今週の九条の大罪/第7審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第7審/弱者の一分⑥

 

 

 

 

金本の命令で自宅を薬物の仕分け場にされていた曽我部。そこを家宅捜索され、彼は逮捕されてしまった。あわせて現場に出入りしていた金本も捕まる。ふたりの先輩である壬生を経由で、九条がこの件にかかわることになったのである。

 

前々回の烏丸と薬師前のやりとりでは、曽我部を再生させようとするかのような九条の行動が語られていた(というか、厳密には烏丸を通して薬師前に依頼されていた)。それを踏まえると不思議でもあったのだが、九条はなにもかも曽我部に背負わせたうえで、刑ももっとも軽くする方向ではなしをすすめようとするのである。今回は前に曽我部の面倒をみたこともある薬師前が事務所にきている。

掲示板でも指摘があったが、見た目からも母性を感じさせる薬師前である。今回も、なにしろ九条の曽我部に対する態度に怒っている。もともと、業界的には九条は異端で、評判もよくないのだ。

 

弱い曽我部は、金本に利用されているだけだ。それがいまこうして逮捕されて、彼らがなにをやっているのか明るみになった。そうしたところで、九条は曽我部にぜんぶ被ってもらい、金本は完全黙秘で不起訴ということにしようとしている。これはおかしくないですか、というのが薬師前の言い分である。まあ、もっともなことだ。曽我部は、前に出所してからわりとすぐ捕まってしまった。こういうときは刑が重くなる。自宅で秤とパケが見つかっている現状はどう見ても営利目的で、実刑3年。これを「ただもってました」という単純所持に持ち込んで、1年半にしようというのが九条の作戦である。それじたい、どうやってやるんだろうという感じだが、もちろん薬師前が聴いているのはそんなことではない。利用されている曽我部が刑務所で金本が釈放っておかしくないか、ということだ。しかし、「何もわかってない曽我部くん」という薬師前の言い方に対し、九条は「わかってる」という。彼は、道理を理解していると。だとしても、そんな道理はおかしいと、薬師前はカッとなる。

そこには存在を消していた烏丸もいたようで、ここで話しかけられ、薬師前はくるっと態度を変える。烏丸のはなしは、曽我部の引受人になってもらいたいというものだ。仮釈放されたあとのことなど含め、前していたはなしだろう、シェルターなど用意があれば、金本から逃げることもできる。それはもちろんやる。だが、九条の仕事は「倫理」的に許されないと、薬師前はのこして去っていくのだった。

 

あれから20日以上たったようだ。20日完全黙秘を通して、金本は元気に出てきたようである。九条は、じぶんで言っていた通りに、接見をくりかえしてはげまし、金本もいわれたとおりノートをつかって1日1日とこなしていったようである。九条は壬生が紹介してくれた弁護士で、今回のことでまた壬生のまわりでの九条の評判があがったようだ。壬生と金本、それにもうひとり金髪の少年が、ひとりの刺青の男をぼこぼこにしている。というか、どうも厳密には壬生がひとりでやったっぽい。手袋をして、血のたれるハンマーを持っている。男は丸くなって動かない。死んでいるのかもしれない。それを、金本と少年が半笑いで囲んでいる。この流れで、顔に血がついたまま、壬生が九条にお礼の電話をする。大事なのは「起訴されないこと」だそうだ。そもそも裁判にならないことが、こういうときには重要なのである。お祝いに焼肉屋に行こうということで九条も誘われるが、仕事が山積みなので断られる。だが、壬生はこれからも九条の世話になるのだ。彼は、自分がもっていたハンマーを、その金髪の少年に渡そうとしている。少なくとも夜間ではない、ふつうに明るい、こんな街中でどうしてこんな暴行が行えるのかというと、最初から犯人として少年を突き出すつもりだったからなのだ。少年はさっきまで携帯で写真撮ったりしていたので、こうなることはいまのいままで気がつかなかったようである。だが、金本はもちろん、壬生に逆らうことなど到底できそうにない。彼は震える素手で、ハンマーを受け取るのだった。

