第6審/弱者の一分⑤
金本にいいように使われ続ける人生の曽我部。金本のかわりに5年服役したいまも、薬物の運び屋・売人をさせられている。そればかりか、部屋をクスリの仕分け場として乗っ取られてしまっている状況だ。刑務所でひどい目にあった曽我部は、もう捕まりたくないという気持ちが強い。が同時に、罪悪感から、しっかり法で裁かれたたいという気持ちも強かった。そうしたタイミングで、曽我部が捕まったという報せが九条のもとにやってきたのだった。
曽我部が捕まるということは、その後輩の金本が危険になるということであり、金本は壬生の後輩、壬生は九条が懇意にしているあやしい男だ。はなしは壬生からきたはずである。九条は、以前曽我部を弁護したこともある烏丸を連れて、曽我部と面会するのだった。
状況が少しずつ明らかになっていく。コカインと大麻の営利目的所持で現行犯逮捕ということだ。現行犯というのが具体的にどういう状況だったのかはよくわからない。ともかく、自宅でコカイン3gと乾燥大麻4g所持。仕分け後だったのでこの程度の量で済んだということのようだ。量が少ないので、保釈はとれるが、前科があるので実刑は免れないだろうと。
そして、実は金本もこのとき捕まっていた。あとでわかることだが、理由は不明だが曽我部の自宅に家宅捜索が入って曽我部は捕まったわけだが、同時にガサ入れに踏み込む前から調べていた時点で、金本の出入りも確認されていたわけである。
前回、烏丸を通じてソーシャルワーカーの薬師前にいろいろな依頼をしていた九条である。おそらくなんらかの計画はあったものとおもわれるが、この逮捕はその後のはなしだ。ここから九条はなにかひとつの方向にむけた、一貫した行動原理にしたがう“悪徳”弁護士に徹することになる。それは、曽我部にすべての罪を被せるということだ。金本のことはなにもしゃべらず、前のように罪をかぶれと、九条は単刀直入に曽我部にいうのである。烏丸は黙っている。曽我部は丸くなり、しばらくしてから、納得の意思を示す。そして、自分はモタモタしていて子供のころからずっといじられキャラで・・・と前にもどこかで聞いたような、同じような言葉選びで自虐を始める。もうずっと、こうしてじぶんの人生を無意味なものの堆積ととらえ続けているのである。そして、運動会の記憶について話す。せいぜい小1くらい、ごく小さなころのことだ。ぼくなんかはそんな昔の記憶はないので、そうとうに鮮烈かつ、トラウマ的な傷になっているのだろう。徒競走なのだが、曽我部はなにをやったらいいのかよく理解していなかった。そして生徒や親、教師の見ている前でうろたえ、どこを走っていいのかもわからないままモタついていたら、しだいに例の「頑張れ!」という声援が起こり始めたのだ。だが、どうも曽我部にはまだそれが“恥ずかしい”というふうには感じられなかったようである。中心にあるのは怖さと不安だ。それで、会場のなかに親の姿を探した。母親は下を向いてこの世の終わりみたいな顔をしていたのだ。曽我部は泣きながらいう。そんなじぶんみたいなものが誰かのためになれるならなんでもいいと。
たほうの金本である。最初はえらそうにしているように見えたのだが、はじめての取調べということで、ふつうにビビりまくっている。あんなにむちゃくちゃやってるのに取り調べがはじめてっていうのもいろいろ含みがあるが、ともかくけっこうこたえているようだ。九条たちは金本にも面会する。金本は、曽我部がうたった、つまり密告したのかという。曽我部のことをはなすときだけ金本の顔が元に戻る。だが、それはないと九条はうけあう。なぜそうおもうのか、根拠は示されないが、ともかく、このあとも九条はずっと断言している。で、逮捕初体験の金本に、いろいろ細かいことを指示する。通話履歴は電話会社経由で警察も調べられるが、LINEみたいなアプリは、本人が起動させない限り見れないのだそうだ。金本の仕事は20日間黙ること、カンモクすることだ。嘘ついてもすぐばれる。弁護士は接見時間が無制限ということで、キツかったらいつでも時間とるから、とにかく黙っていろと。リングノートは針金が武器になるから差し入れできない、あとで大学ノートを入れるから、言われたことを毎日1頁ずつ書いて、20頁目で出られると。
