に居候する身分をみずから抜け出た武蔵は、なぜまた徳川邸に戻るのか。そしてなぜ内海は武蔵を「お送り」するのか、以上のようなところになる。この短い展開でこれだけの謎が出てくるのだから、まあものすごい難解といって差し支えないだろう。

 

 

「葬り去る」にかんしては、「いま」やるとは、たしかにバキはいっていない。要するに、バキとしては、感性というかものの考え方のちがいから、武蔵は現世に存在しているべきではない、というふうに考えている。斬ることしかできない武蔵は、存在するだけで、現世のものを傷つけていく。だから、あなたはここを去るべきであると、そういうことを、バキは「葬り去る」ということばに託している。その真意としては、いまはバキはやるつもりはないということになる。疲れきっていて、ダメージも蓄積した武蔵を倒してもしかたないからということである。だが、二回目の攻撃で、武蔵はバキを殺すのにじゅうぶんな体力をまだ保持していることが示される。これでバキは反論できなくなる。疲れているからやらない、といっていたものを、武蔵は攻撃で否定したわけなのだ。ほんらい、言葉どおりであるなら、バキは武蔵がじゅうぶん元気なのを見てじゃあやりましょうとならなくてはならない。それが、どうも迷っている。たんに、ここは話術でおさめてどうにか乗り切ろうとしていたとも考えられるが、一回目の攻撃は見切れて二回目は見切れなかったという、この差異のぶぶんに、バキが驚愕しているという可能性もある。つまり、この出来事はバキにも想定外のことであって、考えになかった展開だったのだ。

この「疲れ果てた」武蔵に勝ってもしかたない、という発言は、どう読めばよいだろう。というのは、バキは、いつだったか、対武蔵にかんして、準備をしない心がけの境地に到達していたからである。武蔵戦に向けて特訓をするようではフェアではない。たとえば爪は、試合にあたってはベストな長さというものがあるが、対武蔵に限っては、いつ切ったのか本人が覚えていないくらいが望ましい。こういう言い方を踏まえると、まるで準備することが卑怯だ、武蔵より有利になってしまうというふうに読めるが、おそらくそうではない。もっと極端ないいかたをすれば、武蔵的な日常が死闘の世界観においては、そもそもフェア・アンフェアという発想がありえない。満身創痍のアライジュニアを独歩たちが喜んで襲ったように、武術的傾向が高まるほど、それは顕著になる。フェアであることはおそらくスポーツ的な発想であって、それであってさえも、ある意味幻想である。だから、武蔵のほうはいつ「試合」があるかわからないのに、こっちが準備するのは不公平だと、こういうことをバキはいっているのではなくて、武蔵はそういう世界観でいて、そのうえで強いわけだから、じぶんもそうしなくては追いつけないと、そのように読んだほうがいいだろう。「準備するのはフェアじゃない」となると、準備するほうが有利なようだが、こと武蔵に限ってはそうではない。準備するほうが武術的視点からすれば邪道であり、不利でなのである。

しかし、これを踏まえると、バキの発言は不可解なものとなる。花山のファイトを聞きつけてバキがやってきたのだとしても、ここでの武蔵との遭遇は日常の範疇といってもいいだろう。互いに今日のこの日がファイトだとは考えていなかったのだから。しかしバキは、それじゃ意味ないと言い出す。独歩や渋川のようなリアリストだったら喜々として襲い掛かるにちがいない絶好のタイミングを、バキは避けるのである。武蔵が疲れきっていようと元気モリモリであろうと、準備をしていないという点でこの瞬間はフェアであり、武術的には問題なかったはずなのだ。

理由はいくらでも考えられる。たとえば、バキがくちでいうほどその領域には達していなかったということかもしれない。しかしここでは、前後の言い方とあわせて、バキが依然として「あの宮本武蔵」という、本部が解除したはずのイメージ図にとらわれているというふうに読んでいきたい。そしてこの考えは、バキが二回目の攻撃を予測できなかったことにも応用できる可能性がある。

