ツイッターで考えたこと20201128 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

たまにはなにか日記のような記事でもとおもったが、ふだんまったく日付を意識しない生き方をしているものだから、なにを書けばよいのかよくわからない。というわけで、最近ツイッターで考えたことの解説のようなことでもしてみようかとおもう。ツイッターは、TLに流れてくる刺激によって、その都度、けっこういろんなアイデアが出てきたりもする。それが長文の書きものに接続することもあるが、たいがいはその場かぎりで、いちおうぼくじしんの考えそれじたいは微妙に変容することもあるとはおもうのだが、知覚できるものでもない。それがちょっともったいないような気もするのだ。まあ、板垣先生流にいえば、それで忘れてしまうようなアイデアはもともとたいしたものではないということになるが・・・。

 

 

たとえばこういうことだ。以下ツイッターの文面をリンクで表示するけど、IEだと読めないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バキ愛読しててナニだけど、強いことは常に善というわけではないんだよな。

 

パワハラで明らかに病んでいるひとが、精神を病んで入院した友人を「甘えてる」といってるのを聞いて、そんなことを思った。じぶんではなんの自覚もなしに周囲を苦しめつつ再起不能になるのを先延ばしにしているのと比べたら、「弱い」ほうがむしろ強いんじゃない?と…

 

 

特に難しいはなしではなく、見たままだが、じつをいうとここで考えていたことは、「弱い」が「強い」になりうるとか、「弱い」こそが「強い」なのではないかとか、そういうことではなかった。いやそういうことなんだけど、そういうことがいえるということは、そもそも強い/弱いの尺度っていうのはあんまり意味がないのでは?ということだった。男女平等を実現するためにはまず女性の権利を正しい姿にすることが必要である、みたいなことで、じっさいには、強い/弱いを無効にしようとしたら、「弱い」の価値を主張することからはじめなければならず、その結果としてこういうツイートになったのであった。

で、このことはとみにあたまを悩ませる問題でもある。あまりに価値相対主義的になるのも生きにくいものだが、たとえば「お金持ち」であることとか、あるいは身長が2メートルあって極真空手を10年やってますとか、そういうことって、ふつうに考えると善なわけで、じっさいぼくもそれを「いいなあ」とおもわないかといえばウソなわけである。ところが、よく瞑想してみると、ほんとうにお金持ちになりたいかというと、そうでもないのである。これはぼくのよいところでもあり、またふがいなさにつながる悪いところでもあるが、たとえばグランドピアノがほしい、ということはグランドピアノがおける部屋を維持できる大きな家と防音設備がほしい、みたいなことは、わずかの瞬間におもうことはたしかにある、のだが、それは子どもの夢想と大差ないもので、具体的な道筋を思い浮かべているわけでもなく、「そのへんに10億円くらい落ちてないかな」とかくちにするのと変わらない真剣さなのである。特に夜中に考え事なんかしているときだと、ときどきこの境地に達することがあって、TL見ててもみんな金のはなししかしていないのがなんだかとても奇妙におもわれる瞬間が、まあときどきだけど訪れて、なにゆえそのよくわからない価値観でぼくの「貧乏」が居心地わるいおもいをしなければならないのかな?なんていうふうにおもうのである。ぼくは、相方といっしょに、コンビニの弁当食べながらネットフリックスでジョジョ見ててもすごい幸福を感じるのだ。

このときは、そのはなしている相手の言葉が引っ掛かって、こういうツイートになったのだけど、根本にはそういうおもいもあった。バキ世界でも、究極的に価値を比べていくと、強いか弱いかになる、というような論調が採用されており、そこには異論はない。が、それと同時に、「でもじぶんが弱いと認めてしまって逃げ出すほうが生存率高いよなあ」みたいなこともおもうのだ。げんにそうでなければ、自然界は勇次郎を残して全生物が死滅してしまうだろう。くりかえすが、だから「弱さ」を認めていこう、ということなのではない。「弱さ」の価値を認めていこうとはおもうが、ここでいっているのはそういうことではない。方法的懐疑では究極の価値観に到達することはできない、ということなのではなく、究極の価値観というものは要するに零度のエクリチュールみたいなもので、思惟のなかにしか存在せず、あらわになった瞬間に、すぐに底が抜けて落下していってしまうのではないだろうか。