さて、金本の先輩の壬生との電話だ。壬生も曽我部がうたったのではというが、九条はやはりそれはないと断言する。警察は営利目的、つまり売人として曽我部と金本を逮捕したわけだが、もしコカイン3gの営利目的だと3年の実刑と30万の罰金になるという。争点は、営利目的ではない、単純所持にできるかどうか、ということになるようだ。じぶんで使うために持っていたということにできれば、1年半で済む。さらに使うのでなく持っていただけということにできれば、罰金もない。ということは、使用目的であるなら、罰金はあるということになるのかな。薬物に関しては所持と使用が別々の行為になる。とはいえ、調べてみても、罰則にどれくらいの違いが生じてくるものかというのはよくわからない。九条の目標はそれをどれだけ安い刑、つまり軽くするかということだ。曽我部の家には多いときで50g置いてあったという。金本がコカインを扱うのは初めてのことだったが、曽我部という存在が詰めを甘くさせたのだろう、などと壬生はいう。
で、どうなるか?という壬生の問いに、いままでのすべてを要約して九条はいう。曽我部に罪を被せる。金本は完全黙秘でそのまま釈放、あとは曽我部を単純所持で着地させると。
つづく。
壬生は九条のてきぱきした働きに感心しているが、いかにも難しそうである。細かいことばのニュアンスとか、まだわからないぶぶんもあるが、単純所持に持ち込むためには、使うためでもなく、またもちろん売るためでもなく、「なんだかわからないけど家にあった」みたいな状況にしなければいけないということだよな・・・。この場合、出入りしていた金本も使うことはできない。金本も釈放させなければならないから。そうすると、ほんとうに、「なんの心当たりもないが、気がついたら床に置いてあった」くらいの感じということになる。そんなこと可能だろうか?数日前侵入者があったような形跡でもでっちあげるしかないかもしれない。まあ、ぼくも、買った記憶のない本が突然出てきたりすることあるしな・・・。ありえなくはないのかな・・・。
いよいよ本領発揮というか、九条の“悪徳”弁護士っぷりが見られるようである。とはいえ、たぶんそれは、丑嶋同様、複雑なあらわれかたをするだろう。いままでのところでは、丑嶋においてその方法は「金」だったが、九条を「法」を通過させて世界をとらえる人間と考えてきたわけである。だがこれは、ある意味では重複表現、というか自明でもあった。まず第一に、ふつう、文明人というのは、意識するとしないとに関わらず、法を守っているし、法に守られている。わたしたちの属している混沌とした異なる要素の集合体としての世界は法によって固体になり、またあるいは、法によって説明できる現象こそが認識である、なんていうふうに言うひともいるかもしれない。そのうえ彼は弁護士なのである。しかし、それは「金」もそうだった。それがそのようにいえるのかどうかということは、けっきょくは程度の問題ということになる。何事にも恬淡としてこだわりがないと悪評判のぼくであっても、金や法と無縁の仙人みたいな生活をしているわけではないのだ。だから、九条の本質はさらにその先にすすんで、程度がどういうものなのか、それがなにに由来するものなのか(丑嶋ではそれは、他者を制御すること、要するに「力」だった)、これを見極めなければ見えてこない。
そのうえで、前回の烏丸経由の薬師前への働きかけと、今回の振りきりっぷりをみると、期待できるわけである。つまり、前者を踏まえれば、法的負荷とでもいうか、全体の幸福の総量でなく、全体の不幸、ないし不快の総量をもっとも少なくする方法をたんに合理的に探り出しているだけというふうには、どうも見えないわけである。今後の展開しだいでこの読みは変容していくものなので、あまり深入りはしないが、たとえば俗に「正義」を求めるのであれば、弱者である曽我部は救われるべきであり金本は逮捕されるべきなのだろうが、金本の出所後のこととか、また壬生との関係とかを考えると、そううまく落としどころが見つからないのが現実の社会というものだ。ブラック企業はすべてつぶれるべきだが、そうしたら日本から会社という会社はすべてなくなってしまい、全国民無職になってしまうだけなのである。そういう視点からすれば、全体で生じている刑罰をもっとも少なくする、という方向性は合理的である。だがそれをほかならぬ曽我部が負うべきではないのは明白だ。ここのはざまに、なにか空隙のようなものが感じられる。いわば正義と合理が調和する地点だ。まあ、いまはちょっとまだ九条に夢を見ちゃってるようなところもあるので、ふつうに超合理的な人間という可能性もあるが、しかしどちらかといえば烏丸のほうが合理的っぽいので、どうもそういう感じがしてくる。