 

 

九条と薬師前が曽我部の面会にきている。出所したらシェルターに隠れて金本と縁を切り、再スタートしようというはなしだ。しかし、また同じことのくりかえしだと曽我部はいう。というのは、要は以前のときも同じように職場を斡旋してもらったり住むところを探してもらったりしていたわけである。だが、けっきょく元通りになっているのだ。刑務所でのいじめも響いている。「同じ空気を吸うな」というようなことをいわれ、見返してやろうとおもったこともあったが、なにも変わらない運命だと。曽我部は、金本にいれられたひどい刺青をみせる。子どもの落書きのような大便の絵である。同じものを父親は額に入れられている。前回はこのことをすっかり忘れていて言及しなかったが、おもえば彼は父親も、このようにして「帰っていく場所」の象徴としては失っているのである。

薬師前は苦しそうに目をそらすが、おそらくだいぶ会ってはいないであろう曽我部に、父親のはなしをする。父親は、病院で刺青を消したのだ。そうとうに痛いようだが、どうしても消したいと、一言の弱音ももらさなかったようだ。彼は、息子が刑務所に入ったことをじぶんのふがいなさに原因があると考えていたようだ。そうして、じぶんを責めていた。薬師前のはなしは微妙にわかりにくいが、要するに、父親はそうして、痛みなどものともせず、過去を乗り越えようとしている、もしくは、乗り越えたのである。曽我部もそうすべきでは?ということだ。いままでのはなしは九条の計画通りに進んだら、ということだ。でも、真実を話したっていいのだ。薬師前によれば、金本のような人間はやり返さない人間を選別してると。だからキッチリ対応すれば必ず引く。こんなことは馬鹿げていると。

だが、そうではない。九条のいうとおり、曽我部には事態が見えていた。彼は、薬師前のことを「何もわかってない」という。九条は曽我部を助けたのだ。彼には「罪を被る必要」があったのである。九条が重ねていう。

 

 

 

「法律は人の権利を守る。

 

だが、命までは守れない。

 

このタイミングで金本さんのことをうたえば、

曽我部さんは出た時に殺される」

 

 

縁を切ることじたいには九条も反対ではない。だが、いまではない。やるなら、“金本のかわりに”服役し、つとめを果たして、この件がチャラになってからなのである。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

この、たしかなものとして疑うことのなかったような地面のかたさが急に頼りないものに感じられてくるのは、久しぶりの感覚だ。闇金ウシジマくんも最終章ウシジマくんに入ってからは丑嶋の物語としての面が強くなっていて、そういうのはあまりなかったから、ほんとうに久しぶりの感じがする。

 

前回、九条の判断はいっしゅの「落としどころ」なのではないか、というはなしをした。九条の計画を表面的に、なおかつ好意的に受け止めると、そこには不快の総量を最少にするといったようなものが感じられた。これは別に特異な考えかたということでもなく、そもそもひとの幸福を比較できるのか、という古典的な批判もあるが、全体の幸福の最大化、最大幸福原理ということは、日常的な感覚からしても理解しやすいし、ごく一般的な感覚といってもいいだろう。ここでいうのは、その幸福の「量」を、負の数でとらえるようなものだ。九条は、関係しているものにおよぶ負の幸福、つまり不幸や不快をもっとも小さくするよう、弁護士として努めるのである。