ここでいう「あの宮本武蔵」というのは、たとえば最近だと木崎が花山に武蔵の強さを説明する場面などで見られた、「宮本武蔵」という語の含むイメージ一般のことである。世代によっては映画俳優とかのイメージも重なるかもしれない。その他、小説、舞台、漫画のイメージも重なりうるが、もっとも根本にはやはり五輪書があるだろう。そのように、後世のひとたちが語り継ぎ、ばあいによってははなしを余計に付け加えることによって付け加えていった超有名人としての宮本武蔵である。バキたちはこのイメージとたたかってきた。だから、つねに後手になっていた。ふつう、ある人間とファイトするとき、前もってビデオで研究してきたとかそういうことがなければ、どのような動きをするものかわからないものとしてわたしたちは対処する。とりわけ武蔵のように敗北=死のような時代ではそうだったろう。手の内がまるわかりであることはそのぶん攻撃の手段を制限するのである。たほうで、バキたちは宮本武蔵がどのようなものかを知っている。あるいは、知っていると思い込んでいる。ところが、それは歴史を重ねるうちにゆがんできた武蔵像である。このことが、実在の武蔵とのあいだにギャップを生む。この実在の武蔵をきちんとキャッチアップできていたのが、勇次郎のような超人を除くと、本部だけだった。というのは、本部だけが、戦国から地続きの戦闘技術を継承だか研究だかしてきた人物だったからである。これが、本部のほどいた武蔵の孤独のある一面である。本部は、イメージとしての宮本武蔵を打ち砕き、生身の武蔵を露出させることに成功した。その代償として、今度は、彼はみずからの手で存在を勝ち取らなければならなくなった。光成が武蔵を復活させ、保護するのは、むろん彼が「あの宮本武蔵」だからである。このイメージが前面に貼り付いていたせいで生身の武蔵を誰もみていなかった、それゆえの孤独であった、こういうことを本部戦で悟ったいちばんの人物が、ほかならぬ武蔵だった。あとでまた触れるとおもうが、彼は、現世でじぶんの生き方をまっとうするために、国家権力と対決することになったのである。

ところがバキは、依然として武蔵をあの武蔵としてとらえる。そればかりか、じっさいそういう言い方をしてしまう。花山が武蔵を伝説のオサムライサンとしてとらえるのは、ある種の敬意からである。じっさいには花山は武蔵のことをほとんど知らない。なんか有名な、時代劇のひと、くらいの認識である。だからこそあそこまでいい勝負ができたとも考えられる。だがバキはそうではない。武蔵の二回の攻撃を見比べてみると、一度目は、バキが話している途中に行われているが、二度目はバキのはなしに納得したと見せかけた直後である。この武蔵が納得したはなしというのは、要するに「疲れてるアンタを倒してもしかたない」というやつだ。バキは一度目をかわすことで、それを証明した。しかしそれはバキの理屈である。バキじしんが、フェアネスの考えから否定したスポーツ的視点なのだ。つまり、バキは、理屈では武蔵を理解しているようでも、じっさいにはまだそこには到達していなかったのである。もし彼が、くちでいうようにフェア・アンフェアの存在しない武蔵的世界に到達しているなら、そもそも「疲れ」にかんする議論をはじめないのだし、一刀目と二刀目に差異が生じることもなかった。バキは、みずからじぶんが武蔵の領域に達していないことを「疲れ」にかんする議論を通して宣言し、なおかつ、二刀目に反応できなかったことでそれを証明しているのである。そしてその理由が、彼がいまだイメージの武蔵にとらわれているためと考えられるのだ。話している途中に切りかかる武蔵はいかにも「あの宮本武蔵」である。それは、バキも知ってる。だからかわせる。そのイメージの武蔵は、バキの意識の範疇にあるから、彼の説得も理解するだろうし、フェアネスの視点も備えているはずである。だからこそ、バキからすれば非合理な二刀目が放たれるのである。

バキの準備してはいけないという発想じたいは、おそらく正しい。そのほうが武術的には正しく、むしろ有利であるというのは、武蔵も知るところなのである。だからこそ、武蔵はこの場でたたかうことにこだわる。驚くべきことに、そのほうが武術的視点に親しい武蔵には有利なのである。

 

 

 

さて、残るは光成と内海か。長くなってきちゃったけどがんばろう・・・。

問いとしては分離しているが、これらはおそらくひとつの結果から導かれるものだとおもう。つまり、ひとことでいえば、警察の精鋭部隊が敗れ、警察の対極として法と違法のバランスを保つ花山が敗れてしまったために、世界が変わってしまったのである。そうとしか考えられない。