こういうふうに考えたのは、九条の名前である。これが京都由来の名であることはまちがいなさそうだが、それ以前に、連載前からやはり「憲法9条」の気配はちらついていたわけである(以下憲法9条については「9条」と記す)。9条については日本屈指の頭脳をもった専門家、非専門家たちが長いあいだ議論を重ねて、ぜんぜん決着がつかないので、ここでも具体的な言明は避けるが、ひとつ、どのような政治的立ち位置からもいえそうなこととしては、9条がある種の「落としどころ」だったということがあるだろう。「落としどころ」は、その事態を解決するものではあるが、なにをもたらすものであるかまではカバーしない可能性が高い。たとえば、コンビニでヤクザが暴れていて、どうにも手がつけられない、しかし、なんらかの事情で警察は呼べない、というとき、手のなかに紙幣を握らせたとしよう。そのとき、ヤクザは帰っていくだろう。これが「落としどころ」である。事件は解決した。だが翌日、ヤクザはまたやってくるかもしれない。あるいは、やってこないかもしれない。その見極めが、じっさいに事件を解決した「落としどころ」の微細な精度をあらわすのではないだろうか。こういうようなことを先日洗髪しながらふとおもいついたので、ひょっとして九条の本領は「落としどころ」にあるのではないか、などと考えた次第である。そして、そのことで九条が大罪を背負うことになる可能性は、じゅうぶんあるのである。“悪徳”弁護士というのは、おそらく俗な使い方に寄せられているとおもうので、あまり掘り下げてもどうしようもないものだろうが、要するに同義にもとるということだ。法にしたがいつつ、道義に反するということが、「落としどころ」を探る過程ではきっと起こりうるのである。
さて、九条に罪を被るようにいわれた曽我部は、それを受け容れてしまった。仮に九条の発想が「不快の総量を全体で最少にする」といったたぐいのものであったとしても、曽我部はその思考法を採用したうえでこれを受け容れたわけではない。たとえば、よくあることだが、10人のひとが30分なんらかの苦しいおもいをすることに耐え切れず、じぶんだけが1時間我慢することを選択する、というようなことは人生でもよくある。だが、曽我部はそうした総体的な意図でそうしたのではない。ではなにかというと、圧倒的な劣等感である。罪を被れといわれて、しばらく丸くなったあとに、曽我部は「わかりました」といって、すぐに運動会のはなしをはじめる。そういう経験があって、そんなじぶんが誰かのためになれるならなんでもいいと。曽我部はどうしてこのはなしをしたのだろう。このはなしは、曽我部の人生の因果関係の、「因」にほかならない。もちろん、つきつめれば、正しい言葉の意味での原因は、曽我部の「モタモタ」になるのだが(曽我部的には)、いわばこのとき記憶された景色が、連続する、また堆積する人生の質を決定した、最初のものになっているのである。というのは、このとき曽我部は、母親の失望を買っているからだ。興味深いのは、運動会で衆目にさらされながら、曽我部じしんには「恥ずかしい」という感覚は当初なかったようであるということだ。それは、母親を経由して獲得されている。うつむく母親の姿を見て、恥ずかしかったのだろうと推測し、母親に感情移入する手順で、ここに「恥」という説明文句が付け加わっているのである。「家」や「母親」は、象徴的には、じしんの存在を無条件に肯定するものだろう。それが、彼の資質のせいで、最初からなかった。ここでは母親がどういう母親だったのか、ということはあまり問題ではない。曽我部においては、現在の劣等感から記憶が捻じ曲げられるようにして、「すべての問題はじぶんのダメさにある」という感覚が強いからである。