しかしそれは表層のはなしであり、内側ではもう少し複雑な葛藤がある。それがなにであるのかが今回明かされたわけだ。うえに書いた最大幸福原理を、もっとも合理的な判断と考えよう。結果として九条はそれを選択しているが、それは法的合理性の結果ではない、というのが今回描かれたことだ。その「合理」の反対側に、薬師前の「倫理」がある。両者は対立が前提であるものではなく、たんに異質なだけのものだが、少なくとも薬師前と九条にかんしては、そして曽我部をめぐる考えかたに関しては、対立することになる。つまり、倫理の、正義の立場からすれば、ただ利用されているだけの曽我部がなにもかも背負うなんていうことは、どう考えてもおかしいのだ。そして、重要なことは、そのことについて九条は反論していないということだ。そう、おかしいのだろう。しかしそれとこれとは別なのだ。もし正義のままに、薬師前が行動を起こし、曽我部がそれに乗ってしまったら、そのあとなにが起こるだろう。曽我部は殺される。薬師前だって無事でいられるとは限らない。九条にも壬生との関係がある。こうしたところで、正義が必ずしも正解を導くとは限らない、ということが、今回は語られているのである。しかし、それでも「正義」は実行されうる。そのうえで、そうしたことが積み重なっていけば、世界はよくなっていくかもしれない。だが、曽我部は死ぬだろう。こう考えると、今回九条は非常に重要な発言をしていることがわかる。彼は、いま曽我部の命を救おうとしている。それは、法とも、また倫理や正義とも関係がない。九条は、法よりも、また正義よりも、曽我部の命を優先しているのである。“法や正義が守ってくれないもの”、ひとことでいえば“現実”、それが、九条の仕事場なのだ。

むろん、事態はそのように直線で区切れるほど単純ではないだろう。くどいようだがこれは「落としどころ」なのだ。たんに関係者の幸福を最大化するだけでなく、ここではさらに、正義とのバランスもこみで、「もっとも痛みが少ないポイント」が探り出されているのだ。その意味で九条の決意はかたそうだが、不思議なことに、ある特定の視点からすると、それは一貫性を欠くものととらえられかねないかもしれない。九条は、曽我部にとっての「最悪」、ここでは死を回避するために、背負うべきではない罪を迷いなく背負わせる。もしこれが、表層的にみたときの最大幸福原理的な、数字上のゲームのようなものだとするなら、まだ一貫性も見出しやすいだろう。だが九条は、げんにそういう行動に出ていながら、動機としては実はそういうことをしているのではないのだ。

 

 

今回は曽我部の父親のことが描かれた。だがこれもまた、いろいろ考えさせるところがある。曽我部の父親が、曽我部と同じ思考法のように見えるのである。事態の悪化の原因を、じぶんの不甲斐なさに求める、という思考法である。

父親は、息子の非行はじぶんに責任があるとして、これを乗り越えようとしている。少なくとも薬師前はそう見ている。彼女は、ある種の象徴であるあの刺青を消そうとする父親の行為に、そうした前向きなものを見ているのだ。曽我部はあの刺青を「弱者の烙印」と呼ぶが、父親もそのように考えているのであろうと、薬師前も考えているのだ。だからこそ、これを克服のふるまいと見て取った。父親にとっては、まず第一に、あんな絵が額に描いてあっては生きにくい、ということがある。だが、薬師前との関係性において、とりわけ薬師前の読み取りにおいてそれは、ひとつの「克服」という身振りになる。うんこ人間の刺青はただの記号である。だが、それを「弱者の烙印」として受け取るときに、これを「消す」という動作もまた、象徴的な意味をもつことになる。たとえば東日本大震災や今年の新型コロナウイルスのような事態のあとに発表された小説や時事的な評論のようなものでは、それらのことに「触れない」ということが、好むと好まざるとに関わらずメッセージ性をもってしまう。小説内ではコロナウイルスもまたなにかの表象にすぎない。そして、当然あるべき、あるいはあってもまったく不思議ではないその表象がどこにも見られないとき、わたしたちはそこに不在を見るのである。