武蔵が光成のもとを去ったのは、みずからの手で存在の権利を獲得するためだった。彼はもう「宮本武蔵」という価値にたよりきりではいられない。新たに現世で武勇を蓄積し、成り上がって、富と名声を獲得しなければならない。だが、それ以前に、武蔵のありようは現世が認めない。現代では、相手がどんなに悪人でもそれを私的レベルに殺すことで手に入る名誉などないからである。だから、武蔵は国家と、つまり社会契約とたたかわなければならない。斬ることしかできない武蔵では、そういう武術の先生にでもなるとかそういうのでなければ、社会的価値を得ることができない。だとしたら、そういう社会を変えてしまうほかない。ルソーによれば、戦争の定義とは相手国の憲法を書き換えることだという。その意味ではこれは正しく戦争である。なにも武蔵的ありようが全国民について認められるようになる必要はない。彼だけが特例になればよいのである。

そうして、警察は武蔵退治にとりかかることになったが、結果は散々なものだった。この場合、相手が武装したテロリスト集団であるとか、なにをするかわからない独裁者に支配された国家であるとか、そういうわけではないことがまた問題をややこしくする。強い強いとはいうけれど、刀をもっただけのひとりのおじさん相手に、国家が戦車出したり戦闘機だしたりするわけにはいかないのである。会社のトイレにあらわれたゴキブリを退治するためになかにいるひとたちもろともビルごと爆破しようとする管理人がいたら、知性の不調を疑われるし、もうその人物はビルの管理を任されることはないだろう。仮にそれがテラフォーマーズの大群だったとしてもである。この限りでは、もはや国家に打つ手はない。そこで、国家権力の対極に位置する花山の出番となった。法のないところには違法もない。したがって花山のような男の存在は法治国家の必然であるともいえる。反社会的勢力の一員である花山は、その意味で社会を外部から縁取る相対的存在なのである。しかしこれも敗れた。法が敗れ、法が生むところの違法も敗れた。現社会契約は武蔵を否定することができなかったのである。厳密にいえば、国家にもまだできることはある。もうなりふりかまっていられないわけだから、目立つこととその後低下することになる評価をおそれなければ、武蔵を仕留めることはできる。しかしたぶん、総理はそういう方法をとらないだろう。たぶん、武蔵的なありようが部分的には認められる、あるいはやむを得ないものである判定できる、なんらかの語法を編み出すにちがいない。しかしそれらはずっとあとのことだ。クローンの問題もある。このままいくとはなしはもっととんでもないところに向かっていくかもしれない。ここで重要なのは、内海たちの反応なのだ。

彼らが武蔵を送る理由としては、監視ということも見逃せないだろう。こうしてギャラリーとして姿をあらわすことができたのを奇貨として、彼らは武蔵の許可のもとにその行動を制限することができる可能性があるのである。が、その場合でも、彼らは武蔵の許可を得ていることになる。彼らは、そこにいてもいいと武蔵が認めたから、そこにいるのだ。しかしやはりここには、彼らが体感として敗北を感じ取り、それがどういうことを意味するのか理解している、ということなのではないかと考えられる。彼らは負けたのだ。そしてそれは、もう武蔵の存在を「認めない」と発言できるものはいなくなったということを示してもいるのである。

同様にして光成の行動もとらえられる。武蔵は「宮本武蔵」としての光成の保護を受けることができないから、徳川邸を去った。それが、風呂がわいているから帰るという。このことが示す結論はひとつしかない。武蔵がこれから入る風呂は、光成の保護によるものではなく、生身で勝ち取った「わがまま」なのである。

 

 

もし武蔵が、ほんとうに、「いぬやしき」のようなレベルで法を変えてしまったのだとしたら、バキの発言は無効になる。警察が殺人犯を「お送り」するような世界は、武蔵が「いるべきじゃない」世界ではないのである。いったいこのあとどんな展開がやってくるのか、明日もまともな社会は機能していくのか、見当もつかないが、たたかいは続くようだ。国家レベルの闘争となるとオリバとかが出てくるのかもしれないが、ピクルがやられちゃってるから、オリバが出てきてもなあという感じはある。まあ、あのひとはあたまもいいし、いろいろ創意工夫をもってからだづくりをしているので、ピクルとはまたちがったアプローチになるとはおもうが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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■『少女病』田山花袋/藤牧徹也 青山出版社