じぶんももちろん関与している事件ではあるが、ほんらい背負うべき以上の罪を被らされようとしている理不尽を受け、彼はこのときのことをまず想起する。ここのところの読みは繊細で、たとえばいま鉛筆を手に握っているとして、「掌に鉛筆が触れている」と考えるのか「鉛筆に掌が触れているのか」と考えるのかというようなもので、現象としては等しくても視点の位置によってはニュアンスが変わりうるものがここにはある。つまり、この運動会の件は、原因(すべてのはじまり)であると同時に、説明でもあるのである。曽我部は、運動会の経験で、母親に感情移入をし、じぶんを「恥ずかしいもの」であると考えるようになった。この経験が、ことあるごとにトカトントンと想起され、事態を悪くとらえさせ、じっさいに悪くもする。だが、同時に、彼においてはそれが、現実から目を背けさせるために都合のよい説明になっている可能性もある。そのようにしてじぶんは誰からも肯定されないものである、したがって、ひとりの人間として社会生活を営むためには、どんなに理不尽であっても「そういうもの」と受け容れなければならないのだと。後者の、「説明」という視点は、この運動会のはなしがほとんど唐突に、いきなりはじまったこととも合致する。事実として曽我部は運動会でそういう経験をし、自己肯定感を損ない、というか肯定にあたってまず足場にされるような「家」を失い、そこから転落していくように、因果関係をきわめて、犯罪に染まっていったのだろう。だがそのことがある種の言い訳、現実に合理性をもたらす、後からの「説明」になっているぶぶんも、まちがいなくあるのである。
このことは金本への同一化、彼に正しさを見出すこととも相似形だ。彼が母親の感覚を経由して、「恥の物語」を捏造するのは、じゅうぶん理由のあることだ。そうしなければ到底耐えることのできない、恐怖と不安が、そこにはあるのである。金本にかんしては、むろん暴力の恐怖であるし、そのことが遠く示す、これからの人生もずっと金本に支配されるであろうという予測であるが、母親を通した「恥の物語」は、彼からなにを隠しているのだろう。彼が、いまこうして、じぶんがなにもできない人間であると「恥」に感じるのは、母親の感覚である。彼は、いまも「母親」の目線を通過して、みずからを恥の多い、どうしようもないものだと規定しているのだ。となれば、もし曽我部が母親とコミュニケーションをとって、恥なんかないということを聞くことができれば、彼の底なしの劣等感は解消されるだろう。曽我部は、じぶんでじぶんを恥ずかしいとおもっているのではないのである。この「物語」が隠しているのはおそらくこのことだ。ふつう、トラウマというものは、語ることのできないものである。それを語らないことによって形成されるのが、一般的な意味でのトラウマだ。だが、曽我部ではなにかこれがまったく逆のようなことが起きているのだ。母親の恥という、トラウマ的なあの原風景が決定打になり、いわば、彼はいまもトラウマのなかにいる。現在進行形の、語ることのできるトラウマだ。では、それが語りえないものとはなんなのかというと、「恥ではない物語」、運動会以前の、たんに無垢な、分節化される前の海のような世界なのである。人生のこのかなり早い段階で、彼はじぶんが肯定される存在ではないと思い知ってしまった。それが、いまの彼まで地続きなのだ。そして、金本のことや、げんにこうしてじぶんがなにをやらせてもダメであるという事態の説明として、この物語はじっさいに有効でもある。彼はこれを手放さない。毎日が「そうとしか考えられない」日常なのだから。しかしそのくりかえしによって、彼は「無垢な自分」を無意識に隠蔽している。そんなものはあらわれてきたところでいまの人生にはなんの関係もないからである。
引き返すことができないと感じられるほど深くこの「恥の物語」につかってしまっている曽我部には、「無垢な自分」にはとうてい課すことのできない理不尽に異議申し立てをすることができない。くりかえすように、このことは母親との対話を通じて解消される可能性がある。これがおそらく、九条が両親の連絡先を薬師前に聴いていた理由だろう。あれは逮捕前のはなしなので、優れた洞察力というほかないが、これらばらばらに点在している出来事がどういうふうに結ばれるのかで、“悪徳”の意味が明確に見えてくるだろう。
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