こういうわけで、曽我部の父親はまず実際的な理由で刺青を消そうとするが、それは同時に、象徴のレベルでの「弱者」というものを乗り越えようという動作に必然的になっていく。象徴のレベルでの弱者とは、貧困とか、病気とか、外国人とか、そういう、一般的にわたしたちが「弱者」と聴いて思い浮かべる要素を含むもののことだ。だが、それらはじつは相対的なものでしかないはずだ。金本に喧嘩で勝てなくても、それが即弱者を意味するわけではないのである。だから、たとえば金本から逃げ出す、具体的に引っ越して行方をくらます、というようなことをすれば、少なくとも彼らがそう思い込んでいる弱者の烙印は消えてなくなることになる。薬師前はその端緒、はじまりを、父親の行為に感じ取っているのだ。だから、曽我部にも変容をうながす。しかしそのやりかたは、直球の正義である。正義は、ことばのまま“正しい”のだから、キッチリ段階を踏んで、勇気をもってすすんでいけば負けることはないと、薬師前は考えている。それも、一理あるのかもしれない。しかし、それができないから、父親は象徴界からのアプローチをとっているのだ。薬師前は、父親の姿勢を前向きなものとして受け取ることはできたが、それが正面衝突を避けたものであるということは、その熱意と正義感ゆえに、見落としてしまっているのである。

 

そして、では、父親のアプローチはどのように働いていくのだろうか。それは、「意味するもの(シニフィアン)」を消しゴムで消して、まっさらな状態にして、「いわゆる弱者」から遠く抜け出そうとするものだ。では、そこにふさがれていた「意味されるもの(シニフィエ)」はどういうものかというと、曽我部と同じく自己否定を伴う、見るにたえないものなのである。いわば父親は、社会的な意味での名づけである「弱者」であることをとりあえずやめて、みずからの手で本質的な弱者性を露出させて、これを不甲斐ないものとして名づけなおそうとしているのだ。名づけではなく、名乗りとしての弱者なのである。それを認めることで、息子についての責任まで見出そうとしているのだ。こう考えてみると、曽我部とその父親の思考法は、表面的にはよく似ているが、ぜんぜんちがうともいえる。曽我部は、金本と同一化し、これに正しさを見出すことで、ある面じぶんの弱者性を必然とみなしている。それを容れ、弱者としてふるまうことで、どうにかじしんの存在を肯定しているのである。父親のアプローチが正しいのかどうかは、わからない。父親が不甲斐ないからといってすべての息子が刑務所に入るわけではない。その自責は、父が身振りで示すように、みずからの手で発掘されたものなのであれば、「自己責任」という標語が自戒のことばとして用いられるときのように、そうめくじらをたてるようなものでもないのだろう。だが、じっさいには“自戒”として立てたはずの「自己責任」もまた、たいていの場合は社会的要請による自虐である。だから、果たしてそのアプローチはほんとうに正しいのかということは、現段階ではわからない。ただ、それが曽我部のものとちがうということはまちがいないわけである。

 

曽我部との関係性についていえば、曽我部の原体験は、運動会での母親への感情移入というしかたで、「恥」を獲得することで始まったことから、前回は母親とコミュニケーションをとることで、彼の自信を喪失させてきた物語は雲散霧消するのではないかと考えられた。では父親はどうだろう。すでに「弱者」として生きてきたであろう曽我部だが、父親が金本家に暴力で蹂躙されるさまを目撃した経験は、たんに彼を「恥の物語」に配置するばかりでなく、「そこから出ることはもう絶対にできない」という確信を加えたことだろう。とするなら、順序としてはまず父親から、ということになるかもしれない。父親が、みずからの声による「弱者」の名乗りをすることができれば、出所後には金本の呪縛から逃げ出す最初の一歩を踏み出せるようになるかもしれない。母親とのコミュニケーションはそのあとだろうか。いずれにせよ、かなり早い段階で両親のことをいっていた九条の洞察力はおそろしいものがある。次回は休載だが、さくっと1年半後とかのはなしになる感じなのかな?刑務所に入って終わりはちょっと嫌だな・・・。

 

 

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