 

 

ツイッターをごらんになっていないかたも多いとおもうが、あっちではこちら以上にどうでもいいはなしばかりしており、いっこうにフォロワー数が伸びない。これをご覧になっている読者のかたでツイッターをやっているかたがおられたら、もしよろしければ、フォローいただければとおもうが(読者のかたですか?!なんていちいちリプしにいったりはしないので)、ときどき、こういう感じの思い出話が噴出してくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

基本的には自分語りのしょうもないツイートだが、たまにこうして話さないと忘れてしまいそうなので、思い出したときに書くようにしている。なので、このはなしも何回かしているような気がする。

このはなしはたぶん25歳くらいのころのことで、相方と付き合いだしたばかりのころのことだ。大学生くらいからもうピアノはぜんぜん弾いていなかったので(シンセの出力部が壊れてしまい、音がうまく出なくなってしまった)、腕はかなり落ちていた。が、不定期的に出てくるピアノ弾きたい病と相方に聴かせたい衝動が同時に出てきて、どこかピアノを貸してくれるところはないかと探していたのである。ぼくが弾けた曲でいちばん難しく、なおかつパフォーマンス的にも効果的だったのは、マイラ・ヘス版のバッハ「主よ、ひとの望みの喜びよ」だったが、これはもうすでに弾けなくなっていた。ショパンのノクターンの有名なやつはなんとか引けたが、ほかにもラストエンペラーとかは練習なしのぶっつけ本番ではもう弾けなかった(忘れていた)気がする。ぼくは楽譜を記憶して弾くので、忘れてしまえばそれでおしまいなのだ。

ピアノを貸してくれるところというとスタジオとかライブハウスということになるが、そういうところはちょっと苦手なので、ぼくはネットで目についたピアノ教室にいきなり電話して、弾かせてもらえないかと交渉したのである。もちろん、最初はお金を払うつもりだった。要するに、レッスンは大丈夫なので、レッスンと同じ料金で同じ時間、楽器を貸してくれませんかということだ。考えてみたらなかなかすごいお願いだが(弾けるのにピアノをもっていないというのがそもそもレアなのである)、最初に電話した教室の先生は無料で貸してくれたのである。たとえば休日の13時にいったら、「15時から別のひとのレッスンあるからそれまで弾いてていいよ」みたいな感じだったのだ。

腕は落ちまくっていたが、適当な楽譜をひっつかんで、ぼくは弾きに弾きまくった。2週間に1回くらいのペースで、半年くらい通ってたとおもう。ときどき相方も連れて行った。弾いているとき先生は姿を消すが、どこかで聴いているらしく、よくほめてくれた(特に記憶力)。さらに、ちょっとだけ助言をくれたりもした。ひとつはオクターブである。ぼくは手が小さいので、オクターブの跳躍が続く曲や、小指の高音部を強打しなければならないときなど、なかなか苦労したものだが、先生は小指ではなく薬指を使用する方法を教えてくれた。また、ぼくは、ショパンのノクターン9-2を好んで弾いていたが、いちばん最後の、右手の4音でくるくるクレッシェンドしていくぶぶん、あそこの回数を譜面通りにしたほうがよいというのである(12回だったかな)。あのぶぶんはぼくはいつも適当にそれらしくやっていたので、目からうろこだった。

 

 

↓この曲です。

 

 

 

ちなみにマイラ・ヘス版バッハはこれ。ぼくは高橋悠治の演奏を参考にしていた。

 

 

 

 

 

 

こういう感じで、仕事の愚痴みたいなのも多いから、おそらくフォロワーの多くはミュートしてるだろうし、だからブログのわりに反応悪いんだよなあとはおもうんだけど、こういうのは人間的に成長しないと制御できるものでもないから、やっていくしかないかな・・・。

 

あんがいがっつり書いてしまったのでここまで。おもいのほか書きやすいことがわかったので、またやります。フォローもよろしくです↓

 

 

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