 

 

 

 

 

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「蒲団」が予想を越えておもしろかったので、なにか田山花袋の手ごろなものはないかとネットで調べたところ、本タイトルが検索候補に表示されていた。まったく聞いたことのない作品だったが、花袋ファンには評判のいいものらしく、読みたかったのだが、これをおさめている文庫がアンソロジーなどを除くと絶版になってしまっていて手に入らない。というわけで、やや異質な書籍ではあるが、写真家藤牧徹也の女の子を撮影した写真が半分をしめる本書を手に入れた次第である。全体で120ページくらいだが、小説ぶぶんはその半分で、さらにいえばページごとの文字数も非常に少ないので、文庫とかだと2,30ページ程度の長さかとおもわれる。すぐ読んでしまった。

 

 

前回の『蒲団・重右衛門の最後』の批評で考えたことをひとことでまとめるなら、「必然性と無常観」というようなことになるだろうか。蒲団は、いまも当時も、基本的にその「告白」という行為の意味じたいを問われることが多い。そしてもちろんそれは、日本的リアリズムである自然主義のはじまりでもあって、無視できないことではあるのだが、そのいっぽうで、それがテクストとして発表されてしまったあとでは、それが「告白」であるかどうかということはたいして問題ではないということも同時にある。つまり、いま蒲団という小説を手にとって読み終え、そのあとに、「これって作者の実体験なんだよ」と聞かされるのと、「これって実体験みたいだけどぜんぶフィクションなんだよ」と聞かされるのとで、編み上げられたテクストそれじたいが突如として姿をかえていくということはないからである。わたしたちの前には、ただ小説があるだけであり、極論作者もそこには存在しない。自然主義は表現方法としての思想であって、じっさいには書き上げられた瞬間、役目を終えているのである。そこにたとえば「私小説ならではのリアリティ」などが感じられたとしても、厳密に言えばそれは技術的な問題であって、そうした行為それじたいがもたらすものではないのではないか。

自然主義は、表現をするにあたってとるべきスタンスの問題について語るのであり、表出したテクストそれじたいが自然主義であるかどうかというのは、ほとんど問題ではない。そう考えられるが、花袋においては、それが告白の文章であるかどうかによらず、たしかにその自然主義的ありかた一種の洞察をもたらしていると考えられる。というのもテクスト論的発想で、花袋じしんが意識していたかどうかは不明なのだが、くりかえし議論されてきたことだろうけど、たとえばわたしの「ほんとう」を描くということは、厳密にはどういうことをいうのだろうか。完全に客観を排除して、わたしの見たまま感じたままを記す、それだけのことなのだろうか。しかし、それは、いつだってそうではないのか。いつだってわたしたちは、すでにして客観を交えた視座のことを主観と呼んでいるのであって、そのときほどこされる客観もすでに主観なのであり、それを飛び越えることは現実にはできないのである。たぶん、自然主義の作家はこうしたところをぐるぐるぐるぐるまわっていたはずである。そうした先、けっきょく描き出されるものはただ小説なのであり、「ほんとう」があるのかないのか、そのことは、作者にも読者にもわからないのだ。こうした過程が、おそらく「重右衛門の最後」に「大いなるもの」を想定させたのではないかと考えられるのである。この「大いなるもの」は、いってみればこの世界の作者である。この作者は、自然主義をつきつめてもはやなにものでもなくなった、ただ主観を描き出す小説家である。もはや彼の外には客観と呼ばれるような相対的世界は存在せず、彼は、彼における必然性に導かれるしかたで、物語を組み立てていく。花袋は、自然主義を突き詰めることで、醜いぶぶんまで「告白」するという方法上の達成まで踏まえて、この「大いなるもの」の想定した物語の必然性を見出したのかもしれない。

この世界では、どんな登場人物も、なにか意味をもって配されている。しかしそれは、「大いなるもの」の主観においてであり、わたしたちにはそれを知ることはできない。ここに、30代の花袋が感じていた無常観があらわれる。必然性には希望がもてる。どんなにみじめな人生も、「大いなるもの」の自然主義的主観においてはなんらかの価値を抱えている。しかしこれを見失ったとき、無常感が訪れる。老いていくじぶん、老いていく妻、これまでしてきたことより、してこなかったことへの後悔、こういうものが襲い掛かってくる。これが、本書タイトル「少女病」につながる。花袋(の小説)における少女への愛というよりあこがれは、たんじゅんに性的な興奮を呼び起こすものだけではないようである。若く、美しいことへのまぶしさは、じしんの過ぎ去ってしまった時代との対比によってさらに輝きを増している印象がある。「蒲団」においては、芳子に欲情し、独占したいけどいろいろな事情が邪魔してできない、そんな芳子に彼氏ができて憤慨、さらにはいっしょに暮らすようなことまで言い出して絶望、というような感じで、滑稽なほど主人公の時雄は激情に駆られるが、このとき、彼のこの感情には、世の必然性、いや無常にとらわれて、このままでは芳子がじぶんのようなくだらない人生を歩むことになってしまう、という焦りというか不安も含まれているようなのである。必然性という点で、人生に価値を見出すことは可能である。しかし花袋は、自然主義者として、もっとも根本的なところでじぶんが人生に対しどういう感想をもっているかということを調べたとき、この無常観につきあたったのである。なんとみにくく、さえないわたくし。こういう感想が、少女へのあこがれに“文学的に”転じている。くりかえすように花袋にその自覚があったかどうかはわからない、というか疑わしいが、とりあえず僕にはそう読み取れる。そして、自然主義者としての彼は、その無常感の表明をするにあたって、少女に欲情していたということを書かざるを得ないのである。なぜなら無常観それじたいが、主観において具体物として立ち現れるのが、少女へのあこがれだったからだ。

 

 

本書では、電車でいっしょになる何人かの女の子をじっと見てしまうという、ただそれだけのはなしだ。じっと見てしまうといっても、きちんとバレないように斜め向かいに座って、男がついうっかり女の子の胸の谷間を見てしまうときみたいに、視線を流しつつちらっと見るような感じで、やはり笑っちゃうほど具体的である。そして、その対象が「何人か」であるというのもまたおもしろい。いちおう彼には彼なりの基準があるらしいのだが、ともかく、彼は特定の女の子に愛をそそぐのではなく、少女という存在それじたいにあこがれの気持ちを抱えている。もちろん、そんな美しい女の子たちとどうにかなりたいという気持ちもないではないが、そもそもその少女愛は「老いゆくじぶん」というものの自然主義的探究から発生しているので、じっさいにはなにも起こらないしなにもしない。実に不思議な構造である。自然主義的探究は、彼に「老い行くじぶん」を見出させ、そのことが表現上少女愛に転じている。老いていくじぶんたちに比べて、若い女の子たちのなんと美しいことか。そこには欲情もないではない。しかし、彼は少女たちとの距離ゆえに少女愛を見出しているのだから、原理的にこの愛が成就することはありえないのである。

ある女の子とは、ただ眺めているだけではなく、ちょっとした会話もしたことがある。ピンを落としたのを拾ったとかで、それも彼には大事件だし、その後顔を合わせても知らん振りしている彼女を「あのくらいのうちは恥ずかしいんだろう」(31頁)などといっているのもじつにすばらしい。むろんそうではなく、不審であり、もっといえばこわいから、彼女は知らん振りしているのである。少女たちとの距離ゆえに少女愛を抱える彼がそのことに気づかぬはずはないのに、なぜかそういうふうにはあたまがまわらない。本書は結末において主人公が死ぬことになるのだが、だから当然、本作は私小説ではない。限りなく花袋に近いなにものかを主人公にしたフィクションである。こうしたところにも、花袋の洞察が感じ取れる。花袋は、自らが自然主義において主観の檻にどうしてもとらわれるという原理的な瑕疵を、自覚しているのである。

 

 

この最後の死に関しては、重右衛門のように必然性を見出されば、希望もある。しかしこれはおそらく、原理に反した行動をとった結果ではないかと考えられる。つまり、彼は少女を愛しながら、決して接近してはならない存在である。「大いなるもの」の導くストーリーでは、必ずそうなる。この愛は決して成就しないのだ。それを乗り越えようとしたから、彼は死んだのだ。

 

 

 

あとは新潮文庫の田舎教師が手に入りやすいかな。いま読んでる何冊かが片付いたら、また花袋に戻ってくる予定です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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